第一章 わたしの事情



(……知らないてんじようだ……)

 ぼんやりと意識がかくせいしたしゆんかん、目に入ったのは夜空のえがかれた天井だった。視界一面のあざやかないろの中に、星がかがやいている。

(知ってる星座がないなぁ……)

 のんびりとそんなことを考えて、それからそんな場合じゃないとハッとした。

(えーと、あれってたぶん、私、事故にったんだよね。まぶしかったのは車のライトで……でも、ここ病院じゃないよ。いや、特別室とかそういうのかな。え、ってか、いま何時? 私、どのくらい意識なかったんだろう? もしかして、仕事すっぽかした? 店、だいじようかな……あれ、保険証、どこやったっけ……?)

 頭が急速に回転をはじめる。

(いや、いや、いや、考えていても仕方ない……とりあえず看護師さんを呼ぼう)

 ナースコールのスイッチを探そうとベッドに起き上がっておどろいた。

「……すご……」

 天井だと思っていたのはてんがいだった。

 私がていたのは美術館にでもありそうなごうしやな天蓋つきのおひめさまベッドで、ふかふかのしきもさることながら、ベッドカバーの?しゆうせいさに目を見張った。まるで庭をそのまま縫い取ったかのような美しい花々であふれている。春の花……ちょっと色合いがくすんでいるのは、草木染めの自然なせんしよくによるものだからだろう。


「……あれ?」


 ふと気付いた。

(私の手、小さくない?)

 手が小さく、うでも細い。何よりもつめが……長くれいそろえられていてピカピカにみがかれている。料理をするから、普段こんなに長く伸ばさないのに。

 かん……何かがすごくおかしいのに、それがよくわからない。

 そっとゆかにつこうとした足が、思っていたのよりも短く……そして、間違いなく小さい。

(ち、縮んだの? 私)

 そう思いつつ、頭のどこかにまったく違うわくがわいてくる。

(……まさか……)

 いやな感じがする。頭の奥で警報が鳴っているような、ちょっとおんな予感。

 大丈夫、と自分に言い聞かせ、光を柔らかく透かすうすぎぬとばりを開いた。

(あ、これ、絶対に病院じゃない。……っていうか、日本ですらないかもしれない)

 ちょっとしたホールくらいはありそうな広い室内……大きくとった窓からはレースのカーテンしに陽光が差し込み、床は毛足の長いふかふかのじゆうたんきつめられている。

 きわめつけは、頭上高くにきらめくシャンデリア。こんなものがある病院を私は知らない。

(……天井、高い)

 何ともぜいたくな空間の使い方だった。だからこそ余計に、ここは日本ではないと感じた。

(なんか、ものすごくイヤな予感がする)

 いや、ずっと頭の隅から消えることがない疑惑、の方が正しいかもしれない。

(……ううん。そんなこと、ない)

 考えろ、自分に言い聞かせる。

 だって、そんなことあるはずがない。

 何度も何度も、かえしその可能性を否定する。

 でも、何度見ても変わらないのだ。

(子供の、手)

 ほっそりした……小さな手。指が長く、とても白い。

 小さいころに不用意にオーブンをさわってしまって残ってしまった火傷やけどあともないし、ちょっとしくじってペティナイフしちゃった時の傷もない。

(私……)

 だから、その可能性を考えないわけにはいかなかった。

(……死んだのかもしれない)

 ──────あの夜に。


『死』を思ったら、何かひやりとしたものが胸にさしんだ。

 それからのがれるようにしんだいもぐり込み、頭まで敷布をかぶる。別に寝台の中が安全ってわけじゃないけれど、そうやってとんの中で小さく丸まっていたら、少し落ち着いた。

 でも、そうしたらさらに気付いてしまった。

(……、してないんだ……)

 私が交通事故に遭ったのはほぼ確定している。そして、あのじようきようきずで済むとは思えなかった。絶対に怪我をしたはずなのに、まったくの無傷ということは……。

(………やっぱり、そうなのかもしれない)

 感覚は、『もしかして』と『やっぱり』の間をめまぐるしく行き来する。

(う、生まれ変わりとか……そんな感じ……?)

 だって、『私』の意識があるのは絶対だ。

 でも、この身体は『和泉いずみ』のものではない。

 だとすると、生まれ変わった自分っていうのが真っ先に思い当たる。

(いや、それはない。絶対ない! ……いや、でも、子供になってるっぽいし。……もしかして、夢、とか……)

 でも、ふかふかのベッドにしずみ込む身体や絨毯の足触りのかんしよくは、生々しかった。

(夢ならば、いつかは覚めるはず……)

 私はそこで、ぎゅっと目をつぶった。


 でも、どれだけ時間がっても、何度まばたきしても、布団のすきから見る光景はまったく変わってはくれなかった。

(ゆ、勇気を出そう……)

 もう一度かくにんするために、もそもそと起きだした。

 ふかふかのとんの中から出て絨毯をみしめ、しっかりと立つ。それから、目をらして周囲を見回した。

 直射日光のさえぎられた室内はほどよく光が差し込んでいた。美しくそうしよくされた室内、磨きぬかれた調度類、部屋中にかざられた花々……ただ高価そうというだけではないセンスの良さがある。

(とどめは、このお姫様ベッドか……)

 明るめの色合いの木材で、天蓋の柱部分にはつたがまきついたようなちようこくほどこされてる。葉は葉脈までリアルにり込まれていて、木製だとわかっているのに、れて確かめたくなるくらい精密だ。

 本当にステキなベッドで、こんな状況じゃなければ思いっきりまんきつしたい。

(外国というより、ファンタジー小説とかそういう物語の中に入りこんだみたい)

 私はそのたぐいの物語が好きだ。

 ここではない……現実ではない世界の物語。

 けれど、それはあくまでも物語だからだ。

 こんな風に物語の中に入りこむような状況を望んでいたわけじゃない。

(部屋の感じとしては、イギリスとかフランスとかの古いおしきっぽいかな……)

 この部屋は、英国旅行した時に見学したカントリーハウスの一室のような、豪奢でじゆうこうふんがある。

 ふと、正面のかべにかかっていた絵に目をとめた。

 くすんだ金色のがくぶちは年代物だ。背景は明らかにこの部屋で、描かれているのは幼い女の子。

(うわー、わいい。天使みたい。ここの家の関係者かな)

 年齢は十二、三歳くらい。淡い金の髪に青いひとみ……肌は抜けるように白くて?ほおはほんのりバラ色で、絵に描いたような美少女だ。いや、絵なんだけど……え?

 首をかしげて気付いた……これって……。

 半信半疑で手をあげた。

 絵の女の子も手をあげた。

 舌を出してみた。

 絵の中の女の子も舌を出した。

 ……訂正、絵じゃない。鏡だ。

「ええええええええええっ───────」

 私は盛大なぜつきようをあげ、それから、あまりのことによろめいてベッドにぎやくもどりした。




 目が覚めて、三日目の朝がきた。私がどんなに現実とうをしていても、朝はちゃんとやってくる。

(やっぱり、だめか……)

 どうやら夢オチで終わるようなお手軽なケースではなかったらしい。

 この三日の間に、いろいろなことがわかった。

 まず、今の私は、しようしんしようめいのお姫様だ。

 アルティリエ・ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーディエ。

 この国の貴族の中の貴族とでもいうようなよんだいこうしやくひつとうたるエルゼヴェルト公爵を父に、現国王のまいであるエフィニア王女を母に持つゆいしよ正しいお姫様。年齢は、十二歳になったばかり。

 そしてここは、外国どころじゃなくて、異世界だった。

 異世界……異なる世界。

 本当に、その通りだった。ここは私が生まれた日本ではなく、あの日本があった世界ですらない。目が覚めてから三日しかたってないけれど、でもここが、私のおくにあるのとはまったく違う世界だということは、すぐに理解できた。

 なぜかといえば、ここには電気がない。

 あちらの世界にも、もちろん電気がひかれていない場所はあった。でもそれは、技術的な……あるいはコストパフォーマンス的な問題でひくことができないという意味でだ。

 少なくともこの室内の文化水準の場所でひくことができないということはありえない。

 ない、というのは文字通りない……存在しないということで、電気がないから、当然エアコンやテレビやオーディオ、照明などの各種電化製品も存在しない。

 何しろ、この部屋のシャンデリアは油であかりが点くのだ。夕方になると、ながーいはしをもって油をいれにくる人と火をともしにくる人がいて、シャンデリアをはじめとする照明器具の灯りを点けてまわる。

 照明が?ろうそくとランプだと知った時、軽くカルチャーショックを受けたのはないしよだ。

 何かするたびにカルチャーショックの連続なので、変な話、ショックを受けるのにもだんだんと慣れつつあるけれど。


「姫様、お目覚め……あら、もうえてしまわれたのですね」

 入ってきたのはじよのリリアだった。

 私はその言葉にこくりとうなづいた。

 自分一人で着られる服はそれほど多くないのでせんたくはばは少なかったけど、着替えをするのにだれかの手を借りるのは、まだちょっとはばかられた。

(すごく大変だったけど)

