第6話 氷の女王は自習時間さえ凍らせる


 朝のホームルームで、四限の数1が自習になると風間先生から伝えられた時の僕の反応は、クラスの大半の人間と異なるものだった。


 もちろんクラスの大半の人間は自習を喜んだ。単純に授業がなくなったということに対する喜びもあるが、数1の武藤先生は厳しい指導で有名で、そのS嬢もMに目覚めそうなS的見た目も合間って生徒から恐れられているのだ。


 なかなか今の時代見ないタイプの先生だけど、そんな武藤先生からの問いかけに答えられるようみんな必死になって予習をしているところを見ると、先生としては優秀なのかもしれない。


 ただ、僕が喜べなかったのはそんな前時代的な考えにより、先生の授業を受けたかった、とかそんな理由じゃない。単純に自習の時間が嫌いなのだ。


 自称進学校の金魚リア充たちは、自習時間をおしゃべりの時間と勘違いしているようだ。なので、クラス筆頭金魚リア充の江藤の周りには、おしゃべり目当ての金魚が群れをなすわけだ。そして、金魚の糞を目指す僕としては彼らの輪に入っていくべきだし、入っていないと孤立感が際立ってしまうので参加せざるおえない。といっても、基本ただ笑って、時々江藤が話を振ってくるのに冷や汗をかくだけのことなのだが、それでも十分なストレスだ。


 僕にとって学校での授業時間というのは、人とつるまなくても許される、本当の意味での休憩時間のようなものだ。その時間を奪う自習というものが嫌いなのは当然だ、というのが理由の一つ。


 高校になってもう一つ理由が増えた。俺の隣の小早川だ。


 江藤周りの人間のほとんどが、小早川に話しかけ、死海よりもしょっぱい塩対応を返されたという経験がある。いい気分になるのは相当なドMだけだ。


 特に羽ヶ崎は小早川の態度に気分を害した。江藤の次の被害者で、まだ彼女がそんな人間と知らず、覚悟の方も固まっていなかった分、ショックは大きかったんだろう。羽ヶ崎相手にムカついたときは、あの時の狼狽えようを思い出すことにしている。


 それからというもの、小早川に対する羽ヶ崎の態度はとても辛辣だ。そんな羽ヶ崎の近くにいるのが嫌なのか、小早川は授業間の休憩でも席を立つようになったので、最近は胃が痛くなるような雰囲気を味わうことは少ないのだが、自習となると別だ。


 自習時間に席を移動し、友達同士つるむのは何も江藤たちだけの特権ではない。しかし、小早川にはできないことだ。小早川はしっかりと入学式の日の宣言を守り、今もクラスに一人も友達がいないのだ。行こうにも行くところがない。


 自習なんだからサボってトイレの中でも引きこもってりゃ楽だし、僕が小早川の立場だったら間違いなくそうしてるし、なんならそっから便所飯のコンボを鮮やかに決めるところだろうが、小早川はそうしない。普段の授業態度をみるに、サボることができない真面目な性格なのかもしれない。しっかりと教師からの質問には答えるし。そういう態度が、教師には媚を売ってると羽ヶ崎あたりにさらに不興を買っているわけだけど。


 高校初の自習では、羽ヶ崎が江藤に気づかれない程度の嫌味を小早川に言い続けた。僕だったら普通に転校してるとこだが、小早川は素知らぬ顔で、それがさらに羽ヶ崎を苛立たせた。胃と腸が溶けて混ざり合うかと思うくらい、僕史上最低の自習時間だった。さて、今日はどうなるだろう。


 楽しい時間(正確に言うと嫌な時間の前だから楽しい時間なんだが)は早く過ぎるもので、三限はあっさりと終わってしまった。僕はパンパンになった膀胱をいたわりにトイレへ向かい、帰ってきた頃には、江藤の周りには見知ったメンバーが輪をなしていた。江藤、羽ヶ崎、広瀬、曽根田、津村に、久遠もいる。


 このクラスの金魚リア充の見本市のようなメンツだ。ちなみに益子は、立派なことに自分の席で勉強していて、その横に立川が立っている。益子はともかく、立川はそんな単独行動していいのかって話だが、どうやら羽ヶ崎や江藤はむしろその単独行動の背中を押し、立川の恋路を応援しているらしい。立川みたいなぶりっ子女子、羽ヶ崎なんか嫌いそうなもんだけどな。まあ、益子からしたらたまったもんじゃないだろう。


