第18話 小早川可憐は援交している。
教室の扉がガラガラと勢いよく開かれた。僕は机に落としていた視線を、恐る恐るそちらに向ける。その音の主は江藤だった。
ただでさえ良くない雰囲気が漂っていた教室の空気が張り詰める。当然だ。少なくとも僕は、江藤がここまであからさまに怒りを露わにしているところを初めてみた。
江藤は怒りに肩を上げながら、こちらに向かってツカツカと歩いて来る。そして橙のリュックを自分の机の上に放り投げ、乱雑に椅子を引き座った。その時椅子が僕の机に当たったが、謝罪の言葉はない。どういう言葉をかけるべきか考えていたのだが、こうなると僕の口は動きそうになかった。
すると、そんな近寄りがたいオーラを放っている江藤に近づいて来る女子三人がいた。羽ヶ崎、立川、久遠だ。
「......随分と不機嫌みたいね」
「は? 当たり前じゃん」
江藤の声には普段の彼女からはありえないような攻撃性を含んでいて、それだけで久遠や立川の表情を強張らせた。しかし、羽ヶ崎は平気な様子で、やれやれと言った様子で肩をすくめた。
「頼むから、私に当たらないでよ。まさか私があの噂流したとでも思ってるわけ?」
「......それはない」
「じゃ、当たんの辞めてね。なんなら私たちは、噂が回らないようにしてたくらいなんだから」
「............ごめん」
「ん」
羽ヶ崎は頷いてから、腕を組んで江藤を見据えた。
「で、どうするつもりなわけ?」
その質問に、江藤は深々と眉間に皺を寄せる。
「とりあえず、誤解を解くため頑張るよ。可憐ちゃんが......やってるわけないから、そんなこと」
「ふーん、証拠はあるわけ?」
「......は?」
落ち着いたと思ったのもつかの間、江藤が声に怒気を孕ませる。立川が責めの視線を羽ヶ崎にやったが、羽ヶ崎は無視して続ける。
「だから、あいつが援交してないって証拠はどこにあるのよ?」
「......モモ、喧嘩売ってるわけ?」
「売ってないわよ。証拠があったら、そんな噂、すぐに消えるわよって話」
羽ヶ崎の言葉に、江藤はうつむき、しばし黙り込む。その表情は怒りから苦悶に移り変わっていた。
「......そんなこと言い出したら、モモだってそんな証拠ないでしょ。ずっと誰かと一緒ってわけじゃないんだから」
「そうね。その通り」
「......じゃあ、逆に聞くけど、可憐ちゃんが......そういうことしてるって証拠はどこにあるわけ?」
「......なんでも、親が離婚してお金に困ってたとか言ってたわね」
「......は」
江藤が笑った。らしくない、嘲るような笑いだった。
「じゃあ、親が離婚したらみんな援交するんだ」
「だから、私に当たんないでって。私だって馬鹿げてると思うわよ」
羽ヶ崎は深々とため息をついてから、真面目くさった表情を作った。
「今回の小早川の噂で重要なのは、小早川が援交してる証拠も、してない証拠もないってことよ」
「......どう言う意味?」
「火のあるところから煙が立ってんなら、その火を消したらどうにかなるわよ......例えば、あいつとおっさんが腕組んでる写真でも出回ってんなら、そのおっさんとの関係をはっきりさせたらいいわけ。そいつが父親で、小早川がファザコンだった、とかだったらその噂は間違いだったって証明できるわ......でも、今回のはそういうわけにもいかないのよ。なにせ、火のないところから煙が立ってるんだからね。消しようがないわ」
そう言ってから、羽ヶ崎は口角をほんの少しだけ釣り上げて笑う。
「いや、正確に言うと、小早川自身が火なのかしら。流石の文香でも、アイツの態度が人をムカつかせるもんだってことくらいわかるでしょ」
「......あたしは」
江藤が、俯いたまま
「あたしは、どうしたらいいのかな......?」
そう問いかけられた時、羽ヶ崎がぴくりと眉を
「ほっとくことね」
「......ほっとく、って」
「そう。人の噂も七十五日っていうでしょ。で、こんなのは噂話が極上の娯楽だった頃にできたことわざで、今は皆そんな暇じゃないわ。もっと早く忘れられる」
