第二章 王都帰還


殿でん、残念な事をお知らせしなければなりません」

 たくを整えた私は、いつものに座る。

 せわしなくやってきたリリアは、私の前で一礼すると、改まった様子で口を開いた。

 どこかきんちようしたひびきのあるリリアの言葉に、まだ意識がめきっていない私は小さく首をかしげた。『残念な事』の意味がよくわからなかった。

 でも、次のリリアの一言で、頭から氷水をかぶったように一気にかくせいした。


「エルルーシアがくなりました」


 ?うそだと否定してほしくて向けた私の視線に、リリアは力なく首を横に振る。

「原因は、昨日の朝食です」

 私の食事は、じよ達が毒見をしながらきゆうをしている。

 これは、生家であろうとも……いや、生家であるからこそかもしれない……信用できないという王家のけいかいしんのあらわれだ。

 何の料理に毒が盛られたかを知るために、彼女達はそれぞれ食べる料理を別にしている。問題となったのは、あさのスープとしめじと青菜のいため物だ。この二つの毒見をしたエルルーシアが、朝食後一時間くらいしてから腹痛をうつたえたのだという。

「医師を呼んだ時にはもう遅く、しばらく腹痛を訴え、昼過ぎに息を引き取りました」

 リリアの言葉がどこか遠く響く。

 椅子に座っているはずなのに、自分がどうしているのかもよくわからない。

 五感のすべてが、一気にうばわれた気さえした。

「まだ何の毒を使ったかまではわかっておりませんが、おそらくこうせいの毒だと医師は言っております」

(それくらい、医者じゃない私にだってわかる)

 役立たず、とののしりの言葉を口にしそうになるおのれおさえる。リリアが悪いわけじゃない。

 心を落ち着けるために、深呼吸を何度もした。

 冷静にならなければいけない。いかりは、目をくもらせる。

 自分に何度も言い聞かせる……なのに、にぎめた手が、ふるえる。

(……わかっている)

 この怒りは正しくない。

 自分でも気付いていた。

 エルルーシアの命を奪った犯人に対する怒りは、確かに存在する。

 でも、それだけじゃない。

 私は……エルルーシアが苦しんでいた時、ただのうのうと寝ていたことが許せなかった。

 起きていたからといって何ができたというわけではなかっただろう。

 それでも……何も知らずに寝こけていた自分に腹が立ったのだ。

(どうして……)

 胸に、うずまく怒りと悲しみ……それから、どうしようもないいきどおり。

 何でこんなことが起こったのかと何度も何度も自問した。

 えくり返るような怒りとるいせんげきするかなしみで、心の中がぐちゃぐちゃに?ぜられる。入り混じった感情が抑えられなくて、深く息を吸った。

 ……でも、救いようがないことに気付いてしまって、さらに泣きたくなった。

(あの浅蜊事件がなければ、私も食べていたかもしれない)

 浅蜊のスープに毒物が混入されていなかったことは、私が一番良く知っていた。かされたとはいえ、あのスープに毒が入っていたのなら、命は落とさないまでも何らかのえいきようがあっただろう。だとすれば、毒が入っていたのはしめじと青菜の炒め物だ。

 あのさわぎがなければ、たぶんそれにも口をつけていたと思う。基本的に、一通りどの皿にも手をつけることにしているから。

 食べなくて良かった。と、ホッとしている自分に気がついて、そのあまりのエゴイストぶりに言葉を失った。

 エルルーシアは私のために毒見をしたせいで死んでしまったのに、助かったことを……食べなかったことにあんする自分がいる。

 己が助かったことを喜ぶのは当たり前かもしれない。でも、そんな自分がずかしく、そして、情けなかった。

(ごめんなさい……)

 エルルーシアがこんな風に命を落とす理由はなかった。殺される理由なんて、彼女にはいつぺんもなかったはずだ。

(ごめんなさい、エルルーシア)

 私の侍女だったことが、彼女を死に追いやった。

 目を大きく見開き……そして、涙がこぼれた。

「姫さま……」

 リリアをはじめとする侍女達が、きようがくの表情で私を見る。

 アルティリエはたぶん、人前で泣いたことなどなかっただろう。貴族の子女は、人前で感情をあらわさないことを美徳としてしつけられるから。

 でも、涙を止められなかった。

 それから、たった六日分しか知らないエルルーシアのことを思い出す。

 私に笑いかけた顔、おどろいた顔、困ったような顔……いろんな顔。たった六日分だけど、ちゃんと覚えている。

 なのに、もう彼女はいない。

(死ぬ、ということ)

 それは、すべてが思い出になってしまうことなのだと、あちらの世界で両親や祖父母を送ってきた私は知っている。

「エルルーシアはほうな子です。妃殿下をお守りできたのですから」

 侍女達は、泣かなかった。

 でも、みなも目が赤いから、きっとたくさん泣いたんだろうと思った。

 目元をこする。

(泣いたらダメ……)

