第二章 王都帰還
「
せわしなくやってきたリリアは、私の前で一礼すると、改まった様子で口を開いた。
どこか
でも、次のリリアの一言で、頭から氷水をかぶったように一気に
「エルルーシアが
「原因は、昨日の朝食です」
私の食事は、
これは、生家であろうとも……いや、生家であるからこそかもしれない……信用できないという王家の
何の料理に毒が盛られたかを知るために、彼女達はそれぞれ食べる料理を別にしている。問題となったのは、
「医師を呼んだ時にはもう遅く、しばらく腹痛を訴え、昼過ぎに息を引き取りました」
リリアの言葉がどこか遠く響く。
椅子に座っているはずなのに、自分がどうしているのかもよくわからない。
五感のすべてが、一気に
「まだ何の毒を使ったかまではわかっておりませんが、おそらく
(それくらい、医者じゃない私にだってわかる)
役立たず、と
心を落ち着けるために、深呼吸を何度もした。
冷静にならなければいけない。
自分に何度も言い聞かせる……なのに、
(……わかっている)
この怒りは正しくない。
自分でも気付いていた。
エルルーシアの命を奪った犯人に対する怒りは、確かに存在する。
でも、それだけじゃない。
私は……エルルーシアが苦しんでいた時、ただのうのうと寝ていたことが許せなかった。
起きていたからといって何ができたというわけではなかっただろう。
それでも……何も知らずに寝こけていた自分に腹が立ったのだ。
(どうして……)
胸に、
何でこんなことが起こったのかと何度も何度も自問した。
……でも、救いようがないことに気付いてしまって、
(あの浅蜊事件がなければ、私も食べていたかもしれない)
浅蜊のスープに毒物が混入されていなかったことは、私が一番良く知っていた。
あの
食べなくて良かった。と、ホッとしている自分に気がついて、そのあまりのエゴイストぶりに言葉を失った。
エルルーシアは私のために毒見をしたせいで死んでしまったのに、助かったことを……食べなかったことに
己が助かったことを喜ぶのは当たり前かもしれない。でも、そんな自分が
(ごめんなさい……)
エルルーシアがこんな風に命を落とす理由はなかった。殺される理由なんて、彼女には
(ごめんなさい、エルルーシア)
私の侍女だったことが、彼女を死に追いやった。
目を大きく見開き……そして、涙がこぼれた。
「姫さま……」
リリアをはじめとする侍女達が、
アルティリエはたぶん、人前で泣いたことなどなかっただろう。貴族の子女は、人前で感情をあらわさないことを美徳として
でも、涙を止められなかった。
それから、たった六日分しか知らないエルルーシアのことを思い出す。
私に笑いかけた顔、
なのに、もう彼女はいない。
(死ぬ、ということ)
それは、すべてが思い出になってしまうことなのだと、あちらの世界で両親や祖父母を送ってきた私は知っている。
「エルルーシアは
侍女達は、泣かなかった。
でも、
目元をこする。
(泣いたらダメ……)
頭ではちゃんとわかっている。わかっているけど、涙は止まらない。
だから私は、侍女達に背を向けた。泣いている顔を
バルコニーの外に立ってこちらを見ていた
私は
これは、泣いているわけじゃない。
胸の前で手を組み……
これは、
私は、この時初めて、本当の意味で自分が
この世界では、こんなにもあっさりと命が奪われてしまうのだ。
「……帰る」
言葉が、口をついて出た。
「姫さま、お声が……」
リリアや他の侍女達が目を見開く。
「エルルーシアを連れて、帰る」
目元をこすり、皆のほうを振り向いた。
明確に紡がれた言葉に、リリアが驚愕の表情で私を見ていた。
顔をあげた私は、リリアの瞳をまっすぐ見返す。
たぶんこの時、私は決めたのだ。
はっきりと理解していたわけではなかったけれど────この国で生きていくことを。
「かしこまりました」
リリアは
犯人は、
(本当にそうかはわからない)
そう。
エルルーシアが
エルルーシアと同じ毒だったという。