「......じゃあ、ただ可憐ちゃんが無茶苦茶なこと言われてるのに、黙って見てろって言うの?」
「そうよ。小早川だって、あんな態度取ってんだから、そのくらいの覚悟できてるでしょ」
「......覚悟」
「そうよ、あんたが言う通り一回目の転校からアレなら、まず間違いなく嫌な噂くらい立てられてるわよ。その経験を経てのあの態度なら、もちろんこの程度のこと、想定してるわよ」
小早川の過去を知っている僕からしたら、それは間違っているのだが、この会話に入っていくだけの度胸はなかった。
「とにかく、ほっとくこと。じゃないといじめられるわよ」
「......いいよ。そんなしょうもない噂流してるやつからいじめられても、あたし、全然平気だから」
すると、羽ヶ崎は呆れた様子でため息をついた。
「馬鹿ね。いじめられるのは小早川よ。今回の噂みたいに、そうなるわ」
「もっ、モモっ!」
今まで黙っていた久遠が、慌てたように羽ヶ崎を止めにかかった。しかし、羽ヶ崎に「紗枝、大丈夫だから」と言われて、うつむいて黙りこくった。
「アンタがいない場じゃ、よく小早川の話になるわ。アイツの態度最悪だよねって」
そして、江藤が何か言うのを手で遮ってから、羽ヶ崎は江藤を見下ろし、言い放った。
「文香本当に可愛そうだよね、って」
「......え」
江藤が虚を衝かれたように、目を見開き硬直した。
「アンタが話しかけるたび、小早川は良くて無視でしょ。みんな大好き文香ちゃん相手に、公然とあんな態度取り続けたら、そりゃヘイトも溜まるわよね」
「......なに、それ」
呆然とする江藤に、羽ヶ崎はどこか満足げに見える表情で、続けた。
「あんたのためにも、はっきり言ったげる。あんたが小早川を放っておけば、小早川はここまでヘイトを溜め込むことなんてなかったのよ。こんな噂だって立たなかったし、教室の隅っこでジメジメ平和に過ごせてたってわけ」
「............」
江藤の顔から血の気が失せていく。江藤、そんなことはない。江藤が何もしなくたって、こいつらは小早川への悪意を貯めに貯めて、いつか放出したに違いない。ただていのいい理由として、江藤を利用しているだけなんだ。
「まーまー、フミちゃんが凹むことないよ〜。どー考えても小早川が悪いじゃ〜ん。フミちゃんは被害者なんだから」
立川が間延びした声で言う。それに、羽ヶ崎が大きく頷いた。
「ま、その通りね。悪いのはあくまで小早川。文香は悪くないわ。ただ、もし文香がまだ小早川のためになりたいって思ってんだったら......」
羽ヶ崎が、
「小早川のために何かするのは辞めなさい。小早川があの態度を取り続ける限り、同じことを繰り返すだけよ」
その時、教室の雰囲気が一変したのが肌で感じられた。江藤が大きく目を見開き、「......可憐ちゃん」と震える唇で呟いた。
小早川は、この異様な雰囲気に流石に戸惑ったようで、不可解な面持ちでこちらに歩み寄ってくる。そして羽ヶ崎たちに一瞥をくれてから、自分の席についた。
すると、羽ヶ崎が顔だけ小早川に向けて、何気無い様子で言った。
「ねえ、あんた、援交してるって本当?」
「ちょっとモモっ!」
江藤が焦りの声をあげる。羽ヶ崎は「いいでしょ。どうせいつか知るんだから」と言ってから「で、どうなの?」と小早川に言う。
「......なんですか、その話は」
「あんたがおっさんとホテルから出てきたっていう目撃情報があったんだって」
「......事実無根です」
「それ、証明できる?」
「......証明? 必要ですか?」
「そういうのどうでもいいから。証明できる?」
「............」
小早川が黙り込むと、羽ヶ崎は冷笑を浮かべた。
「ま、そりゃできないわよね。だったら仕方ないわ」
羽ヶ崎がそう言ったところで、江藤がハッとした表情になった。
「あ、可憐ちゃんの家族の人なら、可憐ちゃんがそんなことしてないって」
「家族を巻き込まないでください!!!!」
