幕 間 王太子と秘書官



 ばんさんかいから戻ってきたら、机の上に書類箱が積みあがっていた。

「おかえりなさいませ、殿でん

 しゆせきしよかんのラーダしやくが頭を下げる。腕もあしもガリガリにせている彼は、はだの色も青白くいつも目の下にクマがある。王宮の下働き達が彼につけたあだ名は『ケルシー』──これは、ダーディニアの昔話に出てくる生きた死体の名前だ。

 彼の上司たる王太子──ナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエは、初めてそれを聞いたとき、何となくなつとくしてしまった。

 この男の目の下のクマに自分が多大なえいきようあたえていることは承知していたが、おそらく改善は不可能だろう。

「晩餐会はいかがでしたか?」

「エサルカルの一部では相変わらず、ダーディニアへの反発が強いようだ」

 正装のマントをはずす。何も言わずともかたわらにひかえたしようがそれを受け取った。

 それから、かざり帯やそれだけでひと財産になりそうな金とむらさきずいしようせんさいな細工のカフスをはずし、別の小姓がさしだすはこの中にほうり込んだ。

 ナディルはほうしよくひんおのれを飾ることを好まないが、王太子としてを正す必要があることは承知している。そして、自身の容姿がそれなりにえがすることをよく知っていたので、かざることも当然のことと受け入れていた。

(そもそも、己の好みなど二の次だ)

 それは別に身に着けるものについてだけではない。基本的にナディルは、すべてにおいて、『ダーディニアの王太子にふさわしいもの』という観点で選んでいる。

 ぎようぎようしく飾られたれいようさやからけんを抜き、いつもの簡素なかわの鞘におさめ、執務机の左側のくず入れに立てかける。己が剣を振り回す事態になどなったらおしまいだと思っているが、それでも気は抜かない。

「……殿下、何かお召し上がりになりますか?」

 晩餐会に出席した人間に対してするにはみような問いだったが、ナディルはそういった場では食事をしない。出されれば一通りのものを口にし、腹におさめはするが、それは晩餐会という形とふんをこわさないための必要最低限だ。

(食事、というのは心身をするために必要な栄養である)

 つまり、その要素が満たされれば良い。が、ナディルにとって、晩餐会は食事をする場ではなく外交の場だから、食事は別にとる必要があった。

「茶をれてくれ」

「かしこまりました」

 一礼したラーダ子爵が目の前を下がる。

 すでに夜もおそい。王太子宮と呼ばれるこの西にしのみやの使用人達は夜間体制に入っている。ちゆうぼうだれかいれば良いが、誰もいなければラーダ子爵の淹れた苦い茶を飲むことになるだろう。目が覚めてちょうどいいかもしれない、と思いながら、ナディルは執務机の下の方のひきだしをあけた。

 ひきだしいっぱいにぎっしりとめ込まれているのは、軍のけいたいりようしよくだ。

 かんに入っているものもあれば、油紙できっちりと包まれてブロックになっているものもある。東西南北の各方面軍をはじめ、中央、近衛このえとそれぞれ納入業者が違っていて、その中身はバラエティーにとんでいる。

 基本となるのはビスケットで、これが南方師団のものだとさっくりとした歯ざわりになり、北方師団のものだと固さが三割増しになる。これににくや乾燥させた野菜や果物、しなどがつく。物によってはった豆をあめで固めたものがついたりもする。

 ナディルはかんをあまり好まなかったが、あまいものは少量で頭や身体を動かすための熱量になる為、軍の携帯糧食には必ず入っていた。

「……さて」

 今日はどれにしようか、とナディルは色とりどりのパッケージを見ながら考える。

(どれでもいいんだが)

 軍の携帯糧食というのは、このコンパクトな包みだけで一日に必要なえいようの半分がとれるように考えられている品だ。きよくろんを言えば、これさえ食べていれば他に何も食べなくても生きていける。

(まあ、見た目はさほど楽しいものではないが)

 ナディルが今日の夕食として選んだのは、西方師団のものだった。

 包装紙を広げ、その上に中身を並べる。野菜の入った固焼きのビスケットが五枚。うすく塩味のついただらをのしたものが一枚。味のついた肉のくんせいすうへん。これに、ミックスナッツの素炒りと野菜チップスとドライフルーツのぶくろが一つずつ。

「殿下、お待たせいたしました」

「ああ」

 ぎようは悪いが、書類に目を通しながらビスケットをかじり、子爵の淹れた茶を口にする。

 緑色をしているのは、おそらくザーデという緑黄色野菜を練りこんで焼いたもので、オレンジのものはラグラにんじんが練りこまれているのだろう。とはいえ、焼いてしまうと野菜の味はほとんどわからない。もそもそとしたビスケットはそれほど美味なものではなく、非常にいお茶で流し込んで、書類をめくる。

