第21話 僕は彼女の糞になりたい。

 柏葉高校の模試は日曜日に行われる。試験時間の都合上、いつもは四限後にある昼休憩が三限後になり、一年一組の面々は、今からでもなんとかしようと穴が開くような熱視線を教科書やプリントに注いでいる。僕はそれをぼーっと眺めた。その中に剣持の姿はない。


 僕はというと、どうしてもやる気が起きなかった。そのおかげで模試も今の所壊滅的な出来だ。


「お〜い、緒方。ちょっと手伝ってくれ〜」


 風間先生が、山積みになった答案用紙をポンポンと叩きながら言った。一生徒いちせいとに回答用紙を運ばせるような真似をさせていいんだろうか。もちろん不正なんてしないが、疑われたら面倒なんだけどな。


 そう思いながらも、僕は机の横にかけているリュックを背負って、風間先生の元へと向かった。今日は外で食べることにしよう。いい加減、まるで何もなかったかのように振る舞うこの教室の空気には嫌気がさしていたところだ。


 風間先生は僕に答案用紙を自分で持って、そのまま教室を出た。察して風間先生の後をついていくと、風間先生は暗い表情で言った。


「......転校するよ、末森」


「あ、そうなんですね」


 風間先生が僕を呼んだ段階で、こう言った話をするつもりなんだろうなというのは予想がついていたので、僕は比較的スムーズに返答することができた。


 風間先生はというと、そんな僕の淡白な反応とは対照的に、深々とため息をついた。

 

「まったく、ちょっといい教師ぶろうとしたらこれだ。参ったよ、やっぱりあたしには教育者の才能はないみたいだ」


「............」


 風間先生が、自分の私利私欲だけではなく、小早川や剣持のような浮いた生徒たちに仲間ができるよう映研部を続けようとしているのではないか、という考えは、頭の隅にはあった。なんと返すべきか迷っていると、風間先生が僕の背中をバシンと叩いた。


「ということで、頼んだぞ、小早川のこと」


「......は?」


「このまま放っておくわけにもいかないだろう。ただ、あたしみたいなのと接するだけでも、今の小早川にとっては良くないだろう。あいつは変に真面目だから、教師のあたしとは下手に話しちゃうんだよな」


「............」


「だが、生徒は生徒で、小早川と話せるやつはいない......お前を除いてな。てことだ」


 もちろん、風間先生がいい先生だなんて思っていたわけではない。しかし、ここまで酷い先生だとは思わなかった。あれだけのことがあった小早川を放置するどころか、そのケアをただの一般生徒に放り投げるなんて


 だいたい、今小早川に誰かのケアが必要だとして、それが僕のわけがない。僕のような糞野郎が、今あなたにとって必要な存在ですよ、みたいな顔して近寄って来たら、今の小早川ならその時点で通報しかねない。


 ......しかし、小早川には、確かに用事がある。背中にしょっているリュックがいつもより重いのは、模試のせいじゃない。僕は小早川に返さないといけないものがあるんだ。それに、今の気持ちのままじゃ、次の英語の試験も散々な結果になるに違いない。文系でも理系でも重要になってくる英語を捨てられるほど、僕も自暴自棄になりきれてはいない。


 僕は、風間先生の小さな後ろ姿を見送った後、階段を降りて下駄箱に向かった。


 

     ※




 小早川は、やはり体育館裏のベンチに座っていた。しかし、小早川に呼び出され映研部の話をされたあの日のような、神秘的な雰囲気は感じられなかった。


 僕がまた今度にしようと後ずさろうとした時、その疲れた横顔が意識を取り戻したようにハッとした。


「......どうも」


 妙な挨拶をしてしまった。小早川はしばらくの間じっと僕を見てから、腰を浮かせ、ベンチの端に寄った。座っていい、ということだろうか。こわごわと小早川に近づく。拒絶されている感じもないので、そのままベンチの隅っこに座った。


 沈黙が訪れる。当然だ。小早川から僕に話すことなんてないはずだ。僕が口を開かない限り、この沈黙は続くだろう。


「......本当に、ごめん」


 謝罪の言葉はごく自然に出てきた。隣の小早川が箸を止めるので、続けて言う。


「俺が......剣持を誘ったから」


 それ以外にも謝らないといけないことなんて山ほどあるが、まずはここからだろう。小早川は剣持という名にぴくりと反応してから、少ししてふぅと息をついた。


「気にしないでください。私のせいです」


「......いや、そんなこと全然ないよ」


 僕の言葉に、小早川は静かに首を振った。そして、自嘲気味に笑った。小早川が笑ったところを初めて見たわけだが、笑顔というにはあまりに痛々しく、当然感動などなかった。


「どうやら私は、ああいう危険な人に好かれてしまう性質を持っているようです」


「え?」


 僕が聞き返すと、小早川は自嘲を強めて見せる。


「ああやって異常な好意を受けるのは、初めてではないんです」


「......そう、だったんだ」


「はい。女性だったんですが」


 小早川はそう言ってから「......驚かないんですね」と少し意外そうに眉を上げた。僕は、「......ううん、びっくりしてる」と言った。正直なところ、あの卒業アルバムを見たら、熱烈な女性ファンがいたことは容易に想像できる。


 小早川は「そうは見えませんね」と言って、それ以上の追求はせずに、力のない目で虚空を眺めた。


「そういうわけで、今回の件など、私にとっては大したダメージにはなりません。むしろ......剣持さんには、感謝しているくらいです」


「......感謝」


 つい、言葉に信じられないという感情が篭る。小早川は「ええ」とこともなげに頷いた。


「おかげであれ以来、誰も私に触れてきません。私に好意も悪意も向けてこない、まるで存在しない幽霊かのように扱ってくれるんです。本当に理想的です」


 そして、小早川は巾着袋を持って立ち上がった。そして、「緒方さんも、これからは皆さんのように、私と関わらないようにしていただければと思います」と言って、歩き始めた。ああ、卒業アルバムを返せなかった、でも、これでいいんだ、と、小早川の背中を見ながら思っていると、小早川の歩調があまりに緩慢だということに気づいた。今から僕が普通に歩いたって、簡単に追いつけてしまうだろう。小早川が受けた仕打ちを考えれば、キビキビ動けというのは無理な話なのだが、僕にはどうも、それ以外の理由がある気がして仕方なかった。


「小早川さん、待って」


 僕は、その侘しい背中に思わず声をかけてしまった。


「......はい?」


 小早川がピタリと止まり、振り返った。僕は小早川がせめて嫌そうな顔くらいしてくれていると思っていたから、つい顔をそらしてしまった。そして、やはりこのままじゃ駄目なんだろうなと思って、ついでにあの日の剣持のことを思い出したりなんかして、おかげでちょうどよくヤケクソになることができた。


「その理想の生活は、長くは続かないと思う」


「......どういう意味でしょう」


 小早川が目を細めて僕を見る。僕は三度ほど深呼吸をしてから、口を開いた。


「小早川さんは気づいてないかもしれないけど、もう今の段階で、小早川にアクションを起こそうとしている男子はいるんだ。男っていうのは基本、傷心中の女が大好物だから、小早川が拒否したって寄ってくるよ。そんなふうに学校中の男子から関心を集める小早川を、当然この学校の女子たちは気に食わない。彼女たちの中で、小早川は”被害者”から”被害者ぶって男に媚びてる”になる。女子が一番嫌いなやつだ。もしかしたら、今回の噂よりも酷いことを言われるようになるかもしれない。そうなったら、小早川は耐えられないんじゃないか」