 あまりおうとつがない、子供の柔らかな身体だから自分で着られたようなもので、もうちょっとボタンが多かったり、ややこしいものだったら無理だった。

 リリアはそっと、私のこしの後ろの大きなリボンの形を整える。

 彼女は、私についている侍女のまとめ役のようなものをしている。護衛の達は何かあればリリアにおうかがいをたてるし、他の侍女達もリリアに指示をあおいでいた。

 私の侍女達は皆、シンプルでシルエットの美しい黒いベルベットのワンピースを着ているのですぐわかる。えりとカフスはえができるようになっていて、日中はグレーのものを、午後からは白いものをつける。黒は王宮侍女のみが着用できる色のためか、身に着けている彼女達はどこかほこらしげでもある。

「朝食はこちらにお持ちしますか?」

 もう一度うなづいた。

 リリアはかしこまりました、と言って私の前から下がる。

 その姿がとびらの向こうに消えてから、私はほっと小さく息をついた。

 状況がよく飲み込めるまでは口を開かないようにしようと思ったのは、我ながらなかなか良い判断だったと思う。けれど、いまだにそれが続いているのは、状況がいささか複雑すぎてどうしてよいかわからなかったからだ。

 大事になってしまって口を開くタイミングをいつしてると言ってくれてもかまわない。

(まさか、ここまでおおさわぎになるなんて……)

 私の置かれている状況や周囲の事情がだいぶわかってから、ちょっとまずかったかもしれないとは思ったけれど、でも……やっぱり、だんまりを決め込む以外に手段はないような気もする。


(……たぶん私は、殺されかけたのだと思うから……)


 あちらの世界で私が交通事故に遭ったように、こちらの世界でアルティリエは、バルコニーから落ちたらしい。『らしい』としか言えないのは、私がそれを覚えていない為だ。

 現在の私は、事故のしようげきで記憶を失い、更に声も失っている、ということになっている。

 不用意に言葉を発してボロを出すわけにはいかないから、お口厳重チャックで周囲をよく観察し、耳をかたむけることで情報収集中だ。

 リリアだけでなく、私には何人かの侍女がついているのだけれど、彼女達が私に話しかけたり問いかけたりする言葉からいくつかのことがわかっている。

(どうやら、事故、だとは思ってないんだよね……みんな)

 侍女達は、バルコニーから落ちたことを口では『事故』と言うものの、みな、どこかそれを信じていない。はっきりとは言わないけれど、アルティリエが不注意でバルコニーから落ちたとは思っていないらしい。

 このエルゼヴェルト公爵のきよじようは、湖の小島に建っている城だ。

 そして、アルティリエが落ちたバルコニーは三階。三階といってもこちらは天井が高いので、とても三階建ての家というレベルではない。ビルでいえばその倍くらいの階数……五、六階にあたるのではないかという高さの三階だ。それにプラスがけの分の高さがあると考えたら、十階建てマンションの屋上からついらくしたのといつしよくらいだと思う。

 ちなみに、下は真冬の湖である。

(ホント、よく生きていたと思う)

 私がいる部屋のバルコニー……ちなみに一階……から下を見てつくづく思った。

 つうだったら、たぶん助からない。

 アルティリエが助かったのは、アルティリエがまだ子供で体重が軽かったことと、とてつもなく強運だったからだ。せきと言ってもおかしくないと思う。

 ただ、中身が今の『私』になっている点で本当に助かったと言えるのか、いささかみようではあるけれど。

(顔も見たことないけれど、三番目のお兄さん、助けてくれてありがとう)

 アルティリエがバルコニーから落ちたその日は、湖には前夜からうすく氷が張っていた。

 けれど、三番目のけいがどこぞの貴族のおじようさんと湖にボートをかべてデートをする予定だったから、朝のうちに前もってかなりの部分の氷を割っていたため、日中にはもうほとんどの氷がけて消えていた。だから、私は氷に遮られることなく水中に落ちたし、近くにいた異母兄が、私をそくすくいあげることができたのだと聞いた。

 彼がいなければ、墜落からは助かっても湖ででき、あるいはとうだっただろう。

 偶然に偶然が重なり、アルティリエは無傷だった。外傷はほとんどなく、ほんの少しぼくの痕があるくらい。

 こんな幸運は、本当だったら宝くじを当てることなんかに使いたい。

(もしくはそこまでのぜいたくは言わないから、せめて命の危険のない安全なところで生活したい!)

 ここはアルティリエの生家だけれど、彼女にとって絶対に安全な場所とは言えない。

 むしろ、なかなかに危険な場所の一つである。

(だって……)

 アルティリエであるところの私は、かなり複雑な立場に置かれているのだ。


 この国では、フルネームを聞けばどういう血筋の誰なのかがわかる。

 簡単な区別だけど、名前が長ければ長いほど身分が高いと判断していい。いつぱん市民は名もせいも一つずつで、しようごうもない。

 今の私のフルネームは、アルティリエ・ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーディエという。

 アルティリエ・ルティアーヌというのが名前。これは、古代語で書かれた聖書の冒頭部分からとっていて、『光の中で輝く光』を意味する。

 名付けたのは、母だ。私を産むのとえのようにしてくなった母と私のたった一つのきずなが、この名前だ。

 そして、『ディア』というのは、王族を意味する称号。

『ディア』は、王の子・孫に与えられる。その血に与えられるため、王族のはいぐうしやには与えられない。私の『ディア』は王女である母の子であり、ひいては前王の孫であるから。

『ディス』は、きさきという意味で、王族と四大公爵の正式な結婚による配偶者にのみ与えられる称号の一つ。

 そう。なんと、アルティリエ……つまり、私はよわい十二にしてこんしやなのだ!!!

 これ、知ったときにはちょっとぜんとした。

 アルティリエの夫は、現国王の第一王子にして王太子であるナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエ殿でんだ。

 王太子ということは未来の王様となることがほぼ確定している。そのせいだから、女性の身分としては最高の部類だ。

 政略結婚に年齢は関係ないというけれど、アルティリエはまだ十二歳。それもわりと発育不良気味で年齢より幼く見える。なのに、人妻って! 元の私は、三十三歳で独身だったのに! 元の自分のなさにちょっとがっくりしてしまう。

 個人的な事情はさておき、アルティリエが結婚したのは生後七ヶ月だったというから、もう何も言えないというか……私にどうこうできるレベルの話じゃない。良いか悪いかを論じるところを通り越している。

 最後に姓。女性の姓は、結婚後は生家とこんを結ぶからエルゼヴェルト=ダーディエ。

 これがこんだと母の生家と父の生家を結ぶ。私の場合は順番が入れ替わるだけで組み合わせは一緒だ。

 エルゼヴェルトというのは父の姓になる。

 アルティリエの父は、現エルゼヴェルト公爵レオンハルト・シスレイ=ヴェル=ディア=アディニア=エルゼヴェルトだ。

 エルゼヴェルトはけんこくから続くダーディニア王国有数の大貴族で、王国の四方のかなめである四大公爵家の筆頭。現公爵は東方師団のしようぐんしよくを預かる武人であり、その他の親族も王宮でけんしよくにある者が多く、政治的にもかなりのえいきようりよくを持っている。

 だからこそ、王女のこうが実現した。

 母の姓であるダーディエ。それは、このダーディニア王国の王家の姓だ。

 私の……アルティリエの母は、王家から降嫁した前王の末王女でエフィニア・ユディエール=ディア=ディス=ダーディエという。

 直系王族だから母の姓は一つしかない。直系の王子、王女はその姓に婚家のものを重ねない。王の子は、どこにろうとも王の子であるからだ。

 アルティリエは、王女と国内有数の大貴族の当主との正統なこんいんの間に生まれたこの上なく由緒正しい血筋のお姫様で、幼いといえど王太子妃という高位にある。

 そのうえ現在、エルゼヴェルト公爵家にはあとぎがいない。五人も居る異母兄には相続権がなく、今のところアルティリエ……つまり、私だけがゆいいつの相続者なのだ。

 なぜ、私が殺されかけたのかはわからない。でも命をねらわれるにじゆうぶんな理由はある。

(といっても、私には何もしようがないんだけど……)

 理由がたくさんあっても、本当のところはわからない。だいたい、王太子妃にして筆頭公爵家のただ一人の相続者だなんて、物語でも設定りすぎだろう。

(……あ……)

 ふと耳をかすめた音。

(もう、そんな時間か……)

 ろうの方からカタカタと音がしてる。

 何度か聞いた音……朝食のワゴンが運ばれてくる音だ。

 わーい、朝ごはん! と思ったらおなかが小さく鳴った。

 こんな時でもおなかだけはしっかりすく。

(とりあえず、食べてから考えよう……)

 私は問題を先送りにした。……逃げたわけじゃない、決して。




(しっかし、何度見ても奇跡だなぁ……)

