第29話 譲れない想い
大聖堂の扉は木造で、高さが俺の身長の三倍はある重厚な造りのものだ。
扉を押すと、大型の動物が重い身体を起こすように、木が擦れる音を立ててゆっくりと開いていった。
内部の装飾はこの大陸最大の聖堂の名に恥じないものであった。
最も目を惹きつけられたのはその天井まで届くような巨大なパイプオルガンだ。タリアで見たものも美しかったが、それとは比べものにならない。
聖堂の中心は通路になっており、両脇にはミサで訪れる参拝者が腰かけることができる長椅子が置いてあった。
(誰もいない……?)
恐る恐る中へと歩みを進めていくと聖堂中央にある大きな広場に出た。
周りを見渡すが特に変わった様子はない。
(くそ、どうなっている)
一刻も早くエリーを見つけ出し、救出しなければならないこの状況で、手掛かりが見つけられない。
俺は歯噛みした。まだ魔道具でクリュメノスに助けを求められるだろうか?あまり長くはもたないと言っていたが……。
首にかけられている魔道具を使おうと思ったその時だった。
背後に感じる霊力がうねりをあげるような感覚。なりふり構わず俺は横に飛び跳ね回避の体制を取った。
直後、俺が立っていた位置に白い光線が通過する。
それは二本の燭台が立てられた机に突き刺さり、白く発光する粒子となって空中に消え去った。
霊力を感じるようになっていなければ、そしてクリュメノスの助言に従わず警戒を怠っていたら俺は間違いなくあの光線に身体を貫かれていただろう。
「ほう、避けたか。だがそれも主のご意志だろう」
光線が飛んできた方向からゆっくりと男が歩いてきた。法衣を身に纏い、顔に大きな傷を携えた容姿は神官のイメージとは程遠い印象を受けた。
「先ほど
威圧するようにこちらを見つめる様子は、とても話し合いなどできそうになかった。
「そうだと言ったら?」
「どうして兵士である君が霊術を使っているのかは分からないが、君も神に選ばれた人間ということだ」
男は大げさに手を広げた。
「どういうつもりで
不意打ちで背後から攻撃を仕掛けてきておいてこの言い草である。信用はかけらもできない。
「そうだな、俺の要件はただ一つ。お前が連れ去った女の子を返して貰うことだ」
「ああ、もしかしてあの小さな死神の少女のことか?申し訳ないがそれはできない相談だ。なぜなら……」
男はそこで言葉を区切り、天に向かって祈るような姿勢を取った。
「この間違っている世界を修正するためには必要なことだと、我が主が告げているからだ」
男の言葉は狂信者のようであった。ところが男の眼は狂気に犯されていなかった。強い意志と覚悟を感じる眼だ。
「教会には酔狂な神がいるんだな」
俺の言葉に男は、まるで意味が分からないとばかりにきょとんとした表情をした。
「何を言っている、教会の神など権威あるものにとっての都合の良いまやかしにすぎない。人間が考えなしに崇拝しているものを神と言うならば、この世に神など存在しないに等しい。彼らは教会の真相を見過ごしているのだからな……」
俺には男が何を言っているのか理解できなかった。奴の言葉は抽象的でつかみどころがない。
なんとなくわかるのは、彼は教会に対してあまり良い思いを抱いていないと言うことだ。
「さて、話はこのくらいにしよう」
男は手に再び霊力を込める。右の手に霊力が集中し溢れている光は、鋭利に尖った刃物を連想させる。
「ここまで来た君の勇気に免じて名乗っておこう。私の名はディア。君があの小さな死神を返して欲しいというのなら、君の正義を貫き私を倒して行くのだな」
刹那、ディアの手から光の雨が俺に向かって降り注いだ。
俺は腰からダガーを抜いて構える。前方の多方面から俺を射止めようとする矢のような光をかいくぐり前に進む。
この霊術は傭兵の時に何度か見たことがある。これは敵を拘束する際に使うものだ。
一度でも食らってしまうと動きがかなり制限されてしまい、不利な戦いが強いられることは間違いないだろう。
光の動きが長弓を引き絞って放たれた矢に比べかなり遅いことが救いだ。
ダガーを握る手に力がこもる。
ダガーの前に光は力を失い、空中へと消え去った。
敵との距離はまだかなりある。絶えず
状況はかなり厳しかった。敵は霊術を絶え間なく打ち込んでくるが、使ってくる霊術の種類は一つだけだ。奴の手の内が読めない以上は無理に戦況を打開することは避けたい。
俺にできることは敵の霊力が少なくなり、霊術を使うペースが低下する隙を狙うくらいだった。
その間、俺に失敗は許されない。相手の霊力量や疲れがわからない分、俺の気力と体力がどこまで持つかにかかっている。
額から汗が伝う。疲労がたまり、腕が少しずつ重くなってきた。
正面からの光線をかわしつつ、相手の様子をうかがう。これほど連続で霊術を使っているのだ、疲れがたまらないわけがない。
想像通り、ディアの霊術の詠唱スピードが落ちてきていた。
(今なら……!)