 それよりも、面倒なのは羽ヶ崎だ。羽ヶ崎はいつもの剣持の席ではなく、僕の席に座っていた。剣持の席は剣持本人が座っている。小早川といい剣持といい、クラスに居場所がないので、自習時間に席移動することができないのだ。小早川はいいとして、剣持からしたら僕よりもよっぽど地獄の時間が始まるんだろう。


 これからの展開に嫌気がさしながらも、僕は席に戻った。羽ヶ崎はこちらに気づくと、ニヤリと意地悪く笑った。


「あ、緒方、あんたの席、使わせてもらうわね。悪いけど緒方は立っといて」


「ちょっとモモ、あんたが立ちなさい」


 江藤が強い口調で注意する。その気遣いは非常にありがたいんだけど、そんなマジに注意されると、僕の哀れな現状が際立ってしまうのでできればやめていただきたい。

 

「はいはい、別にいいでしょ、緒方Mなんだから」


「えっ、そうなの?」


 江藤が純粋無垢な瞳を向けてくるので、僕は「いや、全く違う」と苦笑いで返す。むしろこんな目にあって喜べるなら、Mになりたいくらいだ。現に今もトキメキより嫌悪感が勝ってるわけで。トキメキがある時点でMじゃねえかバカ。


 羽ヶ崎は立ち上がって僕の机と江藤の間にすっぽり収まり、何もなかったかのように江藤と話し始めた。江藤もそれを簡単に受け入れる。ここら辺の切り替えの早さは中学からの親友だからだろうか。中学時代の友人とLINEのやりとりすらしてない僕としては......いや、そう言えばあったな。江藤と小早川のことを聞かれたんだ。特に小早川に関しては、聞かれたって困るけど。


 俺は空いた席に座り、その椅子の暖かさに少しどぎまぎしたところで、俺の机の上にむき出しの太ももと、つつましい胸の割に大きいお尻が乗っかったので、すぐに視線をそらす。


 羽ヶ崎が俺と江藤の間に収まる時は、大抵その右太ももと右臀部を俺の机の上に乗せる。どうしてもこのクラスでは江藤と小早川が目立つが、羽ヶ崎だって一般的に見たら可愛い方だ。もちろん見たい。だが、万が一その視線に羽ヶ崎が気付こうものなら、「うわ、緒方お前見過ぎだろ。超気持ち悪いんですけど。絶対童貞じゃん」と冷め切った目で見てくるに違いない。男子はともかく、女子の前で童貞いじりはキツすぎる。俺がMじゃなかったら死んじゃうよ。いやもうMって認めんのかよ気持ち悪りぃな。


 授業の始まりを告げるチャイムがなるとほぼ同時に、小早川が教室へ戻ってきた。悠然と歩を進め自分の席に着くと、ガタガタと机を引きずって後退し、僕たちと距離を取った。羽ヶ崎が小早川にも聞こえるあからさまな舌打ちをして、その場に微妙な空気が流れた。


 しかし、小早川は一切気にする様子など見せず、すぐさま机から数学の教科書とノートを取り出し、ホワイトボードに書かれた範囲の問題を解き出した。この視線を羽ヶ崎あたりに気づかれたら、「何、あんた小早川のこと好きなの?」とか小早川にギリギリ聞こえるくらいの声で言われちゃいそうなのですぐ逸らす。


 僕も教科書くらいは広げたいところだが、誰かさんのデカめのケツが机に乗っかっているせいでそれもできない。下手に広げて、それが彼女に触れでもしてしまったら最後、あの羽ヶ崎にセクハラした勇者として異世界に召喚され、国王から魔王の討伐を命じられかねない。チート能力が貰えたとしてお断りしたいところだ。


 結局僕はノートも広げられないまま、自習時間という名のおしゃべり大会が始まった。江藤が時々話を振ってくるのをなんとか返し、それ以外では金魚の糞らしく適当な相槌を打ちながら脳内で一人サッカーゲームをするという離れ業をやっているうちに時間は過ぎていった。げ、またメッシに決められた。せめて自分の脳内でくらい勝たせてほしいものだ。


 と、広瀬の横に立っていた曽根田が、何やら不審な動きをしているのが目に入った。曽根田の視線は、小早川ほどではないにしても、この集団から逃れようと、一限から徐々に机を離していた剣持の方を見ていた。


 もし曽根田が剣持に恋しているなら僕も応援するつもりなのだが、どう見てもその目は恋する乙女のものではない。獲物を見つけた目だ。ああ、嫌な予感がぷんぷんする。僕の悪い予感はだいたい当たる。いい予感はひとまずあまり感じたことない。