 バルコニーに設置されたこしけて、ぼんやりと湖をながめる。

 目覚めた初日はさすがにベッドから出してもらえなかった。

 その後は部屋の中でなら起きていることを許されたけれど、もちろん外になんか出してもらえなかった。あまりの息苦しさにほんのちょっとだけ廊下に出てみたら、廊下にかっている絵に夢中になってしまい、気付けばこの広いお城の中で迷子になっていた。

 何とか自室近くまで戻って来たと思ったら、今度はものすごい形相をしたくつきような男達とはちわせてしまい、反射的に逃げた。言い訳するようだけど、あの顔を見たら誰でも逃げずにはいられないと思う。

 それで、私は男達に追いかけられて城中をめいそうし、墜落現場の三階のバルコニーにたどり着いて、そのあまりの高さに眩暈めまいをおこしてベッドに逆もどりした。

(あれはたぶん、私を探してくれていた人達だったんだよね)

 あんまりにもすごい形相で追いかけてきたので、たまらず逃げ出してしまった。

 きっと大騒ぎになっていたのだろう。気絶してしまった私はその?てんまつを知らないけれど。

(ごめんなさい、もう勝手に廊下に出たりしないから)

 心の中で謝罪の言葉をつぶやき、小さないきらす。

 あんな事件があった後に部屋を抜け出すようなことをするべきではなかった。……そのつもりはなかったとはいえ、結果として迷子になったので、抜け出したと判断されても言い訳のしようがない。

 さっきも、リリアから絶対に部屋から出ないでくださいと念を押されてしまった。

 反省しているからこそ、朝からずっとおとなしく椅子に座り続けている。

(なんか、人形になった気分だわ)

 目の前の光景は、まるで絵のように美しい。

 鮮やかな青い空、向こう岸には深い森が見える。

 セラード大森林……ダーディニア有数の森林地帯で、その半数以上の樹木はじゆれい五百年をえるという。この大森林の奥には旧ていこく時代のせきがあるそうだ。

(景色は綺麗なのに……)

 どうもなおにその景色を楽しめない。何だか、気持ちがすくむのだ。

 今の私の部屋は一階だけど、湖の上に張り出したバルコニーから景色を見るだけでも何だか全身がきゅっと縮こまるような気がする。

(記憶はなくても、身体が覚えてるのかもしれない……落ちた時のことを)

 意識不明で一週間んだらしいけれど、もちろん覚えていない。それだけ寝込んだ割には、身体は何でもなかったと思う。

 目覚めた当初はずっと寝ていたせいであちらこちら痛かったりもしたけれど、今は全然平気だ。

(私を殺そうとしていた人、びっくりしてるだろうなぁ)

 アルティリエが落ちたとされるバルコニーは、三階のはし。絶対にアルティリエが一人で行くような場所ではないと侍女達が力説するような場所だ。

 そもそもあそこはゆうしつで、女性が足を踏み入れるようなところではない。

 遊戯室というのは、夜会や食事会などの後、男性達がまき煙草たばこを楽しみながらあちらの世界でいうビリヤードやダーツに似た遊戯に興じる部屋で、当日も使われていない。

 アルティリエは亡き母のそうに参加する為にこの城をおとずれている。葬祀というのは、あちらでいうおねんと似たような意味をもつしきだ。とてもげんしゆくなものなので、その為に訪れた少女が遊興にふけるための遊戯室に足を踏み入れるとは考えにくい。

 更にダメ押しで付け加えるならば、物心ついたときから王太子妃でありきつすいのお姫様育ちのアルティリエには、一人でどこかに行くという発想自体がない。

 昨日の脱走騒動アレは、中身が『私』だったからの結果だ。

 だからこそ護衛の騎士やお供の侍女達が誰一人気付かぬうちに、足を踏み入れる理由のない場所からアルティリエが落ちるなんてことは、本当にありえないことなのだ。

 リリアなどは、あからさまには口に出さないけれど、誰かにされ、ベランダからとされたのではと考えている。

 エルゼヴェルト公爵家側は必死になって取り繕って『事故』と言っているが、これは間違いなく『事件』だ。

 それも立派な『王太子妃暗殺すい事件』である。私が脱走しようとした影響もあるが、リリアや護衛の騎士達がぴりぴりしてるのも無理はない。

(私に記憶があれば、話は簡単だったけど。ただ……事故ではないという決め手もないわけだし……)

 ちょっと嫌な考えになってしまって、それを振り切るように首を振った。

 視線の先で湖面に映るはくの城がれる。湖の上に建つ城というのは、絵的にはとっても綺麗だけど使い勝手が悪そうだ。

 お城のある小島と陸地を?つなぐのは、大人三人がかりでやっと動かせる巻き上げ機で上げ下げするばしだけ。それを毎朝毎夕、上げ下げしているのだ。ひどい音がするからそれで目が覚めることもある。

(……巻き上げ機に油させばいいのに)

 いや、油さしたくらいではどうにもならないのかもしれないけど。

 ふと、気配にくとリリアが近づいてくる。

「お茶になさいますか?」

 私はこくりとうなづいた。


 あんな事故のあとだからなのか、日々の時間はたんたんと流れてゆく。

 時間の単位は、分=ディン、時間=ディダと読む。二十四時間で一日なのは、元の世界と変わらない。

 朝は目覚めるとまず洗顔と髪のセットをし、着換えが終わるまでにだいたい四十分から五十分くらい。たくが終わったら三十分ほどかけて朝食をいただく。もっとゆっくりとるものらしいけれど、一人での食事だからさほど時間もかからない。

 朝食後にはあいさつを受ける。私の元に挨拶にくるのは、父である公爵だけだ。アルティリエは生まれてすぐに王都の屋敷に移り、生後七ヶ月目からは王宮暮らしなので、彼にとってむすめだという感覚は薄いのだと思う。しかも今は中身が私で、私にはさらに父親である感覚が薄くて、どっちもどっちという感じがする。一緒に同じ時間を過ごすようなことはまったくなくて、朝の挨拶をした後は一日中顔を合わせない。

 他に挨拶に来る人間はおらず、私から誰かのところに挨拶に行くこともない。

 それは、私に目通りするほど身分のある者が公爵の他にいないからだ。そして、私が自分から挨拶に行くのは、国王夫妻と夫である王太子殿下だけだとリリアが教えてくれた。

 それで、この挨拶が終わると自由時間になる。

(なんか、放置状態っぽいような……)

 もしかしたら、王宮ではこの時間に習い事とかがいろいろあるのかもしれないけれど、実家とはいえ旅先であるここにはそれがない。

 私の周囲にいるのは、リリアをはじめとする数名の侍女達だ。

 彼女達は王宮の侍女で、このお城の侍女ではない。リリアは王家ちよつかつりようぜい管理官であるしやくれいじようで、他の侍女達も身元が確かな貴族の令嬢達だという。

 リリアは、私が事故に遭ったことにとても責任を感じていて、言葉を失ったと思われている私にいろんな話を聞かせてくれる。少しでも声を───言葉を取り戻そうと努力してくれているのだ。

 アルティリエはもともとほとんどしゃべらない無口な子ではあったけれど、しゃべれないわけではなかった。

 無口なのとしゃべれないのは、結果にそう差はなくても意味はまったく違う。

(……ごめんね、しゃべらなくて)

 私は、アルティリエだ。

 こうしてここにいる以上、それが今の私の現実。

 けれど……こうして状況を確認するためと自分に言い聞かせながら口を開かないでいるのは、それをまだ認められないからかもしれない。

 医師のしんだんで、アルティリエは事故のショックで言葉を失い、ついでに記憶も失っているらしいとされている。らしい、というのは、私がしゃべらないから確認がとれない為。

 一言で言ってしまえば、自主的に声を発するふんぎりがつかないでいるのだ。

 自分がアルティリエであることはわかっている。

 その置かれている状況もだいぶわかった。

 ……でも、積極的にアルティリエとしてこの世界で生きていく決断ができていない。

ゆうじゆうだんなだけなんだけど)

 正直言って、アルティリエはとても可愛い。しかも、とびっきり由緒正しい血筋で、かつ王太子妃という身分もある。うまくやればこの世界でも生きていけるだろう。

 リスクもあるけれど、条件面だけでいえば元の世界とは比べものにならない好条件がそろっている。

 それでも、私は元の世界を思わずにはいられない。

(戻れないのに……)

 それだけは、何となくわかっていた。

 あの時、たぶん私の───和泉麻耶の生命は失われた。

 そして、私のたましいはアルティリエに生まれ変わったのだと思う。

(……どう考えても、その可能性が一番高い)

 まんとかでゆうれいになってのりうつるとかあったけれど、それはその身体の人格が別にあった。でも、今の私は違う。一つの身体に一つの魂しか宿っていない。そして私は、和泉麻耶もアルティリエも同じように『私』だと感じる。

(それがわかっても、私にはどうしようもないけれど……)

 ため息をひとつ。

(いけない、いけない。あんまりため息ばかりついていると幸せが逃げるって言うし)

 とはいえ、目が覚めてから、自分ではどうにもならないことばかりで、ため息の連続だ。

(記憶そうしつっていうお医者さまの診断は都合がいいけど……)

 ちょっとくらい何かおかしくても、墜落事故のショックでごまかせる。

 それに、アルティリエの無口っぷりは相当なものだったらしい。

 侍女達ですらその声をほとんど聞いたことがなく、だいたいの意思つうは首を振るかうなづくかだけだったという。

(ついたあだ名が、人形姫だし……)

 人形と呼ばれるほどしゃべらないお姫様は、何を考えてそうしていたのだろう?

