幕 間 王太子と秘書官
「おかえりなさいませ、
彼の上司たる王太子──ナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエは、初めてそれを聞いたとき、何となく
この男の目の下のクマに自分が多大な
「晩餐会はいかがでしたか?」
「エサルカルの一部では相変わらず、ダーディニアへの反発が強いようだ」
正装のマントをはずす。何も言わずとも
それから、
ナディルは
(そもそも、己の好みなど二の次だ)
それは別に身に着けるものについてだけではない。基本的にナディルは、すべてにおいて、『ダーディニアの王太子にふさわしいもの』という観点で選んでいる。
「……殿下、何かお召し上がりになりますか?」
晩餐会に出席した人間に対してするには
(食事、というのは心身を
つまり、その要素が満たされれば良い。が、ナディルにとって、晩餐会は食事をする場ではなく外交の場だから、食事は別にとる必要があった。
「茶を
「かしこまりました」
一礼したラーダ子爵が目の前を下がる。
ひきだしいっぱいにぎっしりと
基本となるのはビスケットで、これが南方師団のものだとさっくりとした歯ざわりになり、北方師団のものだと固さが三割増しになる。これに
ナディルは
「……さて」
今日はどれにしようか、とナディルは色とりどりのパッケージを見ながら考える。
(どれでもいいんだが)
軍の携帯糧食というのは、このコンパクトな包みだけで一日に必要な
(まあ、見た目はさほど楽しいものではないが)
ナディルが今日の夕食として選んだのは、西方師団のものだった。
包装紙を広げ、その上に中身を並べる。野菜の入った固焼きのビスケットが五枚。うすく塩味のついた
「殿下、お待たせいたしました」
「ああ」
緑色をしているのは、おそらくザーデという緑黄色野菜を練りこんで焼いたもので、オレンジのものはラグラ
こうして書類に目を通しながら食べられること、これだけで必要な栄養素がほぼ足りることが、ナディルがこの携帯糧食を好む理由だった。
(今頃、あの子は何をしているんだろうか)
ふと、まだ幼い
昨年、やっと自身の宮に引き取ることのできた妃は、十二歳になったばかり。正式な
それでも、こうして一人になると、ナディルは彼女を想うことがしばしばある。
(私の、
現ダーディニア王太子妃アルティリエ・ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーディエ。
父王とエルゼヴェルト
(私は、ただの
国を構成する駒の一つ。一応、この上なく貴重とされてはいるが、その替えはある。
だが、決して替えがきかないのがアルティリエだ。
光をはじく黄金の髪と、光の加減でその色みを変える青の
(
成長するにつれ、その
ナディルは、彼女が宮中で『人形姫』とあだ名されていることを知っている。
(どこか作り物めいて見えるほどの美しさと、人形の如く感情をあらわすことがない無機質さ……なるほど、よく言ったものだ)
表立ってとがめだてしないのは、しても
(不特定多数の人々というのは、
それをナディルはよく知っている。
(もう同じ
己の言動一つで周囲が動くこと。己が王太子であることを今の彼はよく理解している。
(
王太子とは後に王となる者。
そして、王とは国に
(でも……)
彼女は、違う。
彼女だけが、違う。
アルティリエだけが、この身すら己のものではない彼の、唯一だ。
(私は、あの子にだけは、望むことができる)
幼い妃に彼が
握り締めた
それは、静かで
きっと己は、この静かな熱を抱き、あの幼い妃ごと国を守って生きていくのだろう。
それが彼の使命であり、義務であり、望みでもあった。
ゴンゴンといささか乱暴なノックの音に、ナディルは小さなため息をついた。
彼のこよなく愛する
「殿下、失礼いたします」
「どうした?」
元々白い顔色を更に青白くしたラーダ子爵が、作法をほぼ無視した形で入室する。
よほどのことがあったのだろう。ナディルは内心で身構えた。
「……エルゼヴェルトから一報が入りました。王太子
ガタンと
「重態? どんな様子なのだ?
頭の中が真っ白になった。握り締めた手が小さく
それでも、彼は自身が何をすべきかを見失うことはない。
「わかりません。……情報がほとんどなく、複数ルートで急ぎ連絡をとっております」
「すぐに皆を集めよ。サリア子爵からの連絡は?」
王太子妃の一行と同行しているはずの文官の名をあげる。道中の差配と、王宮との連絡係としてさしむけた者だ。
「ありません」
「まず第一に、妃の無事の確認。ついで、何があったのかの
「かしこまりました」
ラーダ子爵は青ざめた顔色を更に青くして、頭を下げた。
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