第一章 わたしの事情
(……知らない
ぼんやりと意識が
(知ってる星座がないなぁ……)
のんびりとそんなことを考えて、それからそんな場合じゃないとハッとした。
(えーと、あれってたぶん、私、事故に
頭が急速に回転をはじめる。
(いや、いや、いや、考えていても仕方ない……とりあえず看護師さんを呼ぼう)
ナースコールのスイッチを探そうとベッドに起き上がって
「……すご……」
天井だと思っていたのは
私が
「……あれ?」
ふと気付いた。
(私の手、小さくない?)
手が小さく、
そっと
(ち、縮んだの? 私)
そう思いつつ、頭のどこかにまったく違う
(……まさか……)
大丈夫、と自分に言い聞かせ、光を柔らかく透かす
(あ、これ、絶対に病院じゃない。……っていうか、日本ですらないかもしれない)
ちょっとしたホールくらいはありそうな広い室内……大きくとった窓からはレースのカーテン
(……天井、高い)
何とも
(なんか、ものすごくイヤな予感がする)
いや、ずっと頭の隅から消えることがない疑惑、の方が正しいかもしれない。
(……ううん。そんなこと、ない)
考えろ、自分に言い聞かせる。
だって、そんなことあるはずがない。
何度も何度も、
でも、何度見ても変わらないのだ。
(子供の、手)
ほっそりした……小さな手。指が長く、とても白い。
小さいころに不用意にオーブンを
(私……)
だから、その可能性を考えないわけにはいかなかった。
(……死んだのかもしれない)
──────あの夜に。
『死』を思ったら、何かひやりとしたものが胸にさし
それから
でも、そうしたら
(……
私が交通事故に遭ったのはほぼ確定している。そして、あの
(………やっぱり、そうなのかもしれない)
感覚は、『もしかして』と『やっぱり』の間をめまぐるしく行き来する。
(う、生まれ変わりとか……そんな感じ……?)
だって、『私』の意識があるのは絶対だ。
でも、この身体は『
だとすると、生まれ変わった自分っていうのが真っ先に思い当たる。
(いや、それはない。絶対ない! ……いや、でも、子供になってるっぽいし。……もしかして、夢、とか……)
でも、ふかふかのベッドに
(夢ならば、いつかは覚めるはず……)
私はそこで、ぎゅっと目を
でも、どれだけ時間が
(ゆ、勇気を出そう……)
もう一度
ふかふかの
直射日光の
(とどめは、このお姫様ベッドか……)
明るめの色合いの木材で、天蓋の柱部分には
本当にステキなベッドで、こんな状況じゃなければ思いっきり
(外国というより、ファンタジー小説とかそういう物語の中に入りこんだみたい)
私はその
ここではない……現実ではない世界の物語。
けれど、それはあくまでも物語だからだ。
こんな風に物語の中に入りこむような状況を望んでいたわけじゃない。
(部屋の感じとしては、イギリスとかフランスとかの古いお
この部屋は、英国旅行した時に見学したカントリーハウスの一室のような、豪奢で
ふと、正面の
くすんだ金色の
(うわー、
年齢は十二、三歳くらい。淡い金の髪に青い
首を
半信半疑で手をあげた。
絵の女の子も手をあげた。
舌を出してみた。
絵の中の女の子も舌を出した。
……訂正、絵じゃない。鏡だ。
「ええええええええええっ───────」
私は盛大な
目が覚めて、三日目の朝がきた。私がどんなに現実
(やっぱり、だめか……)
どうやら夢オチで終わるようなお手軽なケースではなかったらしい。
この三日の間に、いろいろなことがわかった。
まず、今の私は、
アルティリエ・ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーディエ。
この国の貴族の中の貴族とでもいうような
そしてここは、外国どころじゃなくて、異世界だった。
異世界……異なる世界。
本当に、その通りだった。ここは私が生まれた日本ではなく、あの日本があった世界ですらない。目が覚めてから三日しかたってないけれど、でもここが、私の
なぜかといえば、ここには電気がない。
あちらの世界にも、もちろん電気がひかれていない場所はあった。でもそれは、技術的な……あるいはコストパフォーマンス的な問題でひくことができないという意味でだ。
少なくともこの室内の文化水準の場所でひくことができないということはありえない。
ない、というのは文字通りない……存在しないということで、電気がないから、当然エアコンやテレビやオーディオ、照明などの各種電化製品も存在しない。
何しろ、この部屋のシャンデリアは油で
照明が
何かするたびにカルチャーショックの連続なので、変な話、ショックを受けるのにもだんだんと慣れつつあるけれど。
「姫様、お目覚め……あら、もう
入ってきたのは
私はその言葉にこくりとうなづいた。
自分一人で着られる服はそれほど多くないので
(すごく大変だったけど)
あまり
リリアはそっと、私の
彼女は、私についている侍女のまとめ役のようなものをしている。護衛の
私の侍女達は皆、シンプルでシルエットの美しい黒いベルベットのワンピースを着ているのですぐわかる。
「朝食はこちらにお持ちしますか?」
もう一度うなづいた。
リリアはかしこまりました、と言って私の前から下がる。
その姿が
状況がよく飲み込めるまでは口を開かないようにしようと思ったのは、我ながらなかなか良い判断だったと思う。けれど、
大事になってしまって口を開くタイミングを
(まさか、ここまで
私の置かれている状況や周囲の事情がだいぶわかってから、ちょっとまずかったかもしれないとは思ったけれど、でも……やっぱり、だんまりを決め込む以外に手段はないような気もする。
(……たぶん私は、殺されかけたのだと思うから……)