「おいちょっと待て、なんだよこれ」


 そして、嫌な予感は見頃的中した。


 曽根田は末森の筆箱を取り上げ、そこにぶら下がったキーホルダー、より正確にいうと、魔法少女まきノンのメインキャラクター、牧野由紀と、その牧野由紀を魔法少女にするマスコットキャラ王貴が一体となったラバー製のキーホルダーだ。曽根田はきっと王貴のことをいっているのだろう。犬と猫をミキサーで混ぜたような見た目をしている王貴は、グロ耐性のあるアニメファンにすら不評を買っている。


 その奇抜な見た目に、皆が各々のリアクションを取り始める。僕も何かしらリアクションを取ろうと思ったが、ここからチラリと見える、剣持の引きつった真顔を見て、体が固まってしまった。


「あはは、ほんとだこわ......え、でもなんかちょっと可愛くない? その犬......猫?」


「いや犬か猫かもわかんないやつが可愛いわけないだろ!」


 曽根田が江藤にビシッと突っ込むと、ドッと笑い声が起こった。僕が知る限り、この集団で曽根田が初めてまともに笑いを取った瞬間だった。曽根田の頬がここからでも紅潮していくのが確認できた。


 やはり、曽根田は視線を剣持に戻した。その目は肉食動物の残飯を狙うハイエナのようにギラギラと光っていた。


「あれ、てかこれ最近アニメやってたやつじゃね? 魔法なんたらみたいな」


「へぇ? 曽根田、あんたそういうの見るんだ?」


 羽ヶ崎がどこか侮蔑の含んだ声色で言った。ああ、羽ヶ崎はそっちのタイプか。アニメという文化が一般に浸透して久しいはずなんだけどな。認められているのはいわゆるジャンプ系だけなんだろうか。それか、実写映画好きとして昨今のアニメの快進撃が許しがたいのか。ともかく、まずい。


「いやいやいや、違う違う違ぇって! ただ夜なんもすることねぇなってテレビつけたらやってただけだっつーの」


 曽根田は剣持の筆箱を持ったまま、ブンブン腕を振って否定する。それに合わせてまきノンがブンブン揺れた。


 第十五話『裏切りの夕焼けは私には赤すぎる』で、まきノンの幼稚園からの幼馴染で、同じ魔法少女の西壁マリナちゃんが、敵の幹部にコンソメスープ一年分で懐柔され、まきノンを裏切り彼女をズタボロにした後ブンブン振り回し投げ捨てたあのボロ泣きシーンを思い出してしまうのでさっさとやめてくれ。


「なぁ、こいつってなんて名前だっけか?」


 曽根田は惚けた顔で、まきノンのキーホルダーをぐいぐいと引っ張る。ラバー製のまきノンたちは、その身体をぐぅっと伸ばし、第十一話の作画崩壊を思い起こさせるルックスになっていた。


 あんな黒歴史より話の続きだ。仲間を裏切った理由コンソメスープ一年分と聞いて、「どんな理由で仲間裏切ってんだよクソアニメ決定だな」と思った人のために説明しておこうと思う。魔法少女まきノンの世界では、魔法少女は魔法を使うたびに魂が汚れていくという設定で、その汚れを浄化するためにはコンソメスープが必要なのだ。まあその設定の段階でクソアニメ臭半端ないけどな。


「.............」


「......おいおいどうした? 名前聞いてるだけだろ。それともあれかこれ、こいつ名前ないとか? まあこんなバケモン名前ないか」


 剣持の沈黙に、曽根田は一瞬苛立ちを見せるが、すぐに犬歯を見せて笑う。しかし、剣持はしっかりと曽根田の苛立ちを感じ取ったようで、表情は真顔のままだが、かすかに震えているのがこの距離から確認できた。いや、なんでそんな名前が知りたいんだよ、ていうか裏面見たらなんらかの情報あるだろ。そっから自分で調べろよ。


 駄目駄目、そんなことより今は魔法少女まきノンについて語らねば。そんな設定もあって最初は全く期待されてなかったんだけど、第五話『海とお好み焼きソースと私と大型二種』で、その評価は一変した。


 普通アニメだったら、海といえば水着回。ヒロインたちの、なぜか普段より2カップほどサイズの上がった胸や尻を惜しみなく披露するための回だといって差し支えないだろう。しかし、魔法少女まきノンは違った。なんと舞台が海でありながら、彼女たちは一切水着になることはなかったのだ。ここから、性的なコンテンツに頼らずストーリで魅せていこうという製作陣の覚悟が見て取れた。


