第7話 大量の紙パックのジュースはパシリの証


 一昨日の状況は、”良い警官・悪い警官”に似ていると思う。


 ”良い警官・悪い警官”とは、その名の通り警官が尋問で使用する戦術の一つだ。まず容疑者に対して二人の尋問員を用意して、片方はその容疑者に対し、攻撃的で否定的な態度を取り、容疑者に反感を抱かせる。これが一昨日の曽根田に当たる。


 一方、もう一人は容疑者に対し優しさや理解、共感を見せたり、”悪い警官”から守るような態度を取る。これが一昨日の江藤だ。


 容疑者はそんな”良い警官”を信頼するようになり、”悪い警官”への恐怖も合間って、その”良い警官”に色々と吐露してしまう。一昨日の末森の場合、それは涙だった、ということではないだろうか。まあこんな例え話より、辛い状況で優しくされちゃって泣いちゃった、という方が単純でいいんだけど、あいにくいちいち例えて見たいお年頃なのだ。


 そうだとすると、一昨日、誰が一番悪質だったかを考えると、実は江藤だったのかもしれない......いやいや、それは流石に言い過ぎか。一番悪いのは間違いなく曽根田だし、なんなら、僕と剣持のような人間が弱すぎるだけで、誰も悪くないと言う考え方もできる。


 江藤もそう言う考えだろうが、小早川が初めてあんな風に怒りを露わにしたことについては、思うところがあったらしい。昨日、怒られのは曽根田でありながら、小早川に謝りたい、一緒に謝ってほしいと頼んできたのだ。


 なぜ曽根田ではなく、一昨日小早川の眼中にすらなかった僕と一緒に謝るのか。それは、このクラスで僕が一番小早川と仲がいいからだ......いや、仲が良いという表現は僕たちにあまりにふさわしくないが、あえて小早川と仲良いランキングを無理くり作るとしたら、確かに、今の所僕が一位になるかもしれない。


 現代文の風間先生は、ほぼ毎授業、隣の生徒同士でディスカッションなるものを行わせる。その時の小早川はというと、隣の僕の言葉を無視するなんてことはなく、それどころか、普通に自分の意見を喋ったりする。僕もキョドキョドしながらも、明確な目的のある会話はそこまで苦手じゃないので、なんとか会話が成立するのだ。剣持相手にほぼ一方的に喋っている江藤は、毎回こちらを羨ましそうにちらちらと見ていたのだ。


 それきっかけで、江藤は僕に「あんなに可憐ちゃんと話せるなんてすごい」と話しかけてきた。そして続けて、柏葉生全員を拒絶し、教室、どころか学校で浮きに浮きまくり、ヘイトを集めている小早川のことが心配だ、なんとか小早川の友達になりたい、協力してほしいとのお願いをされたのだ。クラスカーストトップの女子からのお願いを断る権利など僕には無いので、ノータイムで頷くしかなかったのだった。


 つまり、江藤が僕と仲良くする理由は小早川であって、僕自身には何の魅力も感じていないわけだ。まあ当たり前の話なので特に文句はない、と言いたいところだが、問題点はいくつかある。


 まずは、羽ヶ崎だ。羽ヶ崎は中学からの江藤の親友で、同時に小早川を嫌っている。そんな羽ヶ崎は江藤が小早川と仲良くしようとしていることが当然気に食わなく、それに協力していることになっている僕はさらに気に食わないらしい。おかげで僕に対しての態度は、かなり刺々しいものとなっている。


 そして、一昨日の件で曽根田をも敵に回してしまった。僕が小早川に謝って、小早川から許しを得たということ江藤から聞いた時、曽根田は大分不機嫌になった。プライドの高い彼にとって、代わりに謝られるという小学校低学年扱いは耐え難いものがあったのだろう。それも、江藤はともかく、明らかに自分より格下の僕が代わりをしたのだ。ただでさえ小早川に怒られビビってるところを教室で晒し傷心の曽根田に、さらに追い打ちをかける形になってしまった。以来、曽根田は自分が僕より上だということを証明するため、僕に対して攻撃的になってしまった。曽根田の強すぎる自尊心を見誤ってしまった僕のミスだ。


