二人ぼっち世界の主従関係
ウメ
二人ぼっち世界の主従関係
「あきら、わたくし見てるわー! 負けないでえー!」
体育館に響き渡る、大好きなあの御方の黄色い歓声。
パスを……、そんな直前までの思考を断ち切って、
立ちはだかるディフェンスは二人。晄は、緩やかに動き出す。
キュッ――、体育館シューズが床を勢いよく摩擦する。瞬間的に加速した晄に置いていかれ、一人目のディフェンスが後ろに消えた。だが二人目が食らいつく。
「だいじょうぶよー! がんばってえー!」
咄嗟に晄がドリブルを中断すると、食らいついていたディフェンスは勢いを殺しきれず前のめりになる。
その一瞬の隙に、晄は跳んだ。目線の先にはバスケットゴールのみ。
遅れてディフェンスが手を伸ばすが、身長160㎝と女子で一番スレンダーな晄のシュートを妨害するには至らなかった。
ボールが、放たれる。
「いっちゃえー、あきらー!!」
ゴールネットが揺れた。味方チームから歓声が上がる。得点板にスリーポイントが加算されると同時、ホイッスルが試合終了を告げたのだった。
授業が終わり、女子たちが掃けていく。
タオルで首筋を拭う晄は、集団から外れた場所にポツンといる少女に歩み寄った。晄が近づくと、先ほどまで黄色い歓声を上げていた少女は車いすの上で微笑んだ。
「勝った? あきらが勝ったのよね? ねっ?」
「ソレイユさま、バスケですから私だけが勝つことはございませんよ」
試合には勝ちましたけどね、と誇らしげに付け加える。
「ふふっ。わたくしね、体育の見学が一番すきよっ! だってね、いっつもあきらを応援できるんだもの」
絹糸のように綺麗で傷みやすい黄金色のロングヘアと、日焼けしたら途端にくすんでしまいそうな白い肌。この東京で迷子になろうものなら、ソレイユにはすぐにでも死んでしまいそうな危うさがある。
だから、晄はソレイユが独りぼっちにならないよう、いつも車いすを押してあげる。
「教室までお願いね、あきら」
「はい。ソレイユさま」
満たされて笑みを交わす二人。
次の瞬間、ソレイユのか細い悲鳴が上がった。車いすが急停止したのだ。晄たちの眼前でバスケットボールが壁に跳ね返って転がる。
晄が目を剥き、怒鳴った。
「
「えー? 投げてませんけどぉ?」
天上がとぼけると、彼女の後ろで女子たちがくすくすと嗤った。
「ふざけるな! 私は見たんだぞ!」
「なにをよ」
「タイミングを計ったようにおまえが投げたとこをだ!」
「ふぅん、じゃあひまわりちゃんは見たわけ? あたしが投げんのを」
ソレイユは淑やかに首を横に振った。
「いいえ……わたくしには」
晄が悔しそうに歯噛みすると、天上はほくそ笑んだ。いよいよ怒りが臨界点を超えて、晄がまた怒鳴ろうとするが。
「あきら、いいの。……天上さん、ごめんなさいね。お邪魔だったかしら、わたくし」
「……そーいうわけじゃないし」
天上は取り巻きの女子を連れて体育館を出て行った。その背中を晄は恨めしそうに睨む。
ようやく二人になれたところで、静かな体育館に晄のため息が広がった。
「どうして怒らせてくださらないのです……。あいつときたら、いつもいつもソレイユさまに嫌がらせばかり」
「怒らないで、あきら」
「だからどうして――」
ソレイユは瞼をきゅっと閉じて、耳を塞いでいた。
「……イヤ。わたくし、あきらの怒鳴る声、イヤよ。別人みたく怖い……」
「ソレイユさま……まったく、貴女は優しすぎですよ」
「怒るの苦手だもの。笑ってるほうが得意だわっ。……それにね、天上さん、相手チームだったでしょう? きっと、凄いあきらが勝っちゃったから、虫の居所が悪かったのよ」
「要するに私のせいだと仰るのですね」
「えっ!? ちがっ、違うわよぉ……あきらがすごいって言いたかったのぉ……」
わかってました、と晄が意地悪く笑う。ソレイユが白い頬っぺたを風船みたいにしてそっぽ向く。晄が笑いだし、続いてソレイユも笑う。
二人でひとしきり笑ってから、晄は車いすを押すことにした。
「さっ、六時間目の数学に参りましょう。着替えなくてはいけませんし」
「応援がんばったからウトウトしちゃいそう……」
「いいですよ。帰ってから私が授業の内容をお教えします」
「そうね。あきらのほうが先生より、教えるの丁寧……だもの、ね」
スロープによる微かな揺れが心地いいのか、ソレイユはクッションにもたれて瞼を閉じていた。すー、すー、と幼子のように可愛らしい寝息。気持ちよさそうな寝顔は、差し込む西日で色づいていた。儚げな夕日色だった。
「……いつまでも、お慕いしております」
授業の遅刻なんて気にせず、夕日色の廊下で晄はのんびりと車いすを押した。