(死人に口なし……)
彼が犯人であるという確たる
彼の無実を証明することはできずとも、彼が犯人であると判断することは
司法官の言葉一つで、彼は
まるで、
死者は弁明できない。後は、周囲が勝手に彼が
貧しかったこと。
借金があって金を必要としていたこと。
金が欲しいと周囲に
どこにでもある、特別に怪しむべきことではない話。
でも、とるに足らぬそれらの一つ一つの話が積み重なると、彼が犯人であってもおかしくないように思える。ましてや、司法官がそれを公言しているから
(思い込みは強力だ)
たとえ、それが『真実』ではなくとも、そう思い込んでいる人にとっては、それこそが『真実』だ。そして、人はそれを『真実』として語り、それを聞いた人は疑いもせず信じてしまうだろう。
司法官は本当に彼が犯人だと思っているのか、あるいはそう思い込ませようとしているのか、判断が
もう一通の報告書は、私の護衛隊から提出されたもの。
ここはエルゼヴェルト領内なので、この報告書は公文書ではなく非公式なものになる。
報告者の名はナジェック=ラジェ=ヴェラ=ヴィスタール=シュターゼン
彼は、私の護衛隊長にして、司法官の有資格者だ。
司法官というのは、裁判官と警察官の権限をも与えられている専門資格者で、『ヴェラ』という
大学を卒業した人間は全員が司法官となれるので、いつの間にか司法官も『ヴェラ』と呼ばれるようになった。
この大陸のどこの国に行っても、『ヴェラ』を取得していれば、高位の公職に就くことができる。例え、元が
西方の大国ローランド
大学を卒業しただけでなぜ法律の専門家になれるのかが不思議だったけれど、こちらでいうところの『大学』のシステムを知って
入学資格は、『満三十歳未満の入学試験に受かった者』というだけで、身分や地位、性別などの制限は
ただ、入学試験の
試験科目は
年によっては合格者が
法律は国によって違うものだが、基本は『大陸法』と呼ばれる旧統一帝國法だ。大学の学生はダーディニアを含む五大国の法律のすべてを学ぶ。法律・歴史・言語の必須三科目において可を得なければ専門課程には進めないし、卒業など夢のまた夢だ。
上級教育機関として王立学院もあるが、どこの国でも王立学院は
地位や身分や権力に
それが、こちらの大学だ。
あくまでも実力主義で、どんなに身分が高くとも、どれほど金を積もうとも、自力で入学試験に合格しなければ、足を踏み入れることすら許されない。
実は、私の夫であるナディル王太子
現在、大陸全土で『ヴェラ』を持つ王子は他にいない。
話を報告書に戻そう。
当然のことだが、シュターゼン
だから、同じ事実を書いていてもまったく印象が違っていた。
伯爵の報告書から浮かび上がるのは、貧しい農村の
農村の農民階級ならば貧しいのは誰でも
お金が欲しいというのが
ゆえに、スープ番の料理人が犯人だと断定するのは
光の当て方で見える景色が変わるように、視点が違えば浮かび上がる事実も違う。
弁明をする本人は、もういない。
彼の為に反論してくれる人もいない。
今はまだ証拠はなく、状況証拠による
そんなもの、後から放りこんだってわからないのに。
(……あるいは、本当に関わっていたのかもしれない)
私が疑いすぎなのかもしれない。
疑わしいとされる証拠をたくさんつきつけられても何か
あのあさりのスープの出来は、絶賛するにはちょっともの足りなかった。
でも、技術的にはしっかりしていたと思う。
浅蜊自体はおいしく処理できていた。砂もきちんと
ガスがあるわけではない。レンジやタイマーがあるわけでもない。おそらくは
あのスープの出来からして、何か余計なことをしている
(スープの火口はオーブンの
厨房にいた人間なら毒を投入するチャンスはいくらでもあると思うかもしれないが、報告書の貝取り図によれば、スープを作っていた一角と、炒め物を作っていた一角が離れすぎている。しかも、間にはパン窯があって、そこにも担当の人間がいた。
実際、彼が炒め物を作っていたストーブ