「............」


 小早川はというと、悪い夢でも見ているかのような表情で立ち尽くしている。どうやら僕の冗長な語りの内容よりも、僕の豹変自体に驚いているようだ。まあそりゃそうか。豹変なんて剣持で満腹だもんな。


 そんな中申し訳ないが、もう少し話に付き合ってもらおう。


「だいたい、その生活は小早川にとって本当に理想なのかな?」


「......どういう、ことですか?」


「小早川は、本当に孤独になりたいのかなと思って」


「......もちろんです」


「じゃあ、幽霊部員を選ぶべきだったんじゃないのかな」


「......説明したと思いますが、私はサボるのが嫌いで、なおかつ風間先生のお話しにメリットがあると思ったからです」


「小早川は、単純に志が同じ仲間が欲しかっただけなんじゃないかな」


 僕は、小早川の言葉を無視して言い切った。


「小早川は僕を部活に誘った段階で、孤独に堪え兼ね人との触れ合いを求めていたんだ。でも、過去の経験から、友情なんていうあやふやなものに頼るのは嫌だった。だから、自分と同じように人間関係に苦手意識を持つ生徒を集めようと思った。同じ思想を持つ人間なら自分の気持ちがわかるだろうから信用に足るし、ひとまず深く関わりあう事がないから大丈夫だと思ったんだろう」


「...............」


「でも結局、その程度じゃ孤独感は拭えなかった。だから、天敵であるはずの江藤を映研部に招き入れたり、偽友達なんていう馬鹿げたアイデアを受け入れてしまったんじゃないかな。特に偽友達なんか、友達になるためのいいわけでしかないじゃないか」


「......違います」


 小早川はかすかに震える声で言った。そして、強い視線を僕に向けてくる。


「江藤さんに関しても偽友達に関しても、私が一人になるために選んだ事です」


 そして僕に背を向ける。


「もういいでしょうか。それなら失礼します」


 随分と棘のある口調だった。怒らせてしまったようだ。やはり、本当の小早川を暴くべきだなんていうのは、僕の独りよがりな考えなのかもしれない。しかし、やはり小早川の背中は僕に何かを訴えかけている気がして、僕は口を閉ざす事ができなかった。


「小早川に、返したいものがあるんだ」


 僕がそう言うと、小早川が不可解そうな視線を僕に向けた。そりゃ、あちらからしたら何の覚えもないだろう。


 僕はリュックから二冊のアルバムを取り出す。息を呑む音が、ここまで聞こえてきた。


「なんで、あなたが、それを......」


「小早川の家に行ったとき、乙葉ちゃんに押し付けられたんだ。返すのもお断りされたから、今まで持ってたんだけど」


 正確な説明が面倒だったので、乙葉ちゃんには悪いがざっくりと説明する。小早川は呆然と立ち尽くしていた。僕はペラペラとアルバムを捲る。中学二年生の思い出が載ったページで手を止める。例のベストカップルの写真だった。


「これって、本当にカップルだったの?」


「違います!!」


 いつの間にか目の前まできていた小早川が声を荒げて、僕から卒業アルバムを奪い去った。僕は小早川の能面とは程遠い崩れた表情を見上げて言った。


「確か、江藤と同級生だった頃、人気の男子に告白されて、女子から嫌われたんだよね」


「............」


「小早川は、それ以来友達なんていらないという思考で孤独を貫いて生きてきたって言ってたけど、これを見ると、とても孤独には見えない。むしろ、特に女子から気に入られようとしてるように見える」


「......嘘を、ついてしまったことは、本当に申し訳ないと、思ってます」


 小早川は、しばらくの間黙りこくってから、振り絞るように言った。そして、


「中学の時のことは......女性から好意を寄せられ異常なことをされたというのが、信じてもらえないのではないかと思って......しかし、何もないようでは、説得力がないと思ったので、つい......」


 本当にそうだろうか。今思えば、あれは小早川自身に対する嘘だったんじゃないかと、僕は思う。自分は孤独に負けたことのない人間なんだと言い聞かせ、孤独に対する恐怖に対して防御策をとっていたのではなかろうか。


「......確かに一度目の転校では、孤独に対する恐怖に負け......女性から、気に入られるように振る舞いました。しかし、その時は、友達といってもあくまで表面上で、そこまでの関係ではなかった......だから、人に対する嫌悪感が、孤独感に負けてしまったんです。しかし、中学の時、私に付きまとったこの娘は......親友だったんです」


 小早川が、ベストカップルの写真に視線を落としながら。どうやら、女版剣持はその娘だったようだ。正直、その写真を見ただけで、相手は親友以上に小早川を思っていることが推測できるし、ベストカップルとして写真に収まっている音から考えると、周りもそう思っていたようだが。


「そんな娘から裏切られたんだから、もう人となんて関わりたくありませんし、孤独に対する恐れだってありません。そして......再び虐げられようが、気にしません。この腕の蕁麻疹がそう思わせてしまったかもしれませんが......これは、ただ、たまたまタイミングが重なっただけです」


 小早川が、自分の腕をさすりながら、覇気のない言葉を吐く。どうやら正攻法で行っても、小早川の本心を聞くことはできそうにない。それなら、ほかの手段を考えないといけない。


「小学生の頃から男子よりも背が高くてルックスもいい、その上女子ウケにあれだけ全力を尽くしてたら、そりゃモテただろうな」


「......どういう意味ですか」


 思ったより、皮肉っぽい口調になってしまった。小早川の切れ長の目がさらに鋭さを増す。罪悪感で薄れた怒りが、僕の言葉で再びぶり返したようだった。


「まさか、私の自業自得だと言いたいんですか」


「自業自得......」


 そんなこと言うわけない、と言おうとして、辞める。


「うん、そうかも」


「......あなたは」


 小早川は怒りのあまり顔を青くした。もう小早川との関係を修復することは無理だろうな、いや、関係なんて元からあってないようなものか。


「実際、小早川の生き方にも問題はあると思う」


 僕はそう言って、小早川が何か言う前に続けた。


「人気者の男子に告白され女子から無視、おかげで友達も離れて行った。だから次は女子から嫌われたくない、引きつける存在でありたい。その気持ちはよくわかる。でも、だからと言って、ここまで女子のための存在になる必要なかったと思う。美人でありながら女子から好かれてる人だっているだろう。それの真似をしておけばよかったんだ。この時の小早川は、その気の無い女の子でも恋に落ちちゃうだけの魅力があるし、しかも女子校で、このアルバムを見た限り、お嬢様が通うようなところだろう。恋愛経験の乏しいお嬢様ばかりの学校にいきなりこんなのが現れたら、一人くらいおかしくなる娘がいたって不思議じゃない......やりすぎたんだよ、小早川は」


「............」


 小早川は、青い顔のまま唇を固く閉ざした。


「親友から裏切られたんだから、人間不信になって当然だ......でも、やっぱり、あそこまでの拒絶をする必要なんてなかったんだ。もっと適度に人と距離を取ればよかった......何もしてないうちからあんな風に拒絶されたら、大抵の人間が嫌悪感を持つ。それだけだったら小早川の望み通り......なのかもしれないけど、問題は、嫌悪感以外の感情を抱く人間もいるってことだ。江藤のように興味関心を持つ人間もいるし、何より厄介なのが、剣持みたいなやつだ」


 僕が剣持の名前を出すと、小早川の細い眉がピクリと跳ねた。


「彼みたいな下の人間は、学校の連中なんて全員死んだらいいと思ってる。でも、そんな連中相手に、自分は、何もできない。せいぜいテロリストが学校を占拠してそいつらをぶっ殺してくれることを願うしかないんだ......小早川は、その願いを叶えてしまっていたんだよ。自分が殺したくても殺せない連中を、小早川は簡単に拒絶してしまう。小早川は彼らのヒーローだった。特に、直接救われた剣持なんかは、小早川のことを神様とでも思ってたんじゃないかな」