明日も、一年後も、大人になってからも、ずっとこんな関係が続いたらいいのに。そう願いながら。
陰気くさい雨が、夜の街にのしかかっている。
六本木にある高級マンションの最上階、そこで
全てはソレイユの要望だった。彼女の父がパリに本社を構える大手製薬会社のCEOだからこそ、月の家賃100万円の愛の巣ができあがった。高校二年生には贅沢すぎる環境のように思えた。
「あきら、何かあったの……?」
心配が滲む声。窓際に立つ晄は弾かれるようにして振り返った。ソレイユは、不安そうにゴマアザラシのぬいぐるみをソファで抱きしめている。
「何かとは、なんのことでしょう……」
「とぼけちゃイヤよ。放課後になってから急に口数が減ったじゃない。声も元気ないし、何かあったんでしょう?」
ぷつぷつ……、と窓を打つ雨の音だけがリビングを満たす。
沈黙を挟んでから、晄は否定した。
「ほんとう? わたくしが数学でずっと寝ちゃったからじゃない? ……怒ってる?」
「全然違いますし、本当にお気になさるようなことではないのです」
よかった、とソレイユは安堵の表情を浮かべる。晄も笑みを返して、そろそろ夕食の用意をしますね、とキッチンに急ぐ。
「ねえ今日の夕食はなあに? どんな、ナスじゃないお料理なの?」
「ナスです」
「なんでよっ!? もう食べないんだからっ!」
「そう仰ると思ってすでに作ってありますので、頑張ってください」
「うわーん!!」とゴマアザラシに泣きつくソレイユを見守っていたいが、晄はエプロンを身に着けることにした。下ごしらえしておいた野菜を取り出し、調理を進める。料理をする間だけは無心でいられて楽だった。
消えたソレイユの体操着の行方を、考えずに済むから。
程なくして、夕食をテーブルに並び終える。食事のとき、晄はソレイユの隣に椅子をくっつけていただく。といっても、自分が食べるのは後回しで、かいがいしく主人に食べさせてばかりだが。
「ソレイユさま、あーんです」
「あーん」
ぱくっ、とソレイユがナスを頬張る。
「くふふ、おナスがこんなに美味しくなるなんて、あきらは魔法使いさんかしらっ」
ナスのミルフイユのチーズ焼きは、ナス嫌いのソレイユにも好評だった。
「難しいことはしておりません。切ってから10分ほど水に浸して苦みを抜きました。ナス独特の果肉感は、脂で炒めた後にチーズで焼いて誤魔化してみたんです」
「そんな手間、実家の料理人は誰もしてくれなかったわ。お父さまもお母さまも、それくらい我慢しなさい、って……。わたくし、あきらがいてくれてよかったわ」
「勿体ないお言葉です」
ものすごくにやけながらも、照れているのがバレないように晄は素っ気なく答える。
晄は今でこそ料理上手だが、ソレイユと暮らし始める二年前までは米を炊くことすらおぼつかなかった。フランス料理に詳しくなったのも、ひとえにソレイユのためだ。
〝――あきらがいてくれて、よかったわ″
懐かしい言葉だ、と晄は思う。
「ほんと凄いっ。バスケでは一番活躍していたし、数学も先生より教えるの丁寧だし、お料理だってプロみたいだもの」
ソレイユは屈託のない笑みを湛えて言った。
「あきらって何でもできるのね」
けれど、そういった褒め方をされると苦笑しかできなくなるのが晄だった。
「――
母親は教育熱心で、晄が幼稚園児だった頃から多くの経験をさせてくれた。将来役に立つからと数学や英語を母親から教え込まれ、礼儀作法も大事だからと茶道や華道にも通わされ、文武両道になるようにとピアノやダンスまで叩き込まれた。
しかし、その全てで同い年の誰よりもできなかったのが晄だ。
しばらくして習い事は全て投げ出した。勉強もやめた。母親はついに何も言わなくなり、晄はどこか寂しく思いながらも解放感に浸っていた。やりたくないことを我慢してやった分、これからは好きなことをするんだと胸に決めた。
だが、幼い頃から習い事ばかりで友達がいなかったため、晄は独りぼっちになってしまった。まるで自分だけが世間というレールから切り離されたかのように。三年間、友達もほとんどできないまま、家と学校を往復するだけの日々を消化していった。
――私、何で生きてるのかな……。
進路選択が迫り、机に向かうたびに頭を抱えるようになっていたころ。晄は親戚の集まりに参加させられた。連れていかれた先は都内の高級ホテルで、そこのパーティ会場がフランス人に貸切られていた。
見たこともない華美な料理が並んだテーブルの間を、知らない国の言葉が飛び交う。落ち着いて食事などできるはずもなく、晄は同年代の子供を探しに彷徨った。
ふと壁際に目が留まる。
――なんでお人形さんが?