盛り付けた後に入れるのもほとんど不可能だ。できあがってすぐに運んだとなっているし、彼が近づいたという証言もない。
当時、
すべての作業を
(なんだか、こんがらがりそう……)
考えることがいっぱいあった。
何も考えずに生きてきたつもりはないけれど、こちらで目覚めてから、ものすごく頭を使っている気がする。
司法官が半ば彼を犯人扱いしていることで、エルゼヴェルト
(スープ番の人の家は、先祖代々、公爵家の小作農か……)
小作農と領主の関係は、自主的に従う
彼が公爵の命により、それを実行したと見なすことは極めて自然だった。
公爵は何度も
(
でも、逆に私は彼の
こんなにわかりやすい手を使うとは思えないのだ。
エルゼヴェルトの城の中で、エルゼヴェルトの料理人が作った料理に毒を盛る。そこから導き出される犯人は……あまりにもわかりやすすぎる図式だ。
(公爵が私を
エルゼヴェルト公爵ならば、絶対に自分ではないことを証明できる状況と、絶対に自分が疑われないだろう手段を考え出すだろう。
両方の報告書でわかった事実……エルルーシアが倒れてすぐに、私の護衛騎士達はこの城の厨房を押さえて、私の朝食に出された残りと残っていた材料をすべて調べたという。
材料そのものにはまったく異常はなかったらしい。調味料も。
毒を検出したのは、私の部屋に運んだ『青菜としめじの炒め物』の皿だけ。
フライパンは洗ってしまった後だったので、調理中に混入したのか、あるいは、調理後、私の部屋に運ばれる間に混入したのかは不明。
厨房から私の部屋まで『青菜としめじの炒め物』を運んだのはエルルーシア。どうやら侍女達は、自分が運んだものを毒見しているらしい。
(毒物ってどんな形状だったんだろう? ……粉末か……液体か……)
毒物についてはまだ調査中だが、おそらくリギス毒ではないかと書いてある。
リギスというのは、花は
だが、このリギスの根を腹くだしの特効薬であるラゴラの葉と共に
しかも何が一番恐ろしいかといえば、
(最初からエルルーシアが標的だったということが、あるんだろうか?)
私の身代わりでなく、エルルーシア本人が狙われたのだとしたら……と考えてみる。
明るく
でも、何をどう考えても、エルルーシアが私の侍女であったことと無関係とは思えない。
「妃殿下」
呼びかけられて、意識が現実へと立ち戻る。
目の前にいたのはシュターゼン伯だ。
でも、不思議と
北の出だと思われる
(もっと不思議なのは、そんな人材が私の護衛隊長なことだけど)
「妃殿下、王都への帰還の日程表になります」
膝をつき、両手で差し出す。私はそれを受け取った。
「ありがとう。世話をかけます」
彼は言葉を発した私にやや驚いたように目を見開いたが、すぐに軽く目礼をして出て行く。急な決定だったので、皆帰還準備に
目覚めてから侍女達としか接していなかったが、事件の後、護衛騎士達の姿をよく見るようになった。これまではあまり目立たぬように護衛任務についていたようだが、「
(逃げるわけではない)
ここより安全と思われる王宮に逃げ帰るわけではない。
ただ、確実に誰かの殺意が向けられている。どんなに考えても、それは否定できなくなった。
これまで私は、殺意を
けれど、今は違う。
(私の、敵)
私の命を狙っている、敵。
命が狙われるということを、本当の意味ではまだ理解していないかもしれない。
でも、自分が今、日常的に危険の中に
職場と家とバイト先を行き来して、時々、誰かと遊びに行ったり
(報復をする)
やられてだまって泣き寝入りするようなかわいらしさなど、私にはない。
右の
私が生きていること、それが、一番の報復になるのだろう。
でも、それだけでは足りない。絶対的に足りない。
(これが正当な怒りじゃなかったとしてもかまわない。八つ当たりでもいい)
やられたら、やり返す。それは本来正しくない、と心の中で
アメリカでおこったテロのことを思い出した。大国が
でも、何もなかったことにはできない。だって、エルルーシアはもうどこにもいない。