 まあつまり、彼女たち二人との関係悪化は、僕が小早川と仲がいいという誤解を江藤がしているのが原因と言えるのだが、その誤解が解けてしまえば、江藤の中で僕の価値は一気に下落することだろう。あちらが立てばこちらが立たず、困ったもんだ。


 僕は正午前ティーの下で光る赤いランプを押した。コトンと音を立てて紙パックが落ちて、チャリンチャリンチャリンと等間隔で小銭が音を立てた。ああ、小銭を全部入れても一つ飲み物を買えば全部お釣りとして戻ってくるんだった、という思考は現状に対する悩みで隅っこに押しやられ、俺は正午前ティーを取り出し脇に抱え、半ば無意識に落ちてきた硬貨を全て自販機に押し込んだ。


 普段から、自分を強く強く見せようとする曽根田に取り入るのは、本来はとても簡単なことだったはずだ。自分を強く見せたい彼にとって、自分の後をついてくる金魚の糞は有用な存在でしかない。虎の威を借る狐というと、狐が得しているイメージしかないかもしれないが、実は虎にとっても得することがある。狐に頼られることによって、虎は自分がそれだけの力があると言うことをアピールすることができる。後ろに狐がいるからこそ、虎は自分の強さを誇示することができ、威風堂々とジャングルの中を歩くことができるのだ。


 僕にとっても、曽根田は相当優良な寄生先だったはずだ。広瀬も、同じ理屈で自分を強くする狐を必要としているのは間違い無いと思う。しかし、彼を求める狐なんて腐るほどいるし、なんなら曽根田や津村あたりがそれに当たるだろう。そして、曽根田が僕を嫌っている現状、広瀬に取り入るのはかなり難しい話になってしまった。


 益子は、ひとまず彼からは、自分の強さを顕示したいという欲を感じることができない。益子が僕のような人間に価値を覚えるとはとても思えなかった。


 野球部の津村は、それこそ今広瀬に取り入るのに夢中で、僕みたいな糞野郎を受け入れる余裕なんてないだろう。現に、彼は一軍と二軍......便宜上、江藤グループと坂口グループとよぼう......を行ったり来たりしている。すでにグループに定着しながら、そこであまりうまくいっていない曽根田。ああ、本当に完璧だ。完璧だったのに。


 僕は大きなため息をついて、もう一度正午前ティーを押す。脇に抱え、今度は百円玉一枚だけ取って自販機に入れる。


 曽根田の性格上、一度嫌いになった相手には盲目的に嫌いを押し通すと思うので、関係の修復ができたとして時間がかかるとは思う。羽ヶ崎だってそういうタイプだろうし、だいたい入学時に絶対に目をつけられてはいけないと思っていた羽ヶ崎に嫌われているという現状はあまりに辛いし、だいたいあんなに僕を目の敵にする女は妹以来なので単純にメンタルにゴリゴリくる。もうこうなったら羽ヶ崎に妹になってもらうしかないな。は? なんで?


 ここで百円玉を投入。羽ヶ崎注文の桃のやつ......桃の”ふりして”?え、これでいいのかな。桃のふりしてるわけだから、正確には桃のジュースではないんだよな。これを桃のやつと言っていいのか?


 他の飲み物たちを見渡してみてもそれらしきものはない。ということはこれでいいんだよな。文句言われても知るか。落ちてきた桃のふりしてを取り出して裏を見る。うん、桃使ってる。じゃあふりしてないじゃん。ついでに正午前ティーも取り出して地面に置く。


 こうやってたっぷりと時間をかける理由は一つ、いい感じにパシられたくないからだ。うわ、こいつ便利だな、これからもパシリよろしくね、なんて展開になったら困る。心配しすぎかもしれないが、それが僕の専売特許だ。あとまだ教室に帰りたくないってのがある。二つになったというか、後者で一つと言ってもいいくらいだ。