 ちなみに第五話のストーリーとしては、海の店でバイトを始めた主人公たちがお好み焼きを焼いているときに現れた、バスのおばけ・おだQに対抗するため、自分たちも大型二種を取ろうと試みるのだが、全員未成年だったので残念ながら取れなかった、というものだ。流石に鳥肌が立ったね、もちろん悪い意味で。


「...........まっ」


「え? なに?」


「まっ、ままままっ、きにょっんっ」


 その場に、刹那の沈黙が降りたった。叫びだしたくなるような沈黙だ。そして、ドッと笑いが起こった。


「まっ、ままま、きにょっ、ってっ、お前っ、なんだよその噛み方っ!」


 曽根田は足をバタバタさせながら笑う。明らかに過剰だ。自分が生み出した笑いをより価値のあるものに見せたいんだろう。


 曽根田の笑顔なんてどうでもいい。魔法少女まきノンは平均視聴率一パーセントながら時代を変えた伝説的なアニメだ。こんなちっぽけな教室の出来事よりも、魔法少女まきノンについて思考を巡らせるほうがよっぽど有意義なんだ。そうしよう。


 ......ああ、不味い。はっきり言ってもうネタ切れだ。一応魔法少女まきノンは全話見たんだ。ただ、基本的にあんまちゃんと見てないというか、勉強のBGMみたいな感じで見てたから。もちろんそうでもしないとやってられないくらい魔法少女まきノンの内容が薄いというわけじゃない。


 逃避の材料がなくなると、現実がはっきりと見えてきた。対角線の脚同士の長さがあっていないのか、それとも教室の床が悪いのか、ガタガタと揺れやすい僕の机が、過去最高の揺れを記録している。どうやらツボに入ったらしい羽ヶ崎が身をよじって笑っているのだ。


 広瀬は、一応笑ってはいたが、その瞳は一切笑っていない。まるでゴミでも見るような視線を末森に向けている。あんな視線を同級生から向けられたら、辛い、辛いに決まってる。


 津村は曽根田と似たような馬鹿笑いをしている。が、そこには隠しきれない悔しさが滲み出ていた。彼はいわゆるお笑い系としてこのクラスで地位を獲得しようとしているようで、特にこのグループにいる時は、はたから見ると必死なくらい笑いを取ろうとする。


 ここからちらりと見えた久遠の笑顔は、ぎこちないものだった。宇佐美も昔はどちらかといえば末森側の人間だったので、そんな末森が酷い目に合わされている現状に思うところがあるのだろう。僕も同じような立場だが、彼女の引きつった笑みには人の良さが出てる。まあ笑ってる時点でいい人間ではないって意見もあるかもだが。


 そして江藤。彼女も、楽しそうに笑っている。その笑顔の中に悪意は見られない。これは決して、彼女を擁護しようとしているわけじゃない。これは、僕たちからしたら残酷な事実なのだ。


 ”いじる”という行為に対する捉え方は、人によって大きく異なることがある。


 曽根田にとっての”いじる”という行為は、自分が他者と比べ優位な存在であることを示すためのものだ。だから、自分がいじられることを極端に嫌う。それを受け入れてしまうことは、自分が劣った存在だということを受け入れるに等しいからだ。まあ、僕の勝手な推論なので、正しいかどうかは知らないが。


 しかし、これは間違いない。江藤にとっての”いじる”は違う。彼女にとっての”いじる”は、ただのコミュニケーションツールなのだ。


 実際、彼女は人をいじる時はもちろん、人にいじられる時だって楽しそうにしている。剣持のように言葉がうまく出てこなくて、それを剣持と同じようにいじられた時だって、授業で当てられたときの回答があまりに素っ頓狂なもので、クラスをあげて笑われたときだって、自分の健康的な身体を、男子の前で羽ヶ崎さんにいじられた(もちろん言葉でだ。物理的にいじれよ羽ヶ崎の無能が)時だって、彼女は口では怒りながらも結局のところ楽しそうだった。


 江藤にとって、いじられるということは決してマイナスではない。それもこれも、彼女が真のリア充だからだろう。曽根田と違い、カーストの頂点に余裕を持って君臨するだけの資質を持っている江藤には、いつだって心に余裕がある。だから、いじられるという、本来弱者が受ける扱いだって、彼女は余裕を持って受け入れられる。そして、その余裕が、より彼女を強くするのだ。本物の弱者になった経験なんて、今まで一度もないんだと思う。