(そのくせ、私は弱虫で……この手は、小さすぎて……)
だから、自分の手でやり返すことができない。たとえどんなに
私にできること……それは……。
(犯人を明らかにすること)
これは、実行犯と目されたスープ番の男のことではない。
彼に代わる別の実行犯がいたとして……その人間のことでもない。
実行犯にももちろん罪はあるだろう。
でも、私を殺せと命じた人物────その人こそが、本当の犯人だ。
(命じた人間を
それが、間接的にしか手を下すことができない私にできる、
(最終目標が決まったから、まずは情報収集から)
自分で直接情報を集められないことが歯がゆく、墜落事件の記憶がないのが痛い。
そもそもアルティリエは、犯人を見ているかもしれないのだ。
私が覚えていれば、この事件と合わせて一気に解決するかもしれなかったのに。
推理小説のようにいろんな人に聞いて回れればいいけれど、私がそんなことをすると目立ってしょうがないし、周囲に説明が出来ない。
実のところ、墜落事件については、最初のうちはもしかしたらアルティリエの自殺の可能性もあるんじゃないかと疑っていた。
(だって……)
人形姫と呼ばれていた彼女の心の
はっきりと自分から飛び込んだりしなかったとしても、危ないのをわかっていてそういう場所に行く……そうして自分自身を
湖の上のバルコニーは風が強い。夜ともなれば尚更だ。アルティリエはすごく体重が軽いから、そこでバランスを
(でも、今はそれは絶対ないって言える)
少しずつ私の中にアルティリエが
アルティリエの心のすべてがわかるわけじゃない。ぼんやりと感じることがあるだけ。
でも、ちょっと考えてみればわかる。
浮かび上がってくるアルティリエの知識は、彼女が
(何の為に……?)
それは、彼女が王太子妃に
だとすれば、そんな子が自分から危険な場所に行くはずなどなかった。
彼女は、自分がダーディニアにとって意味を持つ存在であることをちゃんと理解していたのだから。
墜落事故は、事故ではなかったのだと今ならはっきり言える。
(だから……私は逃げない)
逃げ出して安全なところに
(ただ、ここはアウェーだから、ホームに戻る)
敵は私を知っているのに、私は敵の
アルティリエが重ねてきた努力を、絶対無駄にはしない。
だって、私は王太子妃なのだから。
(……ただ、降りかかる火の粉を、
自己防衛は必須だ。
それがちょっと
翌日、すべての
側で
「毒殺の危険があったのです。通常の護衛では不十分です。こんなに急にお帰りになられるなど……王都に
王宮に帰ると告げた私に、エルゼヴェルト公爵は
更にいろいろと理由を述べ立てる。
まあ、気持ちはわかる。このまま釈明できずに帰してしまったら大騒ぎだ。
「帰ります」
でも私は、はっきりともう一度告げた。
驚いたように公爵が私を見る。
アルティリエに、こんな風に意思表示をされたのが初めてだったせいだろう。
もしかしたら、声が出ることをまだ知らなかったのかもしれない。
「私は、王宮に帰ります」
公爵の
光の加減で青にも碧にも見える瞳。色みの違うあおが揺れる。
(ああ……)
私は、自分の瞳の色が、この人から
「……エルゼヴェルトを、お疑いか?」
公爵が、声を
目を
彼の一言が、並々ならぬ重みをもって発せられたのだと感じる。
彼は、疲れきっていた。
身なりには相当
見た目は四十五歳という
私は、彼に伝わるようにと願いながら答えた。
「いいえ」
はっと息を
でも、どちらにも、私の答えはちゃんと伝わったとわかった。
あえて、理由は述べなかった。
どこに真犯人の目があるかわからない以上、余計なことはしたくない。
今のところ、まだアウェーにいる私の
──アルティリエは十二歳の少女だけれど、
せいぜい、まだ十二歳の世間知らずのお姫様だと思って
「わかりました。……ではせめて、
公爵はそれ以上を問わなかった。ただ、どこか
私は首を傾げた。公爵の息子に護衛が務まるのだろうか?
