第19話 お前ならできる。

 

 小早川に援交の噂が出てから二週間ほどが経った。僕たちは中間テストを終え、今度は模試に向けて勉強を始めていた。僕の中間テストの結果は散々なものだった。小早川の件で頭がいっぱいで、というと言い訳がましいが、事実は事実だ。


 一週間もたたないうちに、小早川の噂はこの学校の人間全員が周知するものとなった。それは教師側も同じことで、僕が小早川の噂を知ってから二日後の朝のホームルームで、風間先生が、「もしお前たちの口から馬鹿げた噂を聞くようなことがあったら、その時は厳しく対処する」と、普段は見せない教師然とした態度で言うくらいだった。


 そのお陰か、このクラスで小早川のことが声高に話題になることは、むしろ今までより少なくなった方だと思う。しかし、それは明確なまでの腫れ物扱いだった。小早川が教室に入ってきた時の教室の雰囲気なんかは叫びだしたくなるものがあって、また、時折彼女に向けられる視線はあまりに粘ついていて、隣にいる僕まで最低な気分になった。


 しかし、小早川の態度は、僕が知る限り毅然としていた。それが先輩の女子からさらなる不評を買っているらしいと、風の噂で聞いた。


 先輩の女子だけではなく、小早川の噂は全校生徒を虜にしているようだった。あの小早川可憐が援交をしているという噂は、嘘だとわかってもあまりにキャッチーなんだろう。七十五日経っても噂は消えず、このまま定着してしまうのではないか、と他人事のように思う。


 ......いや、他人事は他人事なのだ。どうやら僕たちが映研部として活動をしていたことは、奇跡的に漏れてはいないようだった。僕と小早川を関連づけるような話は今の所聞いていない。曽根田のあのラインは、江藤と僕が小早川と仲良くしようと画策していること、そして僕が曽根田の代わりに小早川から許しをもらったことから判断したようだ。


 江藤はと言うと、この二週間、見る限り小早川よりもよっぽど苦しんでいるようだった。現に今も、三つあった唐揚げを全部机に落とすくらいに、心ここに在らずといった様子である。


 それを頬杖をついてじっと見ていた羽ヶ崎が、深々とため息をついて、呆れた口調で言う。


「文香、あんたさ、いい加減元気出しなさいよ。今んとこ小早川の方がよっぽど元気よ」


 羽ヶ崎の言葉にも、江藤は「......うん」と言うだけだ。羽ヶ崎はやれやれと言った様子で肩を竦めてから、眉間にしわを寄せ僕の方に視線を送った。


「ほら緒方、あんた、ちょっと飲み物でも買ってきなさいよ」


「......ちょっと」


 江藤が一応声を上げるが、あまりに覇気がない。よって、羽ヶ崎の口を閉ざすほどの効力はなかった。


「あんたが文香を誑かしたのが原因なんだから、文香のために尽くして当然でしょ」


「間違いねぇな!」


 曽根田のテンションが一気に上がる。僕なりに曽根田に対するフォローを頑張ったつもりではあったのだが、今思えば映研部の方に明らかに比重がかかってしまっていた。そのせいか、未だ曽根田の僕に対する好感度は低いままだ。もう取り返しはつかないだろう。


「そーそー。緒方くんも文香のために頑張りたいもんねー」


 立川がニヤニヤと下世話な笑みを浮かべるので、少し嫌そうに眉を潜めていた益子が、ん? と不思議そうに僕を見た。どうやら立川はつまらない勘違いをしているらしい。広瀬が目を三角にしている。高嶺の花の江藤が弱っている今、広瀬が江藤を狙っているのは明らかだ。一切邪魔するつもりはないので、どうぞ好きなようにして欲しい。


「了解。買ってくるよ」


 僕は江藤から注文を半ば無理やり聞き出し、ついでに全員の注文をとっとと聞いて、お金はあとで受け取ると言っていそいそと教室を出た。正直ホッとしていた。どうせ、模試終わりの席替えで、僕はあのグループから抜けることになる。となれば、一緒にいる時間なんていうのは、無駄な苦労でしかない。


 江藤グループを抜けるということに対しての不安はなかった。いや、あるはあるのんだろうが、それ以上の不安があって、そちらの不安が目につかない、といった感じだろうか。


 僕はとろとろと時間をかけて注文の品を買い、またバッグを持ってくるのを忘れたことに気がつき、深々とため息をついた。仕方なく腕に紙パックを抱え、廊下を歩く。


「......緒方、くん」


 すると、後ろから名前を呼ばれ危うく飲み物を落としかけた。振り返ると、剣持は僕の腕の中のジュースたちに陰湿な視線を注いでから、僕の顔を見据えた。


「緒方くんは、今のままでいいの?」


「......何が?」


「小早川さんだよ」


 声から怒りが滲み出る。剣持から来たラインも僕は未読無視したり、それ以外でもなるべく剣持を避け続けてきたので、その怒りも含まれているのかもしれない。


「ああ......よくないとは、思うよ」


 僕が言うと、剣持は唇の端をピクピク神経質に引きつらせた。


「だったら、なんとかしなくちゃ、いけないんじゃないかな」


「......どうやって?」


 僕が聞くと、剣持は勢いよく喋り出した。


「僕たち一緒に部活してたんだから小早川さんが援交なんてしてないってことくらい分かってる。僕たちが証人になるんだ」


 僕は首を振った。


「それだけじゃ、証拠にはならないだろう。放課後だったり、休日の小早川を全て知ってるわけじゃないんだから......それに、風間先生が同じこと、すでに言ってるし」


 風間先生の弁護は皆の中でうやむやに消化された。羽ヶ崎の言う通り、今回の噂は小早川に対するフラストレーションが原因で、小早川が援交してると本気で信じてる生徒などほとんどいないのだ。証拠にしたって、もう一辺の反論の余地がないくらい確実性の高いものを出すか......もしくは、小早川へのヘイトを打ち消せるような出来事がないとと、駄目だろう。