「............はははは」


 小早川が、一定のトーンで笑った。もちろん

 

「そうですか。剣持さんの件まで、私のせいですか......はははは。よくそんな説教できますね。それなら緒方さんは、さぞかし賢く立ち振る舞えるんでしょうね。参考までに聞かせていただきたいのですが、私はどうすればよかったんでしょう」


「......例えばだけど、太るとか」


「......え」


「今までの小早川に降りかかった不幸の原因のほとんどが小早川の見た目が原因だろう。人気者の男子に告白されてそれで女子の嫉妬をかったのも、その娘から好意を寄せられたのも、剣持がストーカーになったのも、結局小早川が優れた見た目をしていたから起こったことだ」


「............」


「なるほど、参考にさせていただきます。それでは」


「参考になんてしなくていいよ。というか、それに近いことはもうやったんじゃないかな」


「......は? 何がですか?」


「乙葉ちゃんから聞いてるよ。中三の途中でイメチェンしたって......そして、それから不登校になったってことも」


 小早川の顔が苦虫を無理やりかまされたように歪む。


「小早川は、何らかの方法で見た目を変えた。それで、何か嫌なこと......例えば、いじめに近い目にあったんじゃないか。それで、不登校になった」


 この沈黙は肯定ととっていいんだろうか。それなら、小早川は中三で今と同じような体験をし、耐えきれず逃げ出したというわけだ。にも関わらず、同じことを繰り返そうとしていたのなら、はっきり言って馬鹿としか言えない。


「小早川は、その時一番強く感じている恐怖の原因から逃れるように生きてるんじゃないか。恐怖は生半可な逃げ方じゃいつまでもつきまとって来るから、全速力で逃げるしかない。その結果が王子様になったり人間関係の断絶したり、そして映研部をやってみたり......恐怖の感情を引き起こす原因なるものなんていくらでもあるだろう。一つの恐怖を消すためになりふり構わず奔走した結果犠牲を払い、その犠牲が恐怖の原因になり、それからまた無茶な逃げ方をする。今までの人生、小早川はそれを繰り返して来てるんじゃないかな」


「......そんなの、違います」


 小早川の声は怒りか、それとも別の感情かで震えていた。「私は、そんな弱い人間じゃありません......」と続けて言って、自分の言葉に動揺したように肩を震わせた。


「......たとえ私が弱くたって、今回の経験を糧に強くなります」


「それは、元から強い人間が言うことだよ。弱い人間が辛い経験をしたら、一生痛み続ける傷を抱えてさらに弱くなるだけだ」


「このままじゃ、小早川はどんどん新たなトラウマを作り、ただでさえ生きるのが下手くそなのに、どんどん生きにくくなっていく。そしていつしか、小早川には間違いなく限界が来て」


 すると、ガシャンと何かが崩れる音がした。小早川が手に持っていた弁当箱を地面に叩きつけたのだ。


「一体、なんなんですか、あなたは」


 震える声で小早川が言う。


「そうですよ、そうです、その通りです!!!」

 

 そして、悲痛な叫びとともに、小早川の瞳から涙がこぼれた。


「全部、全部あなたの言う通りです!!! 確かに私は生きるのが下手くそです!!! 私の人生でうまく言ったことなんてほとんどないし、うまくいったのも全部見た目のおかげでした!!! その見た目のせいで嫌な目にもたくさん合いましたけどね!!!」


 小早川は、怒り任せに弁当箱を蹴り上げた。弁当箱はワンバウンドしたときに巾着袋を脱ぎ捨て、中身を飛び散らせながらコンクリート塀に激突した。


「ええ、確かに、私は全然強くなかったです!! 不登校になって、孤独に慣れたと思ったのに、学校で一人でいるのは全然違って、結局耐えられませんでした!!! でも、江藤さんは紬に似てて、だから怖くって、だからっ、あなたに声をかけたんですよ!!! あなたならわかってくれると思った!!! 人に囲まれあんなに辛そうに笑ってたあなたならっ、私の気持ちっ、わかってくれるって思った!!!」


 僕は、小早川の声が他の生徒に聞こえないか心配になった。流石に模試の合間なのでバスケに興じる生徒はいないようだが、それでも校舎にまで届いてしまうのではと思うくらいの叫びだった。


「私もそうだったんです、紬が私のこと好きで......好きな相手としてっ、いろんなことしてきてたんだってわかって、嫌だったけどっ、でも隠さなきゃって必死に愛想笑いしてたんです!」


 そして、卒業アルバムを放り投げると、袖で涙をぬぐいながら続けた。


「ええっ、あなたの言う通り、紬以外にもっ、私のこと好きな女の子はいましたよ!! 彼女たちの好意がっ、全部嫌なものに見えてきて、怖くって......もうそれだったら嫌われてでも一人になりたいって見た目変えて......でも、そしたら皆が豹変して、それで不登校になっちゃってっ、そんな私のせいで親は別れました!!! 全部私のせいです!!!」


 そこで、小早川はいつの間にか自分のことを責め立てていることに気がつき、再び僕を睨みつけた。


「とにかく、私は剣持さんだってっ、あなたが良いって言うから信用したんですよ!!! でも、剣持さんは、友達なんかならないって言っておいて、あんな気持ち悪い告白してきた挙句にストーカーですよ!!! 」


 小早川がボロボロと泣くので、僕もつられて泣きそうになった。もちろんそんな意味不明な真似はできないので、目頭に力を入れて耐えた。


「そうです、今回の件だってトラウマになります!! また生きにくくなりました! もうどうしたらいいのかわかりません!!!」


 そう叫ぶと、小早川はその場に崩れ落ちて、今度はさめざめと泣き始めた。僕は何もできずに、ただただその様子を眺めていた。何分経っただろう、小早川が、ずずと鼻をすすりあげながら立ち上がった。そしてとぼとぼと僕の方へと歩み寄り、ベンチに座った。そして、赤くなった目で僕を見た。


「どうしろって言うんですか」


「え?」


 すると、小早川が明らかな嫌悪感を示した。


「まさか、ただ私を悪く言いたかっただけなんですか。何かあるんですよね。やっぱり太れっていうなら無理ですよ。私、太れない体質ですし」


「......ああ、うん。あるよ。そんな自己犠牲を払う必要のないやつが」


 さらっと女子から妬みを買いそうな告白をする小早川に、僕は頷く。そう、僕は小早川にある提案がしたくて、こんなことをしたのだ......どう考えてもやりすぎだったが。


「小早川は、とにかく味方を作るべきだと思う」


「......味方、ですか......作ったつもりだったんですけどね」


 小早川が皮肉げな笑みを浮かべるので、僕は首を振った。


「剣持や僕なんかじゃ駄目だよ。本当の小早川を認めてくれて、小早川を支えることができるだけの力のある味方だよ」


「............」


 この時点で小早川は僕の言いたいことに察しがついたようだ。


「......江藤さん」


 小早川は、あからさまに失望した様子を見せる。勝手に名前を出され失望されるなんて、江藤も本当にかわいそうだな。勝手に名前を出した僕が同情できる話でもないが。


「......先ほども言いましたが、私は江藤さんが怖いんです。自意識過剰と笑われるかもしれませんが、あれだけ拒否をされておきながら、友達になろうなんて人......また、同じことになるのでは、と思ってしまいます」