「公爵のご
リリアが問題がないことをそっと教えてくれた。
ダーディニアの国軍は大まかにわけて六師団。東西南北の各師団に中央師団、それから
「許可します」
私はうなづいて、立ち上がる。
公爵は、どこか安堵した表情で一礼した。
正直、何度会ってもこの人が父という認識は生まれてこない。でも、自分がこの人と血がつながっていることは、何となく感じていた。
「世話になりました」
「いいえ。妃殿下におかれましては、道中、
公爵がそう言って私の前で道中の無事を祈る聖印をきる。
私はそれに応えてうなづいた。
和解したと言える状況ではまったくなかった。
私は母を想う胸の痛みを忘れることができない。
けれど、ほんの少しだけ歩み寄った気がしていた。
たぶんそれは公爵も一緒だったのだろう。
私の馬車が見えなくなるまでずっと、公爵の姿は城の
初めて料理をしたのは、王都への
こちらでは、
王族という高貴な身分で旅慣れぬ幼い私のために、大きな街ばかりを選んで宿泊したからで、そういったことに一切
帰途は、エルルーシアの遺体を運んでいることもあって先を急いでいた。予定では、五日は無理でも六~七日程度を考えていた。
その三日目のこと。順調に半分くらいまで来たところで、私の馬車の車輪がはずれてしまったのだ。よく見れば
「このままでは、今日中に次の街に入ることはできません。このあたりには町や村もありませんし……」
ちょっと大きな街は夜になれば門を閉める。門を閉ざしたら特別な許可がない限り、街の中に入ることは出来ない。
「ですが、妃殿下のお名前で閉ざされた門を開くことは可能です」
リリアが言葉を
私は首を横に振った。そういう無理はできるだけしたくなかった。無理を押し通さなければいけない事態でもない。
「今夜は野営となりますが、よろしいですか?」
「はい」
うなづいた。
元々、
この世界で旅をするというのはよほどお金に余裕がない限り、野宿は当たり前のことだ。あちらで生きていた私などは、ホテルや旅館に
専門の宿泊施設の数はそれほど多くないし、少し大きな町にならないとない。宿泊施設がない場合は、だいたい皆教会に行く。教会で
私達の一行は、約八十名ほどの大所帯だ。大きな街ではともかく、小さな町では分散したとしても、これだけの人数が宿泊できる場所はない。
昨日宿泊した町も小さく、私達は教会で休ませてもらったが、騎士達は教会の周囲に天幕を張って休んでいた。彼らにとって野営するのは当然の認識で、私達が
それに私は、毛糸のタイツをはかされ、全面に毛皮の裏打ちのあるフード付きの
騎士達は天幕を張ったり、馬の世話をしたりと忙しくしていて、食事のしたくは私の侍女達が中心となって行う。
「妃殿下はこちらでお休みください」
騎士達が石を積んで簡単な
寝るのは、馬を外した馬車の中。馬車の座席の背もたれを倒してクッションを敷きつめれば簡易ベッドだ。そのわきに、二重になった小さな天幕も用意してくれる。
荷馬車からは、積んでいた
こうした旅では
「何を作るのですか?」
「主食が軍の
道中、狩りをするのも当たり前。そうでなければ、
「そう。楽しみね」
私は小さく笑う。リリアや侍女達が、
笑顔の連鎖。
私が笑みを見せれば、皆も笑みを
(私にはそれくらいしかできないもの)
幼く、力もなく、自分のこともよくわかっていない私にできることはそれほど多くない。
(何かこわいなぁ、その手つき)