 こうして書類に目を通しながら食べられること、これだけで必要な栄養素がほぼ足りることが、ナディルがこの携帯糧食を好む理由だった。

(今頃、あの子は何をしているんだろうか)

 ふと、まだ幼いきさきのことを想う。

 昨年、やっと自身の宮に引き取ることのできた妃は、十二歳になったばかり。正式なこんいんを結んでいるとはいえ、名ばかりの妃でしかないことは誰もが知っている。

 それでも、こうして一人になると、ナディルは彼女を想うことがしばしばある。

(私の、ゆいいつの妃)

 現ダーディニア王太子妃アルティリエ・ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーディエ。

 父王とエルゼヴェルトこうしやくかくしつを知る人々は、父王が彼女を彼の妃に定めたと思っているようだが、それは違う。ナディルを王太子に定めたように、当時まだ生まれてもいなかった彼女を王太子妃にと定めたのは、既にくなっていた祖父王だ。

(私は、ただのこまにすぎぬ)

 国を構成する駒の一つ。一応、この上なく貴重とされてはいるが、その替えはある。

 だが、決して替えがきかないのがアルティリエだ。

 光をはじく黄金の髪と、光の加減でその色みを変える青のひとみ……それは、同じ色を持っていた人を思い出させる。

ずいぶんと『彼女』に、似てきた……)

 成長するにつれ、そのぼうさらなるれいしつを増している。だが彼女の場合、春の光の如くと言われた母親と違い、どこか冷ややかさを感じる。無表情なせいだろう。

 ナディルは、彼女が宮中で『人形姫』とあだ名されていることを知っている。

(どこか作り物めいて見えるほどの美しさと、人形の如く感情をあらわすことがない無機質さ……なるほど、よく言ったものだ)

 表立ってとがめだてしないのは、してもだからだ。

(不特定多数の人々というのは、せいぎよできるようなものではない)

 それをナディルはよく知っている。

(もう同じあやまちはおかさない)

 己の言動一つで周囲が動くこと。己が王太子であることを今の彼はよく理解している。

しよせん、この身に自由などあるはずがない)

 王太子とは後に王となる者。

 そして、王とは国にほうするれいに過ぎない。

 こうもなく、ただ王太子として……あるいは、国王として生きるのがナディルの運命だ。そこに、己の希望が入るすきなど存在しない。

(でも……)

 彼女は、違う。

 彼女だけが、違う。

 アルティリエだけが、この身すら己のものではない彼の、唯一だ。

(私は、あの子にだけは、望むことができる)

 幼い妃に彼がいだくのは、わかりやすいれんじようや愛情などではない。

 握り締めたこぶしで自身のむなもとれる。その奥底にあるのは、共感とれんびん……そして、しゆうちやくしんと区別がつかないよくだ。

 それは、静かでおだやかな熱となって彼の身体のうちにある。

 きっと己は、この静かな熱を抱き、あの幼い妃ごと国を守って生きていくのだろう。

 それが彼の使命であり、義務であり、望みでもあった。


 ゴンゴンといささか乱暴なノックの音に、ナディルは小さなため息をついた。

 彼のこよなく愛するせいじやくが破られ、せわしなく雑多な気配が押し寄せようとしている。

「殿下、失礼いたします」

「どうした?」

 元々白い顔色を更に青白くしたラーダ子爵が、作法をほぼ無視した形で入室する。

 よほどのことがあったのだろう。ナディルは内心で身構えた。

「……エルゼヴェルトから一報が入りました。王太子殿でん、暗殺すいによりじゆうたい

 ガタンとたおれるほどの勢いで、ナディルは立ち上がった。

「重態? どんな様子なのだ? ものか? 毒物か?」

 頭の中が真っ白になった。握り締めた手が小さくふるえる。

 それでも、彼は自身が何をすべきかを見失うことはない。

 ぼうぜんしつしていられるようなぜいたくな時間は、王太子には存在しない。

「わかりません。……情報がほとんどなく、複数ルートで急ぎ連絡をとっております」

「すぐに皆を集めよ。サリア子爵からの連絡は?」

 王太子妃の一行と同行しているはずの文官の名をあげる。道中の差配と、王宮との連絡係としてさしむけた者だ。

「ありません」

「まず第一に、妃の無事の確認。ついで、何があったのかのしようさいを報告。犯人はらえたのであろうな? まだだというのなら、至急ばくするようめいじよ」

「かしこまりました」

 ラーダ子爵は青ざめた顔色を更に青くして、頭を下げた。

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