「その恐怖を乗り越えてでも、江藤と友達になるべきだよ」


 思わず言葉に力が入る。


「弱い人間が、一人で生きようとするのがまず無茶なんだ。だから、誰かに支えてもらわないといけない。人っていう漢字は人と人が支え合ってできている、みたいな話を先生がした時、決まって、短い棒の奴が支えてるだけで、長い棒の奴はただ支えられてるだけじゃないか、なんて言う奴がいるんだよ。その通りなんだ。事実そんな生意気言ってるガキは自分の保護者に支えられっぱなしで生きている。そいつが自分の親を本当の意味で支えたことなんてないだろう。人と人の関係はそんなもんなんだ。支え合うなんて無理だ。弱い人が支えられて、強い奴が支えるんだ。言ってしまえば、弱い人は強い人に支えられなければ人ですらないんだよ」


「......意味が、分かりません」


 本当だ。意味がわからない。その理屈だったら、強い人間は弱い人間を支えていないと人じゃないということになる。それは流石に無茶がある。こういう話をするとき......と言ってもほとんどしたことがないんだけど、僕はより変になってしまう。きっとコンプレックスでも抱えているんだろう。が、そんなことはどうでもいい。


「友達が嫌なら、それこそ偽友達でも良いんじゃないかな。きっと江藤は、受け入れてくれると思うよ」


「......今さっき、あなたが、そんなものはまやかしだと言ったはずです」


「まやかしでも、江藤が信じているなら問題ないと思う」


 僕がそう言うと、小早川はふいっと視線を地面に落とした。


「......たとえ私がいいと言っても、江藤さんがいいとは言いませんよ」


 そして、今度は悲観的な笑みを浮かべる。妙に似合っていた。


「江藤さんは、もう私を見限ったじゃないですか。今頃そんなこと言われたって、不快になるだけです」


 江藤から好意を向けられていたことに不安になったかと思えば、今度は嫌われてるんじゃないかと不安になっている。忙しいな、と心の中で思いながら、


「そんなことはないよ。絶対受け入れてくれる」


 僕は断定した。これで江藤に断られたら僕の立つ瀬がなくなってしまうが、僕には確信があった。


「江藤は、今回の件で責任を感じているんだ。自分が小早川さんを放っておかず小早川さんの......きつい対応を引き出してたせいで、小早川が女子から反感を買って、ああいうことになったって思ってる。だからこそ今も話しかけないのであって、小早川さんの方から江藤を受け入れたら、江藤は自分の責任を果たす機会に大いに喜ぶよ」


 正確には、江藤が小早川に話しかけなくなったきっかけは僕なのだが、まあ、そこはいいだろう。


「......江藤さん周りの女子は、私を嫌っています」


「そうかもしれない。でも、小早川に嫌がらせをしたりはしないよ」


「......そうでしょうか」


 僕は羽ヶ崎の顔を思い浮かべながら、彼女の顔を振り払うように頷いた。


「そうだよ。今の小早川は嘘の噂を流された上、ストーカーまでされた完全なる被害者なんだ。そんな人に嫌がらせができるほど、今時の女子高生は良識がないわけじゃない」


 連中は、あくまで自分は悪くないって顔して人を叩くんだ。いや、女子高生に限らず大抵の人間は、人を叩くとき正義面をするもので、自ら悪役を買って出るほど度胸がある人間が柏葉高校にいるとは思えない。今の小早川には悪意を向けること自体がとても不謹慎だという空気は、たとえ羽ヶ崎だって変えられないだろうし、そもそも羽ヶ崎は、そんなリスキーな真似はしたがらないと思う。


「それに、まず間違いなく江藤が小早川さんを守ってくれるよ。小早川さんに頼られてる状況なら、江藤がそんなことを許すとは思えないし」


 今回の件は、あくまで小早川が江藤を拒絶し、それがさらに小早川を追い詰めるような状況なのが問題だったのだ。小早川が江藤に助けを求めようもんなら、江藤は馬車馬のように小早川を助けようとするに違いない。


 僕の「......無理ですよ」とぽつんと言った。


「もう私は、人のことを信じるなんてできないです......頭ではわかってるんです、江藤さんがただのいい人で、クラスで浮いている私を心配してくれているだけだって......でも、今までの経験が、疑わないことを許してくれないんです。そんな被害妄想癖のある私が、江藤さんと無理に関わったって、お互いを不幸にするだけです」


「だったら、そうならないよう、僕が精一杯協力するよ」


 小早川が目を見開くのを視界の端で捉えながら、僕は精一杯力強く続けた。


「小早川さんが江藤を拒否しちゃったらそのフォローを、逆に江藤が小早川さんを裏切るようなことがあったら、その時は小早川さんを守るよ。三人なら、映研部も続けられるし。そうしたら風間先生の協力だって得られるから、小早川にも得はあると思う」


 小早川の瞳がこぼれ落ちるのではと錯覚するくらいに揺らいだ。もちろん、僕の発言に感銘を受けているわけではない。


「......それは、どういった理由で、でしょうか。あなたは、江藤さんと積極的に関わりたがっていないと言う話だったと思いますが」


 小早川の声は、吹けば彼方に飛んでいってしまいそうなくらいか細かった。今の僕の言葉が、小早川にとって献身的に聞こえたからだろう。人間不信を患う小早川にとって、好意は裏切りへの序章でしかない。僕の提案が好意なんていうあやふやなものではなく、裏切ることのない明確な目的があることを証明しないと、ただただ小早川を不安にさせるだけだ。


 僕は一瞬嘘をつくかどうか迷って、すぐにその選択肢をかき消し、覚悟を決めた。


「いや、僕はむしろ、江藤と関わりたいんだ。そのために、小早川に協力するんだよ」


 やっと、自分のしょうもない嘘を打ち明けることができた。そんな僕の告白に、小早川は不可解そうに眉を顰めた。


「......あなたは、江藤さんのことが好きなんですか?」


「いや、全く好きじゃないよ」


「............」


 小早川の顔にあからさまな戸惑いが浮かんだ。その表情は何だか、人間臭いという中でも普通の人間のようで、今までの表情よりは明らかに可愛らしかった。その顔を教室で晒せばもうそれだけで好感度が上がるんじゃないかと思えるくらいだった。


 ここで、僕はロクでもないイタズラを思いついてしまった。そして、緩みに緩みきった僕の口は、思わずその思いつきを漏らしてしまう。


「僕は、彼女の糞になりたいんだ」


「.........ふぇ?」


 小早川は、今時萌えキャラでも躊躇するような声をあげ、もはやギャグ漫画の一ページとして使われてもいいくらい間抜けな顔をした。僕は思わず笑ってしまった。笑ったあと、これは普通にセクハラ案件になってしまんじゃないかということに気づき、慌てて弁明した。


「いや、金魚の糞って知ってる? ああ、キョロ充って言った方がわかりやすいと思うんだけど、要はリア充の周りでうろちょろしてるような人のことを言うんだ。今のは江藤を金魚に見立てて言ったんであって、変な意味では......小早川さんのそばにも一人くらい......ううん、女子校にはそういう人いないのかな?」


 小早川はショックのせいで僕の声が届いていないのか、ぼーっとしている。馬鹿が、ただでさえアウト発言なのに、変態野郎に嫌な思いをさせられたばかりの小早川に、冗談でもこんなこと言っちゃいけなかったんだ。僕のようなジョークのセンスのない奴がたまに言うジョークほど、その場を凍らせるものはない。”氷の女王”の二つ名を小早川から戴冠しないといけなくなってしまった。明日から女装しようかな。言ってる場合じゃない。


「要は、僕はキョロ充で、江藤というリア充の後に付き従いたいと思っているんだ。だけど、江藤みたいな強者からしたら、僕みたいな人間を自分のそばに置いておく理由がない。メンタル強めのキョロ充だったらそれでもそばに行くのかもしれないけど、僕にはちょっと厳しい。それが僕のもっぱらの悩みだった......それは今も継続中なんだ」