 私は、その理由を知りたかった。たぶん、今の私とはまったく違う理由だろうけれど。


「お待たせいたしました」

 リリアが運んで来たワゴンからは、良いにおいがただよってくる。

 焼きたてのフィナンシェやマドレーヌを見た瞬間、私は思わずにっこりと笑った。

 わーい、すごくおいしそう。

「姫さま?」

 いつしゆん、リリアの動きが止まる。周囲のほかの侍女達がはっと息を?んだ。

 空気がきんちようの色を帯びる。

 その理由がわからなくて、私は小さく首をかしげた。

「い、いえ、何でもありません。さ、どうぞおし上がり下さい」

 こくり、と私はうなづく。皆がどことなくぎこちなかったけれど、追求はしなかった。

 まさか、私がを皆がそんなに驚くなんて思いもしなかったのだ。

(んー……おいしい! うわ、これ作った人、天才! レシピ知りたい!)

 綺麗なきつね色のフィナンシェは、たっぷりのバターを使ったあまひかえめの一品。口にするとふんわりとバターのかおりが広がって、ほろりと口の中でがほどける。

 こういう焼きは、きつね色をげ色にしないその焼き加減が一番難しい。甘さ控えめといえど、砂糖を使っているから焦げやすいし。

(んー、でも、これは砂糖より後をひく甘さだよね。んー、はちみつかな……うん。たぶん、蜂蜜だ)

 ちょっとクセのあるあまがする。でも、のうこうなミルクを使っているからそのクセがいい感じなのだ。これ、ぜつみようなバランス。

 綺麗なはくすいしよくの紅茶を飲みながら、二つ目に手を伸ばす。

(この緑、なんだろう……ほうれん草? よもぎ? たぶん、まつちやないしな……この国)

 緑色をしたフィナンシェ。何かの野菜の葉っぱだと思う。ちょっとほろ苦な感じがすごくおいしい。

「それはザーデのフィナンシェです。ザーデは栄養価が高い野菜なんですよ」

 うれしそうにリリアが説明してくれる。

 なるほど、やっぱり野菜だったかと思いながらおいしくいただく。甘いものを食べると、どうしてこんなに幸せな気分になれるんだろう。すごく不思議。

(どうしよう、三つ目食べようかな、やめようかな……)

 ダイエットに気を配る年齢でもないんだけど、昼食が食べられないのは困るし。

「こちらはラグラにんじんですけど、あまり人参の味はいたしません」

(別に私は人参平気なんだけど、アルティリエはきらいだったのかな?)

 まあ、いいや、と思いつつ三つ目に手を伸ばす。

 人参本来のほのかな甘味がおいしい。これを作った人、名人だと思う。りしたいくらいだ。野菜本来の味を生かしつつ、おとしても普通においしい。

 売り出したら絶対に売れると思う! あ、でも、砂糖とか貴重品そうだからコストパフォーマンス的に無理か。

 後にこのお菓子をめぐってちょっとした騒ぎがおこるのだけれど、勿論この時の私は何も知らなかった。

 それで結局、アーモンドとレーズンのものもあわせて、合計五個も食べた。

 なぜか、侍女達がみんな満足そうだった。




 何もすることがないというのは、なかなか苦痛だ。

 食事の時間で区切りというか時間の感覚を取り戻しているけれど、朝なんだか昼なんだか一瞬わからなくなったりもする。

(んー、いい匂い……にんにくいためてるっぽい)

 ちゆうぼうが近くにあるのか、風の中に食欲をそそる匂いが混じっている。

 この国では、夕食はだいたい夜の七時前後。まだ時間があるので、これからどうするかの基本方針を考えてみた。

 そもそも、ここに来た主目的である母の葬祀は終わっている。墜落事故がなければ、私はもうとっくに王都に戻っていただろう。

(でも、王宮に帰るっていっても、犯人つかまってないし……よーく考えると王宮が安全って保証があるわけでもないし……いや、でもここよりはマシなのか……)

「姫さま……いえ、殿でん

 つらつらそんなことを考えていると、リリアがめずらしく私に『妃殿下』と呼びかける。

 彼女が妃殿下と私を呼ぶ時は、それがおおやけの何かの用事であることを意味しているのだと、この数日で理解していた。

 何? というように視線を向ける。

「……エルゼヴェルト公爵より、こうしやくじん以下、子供達をはいえつさせたいとの申し出がございました」

 瞬間、私は軽く首をかしげる。

「公爵閣下は妃殿下に、である夫人と兄君達をごしようかいしたいとお考えのようです」

 いや、意味はわかっているんだけど……ちょっと、考えてしまう。

 なぜならば、何度も言っているように、単純だけど複雑な事情があるからだ。


 ここでおさらいです。

 私は、公爵と王女との間の正式な婚姻により生まれた公爵令嬢で、今は王太子妃です。

 正式な婚姻とわざわざつけるのは、このダーディニア王国ではそれがとっても重要視されるから。それを踏まえた上で、私の立場と複雑な状況について整理してみると、これが、何ていうかすごくメロドラマ的だったりする。

 父であるエルゼヴェルト公爵にはアルティリエの他に五人の子供がいる。五人全員が息子むすこで、彼らを産んだのは後妻に入った現公爵夫人ルシエラだ。

 ここでのポイントはまず、彼女は『デイス』ではなく、『夫人フイス』であるということ。

夫人フイス』は『めかけ』ではない。正式な妻ではあるけれど、『デイス』の持つさまざまな権利を持たない。ルシエラは『デイス』になれる身分ではないのだ。

 とはいえ実際には、ルシエラより下の身分であっても『デイス』となった女性は何人もいる。でも、おそらくルシエラは永遠にその座につくことができないだろう。

 王家は絶対に、彼女に『デイス』の称号を認めないからだ。

 それには、もちろん理由がある。

 ルシエラの産んだ子供は上から、アラン・ディオル・ラエル・イリス・エルス……アランが二十四歳で最後のイリスとエルスのふたが十七歳だ。勿論、父親はエルゼヴェルト公爵である。

 年齢的におかしい! と思う人も多いだろう。だって、後妻に入った女性の子供の方が前妻の子である私よりだいぶ年上なのだから。

 でもこれは実に単純な事にすぎない。平たく言ってしまえば、彼女はずっと父のあいしようで、私の母が死んで晴れて後妻になったというだけのことだから。

 私の父であるエルゼヴェルト公爵は、私の母、エフィニア王女が生まれた時に彼女のこんやくしやになった。これは公爵家が強く望んだものであり、また、年齢差があったにも関わらず、政治的な事情から王家はそれを退けることがなかった。

 四大公爵家と王家はたがいに何代にもわたってつうこんを繰り返しているけれど、中でもエルゼヴェルト公爵の配偶者はほとんどが王家からの降嫁で、それが不文律と化しているようなところがある。

 だからこそエルゼヴェルト公爵家は王家のスペアなどと言われたりするし、女王がそくする場合の王配の第一候補は、必ずエルゼヴェルトからとあんもくのうちに定められている。

 注意してほしいのは、私の母である王女が生まれた時点で私の父がすでに十五歳だったこと。そしてこの婚姻は、王家よりも公爵家が強く望んだものであること。

 この年齢差が、後のすべての事象のげんきようとなった。


 父・レオンハルトがフィノスはくしやくの一人娘であるルシエラと恋に落ちたのは彼がの時のことだ。

 この時点で私の母であるエフィニア王女はまだわずか五歳。婚約者といっても五歳児ではどうにもならないのが普通だから、レオンハルトとルシエラの仲はかんげいされないまでもわりと大目に見てもらえた。

 一地方貴族にすぎぬフィノス伯爵にとって、娘が次の公爵のちようを受けることは願ってもないことだったし、王家に次ぐ四大公爵家の当主に愛人の一人や二人いてもおかしいことではない。むしろ、いない方が珍しい。

 やがて二人の間に子供が生まれる。

 それが、長男のアラン。アランの生まれた二年後にはディオル、そのまた二年後にラエルが……そして、その三年後には、イリスとエルスの双子が生まれた。その時点でまだ二人は結婚していない。

 できるはずがない。レオンハルトは王女の婚約者なのだから。

 とはいえ、レオンハルトとルシエラはもはやふう同然だった。彼等自身の間でも、他の誰が見たとしてもそうだっただろう。はや、ルシエラは単なる愛人とは言えなかった。

 他に何人も愛人がいたのだったら、問題にもならなかった。王女の降嫁する先として相応ふさわしいかどうかはともかく、何人もの愛妾に何人もの子供がいることはどこの国でも珍しい話ではないし、それなら事態もここまでこじれない。