頑丈そうな車いすに金髪の少女がちょこんと乗せられていた。
手が届く距離まで近づいてようやく、晄はその女の子が生きた人間であることを知った。
寝ているのかなと端正な顔を見つめていると、ふいに
「Qui êtes vous?」
晄が素っ頓狂な声を上げて後ずさると、金髪の少女は慌てたように日本語を口にした。「わっ、ごめんなさいね」と。あらためて、きれいなソプラノ声だと思った。
「ほんとうごめんなさい。てっきりフランスの方かと思って……」
「日本人だよ、どこから見ても。……あっ、
「ご丁寧に。わたくし、ソレイユ・ミィシェーレよ」
――ソレイユ……なんか、あったかい名前。
「ねえ、あきらさん。一緒に冒険しましょ」
「ほえっ?」
「わたくし、見ての通り一人じゃ歩けないの。使用人はどこか行ってしまったし、でもここに居たってお暇だから……。ねえ、背中を押してくださらない?」
「車いす押したことないし……それに、どこ行けばいいのか……」
「貴女が連れていってくれる場所ならどこだって嬉しいわっ」
温かい言葉に突き動かされ、気づくと晄は車いすのグリップを握っていた。頑丈そうな車いすは思いのほか重くて、一度停まってから動かそうとすると結構な力が要る。だけど、辛いなんて気持ちは湧いてこなかった。
ふふっ、とソレイユが零した優しい笑い声を、晄は今でも鮮明に思い出せる。
「あきらさんがいてくれて、よかったわ」
そんな優しい言葉をかけてもらえたのは、生まれて初めてだった。
自分は今、誰かに頼られている……初めて誰かに必要とされる存在になれている。
グリップを握る手に力が入った。胸の奥が満たされて、勝手に唇が震えだして、悲しくもないのに涙が溢れ出す。
今まで生きてきて今が一番幸せかもしれない、晄が心からそう思えた瞬間だった。
「――ねっ、あきらは出会った日のこと、覚えてる?」
過去に跳んでいた晄の思考が、現在に手繰り寄せられる。
晄は、抱きかかえるソレイユをベッドに優しく寝かせた。子猫のように丸まったソレイユは子供みたいにくすくすと笑い、「覚えてるでしょ」ともう一度訊く。「二人してホテルを抜け出したときのことよ」と。
「ええ。二人して迷子になりましたね。親戚中がパニックになって、保護された私たちはとても叱られてしまいました。忘れませんとも」
「おかしかったわよね、日本語とフランス語で同時に叱られるなんて……くふふっ」
「ソレイユさまは大泣きしていましたね」
「あきらだっておんなじでしょっ!?」
「? 私は泣いておりませんが」
大泣きするソレイユに手を握られていたために怒鳴る大人がちっとも怖くなく、晄は涙なんて出しようがなかったのだ。
「いいえ、あきらも泣いてたでしょ。もっとも、ホテルを出る前だけれど」
首筋に当たる涙が冷たかったもの、とソレイユが付け加える。
「あ、あれは、その……忘れてくださぃ……」
「ヤッ。わたくしの大切な思い出だもの、記憶喪失になったって忘れてあげないわ」
「ソレイユさまの意地悪……」
ベッドサイドランプの暖色を残して照明を消す。ソレイユは暗闇で眠れるが、晄は暗闇で眠るのが幼い頃から苦手だった。それを知るのは、ソレイユだけだ。
ダブルベッドのシーツをめくって、晄がのそのそとソレイユの隣で横になる。
「……ねえ、明日の朝食は?」
「……ピザトーストなどいかがでしょう。育ったバジルをジェノベーゼにしてみたのです」
「……もう収穫できたのね。お世話、貴女に任せきりだったわ」
「……いいのです。私が好きで、楽しくやっているのですから」
「……あきら」
「……なんでしょう」
ソレイユは、勇気を振り絞るみたいにシーツを握りしめていた。
「わたくし、いつか一人で歩ける日が来るのかしら?」
この質問は、七度目だ。
晄が目を離した隙にソレイユが車いすから立ち上がることは珍しくなかった。独りで歩けるはずもないのに、ソレイユは震える足で一歩を踏み出そうとするのだから、晄は慌てて止めに入る。
ソレイユは、晄がいないとどこかに行くことすらできない。
「そんな日は訪れませんよ。貴女は一生、一人では歩けないんです」
七度目の返事も同じ。こう言うと、ソレイユは一瞬だけ眉尻を落とした悲しそうな顔をしてから、すぐさま嬉しそうに微笑むのだった。
「……あきらは、意地悪さんね」
晄はソレイユの頬にかかる金髪をそっと指でどけて、白い頬に口づけをする。ソレイユも、おそるおそる晄の顔に手を伸ばして黒髪を指でどけると、頬に口づけを返す。寝る前に交わす、二人だけの特別な挨拶。
瞼を閉じると、晄の脳内ではソレイユの質問が何度も飛び交う。……いつか、一人でも歩ける日が来るのか。
――来てもらっちゃ困る。
母親に見放された自分がここまで生きてこられたのは、ソレイユのおかげなのだ。
彼女が授業の質問をしてきてもいいように勉強するうち、晄は学年主席になった。いざというときに彼女を守れるように体を鍛えて護身術を学ぶうち、体力テストは女子で一番になった。一緒に暮らす彼女に美味しいものを食べてもらいたくて、料理は特技になった。
晄の全てがソレイユありきで成り立っている。なのに、もし彼女が一人でも歩けるようになってしまったら自分は要らなくなってしまう。存在意義を失くしてしまう。
何で生きているのか、そんなことで悩むのはうんざりだ。
「ソレイユさま、ずっと私を頼って生きてくださいね」
眠る主人にそう懇願して、晄はまどろみに身をゆだねた。
週が明けると雨脚はさらに強まった。雨風が殴りつけて、廊下の窓が揺さぶられている。
――体育倉庫に灯りさえあれば、片付けに手間取らなかったのに……。ソレイユさま待たせちゃってる……。
廊下を曲がると、ちょうど晄たちクラスの引き戸が開いた。やっぱホームルームは終わってたか、そう思った直後。
晄は我が目を疑った。教室から出てきたのは、ソレイユだったのだ。
ガッ、と鈍い音。引き戸のレールに車輪がつっかえた。車いすが傾き、投げ出されるようにしてソレイユが前のめりに倒れてゆく。
「ソレイユさまっ!?」
晄が飛び出す。
ガシャンッ!