あちらの世界で私が交通事故に遭ったように、こちらの世界でアルティリエは、バルコニーから落ちたらしい。『らしい』としか言えないのは、私がそれを覚えていない為だ。
現在の私は、事故の
不用意に言葉を発してボロを出すわけにはいかないから、お口厳重チャックで周囲をよく観察し、耳を
リリアだけでなく、私には何人かの侍女がついているのだけれど、彼女達が私に話しかけたり問いかけたりする言葉からいくつかのことがわかっている。
(どうやら、事故、だとは思ってないんだよね……みんな)
侍女達は、バルコニーから落ちたことを口では『事故』と言うものの、
このエルゼヴェルト公爵の
そして、アルティリエが落ちたバルコニーは三階。三階といってもこちらは天井が高いので、とても三階建ての家というレベルではない。ビルでいえばその倍くらいの階数……五、六階にあたるのではないかという高さの三階だ。それにプラス
ちなみに、下は真冬の湖である。
(ホント、よく生きていたと思う)
私がいる部屋のバルコニー……ちなみに一階……から下を見てつくづく思った。
アルティリエが助かったのは、アルティリエがまだ子供で体重が軽かったことと、とてつもなく強運だったからだ。
ただ、中身が今の『私』になっている点で本当に助かったと言えるのか、いささか
(顔も見たことないけれど、三番目のお兄さん、助けてくれてありがとう)
アルティリエがバルコニーから落ちたその日は、湖には前夜から
けれど、三番目の
彼がいなければ、墜落からは助かっても湖で
偶然に偶然が重なり、アルティリエは無傷だった。外傷はほとんどなく、ほんの少し
こんな幸運は、本当だったら宝くじを当てることなんかに使いたい。
(もしくはそこまでの
ここはアルティリエの生家だけれど、彼女にとって絶対に安全な場所とは言えない。
むしろ、なかなかに危険な場所の一つである。
(だって……)
アルティリエであるところの私は、かなり複雑な立場に置かれているのだ。
この国では、フルネームを聞けばどういう血筋の誰なのかがわかる。
簡単な区別だけど、名前が長ければ長いほど身分が高いと判断していい。
今の私のフルネームは、アルティリエ・ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーディエという。
アルティリエ・ルティアーヌというのが名前。これは、古代語で書かれた聖書の冒頭部分からとっていて、『光の中で輝く光』を意味する。
名付けたのは、母だ。私を産むのと
そして、『ディア』というのは、王族を意味する称号。
『ディア』は、王の子・孫に与えられる。その血に与えられるため、王族の
『ディス』は、
そう。なんと、アルティリエ……つまり、私は
これ、知ったときにはちょっと
アルティリエの夫は、現国王の第一王子にして王太子であるナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエ
王太子ということは未来の王様となることがほぼ確定している。その
政略結婚に年齢は関係ないというけれど、アルティリエはまだ十二歳。それもわりと発育不良気味で年齢より幼く見える。なのに、人妻って! 元の私は、三十三歳で独身だったのに! 元の自分の
個人的な事情はさておき、アルティリエが結婚したのは生後七ヶ月だったというから、もう何も言えないというか……私にどうこうできるレベルの話じゃない。良いか悪いかを論じるところを通り越している。
最後に姓。女性の姓は、結婚後は生家と
これが
エルゼヴェルトというのは父の姓になる。
アルティリエの父は、現エルゼヴェルト公爵レオンハルト・シスレイ=ヴェル=ディア=アディニア=エルゼヴェルトだ。
エルゼヴェルトは
だからこそ、王女の
母の姓であるダーディエ。それは、このダーディニア王国の王家の姓だ。
私の……アルティリエの母は、王家から降嫁した前王の末王女でエフィニア・ユディエール=ディア=ディス=ダーディエという。
直系王族だから母の姓は一つしかない。直系の王子、王女はその姓に婚家のものを重ねない。王の子は、どこに
アルティリエは、王女と国内有数の大貴族の当主との正統な
そのうえ現在、エルゼヴェルト公爵家には
なぜ、私が殺されかけたのかはわからない。でも命を
(といっても、私には何もしようがないんだけど……)
理由がたくさんあっても、本当のところはわからない。だいたい、王太子妃にして筆頭公爵家のただ一人の相続者だなんて、物語でも設定
(……あ……)
ふと耳を
(もう、そんな時間か……)
何度か聞いた音……朝食のワゴンが運ばれてくる音だ。
わーい、朝ごはん! と思ったらおなかが小さく鳴った。
こんな時でもおなかだけはしっかりすく。
(とりあえず、食べてから考えよう……)
私は問題を先送りにした。……逃げたわけじゃない、決して。
(しっかし、何度見ても奇跡だなぁ……)
バルコニーに設置された
目覚めた初日はさすがにベッドから出してもらえなかった。
その後は部屋の中でなら起きていることを許されたけれど、もちろん外になんか出してもらえなかった。あまりの息苦しさにほんのちょっとだけ廊下に出てみたら、廊下に
何とか自室近くまで戻って来たと思ったら、今度はものすごい形相をした
それで、私は男達に追いかけられて城中を
(あれはたぶん、私を探してくれていた人達だったんだよね)
あんまりにもすごい形相で追いかけてきたので、たまらず逃げ出してしまった。
きっと大騒ぎになっていたのだろう。気絶してしまった私はその
(ごめんなさい、もう勝手に廊下に出たりしないから)
心の中で謝罪の言葉をつぶやき、小さな
あんな事件があった後に部屋を抜け出すようなことをするべきではなかった。……そのつもりはなかったとはいえ、結果として迷子になったので、抜け出したと判断されても言い訳のしようがない。