 けれど公爵は、他に愛妾も愛人もいない。かいというわけではなく、何人か手をつけた女はいるのだが、ただそれだけだという。

(一番感心したのは、手をつけた女性が何人いるかまで知っている侍女達だ。すごいよ、私の侍女。どこのちようほう部員だ)

 この時点で、公爵は王女の降嫁の希望を取り消すべきだったと私は思う。

 けれど、彼はそれをしなかった……政略的なことや政治的なことがいろいろあったのだろう。だが、公人としてはともかく、私人としてのその判断は最悪だ。

(結果、私の今の状況を複雑にしてくれているお母さんの悲劇がおこったのだ)

 既に五人の子持ちで十五歳も年上の、しかも妻同然にぐうしている女性のいる男の下に、たった十五歳の王女が降嫁した。これは、王女の側からみればとんでもない悲劇だ。

 この時点で、王女がルシエラに勝っていたのは身分だけだった。

 そして、若さは彼女の武器とはならなかった。

 明るく可愛らしいエフィニア王女は、王宮で皆に愛されて育ったという。厳格な父王ですら王女にはみを見せたし、気難しい異母兄達もできあいし、宮中の使用人達は王女の用を務めるほまれをとりあったという。もちろん、国民の人気も高かった。

 けれど、男の目には彼女はただの子供にしか映らなかった。

 女としてのりよく……落ち着いたものごしや成熟した身体……そういう意味で男をきつける何かを十五歳の少女が持っていたはずもない。しかも、ルシエラはすでに五人も子供をもうけていた……きっと彼女には、愛されている自信があったに違いない。

 せめてあと五年あれば、その立場は逆転したかもしれない。

 しようぞうを見る限り、エフィニア王女はらしいぼうの持ち主だった。彼女から生まれた自分の顔を見てもそう思う。

 でも、彼女には時間がなかった。

 私が生まれたその夜、公爵はべつていで行われていたルシエラが産んだ末双子の誕生祝いのパーティーの席にいた。彼は、年若いういざんの妻の破水の知らせを無視し、パーティーを続けた。妻の出産よりも愛人の子供の誕生祝いを優先させたのだ。

 ダーディニアでは、普通は父親が名をつける。けれど、私に名をつけたのは母だった。

 すごく綺麗な名前だと思う。聖書の冒頭の一節でもあるアルティリエ=ルティアーヌ……光の中で輝く光……という名前が私はすごく好き。

 そして、母……エフィニア王女は、私の洗礼の為にそこにいた国教会のすうきよう……現在は最高枢機卿となられているジュリウスげいに願ったのだという。

『お願いです。どうか、私とこの子を王都に帰らせて。ここにはもういたくない』

 それが、彼女の『最後の願い』となった。


 容態が急変したエフィニア王女が、その一時間後に息をひきとったからだ。


『最後の願い』というのは特別なものだ。

 国教会の教えにおいて『最後の願い』は必ずかなえられる、とされている。

 あちらで言うゆいごんのようなものだが、その強制力はだんちがいだ。何しろ国教会が持つけんと権力のすべてをかけてその願いを実現させる。

 たとえ、そのすいこうにどんな障害があろうとも。それが、どんなに困難な願いであっても。

 だからこそ『最後の願い』と正式ににんていされるのには厳格なルールがある。

 そうでなければ、故人の最後の願いだと言ってりんじゆうの席にいた人間達が勝手なことを言い出すおそれがあるからだ。

 私が生まれたその夜、その時だったからこそ、すべての条件が整い、最後の願いは成立した。

 翌日、公爵がけつけたときにはもうすべてが決まっていた。

 ────エフィニア王女は王家のれいびようほうむられ、私は王都で育てられるということが。

 降嫁した王女が実家である王家の霊廟に葬られるというのは、まずもって前例がない。その前例がないことが、最後の願いとはいえその場でにんされたあたりに、言葉にしない事情がふくまれることをわかってもらえると思う。

 たった二年の結婚生活は、王女に苦痛しかもたらさなかったのだ。


「妃殿下、どういたしましょう? 内々のお申し出ですが……」

 考えこんでしまった私に、リリアが重ねてける。

(助けてくれた三番目のお兄さんには個人的に会ってお礼を言いたい。でも、それとこれとは別にした方がよい気がする)

 私は小さく首を傾げ、それから首を横に振った。

 別に父親の愛妾だった後妻を認められないほどけつぺきなわけではない。私はアルティリエの記憶を持たないし……でも、やっぱり、公爵と公爵夫人を許せないという気持ちはある。

(お母さんがわいそうだ)

 そう思うと、何かがこみあげてきて鼻の奥がツンとした。

(私は、アルティリエなんだ……)

 いまさらだけど。これまでも、自分がアルティリエだとは思っていた。ただ、実感があまりなくて……半分くらい、自分に言い聞かせているような感じだった。

 けれどこんな時、アルティリエと私はつながっているというか、本当にアルティリエなのだと思う。

 胸のうちに、ひたひたと満ちてくる感情がある……かなしみにも似た、何か。

 泣きたいような、さけびたいような何か。

 それは、この世界を知らない和泉麻耶が持つはずもないモノだ。

 いくら悲劇的……と思っても、しよせんごとならば、本を読んでいるように、あるいは、ドラマを見たように通り過ぎることができる。

 なのに、胸の奥に降り積もる何かがあって、それを無視することが出来ない。

 ただ、話を聞いただけなのに、決して忘れることは出来ないと思う。

 だから……。

(お会いしません)

 私がもう一度静かに首を振ると、リリアがどこかほっとしたような顔で頭を下げた。




 この国では、夕食はみ料理がメインらしい。

 昨日は私の知らない白身魚の煮込みで、一昨日はたぶんぶたにくの煮込み。そして、今日はかもの煮込みだった。

 味付けは塩としようをメインに、いくつかのこうそうを組み合わせている。私の好みからするとちょっと香草がダメ。香りが強すぎる。ついでに塩がき過ぎでかもにくが固すぎる。

 せっかくあぶらがのっていて良い感じの鴨なのに、すごく残念。

(私だったら、かんきつ利かせた鴨のコンフィにする。いや、かもなんばんもいいかも。いっそ、鴨とネギを炭火で焼いて塩ダレで食べるとか……)

 昼間のお菓子の職人さんに比べたら、これを作った料理人は段違いに腕が悪いし、この香草の量はいただけない。香りのきようれつさにちょっと泣きそうになる。

したごしらえをもっとていねいにしようよ。そうすれば肉も柔らかくなるし……こんな香草でごまかさなくても鴨のくさみは消えるのに)

 鴨には独特の匂いがある。それがおいしくもあり、どうしようもないまずさにもなる。鴨が嫌いって人は、だいたい、この匂いがダメみたい。

(この世界の人の味覚も、そう私と違いはないと思うんだけど)

 食べ慣れているものとか、文化の違いとか、はたまた、食べる場所や一緒に食べる人間や雰囲気……味覚にはいろいろな要素が影響するけれど、それでも『おいしい』ものは『おいしい』はずだ。

 私の中の『おいしい』の基本ルールは、『しゆんの食材を、最適な時に、素材の味をかしたシンプルな形でいただく』ことだ。

『美味』をつくるのは、高級な食材がすべてではなく、職人の腕がすべてでもない。

(空腹は最高の調味料!)

 じゆもんのようにその言葉をとなえて、私はパンを口にした。

 白い柔らかなパンは、まだぬくぬくの焼きたてののこがある。これは、はむっと?むだけでしっかりとした小麦っぽい味があってかなり気に入った。

 本当はバターかジャムが欲しいけど、それは贅沢というものだ。目に付くところには何もないから、パンだけでまんした。

 それから、バターと塩で炒めたザーデを食べて、ハーブ水を飲んで食事を終わりにする。

(ごめん、この鴨を全部食べるのは私にはごうもんだから……)

 幼いお姫様である現状、自分で調理をすることはたぶん許されないと思うのだけれど、でも、あえて言いたい。

(お願いだから、私に作らせて! ううん、百歩ゆずって、指示させてくれるだけでもいいから!)