奴との距離はかなり縮まっていた。最初の立ち位置からじりじりと進み、あと半分程度というところまでは来ていた。
綺麗に舗装された教会の石畳を蹴って前方へ飛び出す。
ディアは驚いた顔をしたが、俺のほうを見て再び
それを横に転がってかわし、距離をとったまま霊力で強化されたダガーを奴にめがけて思いっきり投擲した。
不意を突いた攻撃をしたつもりだった。
しかし、ディアは身体をひねり難なくそれをかわした。奥の長椅子にナイフが突き刺さる。
俺は再び距離を取り、腰から二本目のダガーを抜き取った。
「くそ……」
「今のナイフ投げはなかなかのものだった、霊力も使えるならこの国の聖騎士としてもやっていけるほどだな」
ディアはまったく表情を変えないまま言った。
「わかりやすいお世辞をどうも」
吐き捨てるように俺は答えた。だが、このままでは
俺は奴の戦い方に違和感を感じていた。
俺に隙を見せず、近づけさせないようにしている。明らかに奴の戦法は持久戦を想定したものだった。
(やはり時間稼ぎが目的か……)
エリーを救うためには生贄として悪魔に差し出される前でなくてはならない。ディアの目的が俺との勝負に勝つことではなく、生贄の術式を完成させるまでの時間稼ぎだとしたらかなりまずい状況だ。
次の戦法を、頭をフル回転させて考えていた時だった。
「ウ……ォオオ……!」
唸るような声がディアの背後からこだました。
奴の背後から
「な……なんだ?」
その真紅に彩られた魔法陣は俺を嘲笑うかのようにキュルキュルと音を立てながらゆっくりと回転を始める。
「おお……ついに始まるというのですね我が主よ」
ディアは俺への警戒を緩めないまま、自身の背後で起こっている人知を超えた出来事に声を震わせていた。
その声色は歓喜と見るべきか興奮と見るべきか、はたまた緊張か。
(……あれは!)
その床に現れた魔法陣の中心にはエリーが居た。両腕を霊術により拘束されて全身からぐったりと力が抜けている。
「エリー!」
俺の必死の呼びかけにも反応を返すことはなかった。意識はないようだ。僅かに上下する胸部からまだ生きていることがわかり、ほんの少しだけ安堵した。
それと同時に、俺は言い様のない怒りが湧いてくるのを感じた。
「さあ、いよいよ始まる。私が求めていた魔力を解放させる時が来た!」
術式が起動する。
ディアの背後で大きな影が現れる。人を殺すためだけに作られた獣のような容姿のそれは、まだ動いていなかった。
「死神が見える君には姿が見えているのだろう?」
俺を試すように語りかけてくる。これが奴の崇拝する主というものなのだろうか?
「これは術式が完成するまで、選ばれし者にしか見えない姿だ。まもなく術は完成する。それこそ神の意志である。ははっ……ふははははははっ!」
そんなことはさせない!
俺は地面を蹴った。あんな訳のわからないものにエリーを取り込まれてなるものか。
誰よりも純粋で、おいしいものに目がなくて、まだ現世での楽しみを見つけ始めたばかりの女の子を、絶対にこんな下らないことで失う訳にはいかない!