小さなナイフで作業しているアリスやジュリアを見ながら、私は軽く
ダーディニア貴族の
料理人と相談してメニューを決めたり、ディナーの
「きゃあ」
「いたっ」
ジュリアが
「何やってるの」
リリアが
別に料理が
むしろ、こちらでは料理人は高給を得られる専門技能職として認められている。使用人で一番給金が高いのは
貴族の館の料理長ともなれば、地元では名士
ただ、調理設備がそれほど発達しているわけではないため、事故も多い。常に火を使う厨房は危険な場所だから、婦女子に踏み込ませないという騎士道精神から、貴族の奥方や令嬢は、あまり厨房に入らないものとされているらしい。
市街や農村の人々の間においてはまったく逆で、調理は一家の主婦の大事な仕事で、男は
(今日は、時間がかかりすぎるとちょっと不満が出そうだよね……)
昼の
騎士達は野営に慣れているので
私達はともかく、騎士全員が天幕に入れるわけではない。半数以上が火の側で
「……私もやるわ」
「え?」
「本で読んだ料理があるの。身体が温まる料理。私が作るわ」
ごめん、本で読んだっていうのは?です。野外でこれだけの人数分を調理するのははじめてだけど、この
「え、あ……」
リリアに何か言われる前にさっさとアリスの使っていたナイフを手にする。
本当は、おとなしく見ていようと思っていたの。
(だって、それが私の役目だもの)
でも、何もしないでただ座っているだけなのは苦痛だった。
(私にもできることがある)
何よりも、久しぶりに料理がしたかった。自分で作りたかったし、自分の好きな味のものを食べたかった。
「アリスは傷の手あてが終わったら、騎士達に
「はい」
「終わったら、調味料をその板の上に並べて」
手が動く。小さくなってしまったけれど、ナイフはちゃんと扱える。良かった。指先の感覚は
「そこ、手が
手持ちぶさたそうな騎士にいちょう切りの見本を見せる。ダーハというのは緑色の大根。味もクセがなくすっきりしていて、見た目も大根そのものなんだけど、色が中まで黄緑という
「きのこは軽く洗って。お肉は解体できた? そう。じゃあ、一口サイズに切って」
この場合、必要なのはスピードだ。
並べられた調味料を見ると
(味噌
生姜をたっぷり刻み、半分を味噌と混ぜる。そこにワインで洗い、塩を振った雉肉を
一行の人数は総勢八十名余り。この人数分を作るのはなかなか労力がいる。
「お
私の疑問に、かたわらにいた淡い金の髪の人が答えてくれた。
「騎士は携帯
「そうなの? 缶で熱くないの?」
「熱いですよ。でも、
初めて知った! あの缶で
「あ、これを洗って。それから、そのきのこも洗って。鍋には油を多めに……そう」
騎士団には料理番の従騎士もいる。今回同行している中では、グレッグとオルという二人。彼らは力がない私の代わりに実際の調理を担当してくれた。
「まずは、生姜を炒めて」
半分残しておいた生姜に赤とうがらしを刻んだものを混ぜる。
じゅっという音と冬の夜の空気の中に立ち上る
「お肉を
火ががんがんに強くなってくる。味噌が
それから、雉肉を炒める。味噌を先に少し焦がしておくのがコツの一つね。
鍋をかき回している棒が、交換した馬車の車軸に見えて思わず
「ああ、あれはさっきの車軸です。大丈夫です。表面は一通り
(ちょっと待って! 車軸だよ? 車軸でこれから食べるものかき混ぜているんだよ? なんで平気なの? え? おかしいのは私なの?)