自重で盛大にひっくり返った車いすは、カタカタと車輪を回している。騒音を聞きつけてか隣のクラスから数人の生徒が顔を覗かせた。彼らは廊下を見るなり、クスっと笑った。
「……あきらのいい匂い」
ソレイユは、晄の胸で幸せそうな猫みたいに丸くなる。床に落ちる寸前で抱きとめたためソレイユに怪我は無く、晄は安堵のため息をつく。
「危ないですから一人では移動しないようにと、いつも言ってますよね……」
「たまにはいいじゃない」
「駄目です。ケガしてからでは遅いんですから」
晄は車いすを起こし、クッションの位置を整えてからソレイユを優しく座らせる。車いすの後ろに何か落ちていた。
クラス日誌だ。そう言えば、今日の日直はソレイユだったか。
ぱらぱらと日誌をめくると、今日のページに差し当たる。
「誰に付き添ってもらったんです?」
「
――またあいつか……。
晄が体育の片づけを任されたため、ソレイユの車いすを押していったのも天上だ。押すのを申し出たのは本人だった。
「その、何かされませんでしたか……」
「ぜんっぜん! 天上さんね、段差とかも気にしてくれてすっごく丁寧だったの。たまに髪を撫でてくる手がくすぐったかったけどね」
「そうですか……。とりあえず日誌と鍵を職員室に持っていきましょう」
さらりと話題を変える。天上の意外な優しさには安心したものの、晄は彼女を快く思えなかった。ソレイユへの嫌がらせはもちろん、自分に突っかかってくる態度も気に食わない。それとは別に、天上とソレイユが仲良くする光景を想像すると、何故かむしゃくしゃする。
じゃあ教室締めちゃいますね、と晄が言うと、
「やだやだ! 日直はわたくしなんだから自分でやるのっ」
「えー……しょうがないですね。どうぞ、鍵です」
ソレイユが施錠する。鍵を職員室に返して、雨が酷くなる前に二人は急いで帰宅した。
翌日、
二人だけの空間が大勢に踏みにじられている。
鬱陶しく感じてから、遅れて不安がやってきた。
「どうしたの……」
晄が尋ねると、近くにいた女子は「来たときにはもうあったんだよ?」と前置きした。まるで、自分は無関係なんだよ、と弁解するように。
晄は居てもたってもいられず、ソレイユを残して人だかりの中心に割って入る。
それは、ソレイユの机に置かれていた。
目の当たりにした晄は呆然と立ち尽くし、目を瞬かせることしかできなかった。
「――何かあったのかしら?」
皆の視線がソレイユに引っ張られる。人だかりの外では、何も知らない彼女だけが小首を傾げていた。
「なんでもございません、ソレイユさま」
晄はいつもの声色になるよう気を付けた。
「でも、みんな集まってるみたいだけれど……」
「大丈夫です。貴女がお気になさるようなことは、何も」
「なら安心ねっ。あきらは嘘つかないもの」
やがて担任教師が教室にやってきた。朝の挨拶を済ませてホームルームが始まる。出席番号順に名前が呼ばれ、クラスメイトが返事をしていく変わらない日常の中で、晄の思考だけが非日常に引きずり込まれていた。
スクールバッグに隠した非日常を一瞥して、晄は下唇を噛む。
――誰が、こんな酷いことを……!
ソレイユの机に置かれていたのは、先週無くなった彼女の体操着だった。
ただし、鋏のようなもので切り刻まれていた。
「絶対いますッ!!」
一時間目の休み時間、職員室に
「誰かいるはずです! 職員室に放課後来た人が!」
「えぇ……昨日でしょ? 何度も言うけど、あなたとひまわりさんが教室の鍵を届けて以降、職員室に来た生徒は居ないわよ」
――どうなってんのよ……。
晄の推理では、ボロボロの体操着を机に置いた犯人は
だが今日、天上は遅刻ぎりぎりで登校している。
クラスの女子が証言したように、皆が登校したときには体操着が置かれていたらしい。クラスでは最初に登校した生徒が教室を開錠する決まりで、その生徒が来たときすでに体操着は置かれていた。つまり、犯人が置いたのは昨日の放課後ということになる。
となれば、晄たちが施錠したあと、教室の鍵を取りに来た誰かが居るはずだが……。
「昨日は大雨だってのに仕事が立て込んでててね、私が一番遅くまで職員室に残ってたの。それに、雨ひどかったから生徒は皆帰ってたでしょ。誰も来てないわ」
「先生が帰宅なさったあと、誰かが職員室に忍び込んだとか……」
「あり得ないわよ。施錠した職員室に忍び込むなら窓ガラスでも割らなきゃ」
犯人は職員室に来ることなく密室の教室に侵入できたのだ……でもどうやって?