さっきも、リリアから絶対に部屋から出ないでくださいと念を押されてしまった。
反省しているからこそ、朝からずっとおとなしく椅子に座り続けている。
(なんか、人形になった気分だわ)
目の前の光景は、まるで絵のように美しい。
鮮やかな青い空、向こう岸には深い森が見える。
セラード大森林……ダーディニア有数の森林地帯で、その半数以上の樹木は
(景色は綺麗なのに……)
どうも
今の私の部屋は一階だけど、湖の上に張り出したバルコニーから景色を見るだけでも何だか全身がきゅっと縮こまるような気がする。
(記憶はなくても、身体が覚えてるのかもしれない……落ちた時のことを)
意識不明で一週間
目覚めた当初はずっと寝ていたせいであちらこちら痛かったりもしたけれど、今は全然平気だ。
(私を殺そうとしていた人、びっくりしてるだろうなぁ)
アルティリエが落ちたとされるバルコニーは、三階の
そもそもあそこは
遊戯室というのは、夜会や食事会などの後、男性達が
アルティリエは亡き母の
更にダメ押しで付け加えるならば、物心ついたときから王太子妃であり
昨日の
だからこそ護衛の騎士やお供の侍女達が誰一人気付かぬうちに、足を踏み入れる理由のない場所からアルティリエが落ちるなんてことは、本当にありえないことなのだ。
リリアなどは、あからさまには口に出さないけれど、誰かに
エルゼヴェルト公爵家側は必死になって取り繕って『事故』と言っているが、これは間違いなく『事件』だ。
それも立派な『王太子妃暗殺
(私に記憶があれば、話は簡単だったけど。ただ……事故ではないという決め手もないわけだし……)
ちょっと嫌な考えになってしまって、それを振り切るように首を振った。
視線の先で湖面に映る
お城のある小島と陸地を
(……巻き上げ機に油させばいいのに)
いや、油さしたくらいではどうにもならないのかもしれないけど。
ふと、気配に
「お茶になさいますか?」
私はこくりとうなづいた。
あんな事故のあとだからなのか、日々の時間は
時間の単位は、分=ディン、時間=ディダと読む。二十四時間で一日なのは、元の世界と変わらない。
朝は目覚めるとまず洗顔と髪のセットをし、着換えが終わるまでにだいたい四十分から五十分くらい。
朝食後には
他に挨拶に来る人間はおらず、私から誰かのところに挨拶に行くこともない。
それは、私に目通りするほど身分のある者が公爵の他にいないからだ。そして、私が自分から挨拶に行くのは、国王夫妻と夫である王太子殿下だけだとリリアが教えてくれた。
それで、この挨拶が終わると自由時間になる。
(なんか、放置状態っぽいような……)
もしかしたら、王宮ではこの時間に習い事とかがいろいろあるのかもしれないけれど、実家とはいえ旅先であるここにはそれがない。
私の周囲にいるのは、リリアをはじめとする数名の侍女達だ。
彼女達は王宮の侍女で、このお城の侍女ではない。リリアは王家
リリアは、私が事故に遭ったことにとても責任を感じていて、言葉を失ったと思われている私にいろんな話を聞かせてくれる。少しでも声を───言葉を取り戻そうと努力してくれているのだ。
アルティリエはもともとほとんどしゃべらない無口な子ではあったけれど、しゃべれないわけではなかった。
無口なのとしゃべれないのは、結果にそう差はなくても意味はまったく違う。
(……ごめんね、しゃべらなくて)
私は、アルティリエだ。
こうしてここにいる以上、それが今の私の現実。
けれど……こうして状況を確認するためと自分に言い聞かせながら口を開かないでいるのは、それをまだ認められないからかもしれない。
医師の
一言で言ってしまえば、自主的に声を発するふんぎりがつかないでいるのだ。
自分がアルティリエであることはわかっている。
その置かれている状況もだいぶわかった。
……でも、積極的にアルティリエとしてこの世界で生きていく決断ができていない。
(
正直言って、アルティリエはとても可愛い。しかも、とびっきり由緒正しい血筋で、かつ王太子妃という身分もある。うまくやればこの世界でも生きていけるだろう。
リスクもあるけれど、条件面だけでいえば元の世界とは比べものにならない好条件がそろっている。
それでも、私は元の世界を思わずにはいられない。
(戻れないのに……)
それだけは、何となくわかっていた。
あの時、たぶん私の───和泉麻耶の生命は失われた。
そして、私の
(……どう考えても、その可能性が一番高い)
(それがわかっても、私にはどうしようもないけれど……)
ため息をひとつ。
(いけない、いけない。あんまりため息ばかりついていると幸せが逃げるって言うし)
とはいえ、目が覚めてから、自分ではどうにもならないことばかりで、ため息の連続だ。
(記憶
ちょっとくらい何かおかしくても、墜落事故のショックでごまかせる。
それに、アルティリエの無口っぷりは相当なものだったらしい。
侍女達ですらその声をほとんど聞いたことがなく、だいたいの意思
(ついたあだ名が、人形姫だし……)
人形と呼ばれるほどしゃべらないお姫様は、何を考えてそうしていたのだろう?
私は、その理由を知りたかった。たぶん、今の私とはまったく違う理由だろうけれど。
「お待たせいたしました」
リリアが運んで来たワゴンからは、良い
焼きたてのフィナンシェやマドレーヌを見た瞬間、私は思わずにっこりと笑った。
わーい、すごくおいしそう。
「姫さま?」
空気が
その理由がわからなくて、私は小さく首をかしげた。
「い、いえ、何でもありません。さ、どうぞお
こくり、と私はうなづく。皆がどことなくぎこちなかったけれど、追求はしなかった。
まさか、私が笑ったことを皆がそんなに驚くなんて思いもしなかったのだ。
(んー……おいしい! うわ、これ作った人、天才! レシピ知りたい!)