 剣持はというと、うっとうめき声をあげた。僕は思わず冷めた目で剣持を見てしまい、僕にそんな権利はないかとすぐに視線をそらし歩き始めた。剣持が後ろをついてくるのがわかって、ため息をつきたくなるのを必死に我慢した。


「......じゃあ、小早川さんの妹にも、証人になってもらう、とか」


「......流石に小学生の妹にこんなこと伝えるのは、酷なんじゃないかな。家族自体、巻き込んで欲しくないみたいだし......まぁ、そうはいかなかったみたいだけど」


 学校側は、小早川の要望を無視し、小早川の母親に連絡を入れたらしい。すると小早川母は猛然と怒り狂って学校に来て、ラインを追った結果最初に噂を流したのではと言われている女子生徒とその両親との面会を要求したらしい。そして、延々彼女たちに暴言を吐いたところで、「可憐はこのようなことでは絶対に屈しません」と言い切り帰ったそうだ。風間先生が思わずと言った様子で僕に話したので、正しい情報なんだろう。小早川が家族にこのことを打ち明けたがらなかったのは、心配させたくない以外にも理由があったんだろうなと思う。


 今回の噂の件に関して、学校側は随分と気合いが入っているようだった。昨今の、学校側がいじめを無視云々のニュースを意識しすぎているんだろう。その対応が小早川のためになっているかと言われたら、むしろ馬鹿げた噂に真実味を帯びさせているというのが、僕が知る限りの現状である。


 まぁ、こう言うのに正解なんてものはないんだろうし、何もやっていない僕が文句を言うようなことではないのは間違いない。剣持が僕を責める気持ちも良くわかる。僕がもっと必死に小早川を守れば......いや、僕個人が何をしたところでどうにもならないか。


 だとして、罪悪感が消えるわけじゃない。これが嫌だから、僕は小早川と関わり合いたくなかったんだ。僕のような無力な存在じゃ、どうやったって小早川を守るようなことはできない。これから小早川が傷ついていくところを傍観し続け、その事実を何度も何度も見せつけられないといけない......いや、それは違う。羽ヶ崎の言う通り、小早川は今の所傷ついた様子を見せていないじゃないか。それが全てだ。


 まだ剣持が何か言いたげなのが伝わってきたので、僕は早足でその場を去ろうとした。そして、職員室の前まで来たところで、力なく扉が開き、出て来た人物にぶつかりかけ、よろめき腕の中の紙パックを落としてしまう。


 ......ああ、だから僕に、こういうイベント力は必要ないんだって。


「......こばや、かわ」


 掠れた声で呟く。毎日隣に座ってはいるが、こうやって小早川をちゃんと視界に入れるのはいつぶりだろう。小早川は、僕を見て......瞳を大きく揺るがせた。


 しばらくの間、僕と小早川は見つめあった。そして小早川は僕が落としたジュースたちに視線を落とし、そして、かがんで紙パックを拾い始める。これと全く同じシチュエーションが前にあった。こんな天丼、悪趣味すぎて逆に笑えるのかもしれない。いや、全く笑えないけど。


「......小早川さん」


 剣持が何か言いたげだ。僕は聞こえないふりをして、小早川の後に続いて紙パックを拾い上げる。小早川が、『お〜い粗茶』を差し出す。この時、小早川の痣を発見したんだよな、とちらりと小早川の手を見た。


 手のひらにあった痣は、すっかり消えていた。だからどうと言うわけでもないが、少し安心したとき、少し捲れた袖口からちらりと除いたものに呆然としてしまった。


 その時、いつの間にか僕の横にかがんでいた剣持が、ひったくるように小早川の手を取り、無理やり袖をまくった。


 小早川の腕には、無数の蕁麻疹と、それを引っ掻いてできたであろう無数の傷があった。


「......こ、これっ」


 剣持の声が震える。すると小早川が夢から覚めたようにハッとして、剣持の腕を払ってから、『お〜い粗茶』を地面に投げ捨てて立ち上がり、僕の視界から消えた。


「小早川、さん......」


 重たい沈黙の後、剣持が、独り言のようにつぶやく。僕は全ての紙パックを拾い終え、立ち上がってその場を去ろうとした。


「緒方くん!」


 思わず足を止めてしまう。


「見たでしょ。小早川さん、もう限界なんだよ。どうにかしないと」


「......じゃあ、剣持がやれば?」


 剣持の怒りが爆発する前に、僕は付け加えた。


「剣持なら、できるんじゃないか」


「......えっ」

 

「映像を送るときは、気をつけたほうがいいよ」


 僕は矢継ぎ早に言って、感情に任せてとんでもないことを言ってしまったとすぐに後悔した。これ以上剣持といるのは危険だと思い「それじゃあ」とだけ言って足早に去った。


 階段を一段一段登るたび、不安はどんどん大きくなっていき、ついに耐え難くなって、僕は階段の途中で止まって壁に持たれかかった。大丈夫、大丈夫。剣持は曽根田相手に何もできなかったような男だぞ。そんな男に、できるはずがない。


(でも、加納ならできるよ)


 加納とは『僕は最下層で笑う』の主人公の名前だ。確かに東堂の言う通り、加納ならここで自己犠牲を払ってみせるだろう。そう思うと不安はより強いものになり、僕は逃げ出すように階段を一段飛ばしで登った。

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