晄は頭を悩ませる。事件の中心にいるのはソレイユだ。大切な主人のために是が非でも事件を解決したいが、担任教師の証言でむしろ犯人像がぼやけてしまった。
「ところで晄さん、どうしてこんなこと聞くの?」
「私のペンケースが無くなったからです」
と、嘘を即答。教師はいじめに敏感だし、もし生徒思いな担任教師が事情を知りでもしたら、ソレイユの両親に連絡する可能性が高い。
娘想いな父親のことだ、こんな環境に愛娘を通わせたくなくて、ソレイユはフランスに帰らされてしまうだろう。
この期に及んで自分本位な考えなのは晄とて承知している。だが、こんな下らないことでソレイユと離れ離れなんて、死んでも御免だ。
「ペンケース、見つかるといいわね。けど、真っ先にクラスメイトを疑うのはよくないわ」
「はい、すみません」
「困りごとがあったら、なんでもいいから言うのよ。相談乗るからね」
「はい」
「ひまわりさんは、迷惑かけてない?」
晄はむっとして言い返す。
「ソレイユ……さんは、迷惑なんてかける方じゃありません」
「そう? あなた優秀だけど、頼られると断らない悪い癖があるし、たまにはあの子の面倒を誰かに頼んでもいいんだからね。ひまわりさんが何か頼んできても、嫌だったら断っていいの」
――うるさい、何も知らないくせに! そう、思わず叫びそうになったときだった。
職員室の引き戸が開いた。
「せーんせっ♪ アンケート集めてきましたよー」
プリントの束を抱えて、疑惑の天上
「わっ、もう? 冴姫さん、ありがとね。優秀なクラス委員長で先生も助かるわ」
「いえいえー」
並んで立つ天上と目が合った。「なに?」と天上が鋭い眼を向けてくる。「何が?」と晄はすかさず睨み返す。
「あっ、そうそう、冴姫さん。実はね、晄さんのペンケースが紛失しちゃったみたいで……一緒に探してもらえない?」
よりにもよって……。晄の眉間にしわが寄る。
「へぇ、ペンケース……」
と呟くと、にやにやした天上は、晄の顔を覗き込んだ。「探してあげよっか?」
余計なお世話だ。鼻息を一つ吐き、晄は目線を逸らした。
「ちょっと晄さん! 今、ものすごく感じ悪かったわよ」
「いーんですよ、せんせ。こういうやつだし」
「そういうこと言わないの! ほら、握手して仲直りしなさい。同じクラスなんだし、ちゃんとお互いを理解しなきゃ駄目でしょ」
「――二時間目があるので失礼しますっ」
勢いよく戸を閉めて晄は職員室を飛び出した。
我慢できなかったのだ。何が『理解』だよ……、と内心でぼやく。
――ソレイユさまと私の関係は、理解しようともしてくれないくせに!
晄は廊下を歩きながら、色々な意味でため息を零した。
……ボロボロの体操着を机に置いた犯人は、天上ではないのだろうか。
一日経っても犯人は分からずじまいだった。
今日も今日とて雨日和で、窓外の中庭には叩きつけるような勢いで降り注いでいる。連日の大雨でジメジメするうえ昼間なのに薄暗くて、図らずも晄の気持ちまで沈んでしまう。
体操着の犯人、ほんとに誰なんだろう……。
「購買さんはいつも大盛況ねー。チョココロネ今日はあるかしら」
「人気ですからねー」
購買の前の廊下には生徒が溢れかえっている。人が減るまで二人は廊下の隅で時間を潰す。特に会話をせずとも心地いい。忙しない集団を横目に二人だけで時間を無駄にするこの瞬間が、晄は好きだった。ソレイユと二人きりで世界に取り残された気分を味わえる。
が、そんな心地いい時間も長続きはしてくれない。廊下の奥から
「あれっ、ひまわりちゃんじゃん。なにしてんの、廊下の隅っこで」
「購買さんの人が減るのを待ってるのー」
「ふぅん。おなか、空かないの?」
「ぺこぺこー」
にこにこしたソレイユが腹を撫でてみせると、天上はソレイユの膝に小包を置き、そのまま去っていった。晄には一瞥もくれなかった。
膝の上に置かれた小包を両手に乗せて、ソレイユは小首を傾げる。
「あきら、これってなあに?」
「食堂で売ってる一口サイズのシュークリームです」
二人の歓談を見守る晄はイライラしてしょうがなかった。天上が自分を無視したからだろうか――いや、違う。ソレイユに馴れ馴れしく話しかけていたからだ。天上が親しげに話しかけて、ソレイユが自分と話すときのように楽しそうに会話を紡ぎ、当の自分は後ろで見守ることしかできない。そういった全てに苛立っていた。
だからだろう、「五十円の安物ですよ」と、ここには居ない天上に悪態をつくつもりで晄は付け加えた。
「……わたくし、そういうの嫌い」
今度は晄が小首を傾げる番だった。
「プレゼントに値段なんて関係ないでしょ。……さっきのあきらの言い方、嫌いよ」
初めて目の当たりにするソレイユの突き放すような態度に、晄は愕然とした。
――……きらい?