綺麗なきつね色のフィナンシェは、たっぷりのバターを使った
こういう焼き
(んー、でも、これは砂糖より後をひく甘さだよね。んー、
ちょっとクセのある
綺麗な
(この緑、なんだろう……ほうれん草? よもぎ? たぶん、
緑色をしたフィナンシェ。何かの野菜の葉っぱだと思う。ちょっとほろ苦な感じがすごくおいしい。
「それはザーデのフィナンシェです。ザーデは栄養価が高い野菜なんですよ」
なるほど、やっぱり野菜だったかと思いながらおいしくいただく。甘いものを食べると、どうしてこんなに幸せな気分になれるんだろう。すごく不思議。
(どうしよう、三つ目食べようかな、やめようかな……)
ダイエットに気を配る年齢でもないんだけど、昼食が食べられないのは困るし。
「こちらはラグラ
(別に私は人参平気なんだけど、アルティリエは
まあ、いいや、と思いつつ三つ目に手を伸ばす。
人参本来のほのかな甘味がおいしい。これを作った人、名人だと思う。
売り出したら絶対に売れると思う! あ、でも、砂糖とか貴重品そうだからコストパフォーマンス的に無理か。
後にこのお菓子をめぐってちょっとした騒ぎがおこるのだけれど、勿論この時の私は何も知らなかった。
それで結局、アーモンドとレーズンのものもあわせて、合計五個も食べた。
なぜか、侍女達がみんな満足そうだった。
何もすることがないというのは、なかなか苦痛だ。
食事の時間で区切りというか時間の感覚を取り戻しているけれど、朝なんだか昼なんだか一瞬わからなくなったりもする。
(んー、いい匂い……にんにく
この国では、夕食はだいたい夜の七時前後。まだ時間があるので、これからどうするかの基本方針を考えてみた。
そもそも、ここに来た主目的である母の葬祀は終わっている。墜落事故がなければ、私はもうとっくに王都に戻っていただろう。
(でも、王宮に帰るっていっても、犯人
「姫さま……いえ、
つらつらそんなことを考えていると、リリアが
彼女が妃殿下と私を呼ぶ時は、それが
何? というように視線を向ける。
「……エルゼヴェルト公爵より、
瞬間、私は軽く首を
「公爵閣下は妃殿下に、
いや、意味はわかっているんだけど……ちょっと、考えてしまう。
なぜならば、何度も言っているように、単純だけど複雑な事情があるからだ。
ここでおさらいです。
私は、公爵と王女との間の正式な婚姻により生まれた公爵令嬢で、今は王太子妃です。
正式な婚姻とわざわざつけるのは、このダーディニア王国ではそれがとっても重要視されるから。それを踏まえた上で、私の立場と複雑な状況について整理してみると、これが、何ていうかすごくメロドラマ的だったりする。
父であるエルゼヴェルト公爵にはアルティリエの他に五人の子供がいる。五人全員が
ここでのポイントはまず、彼女は『
『
とはいえ実際には、ルシエラより下の身分であっても『
王家は絶対に、彼女に『
それには、もちろん理由がある。
ルシエラの産んだ子供は上から、アラン・ディオル・ラエル・イリス・エルス……アランが二十四歳で最後のイリスとエルスの
年齢的におかしい! と思う人も多いだろう。だって、後妻に入った女性の子供の方が前妻の子である私よりだいぶ年上なのだから。
でもこれは実に単純な事にすぎない。平たく言ってしまえば、彼女はずっと父の
私の父であるエルゼヴェルト公爵は、私の母、エフィニア王女が生まれた時に彼女の
四大公爵家と王家は
だからこそエルゼヴェルト公爵家は王家のスペアなどと言われたりするし、女王が
注意してほしいのは、私の母である王女が生まれた時点で私の父が
この年齢差が、後のすべての事象の
父・レオンハルトがフィノス
この時点で私の母であるエフィニア王女はまだわずか五歳。婚約者といっても五歳児ではどうにもならないのが普通だから、レオンハルトとルシエラの仲は
一地方貴族にすぎぬフィノス伯爵にとって、娘が次の公爵の
やがて二人の間に子供が生まれる。
それが、長男のアラン。アランの生まれた二年後にはディオル、そのまた二年後にラエルが……そして、その三年後には、イリスとエルスの双子が生まれた。その時点でまだ二人は結婚していない。
できるはずがない。レオンハルトは王女の婚約者なのだから。
とはいえ、レオンハルトとルシエラはもはや
他に何人も愛人がいたのだったら、問題にもならなかった。王女の降嫁する先として
けれど公爵は、他に愛妾も愛人もいない。
(一番感心したのは、手をつけた女性が何人いるかまで知っている侍女達だ。すごいよ、私の侍女。どこの
この時点で、公爵は王女の降嫁の希望を取り消すべきだったと私は思う。
けれど、彼はそれをしなかった……政略的なことや政治的なことがいろいろあったのだろう。だが、公人としてはともかく、私人としてのその判断は最悪だ。
(結果、私の今の状況を複雑にしてくれているお母さんの悲劇がおこったのだ)
既に五人の子持ちで十五歳も年上の、しかも妻同然に
この時点で、王女がルシエラに勝っていたのは身分だけだった。
そして、若さは彼女の武器とはならなかった。
明るく可愛らしいエフィニア王女は、王宮で皆に愛されて育ったという。厳格な父王ですら王女には
けれど、男の目には彼女はただの子供にしか映らなかった。
女としての
せめてあと五年あれば、その立場は逆転したかもしれない。
でも、彼女には時間がなかった。
私が生まれたその夜、公爵は
ダーディニアでは、普通は父親が名をつける。けれど、私に名をつけたのは母だった。
すごく綺麗な名前だと思う。聖書の冒頭の一節でもあるアルティリエ=ルティアーヌ……光の中で輝く光……という名前が私はすごく好き。
そして、母……エフィニア王女は、私の洗礼の為にそこにいた国教会の
『お願いです。どうか、私とこの子を王都に帰らせて。ここにはもういたくない』