 だから、彼女は弱者の苦しみに気づきにくい。そして気づいたところで、適切な対応が取れるかというと、そうは言えないのだ。


 ああ、現実なんて見るべきじゃなかった。その場の笑いは一応の収束を見ていたが、断じて安心できる状態ではない。曽根田は未だに末森の筆箱を持ったままだった。


「ほら、もういっぺん言ってみ? こいつの名前言ってみ?」


 曽根田はキーホルダーを末森の顔の前でぷらぷらと揺らしながらそう言った。先ほどのように末森が噛む様子を晒して、笑いを取ろうとしているのだろう。馬鹿が。二回連続おんなじことやって受けるんだったら誰だってお笑い芸人やるわ。天丼ならせめてもう少し時間を開けてからやってくれ。


 剣持は......乏しい表情で、机に視線を落としている。まるで今巻き起こっている出来事が、自分と関係ないと決め込んでいるようだった。


 無理もない。僕が剣持の立場だったら完全に戦意喪失で、曽根田たちの関心が自分から逸れることを願いながら、ついでにテロリストが教室に入ってきて曽根田たちを殺す妄想をしているに違いない。それ戦意喪失してるか? ああ、でも最終的にアレ、テロリストに自分を殺してもらう妄想に切り替わるんだよな。妄想のテロリストに頼って現実では何一つ反撃できない自分を嫌悪してしまうのだ。


 答える様子もない剣持に、曽根田は再び苛立ちを見せる。しかし、それを精一杯隠しているからタチが悪い。鈍感な江藤から見れば曽根田は何ら怒ってないように見えるし、僕からすれば、隠そうとしているにも関わらず苛立ちが見えてしまっているのは、内心憤怒しているからだと感じてしまう。剣持からもそう見えるんだろうか。


 こうやって曽根田が怒りを我慢しているのは、先ほどの甘美な成功体験を、もう一度味わうためだ。それは同時に、曽根田がそう簡単に諦めないということでもある。

 

「おいおい、まさかこいつの名前、ま、ま、まきにょじゃないよなぁ?」


 小規模な笑いが起こる。末森は答えることができない。曽根田はまだ笑っているが、髪の毛と同じ色をした眉毛がつり上がってしまっている。


 ......駄目だな。これ以上見るべきじゃない。


(緒方が言えばいいんじゃない?)


 東堂がそう言った。ああ、確かにその通りだ。


 僕はまきノンと王貴の名前を知っている。僕が今それを告げれば、剣持は救われる。それなのに僕は、こうやって傍観している。言えば、この時間は終わる。


 いや、そんなのは無茶な話だ。僕なんかがアニオタだとバレた時点で、羽ヶ崎あたりが僕にどんな態度を取るだろうか。


 それに、ここで助けに入っては、もう一度笑いを取りたがっている曽根田を邪魔することになってしまう。屍肉を奪われたハイエナは、ターゲットを僕に移すかもしれない。


(緒方って、本当に金魚の糞だよな)


 その通り。そんな僕が人を助けようなんてこと大それたこと、考えちゃ駄目なんだ。


「......あれ、 剣持くん?」

 

 すると、江藤が何かに気づいたように声をあげた。ああ、なんでこうも、僕の嫌な予感は当たってしまうんだ。


「顔色悪いよ、大丈夫?」


 その言葉には、江藤らしく、人を思いやる気持ちがいっぱい詰まっていて、鼻の奥がツーンとした。江藤の優しさに感動したからじゃない。このままでは、剣持が泣き出してしまうんじゃないかと感じたからだ。あの時の光景が脳裏をかすめる。いや、あの時とは状況が全然違う。剣持はたった一回、ほんのちょっといじられただけじゃないか。泣くことはない、


 そう言い聞かせて、だから剣持の方は見なくてもいいんじゃないかとまで思った。しかし、意思に反して、僕は惹きつけられるように剣持の方を見てしまった。

 先ほどまでの青白く生気の感じられない肌には朱色が灯り始め、力なく下がっていた眉は力がこもり直線を描いている。そして、その瞳には、ある種の輝きがあった。


 ああ、頼む、泣かないでくれ。


「ちょっと拓海、剣持くん、体調悪そうじゃん」


「......え、は? 俺のせい!? 名前聞いてるだけなんですけど!?」


 たとえ自分が惨めな状況にあっても、自分自身を惨めだと認めさえしなければ、なんとかやり直せる。


 しかし、一度泣いてしまえばもうおしまいだ。どうやったって、自分が傷ついていることを認めなくてはいけなくなる。ただの一度笑われただけで泣くほど傷ついた、弱者である自分を自覚し、そして周囲に晒さなくてはいけなくなるんだ。