 おうたいである私は、一人の侍女の死に涙してはいけない……そう告げる心の声。

 頭ではちゃんとわかっている。わかっているけど、涙は止まらない。

 だから私は、侍女達に背を向けた。泣いている顔をだれにも見せないように。

 バルコニーの外に立ってこちらを見ていたが、あわてて背を向けた。

 私はくちびる?み……下を向く。

 これは、泣いているわけじゃない。

 胸の前で手を組み……こうべを垂れる。

 これは、いのっているだけ。だから、ゆかに落ちるしずくのがしてほしい。

 私は、この時初めて、本当の意味で自分がずいぶんと遠くに……異世界に来てしまったのだと感じた。

 この世界では、こんなにもあっさりと命が奪われてしまうのだ。


「……帰る」


 言葉が、口をついて出た。

「姫さま、お声が……」

 リリアや他の侍女達が目を見開く。

「エルルーシアを連れて、帰る」

 目元をこすり、皆のほうを振り向いた。

 明確に紡がれた言葉に、リリアが驚愕の表情で私を見ていた。

 顔をあげた私は、リリアの瞳をまっすぐ見返す。

 たぶんこの時、私は決めたのだ。

 はっきりと理解していたわけではなかったけれど────この国で生きていくことを。

「かしこまりました」

 リリアはひざをつき、深々と頭を下げた。


 犯人は、ちゆうぼうのスープ番の料理人だったと告げられた。

(本当にそうかはわからない)

 けいドラマ風に言えば、『しや死亡により』だ。

 そう。かれは、すでに死んでいた。

 エルルーシアがたおれたことでおおさわぎになった時にはちゃんといたそうだが、そのうちに姿が見えなくなって、見つかった時にはもう息をしていなかった。

 エルルーシアと同じ毒だったという。

(死人に口なし……)

 彼が犯人であるという確たるしようはなかったが、私に提出された報告書によれば、エルゼヴェルトの司法官は彼を自殺と断定している。そして、今後もそうは続行するものの、彼が犯人であった疑いがいとの所見を述べていた。

 彼の無実を証明することはできずとも、彼が犯人であると判断することは容易たやすい。確たる証拠はなくとも、じようきよう証拠だけでじゆうぶんだ。

 司法官の言葉一つで、彼はすでに犯人であるかのように仕立てられていた。

 まるで、いけにえの子羊だ。

 死者は弁明できない。後は、周囲が勝手に彼があやしいとする事実を積み上げていく。

 貧しかったこと。

 ごとが好きだったこと。

 借金があって金を必要としていたこと。

 金が欲しいと周囲にらしていたこと。

 もうけ話があると言っていたこと……一つ一つはとるに足らぬ話だ。

 どこにでもある、特別に怪しむべきことではない話。

 でも、とるに足らぬそれらの一つ一つの話が積み重なると、彼が犯人であってもおかしくないように思える。ましてや、司法官がそれを公言しているからなおさらだ。

(思い込みは強力だ)

 たとえ、それが『真実』ではなくとも、そう思い込んでいる人にとっては、それこそが『真実』だ。そして、人はそれを『真実』として語り、それを聞いた人は疑いもせず信じてしまうだろう。

 司法官は本当に彼が犯人だと思っているのか、あるいはそう思い込ませようとしているのか、判断がむずかしい。

 もう一通の報告書は、私の護衛隊から提出されたもの。

 ここはエルゼヴェルト領内なので、この報告書は公文書ではなく非公式なものになる。

 報告者の名はナジェック=ラジェ=ヴェラ=ヴィスタール=シュターゼンはくしやく

 彼は、私の護衛隊長にして、司法官の有資格者だ。

 司法官というのは、裁判官と警察官の権限をも与えられている専門資格者で、『ヴェラ』というしようごうで呼ばれるが、厳密には『司法官』が『ヴェラ』ではない。『ヴェラ』とは『学者』というような意味で、大学を卒業した者をさす。

 大学を卒業した人間は全員が司法官となれるので、いつの間にか司法官も『ヴェラ』と呼ばれるようになった。

 この大陸のどこの国に行っても、『ヴェラ』を取得していれば、高位の公職に就くことができる。例え、元がれいであってもだ。

 西方の大国ローランドこうこくさいしようは、元奴隷の『ヴェラ』だと聞く。

 大学を卒業しただけでなぜ法律の専門家になれるのかが不思議だったけれど、こちらでいうところの『大学』のシステムを知ってなつとくした。この世界の大学は、きわめて高度かつ専門的な学術機関で、入学するのは難しく、卒業するのは更に難しい。

 入学資格は、『満三十歳未満の入学試験に受かった者』というだけで、身分や地位、性別などの制限はいつさいない。

 ただ、入学試験のはんは実ににわたる。

 試験科目はひつ三科目の法律・歴史・言語の三つなのだが、歴史の試験で統一帝國時代のえん精製法について問われたり、言語の試験で二帝國時代の経済について問われたりするので、あらゆる分野に通じていることが求められる。

 年によっては合格者がひとけたということもあるらしい。

 法律は国によって違うものだが、基本は『大陸法』と呼ばれる旧統一帝國法だ。大学の学生はダーディニアを含む五大国の法律のすべてを学ぶ。法律・歴史・言語の必須三科目において可を得なければ専門課程には進めないし、卒業など夢のまた夢だ。

 上級教育機関として王立学院もあるが、どこの国でも王立学院はなかば貴族のせんゆうぶつと化している。名高いじゆくというのもあるが、それはあくまでも自国内でしか通用しない。