 ......江藤と仲良くなった時はもう安泰だと思ったもんだけど、今思えば油断しすぎだった。江藤の人望のせいか、高校生とはそういうお年頃なのか、イケメンのくせに女が苦手な辻のせいか、柏葉高校一年一組の一軍グループは、男女混合という、少なくとも僕は初めて見る形になった。それを、江藤と関わり合いがあるからといって、これは楽だと喜んでしまったのが良くない。おかげで一軍に入るのなら羽ヶ崎や立川のような女子と関わらないといけなくなったし、何より、江藤との関係だって期限付きなんだから。


 百円玉を入れながら、考える。


 そう、期限付きだ。僕が今考えるべきなのは、曽根田との関係修復や羽ヶ崎のお機嫌取りではなく、江藤との関係強化なのかもしれない。


 現時点で、一応のところ江藤グループに俺が加われているのは、完全に江藤のおかげだ。逆に言えば、江藤との関係が切れた時点で、僕と江藤グループを繋ぐものは何一つなくなってしまう。江藤に見限られた時点で、僕はただの糞ぼっちになってしまうのだ。そしてそうなる日は、そう遠くない。


 理由は単純明快だ。六月中旬に行われる模試の後、一年一組では席替えが行われるのだ。


 僕と小早川の間でなぜまともに会話が成り立ったかというと、それは席が隣同士だからという、たったそれだけが理由のすべてだ。つまり、席替えで小早川と離れたが最後、僕は”小早川と話せるやつ”の地位を失い、代わりにその席に、小早川の隣の席になった生徒が座ることになる。そうなった時、今日のように、江藤は僕をお昼に誘うだろうか?......僕は誘わないと思う。


 僕が思うに、江藤は益子と一緒で、全く金魚の糞なんてものを求めていない。そして、益子でも持っているグループへの帰属意識すら持っていないのではないかと思っている。


 キョロ充なんて言葉のせいで、キョロキョロするのはキョロ充の専売特許かと思われがちだが、案外そうでもない。リア充はリア充で、キョロキョロまでは行かないでも、自分のグループの友人を探して、キョロ、くらいはするもんだ。実際羽ヶ崎ですら江藤を探してキョロっとしてるところを、僕は目撃したことがある。


 しかし、江藤が特定の人を探してキョロキョロしてるところなんて見たことない。それこそ二週間ほど前にあった一年生オリエンテーション、二年生の僕たちは一年生のために色々やらされたのだが、その時一緒に活動する班は座席の配置によって決められた。つまり江藤は僕や久遠、そして小早川などと一緒の班になり、羽ヶ崎、立川と一緒にはならなかった。


 といっても、不真面目な連中は途中から各々自由に行動しだし、羽ヶ崎、立川などの女子はよくこちらに顔を出しに来た。しかし江藤が彼女たちの班の方に行くことはなかった。まぁ小早川が同じ班だったというのもあるだろうが、普段でも、江藤はそういうドライなところをちょこちょこ見せているように思う。いや、ドライというか、その時どき、仲良くしたい相手と仲良くしてる、みたいな感じなのかな。


 誘われない、と仮定しよう。仮定して、俺が江藤グループの中に入っていけるだろうか......無理だな。動物園の可愛いパンダでも自分の糞を投げつけてきたら嫌いになるだろう。まして糞単独で飛んできたらそれは心霊現象だ。みんな嫌がるに決まってる。糞みたいな例えはともかく、アウェイ感がある集団に単独で飛び込んでいけるメンタルの持ち主だったら、僕ももうちょっとまともな人間になれているだろう。


 ということで、江藤の中で僕自身の価値をあげないと、僕は江藤グループから外されてしまうわけだ.....一応、対応策は二つほど考えてはいるけど。


 一つは、同じ部活に入ることで、江藤のグループ意識そのものを高めること。これは先ほど実現しかけたことだが、羽ヶ崎の見事な妨害に会いおじゃんになった。このままだと、江藤は料理部に入部することになるだろう。それじゃあお前も料理部に入ればいいという話なのだが、それは絶対に嫌だ。


