第2話 死神の少女

陽が傾き、辺りは薄暗い青に染まっていく。


近くの湖を茜色に照らしていた夕陽も完全に色を落とし、山の陰に隠れてしまった。東の空では星たちが目を覚まし、まばたきをするように淡い輝きを放ち始めている。


なんとも情緒的な景色だった。


もっとも、喉に鋭利えいりに尖った黒い鎌の、銀の刃先を突きつけられていなければの話であるが。


目の前にある自分が死ぬかもしれないという現実の前では、そのような景色の移り変わりなど、軽く息を吹き掛ければどこかへ飛んでいってしまう小さなちりのようであった。


(どうしてこんなことに……)


少し前の出来事を思い返してみる。


リネアス王国を守る護衛兵として働く俺は今朝、商人の依頼を受けて輸送護衛の任務に就いていた。


ところが風邪をひいてしまったのか、午後になってからどうにも身体が重く、自分の思うように動くことができなくなっていた。


なんとか最後まで依頼はこなせたものの、帰る途中で足取りがおぼつかなくなり、士官にその旨を報告して休憩を取らせて貰った。


するとその様子を見ていた士官が心配して、俺をいつもよりも早めに帰宅させたのだ。


そしておかしなことが起きたのは、まだ喧騒に包まれていた街を横目に、まっすぐ家に帰る途中のことであった。


俺の家は街からそれなりに距離のある山の方にある。


数年前に空き家になったので、男だらけの兵舎で寝泊まりすることに嫌気が差していた俺は、ここを安く売りに出していた不動産屋から買い取ることにしたのだ。


同じような条件の家の相場と比較してかなり安かったので、どうして安くなっているのかとその不動産屋に聞くと、設計や安全性には問題はないのだが、幽霊が出る噂があるという曰く付きの家らしい。


俺は少し悩んだが、まあ大丈夫だろうとあまり深く考えずに購入した。


一年ほど住んでいるが、今のところそのような怪奇現象に出くわすこともなく平和に過ごすことができている。


俺には霊感がないから大丈夫なのだろうと楽観的に考えていたのだが、その軽率な思考が招いたことなのかもしれない。


それはあまりにも突然の出来事であった。


何もないはずの空間から不意に、黒い装束を身にまとった人間が現れたのだ。そいつはその身体に不釣り合いなほど大きな鎌を振りかざしながら、一瞬で俺との間合いを詰めてきた。


直後に振り降ろされた鎌に、腰に差していた短剣で応戦する。


鉄がぶつかりあう激しい音を立てながら、俺は弾き飛ばされた。


重い一撃で身体が軽くよろけてしまう。


「ぐっ……」


なんとか体勢を立て直し、奇襲者が何者かを確かめようとしたが、その動きは驚くほど早く、うまく確認することができなかった。


何が起きているのか理解が追いつかず、早鐘を打つ心臓の音を聞きながら次の攻撃が来るはずだと身構えた時、突如とつじょ目の前で光球が弾けた。


「うおっ……」


思わず目を閉じて仰け反り、動きを止めてしまう。


それがまずかった。


再び前方に現れたそいつはその一瞬の隙をつき、俺のことを突き飛ばした。


「ぐうっ……!」


地面に転がるように倒れてしまう。


受け身を取ってから上を向いた時にはもう手遅れであった。


俺の喉元に突きつけられる鎌の刃先。触れていなくとも首に伝わってくる、刃物のひやりとした感覚。


つぅ……と頬を流れる汗が異常に冷たく感じた。


(今何が起こったんだ?)


何の前触れもなく発生したあの光球は、明らかに自然発生したものではなかった。


(こいつが、起こしたのか……?)


視線をその襲来者へと向ける。頭から深く被られたフードのせいでその表情は微塵もわからなかった。


二人の間に流れる沈黙。


漂う異常な緊張感の中で、俺はそいつが襲ってきた理由を考えていた。


今でこそ俺はリネアス王国の護衛兵というまっとうな立場であるが、数年前までは一端の傭兵だった。


運よく戦果を挙げることができ、ここに勤めたのはたった二年前のことだ。


傭兵時代には、何度か恨みを買いそうな仕事を引き受けたこともあった。


仕事に対して明確な線引きをしていたため、人道に反するようなことをしていたわけではないのだが、綺麗な仕事ばかりをしてきたというわけではない。


もしかするとその時に恨みを買った人物が居たのかもしれない。


そうでなければ、こんな地位も金もない兵士を襲ったところで、得なことなど一つも無いからだ。


それに、わざわざ兵士の格好をした奴を襲おうとする奴はいない。もしいたとするなら、きっとそいつの頭のネジは何本か抜け落ちていることだろう。


と、ここまで動機について考察してみたものの、依頼をこなしている間に出会った相手の顔なんて詳細に覚えているはずもなく、そこで俺は考えることを放棄した。


襲われた理由など、襲ってきた本人に聞いてみないと分からないのだから考えるだけ無駄なのだ。


いつでも殺せる状況にも関わらずまだ命を奪われていないあたり、俺には何かしらの利用価値が残っているのだろう。もし、この状況から無事に生き残ることが出来たなら、その時に襲われた理由を考えればいい。


改めて、そいつの方を見る。


顔は真っ黒なフードに隠されており、奥からちらちらと銀色の髪が見え隠れしている。


身長は俺より頭ひとつ分低い。かなり小さめというのが俺の印象だった。


その身体にはローブをまとっており、これまた大量のインクを溢したかのごとく真っ黒であった。


そして、何より目を引くのはその身体にまったく釣り合っていない大きな鎌だ。漆黒の柄と峰、そして光を反射し輝く鋭い刃。今、それが俺の喉元に突きつけられている。


まるでこの世界の住人ではないものが、俺の命を狩りに来たようだと思った。


「あなたが、ハロルド・マーティン様ですね?」


突然、りんと鈴の鳴るような声がした。


それがその黒いフードの中から発声されたものだと気がつくのに、俺は長い時間を要した。


「あ、ああ……」


たっぷり十秒ほど戸惑い、ようやく絞り出せた肯定の言葉だった。


俺の返事を確認すると、そいつは頭から被っていたフードに手をかけた。そのままゆっくりとフードを脱いでゆく。


中からはらりはらりと銀色の髪がこぼれ落ちてふわりと舞い、絹のように白い肌が俺の目の前にさらされる。


そのままじっとこちらを見つめるサファイアのように青く澄んだ瞳に、俺は吸い込まれそうになった。


「まず、このような方法であなたを拘束したことを謝罪します」


鎌を喉元へ突きつけたままぺこりと頭を下げる様子があまりに滑稽こっけいである。


深い黒で統一された服を身に纏い、不思議な力で俺に反撃の糸口すら掴ませなかったその襲撃者は、まだ幼気いたいけな少女だった。


「あなたにお願いがあります」


まだ呆けている俺に向かって彼女はこう言った。


「……わたしと契約してください」

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