そんな言葉を、大好きなソプラノ声で突き付けられたのは初めてだった。
――ソレイユさまは、私が、嫌い?
やがて購買のカウンターに立ったが、晄は何を注文したのか覚えていなかった。いつの間にか、ビニールに包まれた卵サンドが手の中でつぶれていた。
――天上と仲良くなったから私はもう要らない? 違う、ソレイユさまはそんな人じゃ……。
考えないようにしようとするほど、ネガティブな思考に支配される。
いつものように車いすを押してエレベーターに乗り込む。他に乗る生徒は居ない。たった数秒の沈黙がひどく重たく感じられて、気まずかった。
ソレイユも同じ気持ちだったのか、急に明るく話しかけてきた。
「実はね、天上さんからのプレゼントは二回目なのよっ」
「そうなんですか……」
できたら、天上の話題はやめてほしかった。晄は別の話題がないか考えながら、「何を頂いたのですか?」と時間稼ぎをする。
「失くしものよ」
「えっ?」
意外な返答に晄が素っ頓狂な声を漏らすと同時、エレベーターのドアが開いた。
教室に向かいながら、晄は話題を変えることなど忘れてさらに訊いた。
「あの、失くしもの……とは?」
「ほら、先週失くした、わたくしの体操着。天上さんが見つけてくださったのよ」
その瞬間、ばらばらだったピースが1つになった。
「……そういうことか」
「なにがー?」
ついに、事件の犯人が分かったのだ。
ソレイユを席につかせてすぐ、晄は犯人の席に向かった。晄が隣に立つと、スマホ片手に友人と笑っていたそいつは会話を止め、おもむろに首だけで振り向いた。
「なぁに、なんか用?」
天上冴姫が、どこか勝ち誇ったような顔で見上げる。
「体操着を切り刻んだ犯人、お前だろ?」
晄が核心を突くと、天上は一瞬黙るも余裕の笑みを崩さなかった。
「それ、証拠あって
「もちろん」
「嘘つき」
「――警察が捜査する」
天上が目を見開く。
「先生に全部話したの。そうしたら体操着を警察に提出することになった。あるはずないお前の指紋がべっとり検出されるんじゃない? 証拠は他にも出るかもね。私は気が進まなかったけど先生に言われたのよ、最後に話し合いをしなさい、って。なるべく警察沙汰にはしたくないから、って」
そこまで話すと天上の顔から笑みは剥がれ落ち、眉間には深刻そうなしわが寄っていた。黙り込んで似たような顔をするあたり、友人たちもグルかもしれない。
――ま、全部嘘なんだけどね。
警察沙汰にしたくないのは晄のほうだ。とはいえ、このまま犯人を野放しにしたらいつソレイユに被害が及ぶかもわからないため、早めに手は打っておきたい。
ソレイユに二度と近づかないと誓わせるのだ。
晄は嗤って、犯人を追い詰める。
「ねえ、話し合い、したくなった?」
「……放課後、体育倉庫……」
天上の弱々しい申し出に、晄は首肯した。
「いいよ、人に聞かれたら面倒だし。じゃあそういうことで」
すっかり沈黙した天上たちを置き去りにして晄は席につく。戻るまで待っていてくれたのか、ソレイユは昼食に手を付けていなかった。
「あきら、天上さんと何をお話してきたの? シュークリームのお礼したいわ」
「なんでもないです」
「そう……」
遅れて、晄は自分の口調が素っ気なかったことに気づいた。だが、訂正して嘘の理由で納得させるのは気が引けたし、何より今は自分から遠ざけたほうがソレイユの安全につながるだろう。
弁解したい気持ちを呑み込むつもりで、晄は缶コーヒーを呷った。
体育倉庫の扉が開けられると、埃っぽい臭いが漂った。
「ほら来なよ」
先に入った天上が手招きする。晄は警戒しつつ、体育倉庫に踏み込む。前に片付けで入ったときと同様、灯りがまったく無いため扉を閉めた途端に真っ暗闇になる。
晄は、光が差し込む扉の前から動かなかった。
「そんな警戒しなくてよくなーい?」
「天上冴姫、お前がどうやってボロボロの体操着をソレイユさまの机に置いたのか、私には分かってるから」
「それをわざわざ言いに来たの?」
そんなわけない。
「私は約束してほしいだけ……今後一切、ソレイユさまに近づくな!」
「……ムカつくんだよ、そういうの」
と、意味の解らないことを呟き、天上が睨む。
突如、晄は手首を掴まれた。扉の脇に天上の友人が潜んでいたのだ。ホームルームが終わった直後に姿を消したかと思えば、予想通りの展開だった。
晄は微塵も動じることなく、逆に相手の手首を掴み返して小手返しを食らわせる。手首の関節を捻じってやると、女子は泣きそうな声を上げて膝をついた。
「体育倉庫を指定されたときから、こんなことだろうと思ったんだ」
手首を放し、その手で容赦なく平手打ちをお見舞いする。乾いた音が暗闇に響き渡った。
晄が一歩を踏み込むと、慄いたかのように天上が一歩退く。
「でも安心したよ、天上。……私もさ、こんなことをしてやるつもりで来たんだ」
天上が暗闇に飛び込む。待て! 晄が追う。ガラガラッ。扉が閉まる音だ。さっきの女子かそれとも他に仲間がいるのか。
――とにかく天上を引っ叩く!