それが、彼女の『最後の願い』となった。
容態が急変したエフィニア王女が、その一時間後に息をひきとったからだ。
『最後の願い』というのは特別なものだ。
国教会の教えにおいて『最後の願い』は必ず
あちらで言う
たとえ、その
だからこそ『最後の願い』と正式に
そうでなければ、故人の最後の願いだと言って
私が生まれたその夜、その時だったからこそ、すべての条件が整い、最後の願いは成立した。
翌日、公爵が
────エフィニア王女は王家の
降嫁した王女が実家である王家の霊廟に葬られるというのは、まずもって前例がない。その前例がないことが、最後の願いとはいえその場で
たった二年の結婚生活は、王女に苦痛しかもたらさなかったのだ。
「妃殿下、どういたしましょう? 内々のお申し出ですが……」
考えこんでしまった私に、リリアが重ねて
(助けてくれた三番目のお兄さんには個人的に会ってお礼を言いたい。でも、それとこれとは別にした方がよい気がする)
私は小さく首を傾げ、それから首を横に振った。
別に父親の愛妾だった後妻を認められないほど
(お母さんが
そう思うと、何かがこみあげてきて鼻の奥がツンとした。
(私は、アルティリエなんだ……)
けれどこんな時、アルティリエと私はつながっているというか、本当にアルティリエなのだと思う。
胸の
泣きたいような、
それは、この世界を知らない和泉麻耶が持つはずもないモノだ。
いくら悲劇的……と思っても、
なのに、胸の奥に降り積もる何かがあって、それを無視することが出来ない。
ただ、話を聞いただけなのに、決して忘れることは出来ないと思う。
だから……。
(お会いしません)
私がもう一度静かに首を振ると、リリアがどこかほっとしたような顔で頭を下げた。
この国では、夕食は
昨日は私の知らない白身魚の煮込みで、一昨日はたぶん
味付けは塩と
せっかく
(私だったら、
昼間のお菓子の職人さんに比べたら、これを作った料理人は段違いに腕が悪いし、この香草の量はいただけない。香りの
(
鴨には独特の匂いがある。それがおいしくもあり、どうしようもないまずさにもなる。鴨が嫌いって人は、だいたい、この匂いがダメみたい。
(この世界の人の味覚も、そう私と違いはないと思うんだけど)
食べ慣れているものとか、文化の違いとか、はたまた、食べる場所や一緒に食べる人間や雰囲気……味覚にはいろいろな要素が影響するけれど、それでも『おいしい』ものは『おいしい』はずだ。
私の中の『おいしい』の基本ルールは、『
『美味』をつくるのは、高級な食材がすべてではなく、職人の腕がすべてでもない。
(空腹は最高の調味料!)
白い柔らかなパンは、まだぬくぬくの焼きたての
本当はバターかジャムが欲しいけど、それは贅沢というものだ。目に付くところには何もないから、パンだけで
それから、バターと塩で炒めたザーデを食べて、ハーブ水を飲んで食事を終わりにする。
(ごめん、この鴨を全部食べるのは私には
幼いお姫様である現状、自分で調理をすることはたぶん許されないと思うのだけれど、でも、あえて言いたい。
(お願いだから、私に作らせて! ううん、百歩
そうしたら、もうすこし食欲がわくと思う。
何とか食事を済ませて、食後に何をしようかと考える。ちょっとだけ現実
夜の自由時間は、だいたい本を読んでいることが多い。
今読んでいるのは、リリアが持ってきてくれた王国の歴史書だ。どうやら、アルティリエは歴史が好きだったらしい。
今の私には必要な知識だからとてもありがたい。
(アルティリエって、実はすごい女の子だと思う)
私にアルティリエの記憶はない。でも、彼女の知識はある。
まず、言葉に不自由しなかった。日本語ではないし、それなりに使える英語でもフランス語でもないけれど、わかる。読み書きにも問題はなかったし、歴史書には古いもの……古語で書かれているものも混じっていたのに、特別な用語以外はすんなりと読めた。
別に頭の中で日本語に
それから、少しずつ
例えば、ティーカップを見た時に、そのカップの形の種類だったり、絵付けの技法だったり、
何よりも私が感心したのは、アルティリエが自分の護衛の騎士と侍女の名前を全員フルネームで知っていたことだ。
それは彼女が、皆の家系や地位についてちゃんと
(王太子妃、か……)
幼くても、アルティリエは王太子の妃としての自覚があったのだろう。
目が覚めてすぐにはわからなかったいろいろなことが、こうやって落ち着いてくるとだんだんわかってくる。
のんきにしているけれど、本当はわからないことばかりで
でも、時間を過ごしていくうちに、麻耶とアルティリエが重なっていく。
どこか白昼夢のように現実感が
知識もまた記憶の一部であるに違いないから、いつか私は自分がアルティリエであることをまったく疑わなくなるのかもしれない。
「食後のお茶には、ロブ茶をご用意しました」
私は、リリアの声に顔をあげた。
ロブ茶は飲むとさっぱりするお茶。
ほうじ茶+
(ありがとう)
お茶を出すとリリアは何か用があったのか、いつものように
ベトつく手を洗いに行こうと思い、席を立った。これ、本当はお
本来、こういう時は侍女を呼ばなければいけない。でも、私の夕食の後片付けもあるし、彼女達も交代で食事をとる時間だから
ドアに手をかけると、部屋の外から声が聞こえた。
「……妃殿下が、公爵夫人との対面を断ったって?」
「らしいな。でも、当然だろ」
「そりゃあ、そうだ。いかに公爵閣下とはいえ、妃殿下に強制はできないもんな」
思わず手を止めた。話しているのは、たぶん私の護衛の騎士達だ。顔を見ればすぐに名前もわかるんだけど、声だけではまだよくわからない。
(あれ? 声がするってことは、こっちって、もしかして、洗面室じゃなくて廊下?)
