【8】 煽られる

 カラオケから帰ってきた和也は、さっそくバイクの整備取り掛かった。夏空の下での整備は正直かなりしんどいが、バイクの周りにホースで水を撒いたり、自身の体を濡らしたりすることで暑さをしのぐ。

 和也のバイクには、もとはセンタースタンドというモノがついていたのだが、今は峠を走るときには邪魔になるので取ってしまっている。なので、後輪を持ち上げるときは専用のスタンドを使う。スタンドで後輪を上げ、バイクが水平になったところで作業に取り掛かる。

 タンクを上にずらし、プラグという部品を取り換える。過去に数度しか換えたことのない作業だが、簡単な作業だ。タンクとエンジンの間に手と工具を突っ込み、古いプラグを一個外しては新品の物をつける。四つすべてのプラグを交換し終え、タンクを下す。

 次はチェーンの清掃。チェーンクリーナーと金ブラシでこびりついた汚れを落とす。なるべく隙間の汚れも落とすようにゴシゴシとこする。タオルでチェーンの中も清掃する人もいるようだが、正直そこまではめんどくさいのでやらない。一周を清掃し終えた後は、専用の油を注す。

 最後に、ホイールをきれいにする。パーツクリーナーを吹きかけて、ウエスでふき取る。水洗いでは落ちない頑固な汚れも、パーツクリーナーならば大抵落ちる。前後のホイールをピカピカに仕上げた和也は、思わず微笑む。ホイールがピカピカになるだけでここまでバイクが美しく見えるものなのかと、一人舞い上がる。

 ここまでの作業で、手はかなり汚れてしまった。それこそ、普通の石鹸ではあまり効き目がない汚れだ。外に備え付けてある蛇口の傍に置いてある、業務用の専用の石鹸で手を洗う。ざらざらした手触りの石鹸で、泡立つことはない。それでも、普通の手洗い石鹸よりもはるかに汚れが落ちる。

 スタンドからバイクを下し、車庫にしまう。整備と言えるかどうか怪しい、素人の作業。それでも、自分でできることは自分でやってみたい。落ち切っていない手の汚れを、和也は嫌いじゃなかった。

 今日も今日とて、夜はバイクである。何なら、明日もバイクである。楽しみだ。



 和也はいつもの峠を走っていた。コンビニでトイレ休憩をはさんだ後、走り屋風の連中が行きかう道に自分も参加する。和也はいつも通り、一人だが。

 自分よりも速いバイクや車が後ろに着いたら、素直に道を譲る。無理に張り合う必要もないし、何より迷惑であろう。

 素人程度の整備ではあったが、バイクは心なしか調子がいいように感じる。エンジン類は何一つ手を付けていないので何かが劇的に変わったわけではないが、気持ち的な問題で調子がいい。バイクを擬人化する趣味はないが、バイク自身も喜んでいるような感じがした。

 今日も道の駅で折り返し、帰路に着いている。

 道端から飛び出してくる可能性のある動物たちに気を付けながら、比較的直線の多い区間をウキウキ気分で走っていると、後ろから二つの光が近づいてきた。車であった。見た感じセダンタイプの車だ。前を走っている和也でも聞こえるほど、排気音が大きい。ハイビームにしているのか、まぶしさを感じる。どこから湧いたのか、道の駅では見かけなかった車だ。いや、実際はいたのかもしれないが、どこかの陰にでもいたのかもしれない。

 前を走る和也に気が付いていないわけでもないのに、ロービームに切り替える様子がない。おまけに後ろにピッタリつけている。完全に煽り運転というモノであった。バイクでも、後ろ向きにドライブレコーダーをつけている人がいるが、こういう場合に役に立つのであろう。

 和也は、珍しい奴がいたもんだなと思った。夜の峠を走る車やバイク連中は、前を走る一般車を煽ることは基本的にしない。そもそもが、自分らの行為は褒められたことではないという自覚があるため、せめてものマナーで煽ることはしないというのが共通認識であるように思う。それでも煽り運転をする者というのは、峠を走ったことのない部外者か、普段からこういう行為をしている犯罪者予備軍のならず者だ。

 なんにせよ、変に意地っ張りになって道を譲らずトラブルになっても嫌なので、道を譲ることにする。

 見晴らしのいい区間に出たので、和也は端っこにバイクを寄せる。自分の意志を伝えるためにハザードを焚きながら徐行する。

 それでも、その車は和也を抜いて行かない。真後ろにピッタリとつけたり、斜め後ろにまで車体を近づけて蛇行運転したりする。

 この時、和也は恐怖を感じた。よくテレビ等で煽られた人たちが同じことを言っているのを見るが、こういうことかと思った。確かに怖い。車間距離があまりにも近いため、すぐにぶつけられそうになる。和也がブレーキをかけたら、間違いなく後ろの車は反応できずに衝突するだろう。いや、反応できたとしても、そもそも車は急には止まれない。それに、バイクは生身で乗っているので、車と比べて重傷を負う確率だって段違いである。何より怖いのは、乗っている人物が得体のしれない者だということだ。仮に衝突を免れたとしても、信号待ちなどで停車したときに車から降りてきて絡まれるかもしれない。下手したら手を出されるかもしれない。

 そもそも、何故自分がここまで煽られるのか、全く分からなかった。後ろから距離を詰められたら、素直に道を譲ったつもりである。怒らせるようなことは何もしていない。その不可解さが、道端にいる動物たちよりも、暗闇に潜む幽霊よりも怖かった。煽り運転の恐怖というモノを、今身をもって体験している。

 今走っている外灯もない道端で止まってそこでひと悶着あるのは嫌だ。何をされるか分からない。帰路にあるコンビニによってそこで絡まれるのも嫌である。譲ろうとしても相手にその気がないのなら、先に行かせることもできない、完全に自分を標的にした煽り行為。

 変なのに目をつけられた。心底うんざりする。馴染みのある道でこんなのに目をつけられたらこの先が思いやられる。

 和也はこのまま走り続けることにした。譲っても先に行かないのなら、そうするしかない。なんとか撒けないものかと切に願いながら、くねくねと伸びる峠区間に入っていった。

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