 地位や身分や権力にらぐことのない、絶対のけんを持つぞうとう

 それが、こちらの大学だ。

 あくまでも実力主義で、どんなに身分が高くとも、どれほど金を積もうとも、自力で入学試験に合格しなければ、足を踏み入れることすら許されない。

 実は、私の夫であるナディル王太子殿でんは、この『ヴェラ』を持つ。

 現在、大陸全土で『ヴェラ』を持つ王子は他にいない。そくすれば、史上初めて『ヴェラ』を得た王になるだろうと言われている。


 話を報告書に戻そう。

 当然のことだが、シュターゼンはくの報告書はエルゼヴェルトの司法官とは視点が違う。

 だから、同じ事実を書いていてもまったく印象が違っていた。

 伯爵の報告書から浮かび上がるのは、貧しい農村のいちしよみんのごく当たり前の生活だ。

 農村の農民階級ならば貧しいのは誰でもいつしよだし、村のバーで小銭をかけてダーツをしたり、サイコロばくやポーカーをするのは村の男達の当たり前のしゆで、ポーカーの負けがこんでいたといっても三連敗した程度。次の月給には返せるくらいの金額にすぎない。

 お金が欲しいというのがくちぐせな人間は別にめずらしくはない。儲け話という単語はちょっと気になるが、例えば、新しく作付けした新種のいもを村の市場ではなく町で直接売れば倍で売れる……それだって、農民階級の彼らにしてみれば大きな儲け話だ。

 ゆえに、スープ番の料理人が犯人だと断定するのはそうけいであると報告書は結んでいる。

 光の当て方で見える景色が変わるように、視点が違えば浮かび上がる事実も違う。

 弁明をする本人は、もういない。

 彼の為に反論してくれる人もいない。

 今はまだ証拠はなく、状況証拠によるわくにすぎない。でも、そのうちに彼の荷物の中から、彼の賃金で貯めることが難しい大金や、エルルーシアの命を奪った毒薬が発見されるのかもしれない。

 そんなもの、後から放りこんだってわからないのに。

(……あるいは、本当に関わっていたのかもしれない)

 私が疑いすぎなのかもしれない。なおに状況証拠を信じればいいのかもしれない。

 疑わしいとされる証拠をたくさんつきつけられても何かしやくぜんとしないのは、犯人だともくされている男が、スープ番だからだ。

 あのあさりのスープの出来は、絶賛するにはちょっともの足りなかった。

 でも、技術的にはしっかりしていたと思う。

 浅蜊自体はおいしく処理できていた。砂もきちんとかせてあったし、肉厚で大きめの浅蜊はすぎずふっくらとしていた。歯ざわりも固すぎず、生っぽさも感じなかった……火加減が適切だったのだ。

 ガスがあるわけではない。レンジやタイマーがあるわけでもない。おそらくはじかでスープを作っていただろう彼が、スープを作る以外のことをできたとは思えない。

 あのスープの出来からして、何か余計なことをしているひまはなかったはずだ。

(スープの火口はオーブンのとなりだし、炒め物のストーブはパンがまの向こう側だ……)

 厨房にいた人間なら毒を投入するチャンスはいくらでもあると思うかもしれないが、報告書の貝取り図によれば、スープを作っていた一角と、炒め物を作っていた一角が離れすぎている。しかも、間にはパン窯があって、そこにも担当の人間がいた。

 実際、彼が炒め物を作っていたストーブまわりに近づいたという証言はない。

 盛り付けた後に入れるのもほとんど不可能だ。できあがってすぐに運んだとなっているし、彼が近づいたという証言もない。

 当時、ちゆうぼうには十人以上の人間がいた。

 すべての作業をかんとくしていた料理長は、おかしなことをしていた人間はいないと証言している。腕はいまいちかもしれないが、スープ番を犯人と見なしている司法官を前に、消極的ながらも部下をかばうその姿勢は評価にあたいする。

(なんだか、こんがらがりそう……)

 考えることがいっぱいあった。

 何も考えずに生きてきたつもりはないけれど、こちらで目覚めてから、ものすごく頭を使っている気がする。

 司法官が半ば彼を犯人扱いしていることで、エルゼヴェルトこうしやくの立場はあまりよろしくない。むしろ、ひそかに真犯人確実視されている。

(スープ番の人の家は、先祖代々、公爵家の小作農か……)

 小作農と領主の関係は、自主的に従うれいと主人に似ている。奴隷という身分でこそないものの小作農は領主の命に逆らうことなどできない。

 彼が公爵の命により、それを実行したと見なすことは極めて自然だった。

 公爵は何度もしやくめいに来ようとしていたらしいが、シュターゼン伯爵に言い訳は無用と言われ、リリアには取り次ぎすら断られたらしい。

つうに疑われるよね……ある意味、当然といえば当然)

 でも、逆に私は彼のかんを疑っていない。

 こんなにわかりやすい手を使うとは思えないのだ。

 エルゼヴェルトの城の中で、エルゼヴェルトの料理人が作った料理に毒を盛る。そこから導き出される犯人は……あまりにもわかりやすすぎる図式だ。

(公爵が私をねらう理由がないし、そもそも、こんな単純な手は使わないと思う)

 エルゼヴェルト公爵ならば、絶対に自分ではないことを証明できる状況と、絶対に自分が疑われないだろう手段を考え出すだろう。


 両方の報告書でわかった事実……エルルーシアが倒れてすぐに、私の護衛騎士達はこの城の厨房を押さえて、私の朝食に出された残りと残っていた材料をすべて調べたという。

 材料そのものにはまったく異常はなかったらしい。調味料も。

 毒を検出したのは、私の部屋に運んだ『青菜としめじの炒め物』の皿だけ。

 フライパンは洗ってしまった後だったので、調理中に混入したのか、あるいは、調理後、私の部屋に運ばれる間に混入したのかは不明。

 厨房から私の部屋まで『青菜としめじの炒め物』を運んだのはエルルーシア。どうやら侍女達は、自分が運んだものを毒見しているらしい。

(毒物ってどんな形状だったんだろう? ……粉末か……液体か……)

 ろうですれ違いざまに混入とか可能なんだろうか?