「......え、でも、仲良くされてますよね」


 小早川が判然としない表情ながらも口を開いた。よかった。とりあえず僕がとんでもない性癖を持った変態だと言う誤解は解けた......いや、まだ油断はできないか。小早川からしたら、どのみち僕は妙なことを言い出してるんだ。


「うん、確かに今はそれなりに仲良くしてる方だと思う。でも、それは全部小早川さんのおかげなんだ」


「......私?」


「うん。江藤は、僕と小早川が仲がいいものだと思い込んでた。だから僕と友達になって、友達の友達は友達作戦で、小早川と仲良くなるつもりだったらしいんだ」


 言いながら、小早川と仲良くなるために江藤がこんな根回しをしていたと知ったら、さらに江藤に対して人間不信を深めてしまうのではと思ったが、小早川にその様子はなさそうなので、続けた。


「でも、僕と小早川が実際は仲良くないのはご存知の通りだと思う。時たま会話をするのは席が隣だからで、模試後の席替えで席が離れれば、そんな誤解はあっさり解けてしまう。そんな時に、小早川から映研部の件を持ちかけられたんだ。小早川と部活をともにする関係になれば、江藤の関心は僕に向き続けるんじゃないかと思った。だから話を受け入れた。江藤たちと離れる気なんて、さらさらなかったんだ」


 事実は少し違うが、まぁ、同じようなものだろう。


「このまま、僕と小早川さんの関係が断たれるようだと、江藤の中で僕の価値は急落する。小早川さんがいないと、僕は江藤とロクにつながることができない......小早川さんは、僕にとって......」


 何か他にいい言葉がないかと探したが、見当たらなかった。こんな語彙力で、一時期作家なんてものを目指してたんだから、本当にお笑い種だな。


「とても、いい餌なんだ」


「エ、サ......」


 まるでマイナーな外国の言葉かのように、小早川がつぶやく。間違いなく血の通った人間に向けるべきではない酷い言葉だが、餌に好意を寄せるような特殊性癖は今の所ネットですら見たことがない。僕はあくまで小早川を利用している、ということを強調するのには、いい言葉だとは思う。


「だから、僕は、江藤の金魚の糞になりたいがために、小早川に協力したいんだ......けど、どう、かな」


 僕がそう聞くと、小早川は、喜怒哀楽をそれぞれ一滴ずつ垂らしたような表情で僕を見た。しばらくの間僕たちは、お互いの顔色を伺いあった。そして、まだこのことに関しては小早川にちゃんと謝っていないことに気が付いて「ごめん、騙してしまって」と頭を下げて謝った。


 少しして、小早川が腹の底から出たようなため息をついた。そして、


「すみませんが、正直、受け入れ難いです。あなたがそんな人間だとは、私は思えません」


「......そっか」


 自分でも喋ってて何を言ってるかわかんなくなってきてるレベルだったから、それも納得だ。よし、小早川が去った後丈夫なロープでも探そう。そんな気もないくせによく言うよ。しかし、ここは人気もないし立派な木もあるから、最期の場所に案外いいかもしれない。一応覚えていよう。


「緒方さん」


「あ、うん」


 頭の中で何回も首を吊っているうちに、小早川に呼ばれビクッとなる。小早川というと、瞳の中に強い意志を取り戻し、僕を見据えた。


「率直に言わせていただくと、話を聞く限り、あなたは特殊な方です」


「......そう、かな。金魚の糞って、それなりにいるとは思うんだけど」


「確かにそうですが、そういう人たちとは少し違うというか......少なくとも私が見てきた、金魚の糞、と呼べるような人たちは、自分で自分をそういう人間だと認めることができないような、プライドの高い人たちだったと思います」


「......なるほど」


 確かに、今まで僕が見てきたような金魚の糞は、俺は天下のリア充さまだ! と全身から主張しているようなやつばかりだった。もちろんそれはただのポーズで、心のうちでは自分が大したものではないくらいわかってるんだろうけど、それを表面上に出すシーンは、未だお目にかかってはいない。


「あなたが、なにがあってそういう人間になったのか......それを聞かせてもらえたら、納得できるかもしれないです」


「............」


 何というか、思っても見ない展開になってしまった。確かに、特殊な人間には特殊になるだけの理由というものがあるものだが、その理由が小早川のようなドラマチックなものに限るかと言うと、そうではないことの方がよっぽど多い。特に僕なんかは、小早川のような波乱万丈の人生を送ってきたい。話したところで、「一体それの何がどうなんですか?」という顔をされておしまいだろう。いや、それならむしろありがたくって、軽蔑されて当然だろう。なぜなら、僕は小早川を苦しめる側の人間だからだ。


「いや、僕も元から弱い人間で、さっきも言ったように強い人間に支えてもらわないと生きていけなかったんだよ......うん、それでまあ、こういう風に......」


 小早川の瞳が急速に冷えて行くのがわかって、僕の口はかんじかんでしまった。別に嘘を付いている訳ではないんだけどな。


「まさか、人のことをあれだけ乱雑に暴いておいて、自分はそれで終わらせるつもりですか?」


「......うん、いや、どうだろう」


「ああ、それでは暴かれるの待ちでしょうか。申し訳ありません。私にはそのようなことできかねます。氷の女王なんて言われていますが、一応人としての心はありますので」


「はい、うん、すみません」


 小早川の皮肉たっぷりの口調に謝るしかない。しかし、小早川が攻勢を緩めることはなかった。


「謝られても困ります。そんなことより誠意を見せてください」


「......その、どうして僕がこんな人間になったか、人生を振り返って説明させてもらえたらと、思います」


「それでは私と同じように、小学生の頃から教えていただきましょう。別に赤ん坊の頃どんな風に泣いたか語りたいなら、そこからでも構いませんよ」


「いえ、小学生からにしてもらえたら」


「了解です。どうぞ」


 小早川がきっぱりとした口調で言う。どうやら逃亡は許されないようだった。まぁ、ここまでやってしまったんだ。とっくの前に軽蔑されているだろうし、そういう意味では、僕という人間を初めて打ち明ける相手として、もしかしたら小早川は最適の人物なのかもしれない。


 僕はスマホを触って現在時刻を確認する。次の試験への準備のためいつもより長く取られた休憩時間も半分以上が消費されていた。僕の人生がいくら愚にもつかないからと言って、淡々と早口で行くべきだろう。それに、いくら今の僕が自暴自棄だからといって、自分語りなんていう、たとえ警察のお世話になっても黙認したいことを実行している事実に、僕が何分耐えられるかわからない。


 僕は、頭の中で話すべきことを整理して、そのうちに湧き出るしゅう恥心と自制心を咳払いで誤魔化し、正面の木々を眺めながら、彼らに語るつもりで口を開いた。


「小学生の頃から、人が当たり前にできることが僕にはできなかったんだ。特にコミュニケーションは不得意で、よく空気が読めないと言われたよ。でも、僕としては空気を読んで、五つほど選択肢が出たところで、その中から選んだものがいつも間違っているって感じだった。まあそれが空気が読めてないってことで何一つ文句もないんだけど。漢字の”川”のカーブを逆に書いてしまうようなバカでも、僕がズレた人間だと言うことはなぜかわかってしまうから、当然僕は学校であまりいい立場になかった......と、いっても、足だけはそれなりに速かったから、一応周りに人はいたよ。それに、小学生のころはスクールカーストなんて考え方があまり出回ってなくて、人間に上下があることにもあまり自覚的じゃなかったから、まぁそれなりにやっていけてたとは思う」