ディアは俺の動きを見て、再び
俺は傭兵の時の戦闘の経験と、持てる限りの霊力を尽くしてそれを迎撃した。
それでも奴に近づくことは難しかった。
もう残された時間は少ない。俺は勝負に出ることにした。
前に飛び出し、ディアとの距離を一気に詰める。
ディアはニヤリと笑い、白い歯を剥き出しにした。
俺の無理をした動きを見切り、回避できない
俺は回避運動を取らず、左手でそれを受け止めた。左腕に痛みが走り、次の瞬間には力が入らなくなる。
それでも俺は止まらない。
更に距離を詰める。さすがのディアも捨て身の俺を見て表情を変えた。
相手の身体はもう目の前にある。あと数秒も突き進めば刃先が届く距離だ。
動かすのが難しくなった左手を強引に意識から追い出し、残った右手に握ったダガーに持てる全ての霊力を込める。
「うおおぉぉぉっ!」
俺は吼えた。ディアは再び霊術を放とうと動いていたがもう遅い。
ディア向けて突き立てられたダガーは腹部に深々と突き刺さり、奴の戦意を喪失させる……はずだった。
俺の視界は様々な天使で彩られた教会の天井を見上げていた。
攻撃を受けた脇腹からは血が流れ、じわりと熱くなる感覚と共に鈍痛が走る。
おそらく骨が折れている。
「なん……で……?」
自分の身に何が起こったのか把握できず、俺は今の状況を飲み込めずにいた。
刃が奴に届く直前、霊力によって強化されたダガーは力を失った。
そのまま俺の攻撃は届くことはなく、奴の防護霊術に防がれてしまったのだ。
唖然とする俺を嘲笑うかのように、奴は神官にはあまりにも不釣り合いなメイスを振りかぶり、俺の脇腹を殴りつけた。
結果、俺は吹き飛ばされ、教会の床に背中を着けている。
「惜しかったな。捨て身でくる君の勇気はやはり尊敬に値する」
ディアはメイスを握ったまま。俺に語りかける。
「
神の奇跡を否定する術式であり禁術とされているものだった。
「終わりだ。そこで我が主が降臨される瞬間を見ていろ」
ディアの背後で獣の唸る声がする。その声は徐々に力を増しているように思える。
俺の身体はもう万全とは程遠い状態だった。
骨は折れ、左腕には力が入らない。足は疲労が溜まっていた。
動かない身体に鞭を打ち、背中をつけている床から軽く転がり、うつ伏せの状態になって起き上がろうとした。
だが、俺は両腕と膝をついたまま立ち上がれずにいた。
(……くそっ、動け!)
俺の心は折れかけていた。
自身の持てる力の全てをかけた攻撃が、こんなにもあっさりといなされてしまったのだ。
そんな化け物相手にどう戦えばいい?
頭の中を悲観的な考えがぐるぐると回って思考がまとまらない。俺はこの戦いで死ぬかもしれない。
言いようのない不安に襲われたとき、俺の耳に小さな鈴の鳴るような声が聞こえてきた。
「ハロルド様……お逃げ……ください」
俺はハッとして顔を上げる。
視線の先には魔法陣の上に倒れているエリーがいた。
意識を取り戻したようだが、その声は子猫の鳴き声のように弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
苦しそうな表情をしながらも、振り絞るようにして声を上げている。
「わたしに構わず……早く……逃げて……!」
エリーはこんな時まで俺の心配をしていた。自分が生贄にされてしまうかもしれないというのに……。
俺は何故、エリーに『助けて』と言わせてあげられないんだ!
俺の中にかすかに残っていた闘志が湧き上がる。
左手には力が入らず、脇腹からは血が流れ、額には痛みを耐えることで脂汗が滲んでいた。
それでも、俺はエリーを助ける為に気力を振り絞って立ち上がる。
エリーはそんな俺の様子を、泣きそうな表情で見ていた。
「まだ立ち上がるのか。君の想いは本物のようだ」
ディアはしかし、俺を見て更に瞳に決意の光が宿る。
「しかし、私も譲る訳にはいかないのだ」
二人は再び構えをつくる。
「ならば私の全力を持って相手をするだけのこと」
左手は動かずともまだ右手は動く。
脇腹から血を流そうともまだ両足は動く。
俺は止まる訳にはいかない。
ここであの夢のような、悔しくて悲しくてたまらないような気持ちを味わってなるものか!
ディアから霊術が放たれる。
「がああああぁあぁぁぁっ!」
俺は咆哮を上げてそれに立ち向かっていった。
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