第10話 契約者との関係
~Side Ellie~
ハロルド様が野盗たちを問い詰めている間、わたしは冥界へと帰還していた。
やるべきことがあったのだ。
いつものように転移を終えて、木製の古びた扉を開いたところでわたしは嘆息を漏らした。とてつもなく長い廊下が視界に飛び込んできたからだ。
目的の部屋はこの廊下の突き当たりにある。そこに行くにはここからそれなりの距離を歩かねばならない。
この無駄に大きな建物は冥界神殿と呼ばれている。リネアス王国の城が
静寂に包まれていた廊下に、わたしの足音だけがコツコツと響く。あまりにも静かなので、誰も住んでいないのではないかと錯覚してしまいそうだ。わたしは無心で歩みを進めた。
やがて廊下が終わりを告げる。ようやく目的の扉の前に到着した。
扉の前に立ってノックを試みる。しかし、何度ノックしても返事は返ってこなかった。
わたしは首を傾げた。この時間帯ならば普段なら部屋の中に居るはずである。
そっとドアノブをひねると扉はゆっくりと開いていった。鍵はかかっていないようだ。
わたしは「失礼します」と声を掛けながら部屋に入った。部屋の中心にはこの広い空間には少し小さすぎる椅子と机が置いてある。
机から少し離れたところで、照明に使用されている光球が浮かんで光を放っていた。机の上には雑に置かれた書類が散乱し、山のように積み上げられている。
それに隠れるようにして椅子に腰かける人の姿があった。
……いや、あれは背もたれにぐったりと倒れこみ椅子から滑り落ちかけていると言った方が正しいように思う。
空を仰ぐようにしてだらりと身体の力が抜けているその格好は、誰が見ても仕事をしているようには見えないだろう。
近づいてみると、それはすぅすぅと気持ちよさそうに寝息を立てて夢の世界へと旅立っていた。
まるで幼い子供が母親に抱かれているかのような、安らぎの表情でまぶたを閉じている。
わたしたち冥界の住人は睡眠をとる必要は無いというのにこの人は……。
「クリュー様、起きてください」
声をかけて、その身体を揺する。
「むにゃ……うぅん……」
少しずつ意識が覚醒してきたのだろう、だらりと椅子からこぼれ落ちそうだった身体に力が戻ってきているのが見てとれた。
「んん……っ」
その人はぐいーっと大きく伸びをして、首回りをコキコキと鳴らしてからこちらを見つめた。
「おお、エリーじゃないか、おかえり」
「おかえりじゃありませんクリュー様、仕事をして下さい」
「何をいう、休憩も大事なのだぞ? 最近は働き過ぎたせいで、寿命をきちんと全うせずに死んでしまった者も少なからず冥界へと来るのだ。それでは元も子もないではないか」
「それについては同意しますが、クリュー様はわたしが帰ってきたら結構な頻度で寝ていませんか?」
「気のせいではないか? 自分は真面目を体現したようなものであるからな!しっかり働いておるぞ」
この人の名前はクリュメノスと言う。
長いからクリューでよいぞ、と本人から言われたため、わたしはクリュー様と呼んでいる。
腰まで届く長い髪に精巧に整っている中性的な顔立ち、自分という独特な一人称に妙に古風めいた話し方など、これでもかと言わんばかりに個性を詰め込んだような人だった。
いや、厳密には人ではなくこの冥界を治める神であり、天界にも現世にもつながりを持っているものすごい権威者であるらしいのだが、普段の変わった言動や行動を見ているとまるでそうは見えなかった。
極め付けは、中性的な顔立ちや身体つきから、男か女かよくわからないところだ。
少し前に男性か女性かどちらなのですかと聞いたら、お主はどちらがよいのだ?なんて聞いてきて、結局最後まで本当のことは教えてもらえなかった。
「ところで今日は、ヤーマ様はいらっしゃらないのですか?」
「む?あやつならついさっきまでおったのだが、仕事にいざこざが発生して出ていったぞ」
ヤーマ様というのはクリュー様のお目付け役だ。
クリュー様が冥界の神という立ち位置であるにも関わらず、不思議なことにヤーマ様はお目付け役という役割を与えられている。
わたしが死神になるずいぶん前に、それは決められたようだった。
クリュー様は自由に行動して天界や現世へ足を運んでいることが非常に多く、肝心な時に冥界にいないクリュー様に、冥界の住人は非常に手を焼いていたらしい。
そして、その
やがて天界からもクリュメノスを野放しにするなといった苦情が入り、しぶしぶヤーマ様がその役割を買って出たというのが事の始まりなのだとか。
ヤーマ様の見た目は、クリュー様と対の存在であるかのようなガタイの良い筋肉隆々の大男だ。