暗闇の中、晄は手探りで周囲の輪郭を把握する。背丈より高い跳び箱もあり、さながら迷路のようだ。
天上はどこに隠れているのか。他にも敵が潜んでいる。この暗闇に味方はいない。そう思った途端、強気に振舞っていた晄の気持ちにも影が差す。
刹那、温かいものに触れた。ワイシャツの手触りだ。
すぐさま晄は拳を握るが、
「――はいストーップ」
目の前からは天上の声。ビンタをかませる距離に天上が立っている。
が、動けば危険だと直感が叫んでいた。
鋭利な何かが、晄の腹部を突いている。裁縫バサミが握られていた。
晄が息をのむ。
「とりま、一ノ瀬さんさぁ……そこのマットに寝転がんなよ、ワンコみたいにさ」
晄は言われた通りにした。汗とカビの臭いがする汚いマットで仰向けになる。天上を含めて三人が晄を囲んだ。一人が晄の両手を押さえ、もう一人が上からスマホのライトで照らす。天上は、晄に跨るようにして腰を下ろしていた。
チョキ、チョキ……、と鋏が噛み合う音が暗闇に広がる。
音は晄の下腹部から真っすぐ少しずつ顔に近づいていき、顎の下まで来たとき、晄は思わず目を瞑った。が、恐ろしい金属音はそこまでだった。
晄のスカートからワイシャツまでが縦に裁断されており、紺の下着が露になっていた。
「へえ、優等生の一ノ瀬さんは大人っぽい下着が好きなんだぁ?」
「ヘンタイ……」
鋏が喉元に突きつけられ、晄は押し黙る。
「ちょーし乗んなバカ。あんたの裸なんか見て喜ぶかよ」
「ねえ、ソレイユさまに何の恨みがあるの?」
「……急になに?」
「だって、前から嫌がらせしてきたくせに、最近になって急にソレイユさまに優しくしだして……かと思ったら今回の体操着の事件。お前は何がしたいの? 何の恨みがあってソレイユさまにこんなことするの? ねえ教えてよ」
晄は話を逸らすのに必死だった。天上の動機を知りたいのは本心だが、今はどうにか話を逸らしている間に脱出の隙を探さなくてはならない。
「……あたしが、ひまわりちゃんに恨み? それで体操着を切り刻んだって?」
「そうよ。優しいあの御方に何を逆恨みしてんのか知らないけど――」
「恨みなんてない、あの子には」
天上は晄の前髪を掴んだ。首を持ち上げられ、すぐ目の前には眉をしかめた天上の顔があった。
「あたしが恨んでるのは、一ノ瀬晄、あんただ」
どういうこと……。身に覚えがなくて晄は困惑する。
「わかんないよね、そりゃあ……ひまわりちゃんを独り占めすんのが当然だと思い込んでる奴にはさ」
「独り占めって……私はただ」
「使用人を気取ってるだけっしょ? いつも車いすを押すのはあんたで、あの子に話しかけるときはいつもあんたまでいて、遊びに誘おうとしてもあんたが断ってくる……邪魔なんだよ。あたしが体操着を切り刻んだのは、あんただけを傷つけてやるためだ!」
そこで初めて、天上は泣きそうな顔を見せた。
「だって、ひまわりちゃん、何も視えないんだもん」
一瞬、体育倉庫の扉が開いた。
天上の視線が逸れる。
今だっ。晄が膝蹴りを放つ。脇腹を押さえて呻く天上。晄は両手を振りほどき、暗闇に飛び込んだ。スマホのライトは届かない。
「冴姫ちゃん、大丈夫……」「あいつ捕まえて、あたしはいいからっ」「どこ行った!」
晄は息を押し殺す。跳び箱台の裏に隠れたが、このままではいつか見つかってしまう。忙しなく動き回るライトの隙をつき、晄は這って物陰を移動する。
暗闇を這って進むうち、自分の位置を見失ってしまう。出入り口に近づいているのは確かだが、左に行けばいいのか右に行けばいいのか。ライトがすぐ側を照らす。捕まった後を想像してしまい、晄は震える自分の体を抱きしめた。
〝――邪魔なんだよ″
天上の言葉が脳裏によみがえる。天上たちはソレイユと仲良くしたかっただけだった。食堂で昼食を食べたり、放課後にカラオケで歌ったり……そんな関係になりたかっただけなのだ。
自分が邪魔をしていた。
ソレイユが天上と話すとき、晄はずっと苛立っていた。ソレイユが天上たちと仲良くするのが気に食わず、使用人を気取ってさも当然のように妨害していたのは自分だ。
――私さえ居なかったら、こんなことにならなかったのかな……。
「――あきら、あきらっ」
大好きなソプラノ声が自分を呼んでいた。晄の震える肩を小さな手が優しく包む。
暗闇の中で、像を映さない御空色の瞳だけが色を保っていた。
「ソレイユ、さま? どうして……」
「こっちよ。暗闇なら、わたくしに任せて」