 毒物についてはまだ調査中だが、おそらくリギス毒ではないかと書いてある。

 リギスというのは、花はちんつう、葉はちんせいの効果のある薬草だ。広く利用されていて、どこの家庭でも庭にリギスは植えられているし、女の子はよめり道具の一つとしてリギスのはちえを持参するというほどいつぱんてきなもの。

 だが、このリギスの根を腹くだしの特効薬であるラゴラの葉と共にせんじるとおそろしい毒になる。

 しかも何が一番恐ろしいかといえば、そつこうせいではないところ。ないふくしてしばらくは何ともなくても、気付いた時にはもう遅い。吐き出しようがなくなっている。それはやがて内臓をかし、死へといざなう。遺体のはだただれ、時間がつとむらさきはんてんが出るという。

(最初からエルルーシアが標的だったということが、あるんだろうか?)

 私の身代わりでなく、エルルーシア本人が狙われたのだとしたら……と考えてみる。

 明るくわいらしい少女だった。けんの腕もなかなかだったという。いざという時に私のたてとなるよう言いつけられていた。

 でも、何をどう考えても、エルルーシアが私の侍女であったことと無関係とは思えない。

「妃殿下」

 呼びかけられて、意識が現実へと立ち戻る。

 目の前にいたのはシュターゼン伯だ。くつきような身体つきのいかにも武人らしいこの初老の騎士は、なことは口にしない。

 でも、不思議とたよれそうな安心感がある。この人が『ヴェラ』を持つ学者でもあるのが、とても不思議だった。

 北の出だと思われるうすい金のかみ……北のたみぎんぱつあわい色合いの金の髪を持つ者が多い。瞳の色で多いのはあおか水色で、伯爵は水色だ。

(もっと不思議なのは、そんな人材が私の護衛隊長なことだけど)

「妃殿下、王都への帰還の日程表になります」

 膝をつき、両手で差し出す。私はそれを受け取った。

「ありがとう。世話をかけます」

 彼は言葉を発した私にやや驚いたように目を見開いたが、すぐに軽く目礼をして出て行く。急な決定だったので、皆帰還準備にいそがしいのだ。

 目覚めてから侍女達としか接していなかったが、事件の後、護衛騎士達の姿をよく見るようになった。これまではあまり目立たぬように護衛任務についていたようだが、「ついらく事故」「毒殺すい」と続いたために、方針を百八十度てんかんし、あからさまに護衛の姿を見せつけることで半ばかくするようにしたらしい。

(逃げるわけではない)

 ここより安全と思われる王宮に逃げ帰るわけではない。

 ただ、確実に誰かの殺意が向けられている。どんなに考えても、それは否定できなくなった。

 これまで私は、殺意をにんしきできていなかった。狙われていると言われていたのに、おくくしたせいでそれをあまりにも遠いもののように感じていた。

 けれど、今は違う。

(私の、敵)

 私の命を狙っている、敵。

 命が狙われるということを、本当の意味ではまだ理解していないかもしれない。

 でも、自分が今、日常的に危険の中にるということははっきり自覚している。

 職場と家とバイト先を行き来して、時々、誰かと遊びに行ったりったりして、命の危険なんてまったく気にしなかった生活はもう遠い。

(報復をする)

 やられてだまって泣き寝入りするようなかわいらしさなど、私にはない。

 右の?ほおなぐられたら、両?を殴り返す。鹿だとわかっているけれど、売られたケンカは買うタイプだ。

 私が生きていること、それが、一番の報復になるのだろう。

 でも、それだけでは足りない。絶対的に足りない。

(これが正当な怒りじゃなかったとしてもかまわない。八つ当たりでもいい)

 やられたら、やり返す。それは本来正しくない、と心の中でささやく小さな声がある。

 アメリカでおこったテロのことを思い出した。大国がおちいったどろぬま。報復が報復を呼ぶあくじゆんかんスパイラル……負のれん。報復なんて意味がないと重ねて囁く声。

 でも、何もなかったことにはできない。だって、エルルーシアはもうどこにもいない。

(そのくせ、私は弱虫で……この手は、小さすぎて……)

 だから、自分の手でやり返すことができない。たとえどんなににくんだとしても、どんなに殺意を覚えるしゆんかんがあったとしても、二十一世紀の日本でへいぼんに生きてきた人間に人を殺すことは不可能だ。

 私にできること……それは……。

(犯人を明らかにすること)

 これは、実行犯と目されたスープ番の男のことではない。

 彼に代わる別の実行犯がいたとして……その人間のことでもない。

 実行犯にももちろん罪はあるだろう。

 でも、私を殺せと命じた人物────その人こそが、本当の犯人だ。

(命じた人間をほうていに送り込む)

 それが、間接的にしか手を下すことができない私にできる、せいいつぱいの報復だ。

(最終目標が決まったから、まずは情報収集から)

 自分で直接情報を集められないことが歯がゆく、墜落事件の記憶がないのが痛い。

 そもそもアルティリエは、犯人を見ているかもしれないのだ。

 私が覚えていれば、この事件と合わせて一気に解決するかもしれなかったのに。

 推理小説のようにいろんな人に聞いて回れればいいけれど、私がそんなことをすると目立ってしょうがないし、周囲に説明が出来ない。

 実のところ、墜落事件については、最初のうちはもしかしたらアルティリエの自殺の可能性もあるんじゃないかと疑っていた。

(だって……)