ヤーマ様は冥界の入口で、流れてきた魂の管理の仕事をしていることが多い。
冥界は主にこの二人と少数の死神で運営がなされている。
わたしはヤーマ様に監視対象であるハロルド様のことで報告に来たのだが、どうやら今はお忙しい様子だった。
「わかりました、それではまた機会をうかがいます」
わたしはクリュー様にそう伝えて、ハロルド様のところに戻ろうと
「待つのだエリー」
しかし帰ろうとした矢先、クリュー様に呼び止められた。
「なんでしょうか?」
「お主の要件は監視対象の報告であろう?それならば自分に伝えても問題はあるまい」
わたしはどきりとして言葉を詰まらせた。
クリュー様の言う通り、業務の報告ならばヤーマ様かクリュー様のどちらかにすれば問題はない。
ただ、今回の報告はできればヤーマ様にしたかった。
それはクリュー様を信頼していないからというわけではない。今回の報告で言いたくないことがあるからだ。
ヤーマ様が騙されやすいという訳では断じて無いのだが、ヤーマ様は見た目に違わず、大木のようにまっすぐな人だ。
嘘の気配にはものすごく敏感で嘘は簡単に見透かされてしまうが、裏を返せば事実だけで固めれば言いづらいことは言わなくても問題ないのである。
一方、クリュー様には何一つ隠し事ができない。
何かを隠そうとする言動には誰よりも聡く、まるでわたしがやってきたことが全て見られていたのではないかと感じてしまうほどであった。
「ほら、遠慮はいらぬ。言うてみるとよい」
クリュー様はわたしを見つめ、こちらを向いて姿勢を正し、にこりと微笑む。
少しでも話をしやすくなるように配慮をし、きちんと全て聞いてやるぞと言わんばかりのその態度に、わたしは観念するしかなかった。
クリュー様のこのようなところは嫌いではないが、少し苦手だ。
わたしの隠し事に気づいていても決して踏み込んでこず、距離を置いて接してくれるハロルド様は、そういった点でとても心地よかった。
どうせ隠しても無駄なので、わたしは全てを包み隠さず話すことにした。
ハロルド様が野盗らしきものに襲われたこと、ハロルド様の作戦に手を貸したこと、ハロルド様に矢が当たりそうなときに、ハロルド様を助けるために力を使って矢を両断したこと……
その間クリュー様はただ相づちを打つだけで、何も言ってこなかった。
「――今回の報告は以上です」
わたしは報告を終えてからクリュー様の顔を見られなかった。気まずさから、ただ下を向いていた。
「……顔を上げるのだ、エリー」
クリュー様は、いつもよりも優しくわたしに声をかけてくれた。
いわれるままに、わたしはゆっくりと顔をあげる。クリュー様の表情は、いつもと変わらなかった。
「お主にあやつの監視を任せたときに言ったことは覚えておるな?」
「……はい」
一言一句違わずに覚えている。とても衝撃的な言葉だったからだ。
「ふむ……それではなぜ、覚えていながらあやつを助けたのだ?」
「それは……」
わたしは返答に困った。自分でもわからないのだ。
ここにくるまであの行動に理由をつけようとしたものの、どれもしっくりとこなかった。
この複雑な気持ちを表現する方法を、わたしは持ち合わせていない。
しばらくの間何も言えずに口をつぐんでいると、クリュー様はそんなわたしの様子を見かねて声をかけてきた。
「理由が分からぬというのならそれでもよい、ただ……」
ひと呼吸おいてクリュー様は続ける。
「あやつは別に『死んでも構わない存在』だと言ったであろう?」
ハロルド様は冥界の規定から大きく外れた存在だった。
たとえどんなに悪人であろうと、冥界が死んでも構わないと定義する人間はいない。
それにも関わらず、そんなふうにクリュー様は言ったのだ。印象に残らないはずがなかった。
わたしに与えられた役目はハロルド様の監視と霊力の調整、そして彼が死んだとき、その特異性のある魂を取りこぼさずに引き取ってクリュー様の元へと連れてくることだった。
もしあの時、わたしがハロルド様を助けなければ彼は死亡し、目的は完遂されたかもしれない。
「自分も含め、お主らは冥界の規定によって現世へ大きな干渉はできない。本来あるべき現世の状態と
しかし、とクリュー様は続けた。
「あやつは特別だ。お主が干渉して霊力を奪い、現世のバランスを保つ必要がある。その方が現世への影響が少ないと判断した。だから最初にあやつとの契約をしくじってくれるなと伝えたのだ」
ハロルド様には、何が何でも契約を結んでもらう必要があった。そうしなければ冥界や現世に大きな影響を与えてしまうのが明白だからだ。大役を任されたわたしは入念に準備を行った。
彼のことを一週間もの間観察し、もっとも効果的に契約を迫る方法を探ることにしたのだ。