ほとんど何も見えない暗闇を、晄はソレイユに手を引かれながら走った。聴覚と嗅覚が敏感なソレイユは暗闇を縫うように導いてくれる。
ライトに照らされる。天上たちに見つかった。でも、恐怖は消えていて、ソレイユの温かな手に引かれる安心感だけがあった。どっちに向かえばいいか分からない暗闇のような晄の人生で、ソレイユだけが道を示してくれる。
扉を開け放ち、外の光に飛び込む。
いつも車いすで押すばかりだった華奢な背中が、今はとても逞しく見えた。
事件のことが担任教師にバレてしまった。
晄、ソレイユ、天上たちは放課後の教室に集められた。雨は止んでいて、代わりに担任教師の怒声がうるさかった。
泣きじゃくる天上は、事件にことを語った。ボロボロの体操着は、ソレイユ自身の手で机に置かれたのだ。ソレイユは目が見えない。天上たちはそれ利用して、失くした体操着を見つけたかのように手渡し、最終的にはソレイユが自分で机に置いた。事件の動機は体育倉庫で語られた通りだった。
担任教師の計らいで、この場だけで収めることに決まった。晄にとってはソレイユと離れ離れにならずに済むので御の字だが、気に入らないこともある。
「それでは、ちゃんとこの場で仲直りしましょう。握手して、お互いに謝って、これからはお互いに理解するよう気を付けるのよ。はい、ひまわりさんから手を出して」
これだ。握手をスムーズに行うため、目が見えないソレイユから手を伸ばし、天上がその手を取る。担任教師はそうやって決着をつけさせたい。
晄には納得できなかった。体操着を切り刻んだのは天上たちなのに、これではソレイユから仲直りを申し出ているようにしか見えないのだ。
それに、ソレイユの全身は傷だらけだった。手足の打撲や擦り傷、きれいだった顔にはいくつもの絆創膏。ソレイユは体育倉庫にたどり着くまでに、階段から落ち、段差で転び、壁に顔を何度もぶつけたらしい。夕日に照らされる彼女の横顔は、無数の引っ掻き傷をつけられたガラス玉のようで痛ましかった。
ソレイユが、痛むはずの手を前に出すと、
「はい、次は天上さん、ソレイユさんの手を取ってね」
気づくと晄は泣いていた。悔しかったのだ。大切な人を守りたくて、事件から遠ざけていたはずなのに、この場にいる誰よりも傷だらけなのがソレイユであることに。
ソレイユは気丈に振舞う。怒るよりも笑うのが得意な優しい彼女だから、このまま赦してしまうに違いない。天上の手を取って、何も悪くないのに謝って、最後には赦してしまう。明日からは、今日のことなんて無かったみたいに天上がソレイユに馴れ馴れしく話しかけるだろう。それが、晄には悔しくて堪らなかった。
ソレイユの手と天上の手が触れる。
「――ごめんなさいね」
謝罪を口にしたと誰もが思い込んだだろう。
が、ソレイユは、天上の手を叩いた。
「やっぱり、貴女と仲良くはしない」
「ひまわりさん! あなた何してるか分かってる!? すぐ謝りなさい!」
担任教師の怒号には見向きもせず、呆然とする天上をソレイユは見上げた。
「分かってほしいなんて傲慢は言わないわ。だって、わたくしとあきらの関係って、きっと他の誰にも理解できないものだもん。だからお願い……教室の片隅にあるわたくしたちの世界にもう踏み込んでこないで。そっとしておいてほしいの。お願いよ」
ソレイユは切実そうに訴えてから後ろを振り向いて笑った。帰りましょっか、と。
担任教師が静止する声を無視して、晄は車いすを押して教室を出た。
もう他人に理解されなくていいと感じた、自分たちの世界は二人だけで完結しているのだから。
「しかし意外でした。てっきりソレイユさまは赦すとばかり……」
「最初はそのつもりだったわ。でも、わたくしにとって一番大切な人は貴女よ、あきら。貴女を泣かせた人を赦してしまったら、わたくしは自分を赦せなくなってしまうわ」
「……貴女は、とても逞しくなられていたようです」
「でしょ? もう一人でだって歩けるんだから」
――確かに、私はもう要らないのかもしれませんね。
車いすを止める。晄はグリップから手を放し、ソレイユの前で片膝をついた。敬愛する主人にかしずく使用人のように。
「今日は、手を繋いで帰ってみませんか?」
――貴女の背中を押す私は、今日でおしまい。
晄が手を差し伸べ、ソレイユが手を握る。
立ち上がるときは、二人一緒だった。
二人ぼっち世界の主従関係 ウメ @Paradise
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