 なにせ料理部には、この学校の強制入部とかいうクソルールによって、運動部には入りたくない派手めの女子の受け入れ先になっているのだ。部活は二年になったら辞めることができるのだが、ほぼ溜まり場と化した家庭科室は居心地がいいらしく、また、料理部に所属していること自体がステータスのようなところもあり、二、三年の派手な女子たちもほぼほぼ料理部に残るらしい。そんな危険地帯、絶対に行きたくない。


 第一、江藤と同じ部活に入ったとして、江藤と仲良くなれるなんて保証は一切ないのだ......そして、単純に気持ち悪がられそう。羽ヶ崎なんか絶対嫌がる。


 対応策二つ目.......これはもう、上二つと比べても本当に馬鹿馬鹿しい話なので、考えるに値しない。


 現実的なのは、広瀬か益子に取りいるか、二軍男子グループに落ちることだろう。一年一組の二軍男子グループは、野球部の坂本を筆頭にちょっと地味目な運動部男子で構成されている。側から見る限り、性格のいい連中が揃ってるんだろうな、という感じだ。


 もしかしたら、僕の居場所もあるかもしれない。一応一瞬でも一軍に所属していた人間だ、彼らにとってそれなりの価値になるかもしれないし、なんなら形式上の友達ではなく、本物の友達として僕を受け入れてくれるかもしれない。そう、それが問題だ。


(緒方みたいな糞野郎相手に友情なんて感じちゃったら、坂口たちがかわいそうだもんな)


 その通り。僕はどうしようもない糞野郎だ。これはもう、絶対に覆らないし、僕もそれでいいと思っている。そんな僕が、誰かにとって本物の友人なんていう大きな価値を抱えてしまうこと自体、僕には受け入れられない。そんな責任、とてもじゃないが背負えないのだ。


 今の所江藤グループで全くうまく言っていないが、逆に言えばそのくらいのグループであってくれた方が、僕にとってもありがたい。彼らが金魚の糞である僕に大きな価値を抱くようなことは、天地がひっくり返ってもありえないだろうからな。


 ......ドッと疲れに襲われた。こんなしょうもないことに必死に悩んでる自分が嫌になったのだ。きっと今、僕は世界で一番くだらない苦しみ方をしてるに違いない。その日の暮らしもままならない人たちのことを考えると本当に申し訳ない。ただ僕の場合、そんな状況でも(あ、僕だけちょっと炊き出し多いな、先輩方からムカつかれてないかな)とか考えて苦しみそうだけど。


 僕は江藤注文の野菜ジュース...『ヤサイマシマシ』のボタンを押す。野菜ジュースのはずなのに、全く健康そうな感じがしないのは何故だろう。


 百円玉を自分の財布から取り出し、挿入口に投入する。俺も飲みたいものがあると言った手前、何か買って帰らなくちゃいけない。飲み物は水でいい派の僕としては、別にどれだっていいんだけど。お茶が無難だろうと『お〜い粗茶』を押す。いや、飲料業界のネーミングセンス壊滅的かよ。


 僕はその飲み物たちを腕の中に抱えて、この自販機が設置されている渡り廊下から本校舎一階へと戻った。入るとすぐに階段があるが、こちらからだと対岸の八組にたどり着く。そこから一組まで、この明らかなパシられ姿を晒すのは非常に抵抗があるので、もう一方の階段を目指し僕は歩いた。ああ、カバンを持って来てたらよかった。ミスったな。


 その途中にある職員室の前を通る時、その扉が勢いよく開いた。そして、これまた勢いよく出てきた学生服にぶつかると、二、三歩後退して、手に抱えていた飲み物を全部落としてしまった。


「あっ、すみません」


 僕は反射的に謝って、そして僕がぶつかった人物があの小早川可憐であることに気づき、硬直してしまった。

 

 それはあくまでぶつかった相手が小早川可憐だからであって、例えば僕が緒方啓介にぶつかったとしたら、ロクに謝らず去っただろう。しかし、小早川もまた、普段は『能面女』のニックネーム通り感情を浮かべない顔を微細に変化させ、その場に立ち止まった。