 そうしたら、もうすこし食欲がわくと思う。

 何とか食事を済ませて、食後に何をしようかと考える。ちょっとだけ現実とうだ。

 夜の自由時間は、だいたい本を読んでいることが多い。

 今読んでいるのは、リリアが持ってきてくれた王国の歴史書だ。どうやら、アルティリエは歴史が好きだったらしい。

 今の私には必要な知識だからとてもありがたい。

(アルティリエって、実はすごい女の子だと思う)

 私にアルティリエの記憶はない。でも、彼女の知識はある。

 まず、言葉に不自由しなかった。日本語ではないし、それなりに使える英語でもフランス語でもないけれど、わかる。読み書きにも問題はなかったし、歴史書には古いもの……古語で書かれているものも混じっていたのに、特別な用語以外はすんなりと読めた。

 別に頭の中で日本語にほんやくしているわけではなく、ちゃんとダーディニアの公用語である大陸共通語で考えている自分がいる。しばらくたつまで、日本語ではないのにちゃんと言葉がわかっていることを不思議に思わなかったくらいだ。

 それから、少しずつよみがえってきている教養方面の知識がとても役に立っている。

 例えば、ティーカップを見た時に、そのカップの形の種類だったり、絵付けの技法だったり、かまの名前やその来歴がおもかぶ。他にも、地名を聞くとその土地の名所やとくちようや治めている貴族の名が頭の中に浮かんできたりするのだ。

 かく対象になるような人間が周囲にいないから正確なところはわからないけれど、十二歳の女の子としてアルティリエはかなり博識だったのではないだろうか?

 何よりも私が感心したのは、アルティリエが自分の護衛の騎士と侍女の名前を全員フルネームで知っていたことだ。

 それは彼女が、皆の家系や地位についてちゃんとあくしていたということだ。なかなかできることじゃないと思う。

(王太子妃、か……)

 幼くても、アルティリエは王太子の妃としての自覚があったのだろう。

 目が覚めてすぐにはわからなかったいろいろなことが、こうやって落ち着いてくるとだんだんわかってくる。

 のんきにしているけれど、本当はわからないことばかりでまどいの連続で、何も見えないさぐり状態の中にほうり込まれた感じがしている。

 でも、時間を過ごしていくうちに、麻耶とアルティリエが重なっていく。

 どこか白昼夢のように現実感がとぼしかった部分が、日々過ごす時間や浮かび上がる知識に裏付けされて、明確に自分の中に刻まれていくかのように感じる。

 知識もまた記憶の一部であるに違いないから、いつか私は自分がアルティリエであることをまったく疑わなくなるのかもしれない。

「食後のお茶には、ロブ茶をご用意しました」

 私は、リリアの声に顔をあげた。

 ロブ茶は飲むとさっぱりするお茶。

 ほうじ茶+ウーロンちやみたいな味で、油っぽいものを食べた後には必ず出てくる。油分を洗い流してくれるという。クセのないプーアール茶みたいなものだ。

(ありがとう)

 お茶を出すとリリアは何か用があったのか、いつものようにかたわらに控えないで下がった。めずらしく他の侍女達もいない。一人で食事をしたり、お茶をするのは慣れているから別に気にしなかった。

 ベトつく手を洗いに行こうと思い、席を立った。これ、本当はおぎようが悪いことなんだけど、今は誰もいないから良しということにする。

 本来、こういう時は侍女を呼ばなければいけない。でも、私の夕食の後片付けもあるし、彼女達も交代で食事をとる時間だからえんりよしたのだ。

 ドアに手をかけると、部屋の外から声が聞こえた。

「……妃殿下が、公爵夫人との対面を断ったって?」

「らしいな。でも、当然だろ」

「そりゃあ、そうだ。いかに公爵閣下とはいえ、妃殿下に強制はできないもんな」

 思わず手を止めた。話しているのは、たぶん私の護衛の騎士達だ。顔を見ればすぐに名前もわかるんだけど、声だけではまだよくわからない。

(あれ? 声がするってことは、こっちって、もしかして、洗面室じゃなくて廊下?)

 ドアを開かないように注意して、そーっと逆側に戻る。

 洗面室で手を洗ってから席に戻ると、すぐに侍女達が戻ってきた。

 私は食後のお茶を飲み終わっていたから、首元のナプキンをたたんでテーブルに置く。

 それがお茶も終わり、の合図だ。二人が片付けをはじめたので、私はちょっとだけさっきの会話について考える。

 騎士達は、私が公爵夫人との対面を断ったことを知っていた。そして、それを当然だと思っていた。彼らの声には、いい気味だと言いたげな感じが漂っていたように思える。

(まあ、彼らは近衛このえだものね……当然といえば当然か)

 近衛というのは、王家の私兵に近い。王国法上は違うのだけれど、実質的には私兵だと思っていい。元々王家に近い上に、彼らの職務の大半は王族の身辺警護だ。そういう部隊の性格上、王家に対して忠誠心があつくなるのは当然のことだ。

 だから、エフィニア王女が亡くなったことを哀しみ、その原因であるルシエラ夫人に良い感情を持っていない人間が多いのだろう。

(あまりにも、だもんね……)


 私の母である王女が亡くなって半年後、が明けるとすぐに公爵はルシエラを後妻にむかえた。

 本来であれば、配偶者の正式な喪は三年におよぶ。六ヶ月というのは仮喪にすぎない。

 けいがある場合は仮喪を認め、喪明けを早めることが許されているが、この時はあまりにもひどすぎるとさすがに非難を浴びた。

 確かに王国のじゆうちんたる公爵の婚姻は慶事だが、それは王女のせいきよがなければありえない慶事だったからだ。まるで王女が死ぬのを待ちかねていたかのようだとうわさされたほどだ。

(早すぎる死だったから、暗殺ではないかという声も囁かれたらしいし……)

 せいの小劇場やしば小屋では、世間で話題になった出来事をすぐに芝居に仕立てて見せたりするのだが、公爵と公爵夫人をふうした演目はあっという間に一世をふうした。その演目内で王女は、彼らに毒殺されたことになっているのだ。

 もちろん、名前は置き換えられているし、伯爵と伯爵夫人になっているらしいけど、モデルが誰かは皆が知っている。

 王女の死は出産のせいだけれど、そうかんぐられてもおかしくない、ということだ。

 四大公爵の正式な結婚には王の許可がいる。

 公爵に限らず、貴族の婚姻は王の許可をいただかねば正式なものとみなされない。

 ルシエラと公爵が結婚するにあたり、国王陛下が許可を与える条件としたのが、王太子殿下と私の婚姻であり、私に関するいつさいの権利を公爵家がほうすることだった。

(ここで重要なのは、放棄するのは公爵家側のみであって、私の公爵家に関するすべての権利はそのままということ)

 公爵はこれを無条件で?んだ。

 エルゼヴェルト公爵家は、今後、娘……つまり、私に対する一切の権利を失う。それは、公爵家がこの結婚におけるすべてのメリットを放棄するのと同じだった。でも、そこまでじようしてでも、公爵はルシエラと正式に結婚しなければならない理由があったのだ。

 まさか後々、この結婚が彼の計算を大きくくるわせる最大の失策になるとは思ってもいなかっただろう、この時は。


 一方、息子とめいを強引に婚姻させた国王陛下は当時、いかりの余り政治的な判断などまったく頭になかったらしいと言われている。

 異母妹をぐうのうちに死なせてしまった兄の行き場のない怒りは、既に他家にとついだ妹を王家の霊廟に眠らせ、果ては彼女が産んだ娘を父親の手からかんぺきにとりあげるというこうにつながった。

 そして、まるで公爵にあてつけるかのように、生後七ヶ月の私と自身の息子である王太子ナディル殿下の結婚をおこなったのだという。

 普通、こういう場合は婚約して、ある程度年齢がいってから結婚の運びとなる。だが、陛下はエフィニア王女の例をひき、婚約期間が長く、正式な婚姻が行われていなかったからこそ正式な妻をないがしろにするような間違いがおきたのだと、年齢を理由に反対する者達の口をふうじた。

 国家行事としての挙式こそ私が成長してから再度行うと定められたが、それ以外のすべてがきちんと正規に執り行われたという。もちろん、私にその記憶はない。

(一番めいわくしているのは、当事者である王太子殿下だと思うよ。十五歳の若さで人生の墓場に片足をつっこみ、しかも相手は生後七ヶ月なんて……)

 国王陛下は、愛する妹の身におこった出来事をゆるせなかった。だから、彼女が残した私を自分の保護下において、以降、公爵家にほとんど関わらせようとはしなかった。

 陛下の私に対する行き過ぎたこうぐうは、公爵に対する八つ当たりとひよういつたいしている。

 通常、王太子妃に専用の宮はないのにわざわざ公爵家の負担で新たに王太子妃宮を建設させたし、国王からの結婚祝いとして、アル・バイゼルという都市を王太子妃領と定めた。アル・バイゼルは領内に大きな港町を持たないエルゼヴェルト公爵家が自領とすることを悲願としていた都市だ。それを私に与えたのだから、陛下の嫌がらせはかなり強烈だ。

(思うに……)

 公爵はせめて、あと三年待てば良かった。正式な喪をきちんと過ごせば良かった。これまでずっと愛人だったのだ。ルシエラが待てなかったわけではないだろう。

 政略結婚の妻より愛人を愛してしまうこと自体については、私個人の感情はどうあれ、たぶんこの国の人達はあまり咎めない。特に貴族階級の人達は。

 けれど、それであっても公爵の王女に対する仕打ちは酷かった。

 国内有数の大貴族たるエルゼヴェルト公爵を面と向かって非難する人間はそれほど多くはなかったけれど確かにいたし、国民に人気のあった末王女の悲劇は、芝居だけではなく、ぎんゆうじんの歌にもなって他国にすら広まっている。