それは、溜まりに溜まった感情が爆発したような絶叫だった。教室が、シンと静まり返り、江藤の顔が蒼ざめる。
「......いや、耳いった。何叫んでんの、ウザ」
立川が、普段の間延びした声とは違った、尖った声で静寂を破った。そして、両手を小早川の机に勢いよく突いて、小早川を睨みつけた。
「てゆーか、フミちゃんあんたのこと心配して言ってんだけど。それをその態度って、マジでやばいよ」
「......心配してほしいなんて言ってません」
「.........」
立川の目がきゅうっと釣り上がり、それに連動するように彼女の右手が上がった。あ、小早川を打つつもりなんだ。
「陽菜乃」
その時、江藤が立川の名を呼んだ。振り下ろされかけた手がピタッと止まる。江藤は、口角だけを釣り上げて笑って見せた。
「陽菜乃、ありがとね。あたしのために怒ってくれて」
そう言われた立川は、ゆっくりとその腕を降ろすしかなかった。
「......可憐ちゃん、本当にごめんなさい。あたしのせいで、こんなことになって」
そう謝ってから、何か言いかけた小早川を、先ほど江藤が羽ヶ崎にやられたように遮った。
「一限体育だよね。バスケだっけ? 行こっか」
「......そうね」
羽ヶ崎は満足そうに頷くと、未だ小早川に対して睨みを利かせている立川を引き連れて、自分の席へと体操服を取りに戻って行った。小早川はというと、戸惑っていたのは一瞬で、教科書を取り出したバッグを持って、大股で教室を出て行った。その瞬間、教室がひそひそと嫌なトーンの話し声に包まれる。
「......江藤」
僕は、なんとかしないといけないと思って、江藤の背中に話しかけた。江藤は振り返らずに、「......うん」と返事をする。
「江藤は悪くないよ。むしろ、江藤が小早川を気にかけてきたから、ここまで小早川は嫌な噂とか立てられなかったんだと思う」
「......あはは、そうかな」
僕の言葉は、羽ヶ崎のものと比べ説得力にかけるものだったようだ。僕はどうするべきか考え、卒業アルバムのことを打ち明けようかと思った時に、江藤が僕の方を振り返った。
「あの、あったじゃん。啓介が言ってた、偽友達っていうやつ」
「あ、うん」
今はそれどころじゃ、と思いながらも、江藤の話を遮ることはできない。頷く。
「あれ、最初に聞いた時、なにそれって思って、ちょっと嫌だったんだ」
「......あ、うん、ごめん」
江藤は「ううん」首を振ってから、続ける。
「でも、それだったら剣持くんの、感情移入させるってやつだって、普通おかしいじゃん。じゃあなんでこんなに啓介の言ってることが引っかかるんだろうって考えてて......それで、分かったんだ」
江藤は弱々しい瞳で僕を見つめた。
「あたし、啓介と違って、本気で可憐ちゃんのこと、心配してなかったんだ」
「......そんなことないよ」
僕はその言葉に感情を込めることができなかった。
「......可憐ちゃん、人間不信なんだと思う。そんな可憐ちゃんにとって、偽友達っていうの、冷静に考えたらいい案だなって思った。可憐ちゃんを守るためなら、偽でもなんでも、味方になるのが一番だもん。あたしはそれが分かっても、なんか嫌だな、普通に友達になりたいなって気持ちの方が強かった」
江藤は自嘲気味に笑う。
「結局あたし、可憐ちゃんっていう、変わった娘と友達になるっていうことを......ゲームみたいに楽しんでただけなんだ。それ、自覚して可憐ちゃんから離れたけど......遅かったみたい」
「......江藤」
江藤は、今にも泣き出しそうな瞳で僕を見た。
「ほんとに、ごめんね」
「江藤、だったらやればいい」
「......え?」
「偽友達だよ。今からでも、小早川に偽友達になろうって提案すればいい。実は小早川、偽友達に肯定的で、実際にやろうなんて話もあったんだ。だから大丈夫」
「......その話、あたしはされてない。あたしじゃ、嫌がられるだけだよ」
「......嫌がらないよ」