ドアを開かないように注意して、そーっと逆側に戻る。
洗面室で手を洗ってから席に戻ると、すぐに侍女達が戻ってきた。
私は食後のお茶を飲み終わっていたから、首元のナプキンを
それがお茶も終わり、の合図だ。二人が片付けをはじめたので、私はちょっとだけさっきの会話について考える。
騎士達は、私が公爵夫人との対面を断ったことを知っていた。そして、それを当然だと思っていた。彼らの声には、いい気味だと言いたげな感じが漂っていたように思える。
(まあ、彼らは
近衛というのは、王家の私兵に近い。王国法上は違うのだけれど、実質的には私兵だと思っていい。元々王家に近い上に、彼らの職務の大半は王族の身辺警護だ。そういう部隊の性格上、王家に対して忠誠心が
だから、エフィニア王女が亡くなったことを哀しみ、その原因であるルシエラ夫人に良い感情を持っていない人間が多いのだろう。
(あまりにも、だもんね……)
私の母である王女が亡くなって半年後、
本来であれば、配偶者の正式な喪は三年に
確かに王国の
(早すぎる死だったから、暗殺ではないかという声も囁かれたらしいし……)
もちろん、名前は置き換えられているし、伯爵と伯爵夫人になっているらしいけど、モデルが誰かは皆が知っている。
王女の死は出産のせいだけれど、そう
四大公爵の正式な結婚には王の許可がいる。
公爵に限らず、貴族の婚姻は王の許可をいただかねば正式なものとみなされない。
ルシエラと公爵が結婚するにあたり、国王陛下が許可を与える条件としたのが、王太子殿下と私の婚姻であり、私に関する
(ここで重要なのは、放棄するのは公爵家側のみであって、私の公爵家に関するすべての権利はそのままということ)
公爵はこれを無条件で?んだ。
エルゼヴェルト公爵家は、今後、娘……つまり、私に対する一切の権利を失う。それは、公爵家がこの結婚におけるすべてのメリットを放棄するのと同じだった。でも、そこまで
まさか後々、この結婚が彼の計算を大きく
一方、息子と
異母妹を
そして、まるで公爵にあてつけるかのように、生後七ヶ月の私と自身の息子である王太子ナディル殿下の結婚を
普通、こういう場合は婚約して、ある程度年齢がいってから結婚の運びとなる。だが、陛下はエフィニア王女の例をひき、婚約期間が長く、正式な婚姻が行われていなかったからこそ正式な妻をないがしろにするような間違いがおきたのだと、年齢を理由に反対する者達の口を
国家行事としての挙式こそ私が成長してから再度行うと定められたが、それ以外のすべてがきちんと正規に執り行われたという。もちろん、私にその記憶はない。
(一番
国王陛下は、愛する妹の身におこった出来事を
陛下の私に対する行き過ぎた
通常、王太子妃に専用の宮はないのにわざわざ公爵家の負担で新たに王太子妃宮を建設させたし、国王からの結婚祝いとして、アル・バイゼルという都市を王太子妃領と定めた。アル・バイゼルは領内に大きな港町を持たないエルゼヴェルト公爵家が自領とすることを悲願としていた都市だ。それを私に与えたのだから、陛下の嫌がらせはかなり強烈だ。
(思うに……)
公爵はせめて、あと三年待てば良かった。正式な喪をきちんと過ごせば良かった。これまでずっと愛人だったのだ。ルシエラが待てなかったわけではないだろう。
政略結婚の妻より愛人を愛してしまうこと自体については、私個人の感情はどうあれ、たぶんこの国の人達はあまり咎めない。特に貴族階級の人達は。
けれど、それであっても公爵の王女に対する仕打ちは酷かった。
国内有数の大貴族たるエルゼヴェルト公爵を面と向かって非難する人間はそれほど多くはなかったけれど確かにいたし、国民に人気のあった末王女の悲劇は、芝居だけではなく、
だが、公爵には、どうしても正式な喪明けを待てない理由があったのだ。
(ルシエラの
この時、ルシエラは五度目の妊娠をしていた。
ダーディニア王国の国法は、正式な婚姻から生まれた子供にしか相続を認めない。
ゆえに、二人が結婚していない間に産まれた五人の息子達は、公爵がどれほど
(公爵にはそれは絶対にできなかった……)
それは望むことすら許されないことだった。
彼は、王女が生まれた時からの正式な婚約者だ。ルシエラとの子供達を嫡出子認定する為には、王女との婚約も結婚もなかったことにしなければならない。だが、何を引き換えにしようとも、王家と国教会はそれを認めない。
だからこそ、公爵が後継ぎを得る為には、ルシエラの腹にいた子供を庶子にするわけにはいかなかった。どれほどの悪評を買おうとも、どうしても結婚を急ぐ必要があったのだ。
(そして、公爵とルシエラは結婚した)
ルシエラは、私が一歳になる直前に男の子を産んだ────ただし、それは死産だった。
その後、ルシエラは何度か妊娠したけれど、以後子供が産まれることはなかった。
そして現在、誰の目にも明らかな事実がある。
『アルティリエ王太子妃は、エルゼヴェルト公爵家の唯一の嫡子である』