 おかげで僕たちは数秒間見つめ合うことになった。小早川とは机を挟んで向き合うことはあったが、こうやって視線があったのは初めてだ。視線をそらさなきゃ、と思ったときに、小早川が口を開く。


「すみません、不注意でした」


「あっ、いや、大丈夫」


 僕は慌ててしゃがんで紙パックのジュースたちを拾った。顔がかぁっと熱くなる。小早川可憐に、パシリに使われているところを見られてしまった。きっと彼女のような孤高を貫く人間は、僕を軽蔑したに違いない。


「すみません、どうぞ」


 すると、小早川が自分の足元に落ちていた『お〜い粗茶』を拾い上げて、僕の方に差し出した。驚く。その陶器のように無機質な白い手のひらには、あまりに相応しくない、生々しい青あざができていたからだ。


 ......そりゃそうか。あんだけ強く叩きつけたんだもんな。


「あ、いやいやいやいや、ありがとうございます」


 しばらくの間その痣を見入ってしまって、流石にデリカシーにかけすぎていると慌てて『お〜い粗茶』を受け取った。そして、残りのジュースをゆっくり拾って小早川が去るのを待ったが、なぜか小早川は屈んだまま去ろうとしない。え、なんで?

 

「おっ、緒方。ちょうどいいな、頼みがある」

 

 と、黒混じりの金髪頭が、職員室からひょっこりと出てきた。風間先生だ。僕は立ち上がって「はい、なんですか?」と答える。小早川と一緒に次の国語のプリントを運んでくれとか言われんのかな。嫌だなぁ。


「小早川がお前に言いたいことがあるらしいから、ぜひとも聞いてやってくれ」


「......へっ?」


 小早川が? 僕に言いたいこと? なにそれ、斜め上すぎるぞ。

 

 僕は風間先生に説明を求めようと視線を送ったが、入れ違いで風間先生は僕の腕の中に視線を送る。そして、ニヤッと悪代官を裏から操る黒幕のような笑みを浮かべた。


「パシリになってるくらいなんだから暇だな。よし、今から小早川と一緒に昼食を取ること。これ、教師としての命令だから。破ったらガッチガチに成績下げるから。そこんとこよろしく」


「はっ?」


「あ、掃除はサボっていいぞ。なんなら五限も、ちょっとの遅刻は許してやる。若者同士仲良く乳繰り合うこった。じゃ」


 そう言って、風間先生はひらひらと腕を振って行ってしまった。その後ろ姿はランドセルさえ背負えば小学生としても通用しそうで、あなたが一番若者に見えるわとツッコミたくなった。ていうかパシリって小早川の前ではっきり言わないで欲しかった。


 僕は遠ざかる風間先生を恨み交じりに見送った後、小早川に視線を移した。小早川の表情はいつもの平坦なものに戻っていたが、この場から去ろうともしない。気まずい沈黙が、僕たちを包んだ。


 僕はとりあえず、風間先生の言う通り、小早川と一緒に昼食を食べる光景をリアルに想像してみた。言葉を交わすこともなく、ただ弁当を突く二人。刺さる周囲の視線。うん、あまりに厳しい。


 そんな昼食、小早川もごめんだろう。言いたいことがあるなんて風間先生は言うが、僕に言いたいことなんて僕の両親ですら大してないし、あったとしてわざわざ一緒に昼食などとらず、今ここで言えばいい話だ。風間先生が、クラスで浮きに浮いている小早川を気遣ったのか、僕に対して嫌がらせしたかったのか......あの笑みを見る限り後者かな。


 風間先生に変なことを言われてしまった手前、このまま黙って去るわけにはいかないので、口を開く。


「あ、あのー」


「体育館裏」


「へ?」


 思わず間抜けな声を出してしまう。そんな僕とは対照的に、平静を取り戻した様子の小早川は、淡々と続けた。


「体育館裏でいいでしょうか、食事の場は。人がいなくて話しやすい環境だと思います」


 食事の場? え、ということは小早川は、風間先生の言う通り僕と昼食を取るつもりなのか? え? マジで? あの小早川可憐が?