「......ていうかさ、そのキャラの名前とかどーでもいいんですけど。何あんた、やっぱり興味あるわけ?」


「いやいやいやいや!! ぜってぇ無いから!! キモいってそんなん!!!」


 僕は、久々にテロリストが教室に入ってくる妄想をすることにした。テロリストの持っている銃はご存知AK47だが、それとは別にRGD-5も持っている。テロリストのリーダー格は、騒ぐ生徒を黙らせるために一人の生徒を見せしめにそのRGD-5で殺す。それが曽根田拓海だ。


 いや、それじゃあっさりしすぎか。曽根田はテロリストの皆さんの人質になってもらおう。そして無様な姿を教室の皆に晒しながらも、最後まで生き残ったりなんかして、で、最後の語り部を任される。いや、それじゃ準主役級のポジションだな。曽根田には勿体無い。


 いや、もうこの際曽根田なんてどうでもいいや。重要なのはテロリストがこの教室に突入してくることだ。


「ちょいちょい、あたしも結構アニメ見るんですけど!!」


「うぇっ!? マジ!?」


「あんたが見てんのはプニキュアだからそんなのとは違うでしょ。ま、それはそれでどうかと思うけど......」


 テロリストが教室に入ってくるなんて大事件が起これば、誰も剣持のことなんて気にしなくなる。というかそれ以前に、驚きで剣持の涙は引っ込むことになるだろう。


 僕は神様に祈るのをやめて、テロリストに祈りを捧げることにした。不謹慎で申し訳ないが、こればかりは仕方がない。本当に神様がいるのなら、スクールカーストなんてものを生み出すわけがないんだ。


「え、魔法少女なんだから一緒でしょ。剣持くんはぷにキュア......じゃなくて、剣持くん、体調大丈夫? 保健室行く?」


「............」


「......お前なぁ! さっきから何無視して......あ?」


 ついに抑えきれなくなった怒りが溢れ出したのもつかの間、曽根田の表情に戸惑いが浮かぶ。やめろ。言うな。テロリストでも神様でも隣に教室で授業をする教師でもいい。誰かこいつを止めてくれ。しかし、教室の扉は閉まったままで、対して、曽根田の口は開きだす。


「は、何お前、ない」


 その時、何かが破裂したような音がして、俺は思わず飛び上がってしまった。


 一瞬、俺がテロリストの出現を願うあまり、まるで現実にテロリストが現れたかのような轟音を、僕の妄想が聞かせたのだと思った。しかしすぐにそうではないことがわかる。


 このクラスのほぼ全員の顔...その中には、剣持の顔もあった...が、こちらを向いているのだ。


 僕が何かしたってわけじゃない。膝の上で組み合わさった両手は真っ赤になっていた。僕の手が勝手に悪さをしたんじゃない。


 よく見れば、皆の視線は僕から少しずれている。僕も、彼らに従って斜め後ろを振り返る。


 そこ立ち上がっていた小早川の、机の上で大きく広げられた手は、俺のと同じくらい、痛々しい赤になっていた。


 かつん、と、机の端で揺れていたシャーペンが床に落ちる。その音がはっきりと響き渡るほど、教室は静寂に包まれていた。


 この異常な空気に、ついにこのクラスの全員が固唾をのんで小早川を見守った。小早川は、ゆっくりと顔を上げる。その顔にはいつもの無表情が張り付いていて、つい先ほど机を思いきり叩きつけた人間の表情とは思えなかった。


 その冷え切った視線を一身に受ける曽根田は、狼に狙われた子羊のように、ぶるっと震えた。


 異様な緊張感に満ちた沈黙がしばらくの間続いた。そして、その沈黙を破った小早川は、確かに氷の女王と呼ばれるだけのことはあった。


「あなた、うるさい」



   ⁂


 

 小早川は席につきチャイムが鳴るまでの時間、教室は時間が止まったような静寂に包まれた。きっと小早川の「うるさい」が、僕たち以外の人間の口をも閉ざさせたのだろう。


 それだけでも十分すごいことなのだが、何よりすごいのは、授業が終わるまで、ついぞ剣持が涙を流すことがなかったことだ。彼の瞳は、涙のそれとは違う輝きを持って虚空を眺めていた。

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