ルシエラとの結婚にあたり、公爵はアルティリエに関するすべての権利を放棄したから、アルティリエはエルゼヴェルトの娘というよりは王家の娘に等しい。
けれど、アルティリエがエルゼヴェルト公爵の唯一の嫡子であることは変えようのない事実で、それがとても重要な意味を持つことになってしまった。
(ルシエラは今、四十三歳。絶対に子供が産めないという年齢ではないけれど、たぶん、無理だろう)
友達に産科の看護師だった子がいるから聞いたことがある。流産はクセになるのだ。しかも、四十三歳は
公爵は、ルシエラと
(国王陛下の
このまま公爵が嫡子を得られないと、エルゼヴェルトのすべてはアルティリエの……ひいては王家のものとなる。
公爵は庶子である子供達に分家し、財産を
王太子妃とエルゼヴェルト公爵を兼ねることはできないから、正確に言えば、アルティリエは公爵家の後継ぎではない。が、いつかアルティリエが産むであろう相続人の代理だ。
アルティリエの最初の子供は、生まれた瞬間に次の王太子となり、二番目の子供は、無条件で次のエルゼヴェルト公爵となる。
何にせよ、
「姫さま、そろそろ、湯浴みをお願いいたします。お湯がご用意できましたので」
リリアの声にはっとした。ちょっと考え込みすぎた。余計な方向に。
私は、お茶を半分残し、わかったというようにうなづいて立ち上がる。
あちらと違ってお
恥ずかしいけれど、一人では入らせてもらえないし。
女の子同士で入るのと一緒、と思って我慢している。
(……あれ? そういえば、王宮への現状報告とかってどうなってるんだろう?)
ちょっとだけ疑問に思ったけれど、お風呂に入ったらきれいさっぱり忘れてしまった。
……それを、後で、すごく
目覚めて六日目の朝がやってきた。
さわやかな朝ではあったけれど、今日も状況は変わらない。さすがにもう夢オチにも期待できなかったから、目覚めるとすぐに侍女を呼んでおとなしく着替えることにした。
(普通なら、下着はパンティでブラ……だけど)
この世界の十二歳の女の子用下着は、スリップに
そこに更にレースたっぷりのアンダースカートをはく。これはウェストを
(ここまでは一人でもできる)
できないのが、この次。
(でも、拷問器具みたいなコルセットがない世界でよかった!)
心の底からそう思う。こちらの主流はソフトなタイプのコルセットで、未成年の私はまだつけなくて良い。そしてその上にガウンと呼ばれるワンピースっぽい服を重ねる。
今日は、淡い水色に白いレースをふんだんにつかったもの。すっぽりと頭からかぶるタイプで、アンティークドールほどフリフリではないけれど、いかにもお姫様チックな格好ではある。
(こんなレースたっぷりな服は着たことがなかったけど、ちょっとクセになるかも)
手仕事のゴージャスなレースや刺?は本当に
足元は薄い絹の
靴はガウンに合わせた水色の布製。金糸、銀糸をふんだんにつかった刺?がされている。
(この刺?の細かさはすごい。一財産になりそうな靴だ)
底はゴムみたいなものでできている。ゴムみたいとしか言えないのは、私の知っている生ゴムの色と違って
(う~、可愛い!)
身支度が整ったところで、鏡の前で思わずくるっと回ってしまった。
ナルシスト入っていてごめんなさい。でも、本当に可愛いんだもん。ちょっと鏡に見惚れるくらいは許して欲しい。
やわらかにウェーブを描く金の巻き毛。目は青とも碧ともつかぬ不思議な色あいをしている。お母さんの肖像画も綺麗だったけど、この子も相当だ。
将来、どれだけ可愛くなるか楽しみだ。
……自分のことだと思ったら、
侍女の一人であるジュリアが、私の髪を綺麗に整え、ドレスと
「お似合いですわ」
どのガウンにどんなアンダースカートにするか、どんな靴下や靴をあわせるか、髪型や髪に飾るものまで含めて、私の侍女達は研究に余念がない。
満足そうに皆がうなづくので、何だかおかしくてちょっと笑ってしまった。
ほんとにちょっと。口元が
なのに、そんな私を見てリリアが泣きそうな笑い顔を見せる。
(……そんなに、アルティリエってお人形だったのかな)
我が事ながら、ちょっと涙出そう。こんな
「姫さま、今日はこの地方の料理を用意していただきました」
リリアがいつものように朝食のワゴンを運んできた。
もちろん、私が口にする前に侍女達がよそいながら毒見をしている。
(生家でも毒見するってどうなんだろう……)
でもまあ、それも仕方のない立場か……私は毒より、料理長の腕のほうが心配だけど。
「今日のスープは
(へえ、私、浅蜊が好きなんだ)
自分のことなのに、何だかすごく
「あ、あの、もしかして、違っていました?」
リリアより一つ二つ年下くらい。武官の
そんなことはない、というように私は首を横に振った。
アルティリエはともかく、私はそんなに好き嫌いがない方だ。まずいモノはダメだけど。
ほっとしたエルルーシアは、笑顔を見せた。
(浅蜊って、どこで採れるんだろう?)