 どう考えても川云々の話はいらなかったな、と思いながら、小学生の頃の話を早々に終える。次は、中学か......ここが僕の第二の人生の分岐点で間違いないだろう。避けるわけにはいかないが、やはり気乗りがしないなぁ。


 思わず黙り込むと、小早川から無言のプレッシャーを受けてしまう。仕方がない。


「中学に上がると、足の速さだけではどうにもならなくなった。そして、小学生の頃はなかったスクールカーストと言う考え方が当たり前にあって、足が速いだけ、それ以外は基本平均以下の僕は、当然のようにスクールカーストで底辺の位置に所属することになった。流石に僕もそのことに気づいてはいたけど、あまり気にならなかった。というか、なんていうんだろう......僕たちの中では、底辺こそ頂点、みたいな、屈折した考え方があったんだ」


「......僕、たち?」


「うん」


 僕は頷いてから、ふぅと息をついた。幻聴が来るのではと身構えたが、来ない。こうやって耐える準備をしている時はやってこないとは、なんともいじめ上手だな。


「......友達ができたんだ。東堂って言うんだけど、僕と同じく、下になるべくしてなったような男だった。同類だって一瞬でわかったよ。あちらもそうだったんだろう。まあ僕たちじゃなくても、僕たちのクラスで神経衰弱したら、僕と東堂を選んだと思う。そんなこんなで僕たちはすぐに仲良くなって、毎日のように二人でいたよ。僕の中学も柏葉高校と同じで生徒全員部活に入らないといけなかったから、一緒に部員がほとんどいない文芸部に入部した......そこで、ライトノベルに出会った......ライトノベルっていうのは、なんというんだろう」


「知ってます......部室で見たような......魔法少女まきノンのようなものですよね」


 小早川は言う。正直、僕の中では大分違う。大分違うからこそ、僕はまきノンを見てられるんだけど、まぁそんなことはどうでもいい。


「そう、まぁ、挿絵付きで十代向けの、アニメを小説にしたようなものだと思ってもらえれば......そのライトノベルの中でも、学校を舞台にしたものに、僕たちはハマってたんだ......当時僕たちが読んでたようなのは、ざっくり言うと、取り立てて長所のない、スクールカーストも低い主人公が、可愛い女の子たちから好意を向けられる、的な話だった......そういう作品は、誇張でもなんでもなく、僕たちを救っていた。僕たちと同じような人間が、学校という場所で僕たちが受けたことないようないい扱い方をされて、僕たちより明らかに上の位置にいるはずの人間が、そのライトノベルの中では全く価値がない。サッカー部のイケメンとか派手な女子より、陰キャの主人公の方が価値があるんだ」


 話をするのが辛くなってきた。しかし、そんな姿を見せて小早川に罪悪感を抱かせるわけにもいかないので、平気な顔をして続ける。


「だけど、当時の僕たちは本当に馬鹿で、ああいうものが僕たちのような下の人間を気持ちよくさせるための娯楽作品であることに気づけていなかった。本気にしてしまったんだ。僕たちは、学校で上位に位置する生徒たちを見下すようになっていた。僕たちが読んだラノベのように、僕たちが価値ある存在で、あいつらは見てくれだけなんだ、と、創作と現実を混同してしまったんだ。これがさっき言った、底辺が頂点という歪んだ考え方の原因だと思う」


 そういう作品を作っている人間に対して、恨みつらみなんて一切ない。当時の僕たちはあまりに愚かで、そんな愚か者に合わせていたら世間はろくに回らない。それに愚か者代表として言わせてもらうなら、自分が足を引っ張っているという事実はちょっと重いから勘弁してほしい。まぁ、規制云々言ってる連中は、別に僕たちのことなんて一ミリも思っちゃいないんだろうけど。


「......金魚の糞なんて連中、特に見下してたよ」


「えっ」


 真剣に話を聞いている風だった小早川が驚きの声をあげた。気持ちはわかるので、僕も大きく頷く。


「うん、なにせ連中は、ラノベの中じゃ本当に糞の価値もないんだ。彼らはリア充になりたくてもなれない、けどリア充グループに必死に入ろうとしている本当に滑稽な存在で、その自覚があるからか自分より下と認識した人間を執拗に叩きたる性質を持つ。そして何より脆弱だ。主人公のいい敵役になる。もちろん、最終的には情けない負け顔を見せて、ざまぁみろと爽快な気分を味合わせてくれるだけの存在......本当に、本当に見下していたよ」


 キョロ充を金魚の糞、リア充を金魚と呼び始めたのは、確か東堂だったと思う。そっちの方が彼らを馬鹿にしてる感じが出て、僕も好きだった。


「そうやってラノベに影響を受けてるようなやつは、大抵の場合ラノベ作家を目指す。僕たちも例にもれなかった。そして、僕と東堂で本を作って、文化祭で配ったんだ......配った、と言っても、机の上に置いといて、遠目から眺めてるだけだったんだけど」


 それが、剣持の心を掴むとは思いもしなかったな......まぁ、どうでもいいことだ。


「その次の日だったかな、東堂はラノベ作家の夢をとりあえず保留して、本格的に絵を描きたいと言ってきた。もともと東堂は絵が上手くて、自分の書いた小説のキャラクターを描いていたりしていたから、そのこと自体に驚きはなかったんだけど.......驚いたのは、僕のために絵を描いてくれるって言うんだ、東堂」


 なんだか、さっきから余計なことまで話してしまっている気がする。もう少し話をカットしてもいいかもしれない......いや、なんでだろう、そんな気がしない。もしかして、恥ずかしいなんて思っておきながら、実際は自分語りでもしたかったのかもしれない。だとしたら相当恥ずかしいやつだな、僕は。


「東堂は、僕には才能があり、作る物語はすでにプロの作家のものを超えている、その才能を自分の得意な絵で支援するから、一緒にプロデビューしようって、言ってくれたんだ。僕は大喜びでその話を受けて、絵も一緒に投稿できる小説投稿サイトで出版社の目を引き、一緒にプロデビューしよう話になった......本気だったよ」


 馬鹿げた話だと思うが、実は今もまだ、僕たちならプロになれたんじゃないかという気持ちは消えていなかったりする。


「東堂は四六時中、場所を選ばず絵を描くようになったよ。まさか、僕の人生で、僕のためにここまでしてくれる人が現れるなんて想像だにしなかったから、とても嬉しかった......」


 僕はここで一息ついて、リュックの中から残り少ないミネラルウォーターを取り出し、空っぽにした。その間も小早川は僕から視線を外そうとせず、僕は重い口を開かざるおえなかった。


「......最近、アニメ文化に対して世の中は大分寛容になってきたんだけど、ただそれは、『アニメ好きのスクールカースト底辺』に対して寛容になったということではなくて、ましてや『教室で女の子の絵を書いているスクールカースト底辺』に寛容になったかというと、全くそんなことはなかったんだ」


 蓋を固く閉めたペットボトルを両手の中でくるくる回す。目をつぶればあの日の光景が鮮明に思い出されるだろうが、もちろんそんなことはしない。


「当時、僕たちが一番見下していた人間が、同じクラスの後藤というやつだった。今は柏葉生なんだけど、知らないよね」


 小早川が頷く。そりゃそうだろう。せめて僕に後藤たちを呼び寄せるだけの求心力があれば知っていたかもしれないが、まぁ、どうでもいい。


「後藤は、人気者の後ろにピッタリつきまとい、いつもニヤニヤ軽薄に笑ってる、そんなやつだった。よく二人であいつの悪口を言ってたよ。なんならあいつを敵役として僕が書いているものに出そうかなんて言ってたくらい、完璧な金魚の糞だった」