 だが、公爵には、どうしても正式な喪明けを待てない理由があったのだ。

(ルシエラのにんしん……)

 この時、ルシエラは五度目の妊娠をしていた。

 ダーディニア王国の国法は、正式な婚姻から生まれた子供にしか相続を認めない。

 ゆえに、二人が結婚していない間に産まれた五人の息子達は、公爵がどれほどにんしようともしよでしかなく、しやくも財産も土地も相続できない。

 さかのぼってちやくしゆつ認定することもできるが、その場合、子が生まれた時点において、子を産んだ女と正式に婚姻していたと国教会に認められなければならない。

(公爵にはそれは絶対にできなかった……)

 それは望むことすら許されないことだった。

 彼は、王女が生まれた時からの正式な婚約者だ。ルシエラとの子供達を嫡出子認定する為には、王女との婚約も結婚もなかったことにしなければならない。だが、何を引き換えにしようとも、王家と国教会はそれを認めない。

 だからこそ、公爵が後継ぎを得る為には、ルシエラの腹にいた子供を庶子にするわけにはいかなかった。どれほどの悪評を買おうとも、どうしても結婚を急ぐ必要があったのだ。

(そして、公爵とルシエラは結婚した)

 ルシエラは、私が一歳になる直前に男の子を産んだ────ただし、それは死産だった。

 その後、ルシエラは何度か妊娠したけれど、以後子供が産まれることはなかった。

 そして現在、誰の目にも明らかな事実がある。

『アルティリエ王太子妃は、エルゼヴェルト公爵家の唯一の嫡子である』

 ルシエラとの結婚にあたり、公爵はアルティリエに関するすべての権利を放棄したから、アルティリエはエルゼヴェルトの娘というよりは王家の娘に等しい。

 けれど、アルティリエがエルゼヴェルト公爵の唯一の嫡子であることは変えようのない事実で、それがとても重要な意味を持つことになってしまった。

(ルシエラは今、四十三歳。絶対に子供が産めないという年齢ではないけれど、たぶん、無理だろう)

 友達に産科の看護師だった子がいるから聞いたことがある。流産はクセになるのだ。しかも、四十三歳はこうれい出産になる。ここのりよう水準をそれほどよく知らないけれど、あちらより高くはあるまい。だから、おそらくむずかしい。

 公爵は、ルシエラとこんして新たに妃なり夫人なりを迎え入れない限り、もうアルティリエ以外の嫡子を得ることはできないのだ。

(国王陛下のしゆ返しは、思いもかけない切り札を生んだ)

 このまま公爵が嫡子を得られないと、エルゼヴェルトのすべてはアルティリエの……ひいては王家のものとなる。

 公爵は庶子である子供達に分家し、財産をぶんすることができる。けれどそれは、国法により細かい規定があって、簡単に言うと公爵の財産をぐ正式な嫡子の……つまり現状においては、アルティリエの同意が得られないと叶わない。

 王太子妃とエルゼヴェルト公爵を兼ねることはできないから、正確に言えば、アルティリエは公爵家の後継ぎではない。が、いつかアルティリエが産むであろう相続人の代理だ。

 アルティリエの最初の子供は、生まれた瞬間に次の王太子となり、二番目の子供は、無条件で次のエルゼヴェルト公爵となる。

 何にせよ、かんじんの私が十二歳では、まだまだそんな面倒な話は遠い先のことだ。


「姫さま、そろそろ、湯浴みをお願いいたします。お湯がご用意できましたので」

 リリアの声にはっとした。ちょっと考え込みすぎた。余計な方向に。

 私は、お茶を半分残し、わかったというようにうなづいて立ち上がる。

 あちらと違っておもかなり大変だ。じやぐちをひねればお湯が出るなんてことはありえないから、用意をする人も大変だし、入るのも大変。

 恥ずかしいけれど、一人では入らせてもらえないし。

 女の子同士で入るのと一緒、と思って我慢している。

(……あれ? そういえば、王宮への現状報告とかってどうなってるんだろう?)

 ちょっとだけ疑問に思ったけれど、お風呂に入ったらきれいさっぱり忘れてしまった。


 ……それを、後で、すごくこうかいすることになる。




 目覚めて六日目の朝がやってきた。

 さわやかな朝ではあったけれど、今日も状況は変わらない。さすがにもう夢オチにも期待できなかったから、目覚めるとすぐに侍女を呼んでおとなしく着替えることにした。

 はいわゆるネグリジェで、ぐるしくないようにレースはだいぶ省かれている。それでもお姫様らしく、とても可愛い。あちらだったらこのままワンピースで通用する。

(普通なら、下着はパンティでブラ……だけど)

 この世界の十二歳の女の子用下着は、スリップにふとももかくれるくらいのズロースだ。お姫様オプションで、せんさいな雪のけつしようのような細かいレースが贅沢につかってある。

 そこに更にレースたっぷりのアンダースカートをはく。これはウェストをひもでしめるようになっていた。

(ここまでは一人でもできる)

 できないのが、この次。そでぐちにレースたっぷり、身体にぴったりとしたブラウスだ。なんでわざわざ背中ボタンなんだろう。しかも十二個も! 前ボタンにすれば一人でも着替えられるのに。

(でも、拷問器具みたいなコルセットがない世界でよかった!)

 心の底からそう思う。こちらの主流はソフトなタイプのコルセットで、未成年の私はまだつけなくて良い。そしてその上にガウンと呼ばれるワンピースっぽい服を重ねる。

 今日は、淡い水色に白いレースをふんだんにつかったもの。すっぽりと頭からかぶるタイプで、アンティークドールほどフリフリではないけれど、いかにもお姫様チックな格好ではある。

(こんなレースたっぷりな服は着たことがなかったけど、ちょっとクセになるかも)

 手仕事のゴージャスなレースや刺?は本当にてきだ。なけなしの女心をたせる。

 足元は薄い絹のくつした。靴下の最上部はゴム製のリングでさがってこないようにとめる仕様になっている。これが成人した女性だとガーターベルトを使うらしい。

 靴はガウンに合わせた水色の布製。金糸、銀糸をふんだんにつかった刺?がされている。

(この刺?の細かさはすごい。一財産になりそうな靴だ)

 底はゴムみたいなものでできている。ゴムみたいとしか言えないのは、私の知っている生ゴムの色と違ってはんとうめいはくだくした色をしているから。これ、後で知ったんだけど、王国の最南方領土であるヴァリアスにしか生えない樹木のじゆえきだそうだ。

(う~、可愛い!)

 身支度が整ったところで、鏡の前で思わずくるっと回ってしまった。

 ナルシスト入っていてごめんなさい。でも、本当に可愛いんだもん。ちょっと鏡に見惚れるくらいは許して欲しい。

 やわらかにウェーブを描く金の巻き毛。目は青とも碧ともつかぬ不思議な色あいをしている。お母さんの肖像画も綺麗だったけど、この子も相当だ。

 将来、どれだけ可愛くなるか楽しみだ。

 ……自分のことだと思ったら、たんに恥ずかしさでいたたまれなくなったけど。

 侍女の一人であるジュリアが、私の髪を綺麗に整え、ドレスとともぬののリボンを結ぶ。ジュリアはこういうふくしよく関係にとてもくわしい。

「お似合いですわ」

 どのガウンにどんなアンダースカートにするか、どんな靴下や靴をあわせるか、髪型や髪に飾るものまで含めて、私の侍女達は研究に余念がない。

 満足そうに皆がうなづくので、何だかおかしくてちょっと笑ってしまった。

 ほんとにちょっと。口元がゆるむくらい。

 なのに、そんな私を見てリリアが泣きそうな笑い顔を見せる。

(……そんなに、アルティリエってお人形だったのかな)

 我が事ながら、ちょっと涙出そう。こんなさいな反応でここまで喜ぶくらい無反応だった事実を見せつけられるたびに、何だか申し訳ない気分にさせられる。


「姫さま、今日はこの地方の料理を用意していただきました」

 リリアがいつものように朝食のワゴンを運んできた。

 もちろん、私が口にする前に侍女達がよそいながら毒見をしている。

(生家でも毒見するってどうなんだろう……)

 でもまあ、それも仕方のない立場か……私は毒より、料理長の腕のほうが心配だけど。

「今日のスープはあさです。姫さまが浅蜊をお好みなので特別に料理長が腕を振るってくれまして」

(へえ、私、浅蜊が好きなんだ)

 自分のことなのに、何だかすごくしんせんな気分でそれを聞いていた。

「あ、あの、もしかして、違っていました?」

 あわてたこの子はエルルーシアという。父親が王太子付き武官だという下級貴族の娘だ。

 リリアより一つ二つ年下くらい。武官のいえがらの出身で、武術をおさめているため、私の護衛も兼ねているそうだ。

 そんなことはない、というように私は首を横に振った。

 アルティリエはともかく、私はそんなに好き嫌いがない方だ。まずいモノはダメだけど。

 ほっとしたエルルーシアは、笑顔を見せた。

(浅蜊って、どこで採れるんだろう?)