しばらく彼のことを観察していると、意外にも普通の人間と変わらないことが分かった。
もしかすると、話し合いでの契約も可能かもしれない。そんなふうに考えたこともある。
しかし、クリュー様の言葉の印象があまりにも強かったわたしは、彼は普通の人間と違ってどこかおかしいはずだと思い込んでいた。
話し合いに行っても契約を拒否されるに違いない。
そう考えたわたしは、ハロルド様に対して奇襲と脅迫という手段をとった。
――今になって考えると、あまり賢い方法ではなかったと思う。
「だからもし、あやつが寿命を待たずして現世から居なくなることがあればそれが一番よい……特例だがな」
「理解しています」
通常、寿命を待たずして亡くなってしまうことはあまり良いことではない。
なぜなら、人間は誰もが現世で果たすべき役割をもって生を受けるためだ。
自殺などによってそれを全うせずに生を終えてしまった人間の魂は、冥界が管理して違う形でその役割を果たして貰うことになる。
それは再び現世へと生を与えるというものだけではなく、冥界の方針によって様々な処置が取られていた。
ところが彼の場合は、契約が成立していないと干渉ができない上に、冥界が長期間に渡って死神を派遣し、監視の目を向けていなければならない。
それに、たとえ十分に監視していたとしても今までの前例が存在しないため、現世に影響が出ないとは限らないのだ。
結果として冥界が彼に対して下した判断は、現世で彼がいなくなることによって生じる不具合より、存在することによって生じる不具合のほうが大きいというものであった。
「しかし、お主にしては珍しい行動だな。お主の死神としてのキャリアは二年ほどでまだ短いのだが、優秀で冷静沈着、そして頭が固すぎるほどに規律を守る奴であったと記憶しているが」
「……期待に応えられず、申し訳ありません」
「いや、謝らなくてよい。勘違いしないでほしいのだが、怒っているわけでも、失望した訳でもないのだ」
ギッと椅子に深く体重をかけて、クリュー様は考えるそぶりを見せた。
「お主は今まで、死神としての生をあまりにも受動的に過ごしすぎだった。与えられた仕事を寸分の狂いもなく遂行するのも構わないのだが、初めてお主が能動的に行動を起こした。これはよい傾向かもしれんな」
「しかし、それは現世にとっても冥界にとっても良いことではありません」
「だからお主は頭が固すぎると言うておるのだ。現世での変調を正すのがお主の役割だろう? 前例がないことではあるが、霊力をあやつから狩りとっている間は現世に問題が起きることは無いと言って差し支えない。冥界のほうは……まぁ、少し仕事が増えるが大丈夫であろう」
最後のほうにクリュー様が、ヤーマのやつにこっそり押し付ければよいか、などと呟いていたのは聞かなかったことにした方がいいのだろうか。
「とにかく、あまり深く考えすぎずともよい。お主があやつに干渉したいのであれば自分はそれを止めるつもりはないし、冥界にとっても大きな問題にはならん。お主のやりたいようにやってみるとよい」
クリュー様はそう言ったが、わたしの心が晴れることはなかった。
「……それではわたしの気がすみません」
わたしのワガママで冥界の仕事を増やす訳にはいかない。
「次はうまくやってみせます」
わたしがクリュー様にそう告げると、クリュー様はただ無言でわたしを見つめ返してくるのだった。
§§§
「くっふっふ……なるほど、そうきたか」
エリーがハロルドのところに帰ったあと、しんと静まり返った部屋でクリュメノスは声を殺して笑っていた。
その表情はまるで、苦労して仕掛けたいたずらに獲物がかかったときの子供のようであった。
「あやつはこのわずかな期間でエリーにその道を選ばせたのだ、しっかりと責任を取って貰わないといかんな」
クリュメノスは机の上に大量に積み上げられた書類をてきぱきと処理しながら、ぽつぽつと呟く。
その手つきは軽やかだ。
楽しくて楽しくて仕方がないという様子だった
「さて、お主らはどんな結末を見せてくれるのだ?」
エリーが出ていった扉に向かってクリュメノスは語りかける。
それから、手元にあった書類の山から一枚の紙を取り出し、くしゃくしゃと丸めた。
「これはしばらく必要なさそうだな、また作り直せばよいか」
ひょいとそれを放り投げる。
それは綺麗な放物線を描き、部屋の隅に置いてあるゴミ箱にすっぽりと収まっていった。
しわくちゃになったそれには、死亡証明書の文字が記載されていた。
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