 それは今も変わらず、見事なまでに辻にひっついている。僕はそれを見るとちょっと安心する。同類が健在なのはいいことだ。


 僕はしばらくの間からのペットボトルをかまってから、リュックの中に放り込んだ。ここからの話が、先ほどの分岐点というやつなのだが、やはり小早川のものと比べると、本当に何だそれと呆れてしまうような話だ。小早川はあくまで被害者で、僕は被害者じゃない、まごうことなき加害者なんだ。それを被害者面して喋ると言うのは、厚顔無恥にもほどがあるというものだ。


 再び黙り込んだ僕に、今度は困惑の視線を小早川が送ってくる。確かにこのままじゃ、むしろ僕が金魚の糞を見下してたと言う話で終わってしまう。そんな話で一体何を信用しろっていうんだってことだもんな。

 

 まぁ、いいじゃないか。僕の話があまりに下らなくって小早川が笑っちゃった、なんてことになったら、僕の糞みたいな人生にもそれなりの使い道があったというものだ。僕は無色透明のため息を吐いてから、無心になってただただ喋るだけの機械になることにした。


「あれは、自習の時間だった、底辺の僕たちに席移動なんて派手な真似は許されてなくて、僕たちはそれぞれの席で、それぞれの作業に打ち込んでいた。僕は課題のプリントを解くふりをしながらも小説の続きを考えて、東堂はそのフリさえせずに僕が書いたラノベのヒロインを描くことに没頭していた。それを奪い取ったのが、後藤だった」


「後藤はその絵を黒板に貼り付けた。で、もう一人のお調子者のやつが、話し方に特徴のある先生のモノマネなんかして、その絵に突っ込みなんか入れるコントをやって、教室は、確か笑いに包まれていたと思う。僕はその時点で頭が真っ白になっていたから、ちゃんと覚えてないんだけど。きっと東堂もそうだったと思う......ともかく、僕たちは、心の底から見下していた人間に、あからさまに虐げられたんだ。ここで僕らが知ってるラノベの主人公なら何らかの反撃するし、主人公が反撃しないでも、例えば主人公のことが好きなヒロインなんかがどうにかしてくれるもんなんだけど、僕たちは何もできなかったし、何も起こらなかった。チャイムがなるまでそのコントは続いたんだ」


「僕たちは、その日の出来事をなかったこととして扱った。自分たちが見下しきっていた金魚の糞にいいようにされる自分たちを、とてもじゃないが認められなかったんだ。特に、直接の被害にあった東堂は、教室で絵を描くことすらやめなかった。やめてしまえば、自分が傷ついていると認めてしまうと思ったのかも知れない」


「そこから、東堂は後藤の格好の獲物になった。そして僕は、毎日のように何も知らないふりをした。よくやったのは寝たふりだよ。僕は寝てたから何にも知りませんって顔で過ごしてた。東堂にはバレてたと思う。でも東堂は何も言わなかった。僕の前では、やっぱり平気そうな顔をしていたよ」


「その日も自習の時間だった。いつものように後藤が皆の前で絵を公開して、そしたら、東堂が泣いたんだ。そして、次の日から東堂は学校に来なくなった。持病がどうこうと言う話だったけど、明らかな嘘だった......そして、東堂以外友達がいなかった僕は、学校で一人になってしまった」


「本当の意味で孤独になったのは、これが初めてだった。孤独は人を成長させるという言葉は確かに正しくって、僕は確かに成長して、底辺が頂点なんていう馬鹿げた妄想から覚めて、底辺は底辺なんだと言う現状が見えるようになった。ラノベで書かれる滑稽な金魚の糞に一切の対抗ができないくらい下、最下層に僕はいた。でも厄介だったのは、全ての妄想が覚めきったわけじゃなかったってことだ。今の今まで自分が上だと思っていた分、確かに僕は底辺にいるが、底辺にいるべき存在ではないと言う妄想からは脱せられなかったんだ」


「最底辺に一人きりで取り残されているというこの落差に堪え難かった僕は、なんとか底辺を脱し、自分がいるべき場所に行こうともがいた。ただ、何をやってもうまくいかない。高望みの連続、失敗の連続だった。正直言って、いつまでたっても学校にこようとしない東堂を心の中で責めたよ。いつの間にかお見舞いにも行かないようになって、ライトノベルも書かなくなった」


「僕の中学校では、修学旅行の班は生徒に決めさせず、その時の席によって決めていた。僕は、辻という男と同じ班になった。辻は、後藤が金魚の糞をしていた男だった。僕は辻と仲良くしようとした。辻も、僕と辻以外にその班に男子がいなかったもんだから、一応仲良くしてくれたよ。修学旅行中、僕はただただ辻のあとをついて行った。そして修学旅行が終わってからもそうしているうちに、同じグループにいる後藤とも仲良くするようになっていった」


「そのうち三年生になって、僕と辻と後藤は同じクラス、東堂は別のクラスになった。その時には、僕は完全にそのグループに入ってた。正直楽しいものではなかったけど、底辺にいた時の恐怖を感じることはなくなっていた。そして、美術の授業、東堂と一緒になった。僕は東堂が学校に来ていることすら知らなかった。そこで、東堂に言われたんだ」


「緒方って、本当に金魚の糞だよな」


「ってね。その時僕は驚愕したよ。確かに東堂の言う通り、僕は世界で一番見下していた金魚の糞になっていた。そして、そのことを指摘されるまで気づかなかったことにも、心底驚いた。僕は無自覚に、自分の無二の親友だったはずの東堂を最悪の形で裏切っていたんだ」


「いや、無自覚のはずがない。そんなの、普通に考えたらわかるはずだ。僕は自分の生き方が東堂に対する裏切りと分かっていながら、分かっていないふりをしていたんだ。自分が恐怖から逃げ出し、そして責任からも逃れるために......」


「今だにあの時のことは目をつぶれば鮮明に思い出せる。あの見下しきった瞳、嫌味に曲がった口、侮蔑のこもった声色......その時、僕はやっと自分がなんの価値もない、最底の糞野郎だということを自覚したんだ......そして、そんな最低な僕には、最低の生き方である金魚の糞がお似合いだとも思った」


「それから僕は、金魚の糞として生きてきた......いや、正直、他の生き方をしようと思った時もあったけど、すぐに苦しくなってやめた。事実、金魚の糞という生き方は、孤独に耐えられず最低の行動をとってしまうくらい脆弱で、かつ自分のような糞野郎が”友達”として扱われる責任にも耐え難くなっていた僕に、非常に合っていた。金魚らは一応僕に”友達”という称号をくれはするが、もちろん本気で言ってるわけじゃない。もし僕が明日転校したら、彼らは三日で僕のことを忘れ去るだろう。もちろん、僕が東堂にしたようなことをしたって、腹は立っても傷ついたりはしないだろう。僕のような糞野郎がちゃんと糞として扱われながらも、この厳しい水槽の世界で生きていける。それが金魚の糞という生き方なんだ」


「......いや、こんなのは所詮、後付けでしかないのかもしれない」


「僕の中で、金魚の糞という生き方を正しいと思わないといけない、という強迫観念があるんじゃないかと思う。なにせ、たった一人の親友と、二人でプロになるという夢を失ってまで得た生き方だから、それが正しくなかったら、僕はもうどうしたらいいのかわからなくなってしまう。だから、どうしたって、間違っていると認められないのかも知れない」


(なんだ、僕のせいにするのか)


 そう言う東堂に心の中で謝ってから、僕は「こんな感じです」と話を終えた。そこからは、数分程度沈黙が続いた。その間、僕は勢いのまま喋った自分の言葉に問題がなかったか反芻し、問題しかなかったことに、変な満足感を得ていた。そして、やはりこんなくだらない話をすべきではなかったな、とすぐに後悔した。