 人形姫と呼ばれていた彼女の心のくうきよさを、何となく感じていたからだ。

 はっきりと自分から飛び込んだりしなかったとしても、危ないのをわかっていてそういう場所に行く……そうして自分自身をためすようなことをしたのかもしれない。

 湖の上のバルコニーは風が強い。夜ともなれば尚更だ。アルティリエはすごく体重が軽いから、そこでバランスをくずしたりしてもおかしくない……未必の故意の事故。

(でも、今はそれは絶対ないって言える)

 少しずつ私の中にアルティリエがよみがえるにつれ、そんなことはないと思えるようになっていた。

 アルティリエの心のすべてがわかるわけじゃない。ぼんやりと感じることがあるだけ。

 でも、ちょっと考えてみればわかる。

 浮かび上がってくるアルティリエの知識は、彼女がいつしようけんめい勉強して身につけたものだ。

(何の為に……?)

 それは、彼女が王太子妃に相応ふさわしい自分であろうとした努力のあかしだと思う。

 だとすれば、そんな子が自分から危険な場所に行くはずなどなかった。

 彼女は、自分がダーディニアにとって意味を持つ存在であることをちゃんと理解していたのだから。

 墜落事故は、事故ではなかったのだと今ならはっきり言える。

(だから……私は逃げない)

 逃げ出して安全なところにかくれるつもりもない。

(ただ、ここはアウェーだから、ホームに戻る)

 敵は私を知っているのに、私は敵のかげも形もわからないでいる。

 だいじよう。自分から危険に飛び込んだりはしない。

 アルティリエが重ねてきた努力を、絶対無駄にはしない。

 だって、私は王太子妃なのだから。

(……ただ、降りかかる火の粉を、はらうだけ)

 自己防衛は必須だ。

 それがちょっとじようぼうえいになっても、許される範囲だろう。たぶん。




 翌日、すべてのたくを整えてから、いつもの朝の公爵のあいさつを受けた。

 側でひかえているリリア以外の侍女達は、忙しく荷物を運んでいる。護衛の騎士も背後に立つ二名を除いては、全員準備に追われていた。

「毒殺の危険があったのです。通常の護衛では不十分です。こんなに急にお帰りになられるなど……王都にれんらくし、王太子殿下のご指示をあおがねばなりません」

 王宮に帰ると告げた私に、エルゼヴェルト公爵はもうはんたいした。

 更にいろいろと理由を述べ立てる。

 まあ、気持ちはわかる。このまま釈明できずに帰してしまったら大騒ぎだ。

「帰ります」

 でも私は、はっきりともう一度告げた。

 驚いたように公爵が私を見る。

 アルティリエに、こんな風に意思表示をされたのが初めてだったせいだろう。

 もしかしたら、声が出ることをまだ知らなかったのかもしれない。

「私は、王宮に帰ります」

 公爵のあおい瞳をまっすぐと見て、かえした。

 光の加減で青にも碧にも見える瞳。色みの違うあおが揺れる。

(ああ……)

 私は、自分の瞳の色が、この人からいだ色であることを知った。

「……エルゼヴェルトを、お疑いか?」

 公爵が、声をしぼるようにして問うた。

 目をらすことなく、見返された瞳……初めて、彼と向き合っているのだと思った。

 彼の一言が、並々ならぬ重みをもって発せられたのだと感じる。

 彼は、疲れきっていた。

 身なりには相当づかっているのだろう。短いあごひげはきちんと手入れされているし、はがねの色合いを帯びた黒髪はつややかだ。流行をとりいれた細身のちようはシワ一つない。

 見た目は四十五歳というねんれいよりも若く見えたが、その瞳にはうつろが見える。まるで絶望とあきらめにひたる老人のようだ。

 私は、彼に伝わるようにと願いながら答えた。

「いいえ」

 はっと息を?んだのが、公爵だったのか、それとも侍女や護衛騎士達だったのかはわからない。あるいは、そうほうだったのかもしれない。

 でも、どちらにも、私の答えはちゃんと伝わったとわかった。

 あえて、理由は述べなかった。

 どこに真犯人の目があるかわからない以上、余計なことはしたくない。

 今のところ、まだアウェーにいる私のゆいいつのアドバンテージ。

 ──アルティリエは十二歳の少女だけれど、和泉いずみとして生きてきた三十三年の人生経験値を持っている、ということだ。

 せいぜい、まだ十二歳の世間知らずのお姫様だと思ってめきっていてもらわなければならない。

「わかりました。……ではせめて、息子むすこに護衛をさせることをお許しいただけませんでしょうか」

 公爵はそれ以上を問わなかった。ただ、どこかこんがんするようなこわで言う。

 私は首を傾げた。公爵の息子に護衛が務まるのだろうか?