なんの根拠もなく僕が言い切ると、江藤は苦笑いを浮かべる。とてもじゃないが信じられないのだろう。小早川が江藤を受け入れたのはたったの一回で、それも江藤の方から拒否してしまったのだ。
「ごめん啓介。こんなこと、あたしが言うことじゃないけど、啓介は、ラインとかでいいから可憐ちゃんに声、かけてあげてほしいな......啓介、唯一可憐ちゃんから信用されてるから」
そう言って、江藤は僕に背中を見せる。僕は反射的に江藤の腕を掴んでしまった。江藤はびっくりした表情で僕の方を見る。僕はこんなことをしてしまったこと、こんなことをしておいて何も言えないことに硬直してしまった。
「おい、何してんの」
立川を宥めていた羽ヶ崎が、早足で駆け寄ってきて、僕の腕を掴んだ。艶々と光る長い爪が突き刺さり、思わず声をあげそうになった。
「はい、セクハラー。現行犯逮捕」
「えー、緒方君だいたーん」
不機嫌だった立川が、一転嬌声を上げるので、僕はすぐさま江藤の手を離した。すると、羽ヶ崎が久遠にアイコンタクトを送る。久遠はおっかなびっくり頷いて、江藤の背中に手を置いて、教室の外へと導いていく。江藤は一度こちらを見たが、結局戻ってくることはなかった。
江藤が去った後も、羽ヶ崎は僕の腕を離そうとしなかった。羽ヶ崎の方に視線をやると、羽ヶ崎は眉を吊り上げた。
「あんた、まさか、私があんなしょうもない噂流したと思ってんじゃないでしょうね」
僕の返答を待たず、羽ヶ崎はやれやれと言った様子で肩をすくめる。
「しないわよ、そんなリスクの高いこと。今時、JKはラインで噂すんのよ。私がライン使わなくても、私が言ってたって内容のスクショでも出回れば、面倒なことになるから、なるべく触れないようにしてたくらいなんだから......確かに小早川は気に食わない存在だけど、あいにくそんなリスクを冒してまで、あいつに嫌がらせしたいとは思わないわ。ていうか、単純に面白くないし。サメ映画一本見た方がまだマシレベルよ......あ、思いついた。高校の必修授業に映画鑑賞を組み込めばいいのよ。ロクな娯楽を経験してないから、くだらない噂話なんかに時間を浪費するんだわ。どう、名案でしょ?」
羽ヶ崎はにっこりと僕に笑いかけた。僕がなんのリアクションも取れずにいると、羽ヶ崎はつまらなさそうに口を尖らせ、僕の腕を、おもちゃでも扱うようにぶんぶんと振り回しながら、今度は、まじまじ見ないとわからないくらいの、薄い笑みを浮かべた。
「だいたい、もし仮に、私がリスク度外視で小早川に対して嫌がらせするんなら、ただ援交の噂を流すなんて、ぬっるいことしないわよ......誰が考えたか知らないけど、本当に斬ない噂だわ」
そして、大げさに肩を上げため息をついて見せる。
「ほんと、最近の文香は見てられないわ。小早川みたいな陰キャ女に執着して付き合いも悪くなったし、その上生理でもないくせに陰気になって周りに気を使わせたり......おかげで文香の評価まで下がってんだから」
羽ヶ崎はまっすぐ僕を見て、真剣な口調で言った。
「一応友達の身としては、これ以上文香に負担、かけたくないのよね」
羽ヶ崎はゆっくり、僕の耳元に顔を近づけると、そっと囁いた。
「あんたが文香を使って小早川を助けようとするなら、私もリスク、冒さざるをえなくなるから」
再び僕の腕に爪を深く深く食い込ませてから、パッと手を離す。
「じゃ、てことで。あ、これ、ラインには流さないように」
羽ヶ崎は、最後にいたずらっぽく笑うと、髪をかきあげ、僕から離れていく。その背中を見送ってから、僕はある予感があってスマホをスラックスから取り出した。小早川から映研部のグループラインに『私は映研部を辞めさせていただきます』、そして僕個人に『偽友達の件ですが、なかったことにしてください』とのメッセージが送られてきていた。
僕は思わず、視界にいれないようにしていた剣持の方を見てしまった。剣持は、あの日曽根田に絡まれた時のように、現実から離脱したように虚空を眺めていた。
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