でも私の
(いいや、気にするのやめよう。きっと、気にしたら負けだ……)
次いで、隣の大鍋でがんがんに沸かしていたお湯を注ぎいれる。じゅわーっという音がして、
「あつっ」
「妃殿下っ」
「大丈夫。ちょっとはねただけ。……あ、お野菜を投入して」
手に滴がとんでびっくりした。私は驚いただけだけど、グレッグとオルはあからさまに顔色を変える。わざわざ
野菜が煮えたら、味を見ながら仕上げをする。お玉は普通サイズだった。鍋に落としたらきっとわからなくなってしまうだろう……それくらい鍋は大きい。
お玉でバケツに入っている塩をがばっとすくって投入する。料理っていうにはあまりにも
最後に白ワインを
「……もう、できたんですか?」
さっきから待ちかねている
アリスやジュリアがさっきから意識しているのが丸わかりだ。
「ええ。あ、食べる前に好みでネギをいれて」
あれ? もしかして、この人、あれじゃないだろうか……えーと、護衛につけられた私の三番目のお
「あの……」
「妃殿下、これ、うまいです。どこの料理ですか?」
「えーと……本で読んだの。生姜をたっぷりいれると身体が温まるって書いてあったからちょうどいいと思って……」
確認しようとしていたら、知らない誰かから声をかけられる。名前が思い浮かばないから、エルゼヴェルトの騎士かもしれない。彼に答えている間に、兄らしき人の姿は視界から消えてしまった。今度見た時は忘れずにお礼を言おう。
夜の中に広がる温かな匂いのせいで、
「……妃殿下、これ、すごくおいしいですわ」
おそるおそる口にしたリリアが目を丸くしている。いつの間にかリリアは、私をもう姫とは呼ばなくなっていた。
いつからかな、と思ったけどちょっと思い出せない。
妃殿下と改まって呼ばれていても、何となく前より気持ち的には近い気がしている。
「良かった」
「妃殿下に料理の心得があるとは存じませんでした」
「心得というほどのものでもありません」
シュターゼン伯の言葉に、笑みを返す。
伯爵の顔が少し赤く染まったのは、火の照り返しじゃないはずだ。
(美少女の満面の笑顔って、すごい
おかげでそれ以上追及されなかった。
……私がわかる範囲では、アルティリエにはないからね、料理の心得。
本で読んだ知識ということで押し通そう。幸い、アルティリエがよく本を読んでいる子だというのは周知の事実のようだし。
あちらこちらで、うまい、とか、よくわからない
どうやら味噌仕立ての雉汁の味付けは、大成功のようだ。私はこういう野外での
「殿下、どうぞお
私の分も
本当は銀のカトラリーよりもこっちの方が食べやすいのだけど、毒の混入予防も
あつあつの汁をふーふー言いながら食べるのはすごくおいしい。こうして、火のそばで皆で集まっているのもそれに輪をかけている。
考えてみれば、こちらで目覚めてから誰かと一緒にごはんを食べるのは初めてだ。
椅子に
身分の違い、というものをあからさまに
私は今後これを、当然のものとして受け入れなくてはいけない。
でも、それでも、エルゼヴェルトの城にいた時よりもずっと皆を近く感じていた。
「……皆で食べるとおいしい」
誰に告げることもなしにつぶやいた言葉に、隣に座るシュターゼン伯が目を細めた。
(忘れないでおこう……)
赤々と燃える
きっと、こんな機会はそうそうないから。
王都に着けば、今回のためだけに組織された護衛隊は解散される。
リリアのお酒でほんのり赤く染まった顔、ジュリアのおかわりする時の笑顔にアリスとミレディの
でも、すごく温かいその光景は、見ているだけで楽しかった。
だから、ずっと忘れないでおこうと思う……きっと、思い出すたびに胸を温めてくれる記憶になるだろう。
シュターゼン伯爵以下三十名の護衛隊の騎士が、国王陛下の許可を得て私に剣を
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