「公爵のごそく、ディオル様とラエル様は共に東方師団に所属しておられます」

 リリアが問題がないことをそっと教えてくれた。

 ダーディニアの国軍は大まかにわけて六師団。東西南北の各師団に中央師団、それから近衛このえだんだ。これに、各貴族の私兵団がある。エルゼヴェルトは東のかなめだ。公爵の地位から考えて、その息子が東方師団に勤務しているのはおかしなことではない。

「許可します」

 私はうなづいて、立ち上がる。

 公爵は、どこか安堵した表情で一礼した。

 正直、何度会ってもこの人が父という認識は生まれてこない。でも、自分がこの人と血がつながっていることは、何となく感じていた。

「世話になりました」

「いいえ。妃殿下におかれましては、道中、つつがきようおいのり申し上げております」

 公爵がそう言って私の前で道中の無事を祈る聖印をきる。

 私はそれに応えてうなづいた。

 和解したと言える状況ではまったくなかった。

 私は母を想う胸の痛みを忘れることができない。

 けれど、ほんの少しだけ歩み寄った気がしていた。

 たぶんそれは公爵も一緒だったのだろう。

 しゆつたつの際、公爵は外まで私を見送りに来た。


 私の馬車が見えなくなるまでずっと、公爵の姿は城のばしの上にり続けた。




 初めて料理をしたのは、王都への、野宿をなくされた為だった。

 こちらでは、宿しゆくはくせつはそれほど多くない。女子供が中心の旅は歩みもゆっくりだ。来る時は、王都からエルゼヴェルトの城まで十日かかったという。

 王族という高貴な身分で旅慣れぬ幼い私のために、大きな街ばかりを選んで宿泊したからで、そういったことに一切とんちやくしなければ、だいたい五日くらいで着くらしい。早馬で走り通せば三日で充分だという。

 帰途は、エルルーシアの遺体を運んでいることもあって先を急いでいた。予定では、五日は無理でも六~七日程度を考えていた。

 その三日目のこと。順調に半分くらいまで来たところで、私の馬車の車輪がはずれてしまったのだ。よく見ればしやじくっていて、こうかんなくされた。車軸の交換は、時間がかかる。

「このままでは、今日中に次の街に入ることはできません。このあたりには町や村もありませんし……」

 ちょっと大きな街は夜になれば門を閉める。門を閉ざしたら特別な許可がない限り、街の中に入ることは出来ない。

「ですが、妃殿下のお名前で閉ざされた門を開くことは可能です」

 リリアが言葉をえる。

 私は首を横に振った。そういう無理はできるだけしたくなかった。無理を押し通さなければいけない事態でもない。

「今夜は野営となりますが、よろしいですか?」

「はい」

 うなづいた。

 元々、てんまくなどの野営の準備もしている。

 この世界で旅をするというのはよほどお金に余裕がない限り、野宿は当たり前のことだ。あちらで生きていた私などは、ホテルや旅館にまればいいとすぐ考えるけれど、こちらの世界で宿泊施設を利用できるのはそれなりに収入のある者だけだ。

 専門の宿泊施設の数はそれほど多くないし、少し大きな町にならないとない。宿泊施設がない場合は、だいたい皆教会に行く。教会でいくばくかのしやをして、いているしゆぎようしや用の宿しゆくぼうに泊めてもらうのだ。

 私達の一行は、約八十名ほどの大所帯だ。大きな街ではともかく、小さな町では分散したとしても、これだけの人数が宿泊できる場所はない。

 昨日宿泊した町も小さく、私達は教会で休ませてもらったが、騎士達は教会の周囲に天幕を張って休んでいた。彼らにとって野営するのは当然の認識で、私達がまんすれば問題はない。

 づき半ば過ぎの寒い時期だったが、このあたりはそれほど雪深くなる地域ではない。火を絶やさなければ一晩くらいは大丈夫だろう。

 それに私は、毛糸のタイツをはかされ、全面に毛皮の裏打ちのあるフード付きのがいとうを着せられており、更には毛皮のなかじきをしいたブーツまでかされているのだ。完全防寒状態といっていい。

 かいどうから少し入った水辺にほど近いおかが、野営地と決められた。

 かぜけの林もあり、見通しがきく場所だ。

 騎士達は天幕を張ったり、馬の世話をしたりと忙しくしていて、食事のしたくは私の侍女達が中心となって行う。

「妃殿下はこちらでお休みください」

 騎士達が石を積んで簡単なだんを用意してくれて、そのそばに椅子を置いてくれた。

 寝るのは、馬を外した馬車の中。馬車の座席の背もたれを倒してクッションを敷きつめれば簡易ベッドだ。そのわきに、二重になった小さな天幕も用意してくれる。

 荷馬車からは、積んでいたおおなべや野菜などの入った箱がおろされた。

 こうした旅ではすいが多い。宿屋ならともかく、教会や領主館に宿泊することになった場合は、場所を借りて自分達で作るので、材料を多めに準備しておくのが普通なのだそうだ。

「何を作るのですか?」

「主食が軍のけいたい糧食のビスケットなので、スープを添えようかと思います。……りのうまい者が、きじってくれましたし」

 道中、狩りをするのも当たり前。そうでなければ、しんせんな肉類はほとんど口に入らない。

「そう。楽しみね」

 私は小さく笑う。リリアや侍女達が、うれしそうに笑っている。

 笑顔の連鎖。しずみがちな気分が明るくなる。

 私が笑みを見せれば、皆も笑みをかべてくれる。だから、私は笑っていようと思う。

(私にはそれくらいしかできないもの)

 幼く、力もなく、自分のこともよくわかっていない私にできることはそれほど多くない。


(何かこわいなぁ、その手つき)