エルゼヴェルトの
私の心を読んだのか偶然なのか、ミレディが告げる。
ミレディは御料牧場の管理者の家の娘で武術の心得もあり、乗馬もできるという侍女だ。代々近衛を務める騎士爵の家に生まれたアリスと共に、あまり多くはないけれど決して皆無ではないアルティリエの書類仕事を
「この浅蜊は、妃殿下の所領であるアル・バイゼルから運ばれたものだそうですよ。ラーディヴとアル・バイゼルは、船ならば一日かからないそうなんです」
(川、
侍女達の言葉に
こちらでは、カトラリーは銀が主流。ナイフとフォークとスプーンの三つですべての料理を食べる。フレンチのコースのように何本もいろいろなカトラリーを使わないでいいから割と楽だ。今のところボロはださないで食事をしていられるので、マナーはあちらの世界とそれほど違わないみたい。
(これ、ちょっと
良かった。香草が入ってない。ここの料理長の香草の使い方は、私の味覚に合わない。
「お気に
こくりと私はうなづく。ジュリアが嬉しそうに笑った。……可愛いなぁ。
ジュリアは父と兄が
私はすっかり周囲の侍女達に好意をもっていた。だって、可愛い子ばかりなのだ。
あちらで勤めていた時の
何もべったりそばにいてあれこれ世話をやくって意味じゃない。いつでも私が必要とした時にその望みを叶えられるよう準備しながら、用のない時は控えている。
その完璧なまでのサービス! メイド好きな世のオジさんやオタクな子達の気持ちがちょっとわかった気がする。
(ところで、どうやったら王宮に帰れるんだろう?)
今の私は、時間さえあればその方法を考えていた。
とりあえず今後の大方針としては、王宮に戻ることを第一とするつもりだ。今手に入る
(夫……が、いるし)
夫、だなんて言われても記憶がないのだから赤の他人も同然だ。幸いなのは、私がまだ幼くて、名前だけの夫婦である予測がたっていること。年齢差もあり、あまり
(王太子ナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエ殿下)
フルネームを呼んでみても、何も思い出せない。だけど心の中で呟いたら、胸の奥がほんの少しだけ痛んだような気がする。
(王太子殿下だけじゃない。国王陛下や王妃殿下とだって、どう接していいかわからないけど……)
でも、帰るべきだと思うのだ。
別に覚えていない夫や義父母を信用しているわけではない。ただ、単純に利害を考えれば、私を殺すよりも守るほうが、彼らには
(それに、私が危ないってことはこの子達も危ないってことだし)
いつも私と一緒に居る侍女達は、ある意味、私と
墜落事件の解明は大事だけれど、皆のためにもできるだけ危険から遠ざかっておきたい。真相からも遠ざかるかもしれないけれど、今は
(何が安全で、誰を信じていいかを
公爵が私を殺そうとしたとは思わないけれど、守ってくれる人とは思えない。
朝の挨拶の時でさえ私の顔を見ようともしない人を、信じろというのがどだい無理な話だ。
「……姫さま、どうされました?」
考えながら食べていたせいで、ボーッとしてたんだと思う。がりっと嫌な音がした。
動きが止まった私を皆が
手を口にやった。ポタリと落ちる
(ささった……)
「ひ、姫さまっ」
「きゃああああっ」
「だれか、お医者さまを!」
(……いや、騒がないで、違うから。浅蜊の殻が刺さっただけだから!)
でも、私の心の声なんて聞こえるわけがない。
平気だって
毒かもしれません! とジュリアが叫び、エルルーシアが真っ青になる。
(いやいやいや、違うから)
「あ……」
「姫さま! 姫さま!」
「吐いてください。早く!」
でも、意を決して口を開こうとしたら、ポタポタと血がこぼれて、更に大騒ぎになる。確かに痛いは痛いけれど、痛みより見た目のほうがひどい。
真っ青な顔で飛び込んできた医者は、問答無用で私に無理やり水を飲ませ、吐かせた。
浅蜊の
(毒なんて飲んでないってば!)
「失礼」
医者が私を見る。どこか目つきがおかしいと思うのは気のせい? 気のせいだよね?
(え?)
悪夢だ!!!!!!!!
更にいっぱい水を飲まされて、いきなり口に指をつっこまれた。
っていうか、あなたの指の方が毒だ! 手が清潔かどうかもわからないのに、中年男に口の中に指を突っ込まれたら、誰だって気持ち悪くなる!
説明なしだよ。そりゃあ、毒だと疑ってれば一刻を争うのかもしれないけど。
(たーすーけーてー)
私の
押さえつけられて無理やり
うがいと
気分としては暴行未遂とかそういう感じだったから。
疲れたから少しだけ
結果、その日はほとんどの時間を寝台の中で過ごしてしまった。
目が覚めた時には陽光は、午後の……オレンジとも黄色ともつかぬ色みを帯びていた。三時を過ぎているからほとんど夕方に近い。
ここでは、どれだけ
寝すぎを咎められることもなく、ノロノロと寝台をおりる。
しわをのばそうと軽くスカートの
きょろきょろと周囲を見回し、他の侍女達に目線でリリアの不在の理由を問う。
三人は迷い、それでも静かに回答を待つ私を前に、互いに
「リリア様は、姫様の毒殺未遂について、調査をしております」
浅蜊流血事件が『王太子妃殿下毒殺未遂事件』に発展していたのを知り、あまりのバカバカしさに
でも、次に慌てた。
だって、毒殺未遂事件となれば、あの料理を作った人間が疑われると思ったのだ。
あれが毒殺未遂事件なんかじゃないことは、私が一番よく知っている。
(大げさな……)
それをどうにか伝えようとして、でも、まだどこか様子のおかしいジュリアに首を傾げてみせる。ここにリリアがいれば、私が何か伝えたいということがすぐにわかったと思うが、
正式な
私の身支度を手伝うジュリアは、うつむいて涙をこらえているようだった。目元がほんのり赤く、まるで泣きはらしたようにも見える。
(ジュリア?)
「申し訳ございません。……もう夕方近いですから、髪は簡単に
私は知らなかった。……本当の事件が、私が寝た後に起こっていた事を。
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