 のうで地図を思い浮かべる。

 エルゼヴェルトのほんきよである領都ラーディヴは海にそんなに近くない。生浅蜊を生かしたまま運べるのは、この時期であっても最大三日くらいだろう。

 私の心を読んだのか偶然なのか、ミレディが告げる。

 ミレディは御料牧場の管理者の家の娘で武術の心得もあり、乗馬もできるという侍女だ。代々近衛を務める騎士爵の家に生まれたアリスと共に、あまり多くはないけれど決して皆無ではないアルティリエの書類仕事をしてくれている。

「この浅蜊は、妃殿下の所領であるアル・バイゼルから運ばれたものだそうですよ。ラーディヴとアル・バイゼルは、船ならば一日かからないそうなんです」

(川、さかのぼれるのかな? ……今度、しようさいな地図見よう)

 侍女達の言葉にさそわれて、白濁したスープを口に運ぶ。

 こちらでは、カトラリーは銀が主流。ナイフとフォークとスプーンの三つですべての料理を食べる。フレンチのコースのように何本もいろいろなカトラリーを使わないでいいから割と楽だ。今のところボロはださないで食事をしていられるので、マナーはあちらの世界とそれほど違わないみたい。

(これ、ちょっとしよういれるべき。あと、白ワインを利かせればもっとおいしいのに)

 良かった。香草が入ってない。ここの料理長の香草の使い方は、私の味覚に合わない。

「お気にしましたか?」

 こくりと私はうなづく。ジュリアが嬉しそうに笑った。……可愛いなぁ。

 ジュリアは父と兄がざいかんというかんりよう貴族の家柄の生まれで、数字に強い。

 私はすっかり周囲の侍女達に好意をもっていた。だって、可愛い子ばかりなのだ。

 あちらで勤めていた時のこうはい達と重なるところがある。何よりも、心から私に仕えてくれている。この心からっていうのがすごく大事。

 何もべったりそばにいてあれこれ世話をやくって意味じゃない。いつでも私が必要とした時にその望みを叶えられるよう準備しながら、用のない時は控えている。

 その完璧なまでのサービス! メイド好きな世のオジさんやオタクな子達の気持ちがちょっとわかった気がする。

(ところで、どうやったら王宮に帰れるんだろう?)

 今の私は、時間さえあればその方法を考えていた。

 とりあえず今後の大方針としては、王宮に戻ることを第一とするつもりだ。今手に入るはんのさまざまな情報を総合した結果、覚えてないことが多くなるだろうし、わからないまま接する人が増えると思われるけれど、とりあえずここよりは王宮の方が安全だと思う。

(夫……が、いるし)

 夫、だなんて言われても記憶がないのだから赤の他人も同然だ。幸いなのは、私がまだ幼くて、名前だけの夫婦である予測がたっていること。年齢差もあり、あまりせつしよくしていないようなので覚えていなくてもそれほど支障はなさそう。

(王太子ナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエ殿下)

 フルネームを呼んでみても、何も思い出せない。だけど心の中で呟いたら、胸の奥がほんの少しだけ痛んだような気がする。

(王太子殿下だけじゃない。国王陛下や王妃殿下とだって、どう接していいかわからないけど……)

 でも、帰るべきだと思うのだ。

 別に覚えていない夫や義父母を信用しているわけではない。ただ、単純に利害を考えれば、私を殺すよりも守るほうが、彼らにはあつとうてきにお得なのだ。特に、母親が他国の王族であり、国内に強力なうしだてのない王太子殿下にとって、大公爵家の唯一の相続人である王太子妃である私は何にも増して大切なこまだ。

(それに、私が危ないってことはこの子達も危ないってことだし)

 いつも私と一緒に居る侍女達は、ある意味、私といちれんたくしようだ。

 墜落事件の解明は大事だけれど、皆のためにもできるだけ危険から遠ざかっておきたい。真相からも遠ざかるかもしれないけれど、今はしんちようであるべきだと思う。

(何が安全で、誰を信じていいかをきわめたい)

 公爵が私を殺そうとしたとは思わないけれど、守ってくれる人とは思えない。

 朝の挨拶の時でさえ私の顔を見ようともしない人を、信じろというのがどだい無理な話だ。

「……姫さま、どうされました?」

 考えながら食べていたせいで、ボーッとしてたんだと思う。がりっと嫌な音がした。

 動きが止まった私を皆がげんそうに見る。

 手を口にやった。ポタリと落ちるしずく……血だった。てつびた味が口の中に広がっていく。

(ささった……)

 おくの間に浅蜊のからが刺さったのがわかった。

「ひ、姫さまっ」

「きゃああああっ」

「だれか、お医者さまを!」

(……いや、騒がないで、違うから。浅蜊の殻が刺さっただけだから!)

 でも、私の心の声なんて聞こえるわけがない。

 平気だってりで示しても、こんな場合は全然わかってもらえない。

 毒かもしれません! とジュリアが叫び、エルルーシアが真っ青になる。

(いやいやいや、違うから)

「あ……」

「姫さま! 姫さま!」

「吐いてください。早く!」

 でも、意を決して口を開こうとしたら、ポタポタと血がこぼれて、更に大騒ぎになる。確かに痛いは痛いけれど、痛みより見た目のほうがひどい。

 真っ青な顔で飛び込んできた医者は、問答無用で私に無理やり水を飲ませ、吐かせた。

 浅蜊のかいがら欠片かけらはすぐに取れたけど、刺さった傷がちょっと痛い。

(毒なんて飲んでないってば!)

「失礼」

 医者が私を見る。どこか目つきがおかしいと思うのは気のせい? 気のせいだよね?

(え?)

 悪夢だ!!!!!!!!

 更にいっぱい水を飲まされて、いきなり口に指をつっこまれた。

 っていうか、あなたの指の方が毒だ! 手が清潔かどうかもわからないのに、中年男に口の中に指を突っ込まれたら、誰だって気持ち悪くなる!

 説明なしだよ。そりゃあ、毒だと疑ってれば一刻を争うのかもしれないけど。

(たーすーけーてー)

 私のていこうなんてまったく無意味。十二歳の子供がちょっと手足をバタつかせたところで、成人した男の力の前ではまったく役に立たないのだとよくわかった。

 押さえつけられて無理やりかされて……何でもないのに、処置が終わった後はぐったりした。

 うがいとみがきだけはしっかりして、半べそでベッドにもぐりこむ。着替える気力もなく、そのまま寝てしまった私を責めないでほしい。

 気分としては暴行未遂とかそういう感じだったから。

 疲れたから少しだけみんをとるつもりだったのだけど、うっかりじゆくすいしてしまった。たぶん、あんなことがあったので精神的にかなりへいしていたのだろう。

 結果、その日はほとんどの時間を寝台の中で過ごしてしまった。


 目が覚めた時には陽光は、午後の……オレンジとも黄色ともつかぬ色みを帯びていた。三時を過ぎているからほとんど夕方に近い。

 ここでは、どれだけひるをしようと誰も私を起こしたりしない。うわ、天国! とか最初は思ったけれど、それがいつでも許されると思うと案外たいにはなれないものだった。

 寝すぎを咎められることもなく、ノロノロと寝台をおりる。

 しわをのばそうと軽くスカートのすそをひっぱったところで、リリアの不在に気付いた。

 きょろきょろと周囲を見回し、他の侍女達に目線でリリアの不在の理由を問う。

 三人は迷い、それでも静かに回答を待つ私を前に、互いにゆずり合った結果、ジュリアが口を開いた。

「リリア様は、姫様の毒殺未遂について、調査をしております」

 浅蜊流血事件が『王太子妃殿下毒殺未遂事件』に発展していたのを知り、あまりのバカバカしさにき出しそうになった。

 でも、次に慌てた。

 だって、毒殺未遂事件となれば、あの料理を作った人間が疑われると思ったのだ。

 あれが毒殺未遂事件なんかじゃないことは、私が一番よく知っている。

(大げさな……)

 それをどうにか伝えようとして、でも、まだどこか様子のおかしいジュリアに首を傾げてみせる。ここにリリアがいれば、私が何か伝えたいということがすぐにわかったと思うが、あいにく今いる子達にはわからないらしい。

 正式なによかんではなくぎよう見習いである彼女達は、私と直接話すことにためらいがあるから仕方がないとも言える。

 私の身支度を手伝うジュリアは、うつむいて涙をこらえているようだった。目元がほんのり赤く、まるで泣きはらしたようにも見える。

(ジュリア?)

「申し訳ございません。……もう夕方近いですから、髪は簡単にうだけにしておきますね」


 私は知らなかった。……本当の事件が、私が寝た後に起こっていた事を。


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