「......緒方さん、どうでしょうか?」


「あっはい大丈夫です」


「そうですか。それではお待ちしています」


 そして軽く頭を下げて、小早川は下駄箱の方へと消えて行った。


 ......あ、これ、例のアレができるやつだ。


 僕は空いた方の手で頬を思いっきりつねってみた。あれ、あんまり痛くない。どうやらショックに痛覚が鈍っているらしい。


 それも納得の事態だ。なにせ、ついさっき考え、あまりに馬鹿馬鹿しいと切り捨てた、江藤との関係強化方法その二『小早川と隣の席じゃなくても関わるくらいの関係になる』を、実行するチャンスが、あっちから勝手に転がり込んで来たのだ。


 いや、いやいやいや、そんなの、糞系男子の妄想として留めておいてもらわないと困る。実際そんなことが起こるとは夢にも見てない......一回くらい見ちゃったかもしれないが。第一小早川と仲良くなっちゃったらなっちゃったで、メリットよりもデメリットの方が大きいと言う結論も出ているんだ。


 ていうか、マジで一体僕に何の用だ。全く想像がつかない。あ、それこそ僕が隣の席だからか。そのくらいしかないよな。隣の席だから......臭い。きっと臭いんだ僕。死ぬ。死のう今。あ、でも今死んだら小早川を無駄に待たせちゃうから死ねない。


 ていうか、大丈夫なのか僕。クラス一のリア充である江藤にめちゃくちゃな塩対応を返したり、曽根田にメンチを切ってうるさいといってしまえるような鬼メンタルの持ち主で、しかも超絶美少女の小早川可憐と、人目がないということは二人きり、二人きりにならなくてはいけないんだぞ。大丈夫じゃないぞ、僕。


 ......いやしかし、内容が何であれ、話すことがあるのだったら、そこまで気まずいことにはならないか。まず、僕は話し手としては幼稚園児以下だが、聞き手としてはそこそこの実績があると自負している。実際学生の毒にも薬にも、どころか何にもならないような話をいかにも興味ありげに聞いてきたのだ。小早川が絶えず話し手になってくれるのなら、もちろんガチガチに緊張こそするが、なんとか乗り切れるだろう。


 それに、僕が話し手側になったとして、あの小早川が俺に世間話を振るはずもなく、何らかの答えを求めたから俺を話し手にするわけだ。明確な目的がある会話なら、僕はそこまで苦手じゃない。それこそ授業中のディスカッションはそれなりにできたのだ。学生は明確な目的がある会話なんて一割もしないから、あまり活かせはしないんだけど。


 ということで、辻グループの時なんか時々あった、皆が目的もなく集まって話すこともなくなり、一斉に携帯をかまいだしちゃう現象は起こらないんじゃないかと思う。


 そして、もし何らかの問題が起きて僕が恥をかいたとして、小早川可憐は生粋のぼっちだ。僕がキョドリっぷりがキモすぎて貞操の危機を感じたとして、それを話す相手がいない。なので、僕の恥が学校中に広まるという可能性はほとんどないと言える。


 懸念があるとすれば、やはり話の内容だ。臭いは多分ないにしても、もしや何か僕に気に食わないところがあって、その文句を言うために僕を呼び出したのかもしれない......いや、それだったら、わざわざ呼び出さず今ここで言うのが小早川だろう。第一、江藤の言う通り、小早川が優しい人間かどうかはわからないが、普段の態度はあくまで人避けのためだとも思っているから、今の所積極的に関わろうともしていない僕をわざわざ呼び出して、悪く言うなんてことはない......と思う。


 それだったら、まだ好意的な話の方があり得るんじゃ......。


 そこまで考えて、僕は自分の頬を思いっきり平手打ちした。今度はちゃんと痛みがして、僕は職員室の前でたち惚けている現実に気がつく。


 慌ててその場を去ろうとすると、スラックスの右ポケットにあるスマホが振動した。取り出すと、羽ヶ崎からLINEで『遅いパシリ』とだけ入っていた。それが追い打ちになり、僕はしっかりと現実に帰還した。ありがとう、我が愛しの妹よ。

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