 小さなナイフで作業しているアリスやジュリアを見ながら、私は軽くまゆをひそめた。

 ダーディニア貴族のおくがたれいじようは、自身で料理をしない。

 料理人と相談してメニューを決めたり、ディナーのさいはいをふるうことはあっても、手ずから料理を作ることはない。これは身分が高くなればなるほどけんちよけいこうだ。

「きゃあ」

「いたっ」

 ジュリアが?いていた芋を落とし、アリスが指を切る。

「何やってるの」

 リリアがあきれ顔になる。さすがにリリアは器用だ。御料牧場の管理者の娘で料理経験のあるミレディと二人でふんとうしている。

 別に料理がかろんじられているわけではない。

 むしろ、こちらでは料理人は高給を得られる専門技能職として認められている。使用人で一番給金が高いのはしつだが、腕のい料理人は、その執事にひつてきするほうきゆうを得ることもあるという。

 貴族の館の料理長ともなれば、地元では名士あつかいだし、農村のびんぼうにんが出世しようと思ったらまず料理人を目指せと言われている。

 ただ、調理設備がそれほど発達しているわけではないため、事故も多い。常に火を使う厨房は危険な場所だから、婦女子に踏み込ませないという騎士道精神から、貴族の奥方や令嬢は、あまり厨房に入らないものとされているらしい。

 市街や農村の人々の間においてはまったく逆で、調理は一家の主婦の大事な仕事で、男はじやをしない為にも厨房には入らないこととされている。

(今日は、時間がかかりすぎるとちょっと不満が出そうだよね……)

 昼のきゆうけいを満足にとれず、皆おなかが減っているだろう。

 騎士達は野営に慣れているのでぎわがよく、既に準備を整えつつある。

 私達はともかく、騎士全員が天幕に入れるわけではない。半数以上が火の側でかたを寄せ合うことになる。せめて、体をしんから温めるようなものを早く食べさせてあげたかった。

「……私もやるわ」

「え?」

「本で読んだ料理があるの。身体が温まる料理。私が作るわ」

 ごめん、本で読んだっていうのは?です。野外でこれだけの人数分を調理するのははじめてだけど、このおぼつかない手つきの侍女達よりはマシだろう。

「え、あ……」

 リリアに何か言われる前にさっさとアリスの使っていたナイフを手にする。

 本当は、おとなしく見ていようと思っていたの。

(だって、それが私の役目だもの)

 でも、何もしないでただ座っているだけなのは苦痛だった。

(私にもできることがある)

 何よりも、久しぶりに料理がしたかった。自分で作りたかったし、自分の好きな味のものを食べたかった。

「アリスは傷の手あてが終わったら、騎士達になべに水をんでもらって」

「はい」

「終わったら、調味料をその板の上に並べて」

 手が動く。小さくなってしまったけれど、ナイフはちゃんと扱える。良かった。指先の感覚はにぶってない。

「そこ、手がいている人がいたらお芋の皮を?いて。にんじんとダーハは?かなくていいかられいに洗って……これくらいの厚みでこんな風に刻んで」







 手持ちぶさたそうな騎士にいちょう切りの見本を見せる。ダーハというのは緑色の大根。味もクセがなくすっきりしていて、見た目も大根そのものなんだけど、色が中まで黄緑というしろものだ。私には、いつかこれでふろふき大根を作りたいという野望がある。

「きのこは軽く洗って。お肉は解体できた? そう。じゃあ、一口サイズに切って」

 この場合、必要なのはスピードだ。

 並べられた調味料を見るとがあった。九州の麦味噌みたいに見える。めてみたら味もよく似ていたし、これはいい! と思った。麦味噌大好き。

(味噌てのきじじるにしよう。しようとネギたっぷりで)

 生姜をたっぷり刻み、半分を味噌と混ぜる。そこにワインで洗い、塩を振った雉肉をけ込む。本当は一時間くらい漬けておきたいけどぜいたくは言えない。

 一行の人数は総勢八十名余り。この人数分を作るのはなかなか労力がいる。

「おわんとか人数分あるのかしら?」

 私の疑問に、かたわらにいた淡い金の髪の人が答えてくれた。

「騎士は携帯りようしよくを常に三食分携帯していますが、糧食が入っているかんふたが皿、容器部分がお椀代わりになるんですよ」

「そうなの? 缶で熱くないの?」

「熱いですよ。でも、ぶくろもありますし、慣れていますから」

 初めて知った! あの缶できもできるそうだ。はんごうみたいなものかも。ちょっと欲しいと思ったのはないしよ。いや、使うチャンスもなさそうだけど。

「あ、これを洗って。それから、そのきのこも洗って。鍋には油を多めに……そう」

 騎士団には料理番の従騎士もいる。今回同行している中では、グレッグとオルという二人。彼らは力がない私の代わりに実際の調理を担当してくれた。

「まずは、生姜を炒めて」

 半分残しておいた生姜に赤とうがらしを刻んだものを混ぜる。

 じゅっという音と冬の夜の空気の中に立ち上るかおりに、皆がこちらに注目しはじめた。

「お肉をいて……味噌を全部入れて炒めて」

 火ががんがんに強くなってくる。味噌がげるこうばしいにおいがした。

 それから、雉肉を炒める。味噌を先に少し焦がしておくのがコツの一つね。

 鍋をかき回している棒が、交換した馬車の車軸に見えて思わずちゆうする。

「ああ、あれはさっきの車軸です。大丈夫です。表面は一通りけずりましたから」

(ちょっと待って! 車軸だよ? 車軸でこれから食べるものかき混ぜているんだよ? なんで平気なの? え? おかしいのは私なの?)