「......もう時間ですね」


 すると、小早川が口を開いた。そして、立ち上がると、地面に倒れるアルバムを拾い上げ、ベンチのおいた。


「こんなもの、裸で持って帰れませんので、あなたが持っておいてください」


 そして次は、無残な姿で地面に横たわる食材たちを弁当箱に埋葬し始める。僕は手伝うべきか否かに迷っているうちに小早川は作業を終え、その場をスタスタと早足で離れていく。その背中に視線を送っていると、ピタリと止まった。


「......検討します」


 そして、さらに足を早めて、体育館の角を曲がろうとした。


「あっ! 小早川さん!」


 もしかしたらこれが小早川と話せる最後の機会かも知れない。それなら、いっておきたいことがあった。


「......小早川で結構です。なんですか?」


「...............」


 病院に行ったほうがいいんじゃないか、という言葉は、喉元でつっかえた。そんなこと、ほかならぬ僕が言っていいことではない気がした。僕は慌てて他のことを考えた。


「小早川......って、要は、今まで”氷の女王”とか”王子様”とかを演じてやってきたんだよね?」


「そうですね。それが?」


「なのに、なんで映画の演技、あんな下手くそだったの?」


「.........」


 小早川は思案するように斜め上を見上げ、しばらくそうしてから、こちらを見て、うっすらと笑った。


「そんなことを言うなら、あなたの演技はさぞかし上手なんでしょうね。期待しています」


 そう言い残すと、小早川は体育館の角へと消えて行った。つまり、映研部を続けることに前向きと言うことなんだろうか。だとして、俳優なんて絶対にやらないぞ、僕は。


 時間を確認し、僕もベンチから立とうと思ったが、腰を浮かした時には腹が鳴った。そうだ、僕は何も食べていない。テストと説教と自分語りという三大エネルギー消費の激しいことをした後、一切のエネルギー補給をしないまま英語のテストに臨むのは無謀だ。僕はリュックからコンビニの袋と英語のノートを取り出した。皆が最後の悪あがきをしている中、教室で咀嚼音をさせるのは申し訳ない、ここで食べていこう。


 僕はおにぎりを包むフィルムを剥がしながら、英語のノートを開いた。例年通りに行けば第一問は英単語テストで、出そうな英単語は赤文字でノートにまとめてある。それくらいなら、今からやっても効果があるはずだ。


 おにぎりを咀嚼しながら、ノートに挟んでおいた赤透明のシートを単語の羅列にかぶせる。イマジネーション、イマジネーション......想像。うん、そうだよな。こんなの高二で習うんだな。メモしてる時は気づかなかった。


 そのせい......というとなんだか気取っているが......僕の頭はこれからのことを想像してしまう。果たして、今回の僕の行動は僕にとってプラスになるんだろうか。


 もし小早川が僕の意見を飲んでくれたなら、確かに僕と江藤の関係は続くだろう。しかし、それは同時に小早川との関係も続くということだ。小早川の人生は、僕のような小規模な人間じゃあり得ないような波乱万丈に満ちているし、なんなら小早川自身が波を起こしている部分もある。江藤がついていたって、何かあるに違いない。そんな小早川のそばにいたら、僕ものその波に襲われ、あっさりとさらわれてしまうのではなかろうか。


 僕の中にある高波警報が鳴った瞬間、スタコラサッサと逃げてしまえばいいような気もするが、それじゃあ無責任にもほどがある。小早川が江藤と偽友達になり、それゆえに小早川、および江藤が苦難に襲われるようになったとしたら、その責任は小早川をそそのかした僕にあるのだ......一体僕はいつから、金魚の糞ではなく寄生虫になってしまったんだ。僕はあくまで糞らしく、流されるまま大人しくしていたらよかったのだ。このようなことは今回限りにしよう、絶対に。

 

 ......ただ、まぁ、小早川が人を恐れ拒絶する生き方を続けるよりかは、まだ、その波はましになるんじゃないかとは思う。そして、僕はどちらにせよその波に影響を受けてしまうのだ。小早川が苦しんでいるところを見て僕がどう感じるかは、今回の件で十分わかったことだ。それこそ、剣持を犠牲にしてでも、見たくないものだった......。


 よくないな。今の僕にそんなこと考える余裕はないんだ。スペシフィック、スペシフィック......具体的な、特定の。具体的な、特定の、スペシフィック。


 だいたい、犠牲なんていう言葉は剣持には贅沢だろう。何せあいつはストーカーなんて最低なことをした糞野郎だった。あの噂が流れなかったとして、あいつは罰せられるべき存在だったんだ。むしろ、ストーカーという立件が難しい犯罪がここまであっさりと証明され、彼は小早川から離れて行った、喜ぶべきことだろう。そうに違いない。


 ヴィジブル、ヴィジブル、目に見える、目に見える。


 剣持が小早川のストーカーになった原因が、僕にあるのは明白だ。なにせ、僕の都合、僕の嘆願によって、剣持は映研部に仮入部することになったんだ。あのライトノベルの導入のような出来事のせいで、剣持は自分のことをライトノベルの主人公と勘違いしてしまったに違いない。そして、剣持のとってライトノベルの主人公の代表例は、僕が書いた『僕は最下層で笑う』と言う小説の主人公だった。


 違うだろ。剣持は底辺の人間だ。底辺の人間には底辺にいるなりの理由というのがあり、その理由はだいたい自業自得と決まってる。ストーカーするようなやつは最初からそう言う人間なのであり、僕が何もしなくたって、剣持は小早川をストーカーしていたに違いない。そう、中学の時の噂だってあったじゃないか。アレ、事実だったんじゃないか。


 ......駄目だ。僕は別に自分を擁護したいわけじゃない。たとえ剣持がどれだけ浅短だったとして、それが僕の正しさを証明するわけじゃない。剣持も僕も間違ってた。それだけの話だ。センシティブ、センシティブ、センシティブ......敏感な、神経質な。センシティブ。敏感な、神経質な......。


 剣持は小早川を諦めるだろうか、と僕は思った。先ほど小早川に言ったように、もはや剣持は小早川を信仰していると行っても過言じゃないし、今頃自分は小早川を救ったという妄想に取り憑かれている最中かも知れない。どこに引っ越すかは知らないが、一度くらい、小早川を拝もうとこの街に来たっておかしくない。


 ......ああ、その時、小早川が江藤やその他リア充に囲まれて笑ってでもいたら痛快だ。自分じゃ一生手の届かない高嶺の花になった小早川を見た剣持は、きっと失望する。自分にとって都合のいい美少女なんてものはこの世に存在しないことを知り、現実というものを叩きつけられる。自分はライトノベルの主人公なんかじゃなく、何者でもないただの底辺、水底に沈む糞なのだと、きっと気づくはずだ。


 確かにその事実は受け入れがたい。だけど、いつかは絶対に気づかないといけないことだ。気づくのが遅ければ遅いほど、取り返しがつかなくなる。実際今回の事件だって、それがわかってないからこんなことになったんだ。現実を知り、分相応に生きる。僕たちはそうしなければいけないんだ......。


(また、友達を裏切ったな)


 ぽたりという音とともにeducationalのeとdがじわりと姿をにじませた。僕は耐えきれなくなってノートに顔を埋めて鼻をすすりあげると、鼻水と一緒に紙とインクの匂いがやってきた。僕はもう二度と友達なんてものを作らないと誓った。




     ※




 英語のテスト、第一問の単語テストの問一はeducationalの意味を問うて来たので、僕は少し笑ってしまった。

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