 でも私のしゆんじゆんなんてまったく従騎士達は気付かない。

(いいや、気にするのやめよう。きっと、気にしたら負けだ……)

 次いで、隣の大鍋でがんがんに沸かしていたお湯を注ぎいれる。じゅわーっという音がして、もうれつな湯気が立ち上った。

「あつっ」

「妃殿下っ」

「大丈夫。ちょっとはねただけ。……あ、お野菜を投入して」

 手に滴がとんでびっくりした。私は驚いただけだけど、グレッグとオルはあからさまに顔色を変える。わざわざひざをついて謝罪しようとするのを押しとどめて、次の手順を指示した。こんなのたいしたことないのに。

 野菜が煮えたら、味を見ながら仕上げをする。お玉は普通サイズだった。鍋に落としたらきっとわからなくなってしまうだろう……それくらい鍋は大きい。

 お玉でバケツに入っている塩をがばっとすくって投入する。料理っていうにはあまりにもごうかいすぎるけど、この量では仕方がない。

 最後に白ワインをおおびんで三本。えんりよなく注いだら、シュターゼン伯爵がもったいなさそうな何とも情けない顔をした。どうやらワイン好きらしい。でも、このお酒が味に深みをあたえてくれるんだよ。

「……もう、できたんですか?」

 さっきから待ちかねているきんぱつお兄さんだった。いかにもおぼつちゃん風の育ちの良さ。ついでに、これまで見た中ではピカイチ顔が良い。

 アリスやジュリアがさっきから意識しているのが丸わかりだ。

「ええ。あ、食べる前に好みでネギをいれて」

 あれ? もしかして、この人、あれじゃないだろうか……えーと、護衛につけられた私の三番目のお異母兄にいさん。

「あの……」

「妃殿下、これ、うまいです。どこの料理ですか?」

「えーと……本で読んだの。生姜をたっぷりいれると身体が温まるって書いてあったからちょうどいいと思って……」

 確認しようとしていたら、知らない誰かから声をかけられる。名前が思い浮かばないから、エルゼヴェルトの騎士かもしれない。彼に答えている間に、兄らしき人の姿は視界から消えてしまった。今度見た時は忘れずにお礼を言おう。

 夜の中に広がる温かな匂いのせいで、ぎようが良いはずの騎士達がかんせいをあげて鍋に群がってくる。

「……妃殿下、これ、すごくおいしいですわ」

 おそるおそる口にしたリリアが目を丸くしている。いつの間にかリリアは、私をもう姫とは呼ばなくなっていた。

 いつからかな、と思ったけどちょっと思い出せない。

 妃殿下と改まって呼ばれていても、何となく前より気持ち的には近い気がしている。

「良かった」

「妃殿下に料理の心得があるとは存じませんでした」

「心得というほどのものでもありません」

 シュターゼン伯の言葉に、笑みを返す。

 伯爵の顔が少し赤く染まったのは、火の照り返しじゃないはずだ。

(美少女の満面の笑顔って、すごいりよくだな)

 おかげでそれ以上追及されなかった。

 ……私がわかる範囲では、アルティリエにはないからね、料理の心得。

 本で読んだ知識ということで押し通そう。幸い、アルティリエがよく本を読んでいる子だというのは周知の事実のようだし。

 あちらこちらで、うまい、とか、よくわからないたけびがあがってる。

 どうやら味噌仕立ての雉汁の味付けは、大成功のようだ。私はこういう野外でのちからわざ系の料理はそんなに得意じゃないけれど、うまくいって良かった。

「殿下、どうぞおし上がりください」

 私の分もわんによそわれて運ばれてくる。添えられたさじていねいな仕事のされたもので手によくんで使いやすい。

 本当は銀のカトラリーよりもこっちの方が食べやすいのだけど、毒の混入予防もねているからあれはあれで仕方がない。

 あつあつの汁をふーふー言いながら食べるのはすごくおいしい。こうして、火のそばで皆で集まっているのもそれに輪をかけている。

 考えてみれば、こちらで目覚めてから誰かと一緒にごはんを食べるのは初めてだ。

 椅子にこしけているのは私だけで、あとは皆、切り株をもってきたり、石に座っていたり、地面に木の枝を敷いたりして座っている。

 身分の違い、というものをあからさまにたりにする。

 私は今後これを、当然のものとして受け入れなくてはいけない。

 でも、それでも、エルゼヴェルトの城にいた時よりもずっと皆を近く感じていた。

「……皆で食べるとおいしい」

 誰に告げることもなしにつぶやいた言葉に、隣に座るシュターゼン伯が目を細めた。

(忘れないでおこう……)

 赤々と燃えるほのお、立ち上るいい香りの湯気、陽気な騎士達のざわめき。

 きっと、こんな機会はそうそうないから。

 王都に着けば、今回のためだけに組織された護衛隊は解散される。

 リリアのお酒でほんのり赤く染まった顔、ジュリアのおかわりする時の笑顔にアリスとミレディのないしよばなしをしている顔。エルルーシアの姿がここにないことに胸が痛む。

 でも、すごく温かいその光景は、見ているだけで楽しかった。

 だから、ずっと忘れないでおこうと思う……きっと、思い出すたびに胸を温めてくれる記憶になるだろう。


 シュターゼン伯爵以下三十名の護衛隊の騎士が、国王陛下の許可を得て私に剣をささげたのは、王都に帰ってすぐのことだった。

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