おいしい水

「京都の街は初めてなので、楽しみです」


 まるで春先に咲き誇る桜の花のように可憐なその笑顔は、ともすれば一国を傾けてしまいそうな魅力に溢れている……というポエムをノートに書いていたら母さんに見られた黒歴史が脳裏をよぎった。

 とにもかくにも、帰蝶の笑顔というのはそんな感じだ。


 てっきり戦場に女性は連れていけないもの、なんて時代劇やらを見て思っていたんだけど、今回はうまくいけば京都に入るまでは戦は起きないということで、帰蝶を連れていけることになったらしい。

 俺としては嬉しいけど、本当に戦闘にはならないんだろうか。


 そんな心配を余所に、帰蝶は京都を訪れるわくわくを隠し切れないといった感じの表情で俺を抱っこして城の外まで出てくれた。

 城の外には一緒に京都へ向かう家臣たちがずらりと並んでいる。どうやら準備は万端で、後は俺が駕籠に乗れば出発といったところらしい。

 それにしても、無駄に人が多いな……。京都に行くというよりは「京都を獲りにいく!」ってぐらいに家臣団が勢ぞろいしている気がする。


 駕籠の前には六助が待ち構えていて、その隣には何か偉そうなおっさんがいる。烏帽子とかいうらしい、黒くて小さくてぴょこんとトサカみたいなのが出てる変な帽子を被っていた。


「おはようございます、プニ長様。こちらが落ち武者のような漂流生活を続けていた足利義昭様です」

「これ、落ち武者とはまた随分と失礼なやつよ」


 眉毛は太く目は細い。ふっくらとほっぺたの育った、納豆のパッケージとかにこんなキャラいたわみたいな輪郭をしていて、今にも「麻呂」とか言い出しそう。


「全く、麻呂がどうしてこんな目に……」


 あ、言った。

 麻呂野郎は、次に手に持っている扇子で俺を示した。


「して、この風変わりな犬は何なのかえ?」

「こちらが我らが君主の織田プニ長様にあらせられます」

「おお。あの言い伝えにある通りに召喚したという、犬臣鎌足公の生まれ変わりと呼ばれておるものか……」


 だけど、俺をじっと見つめた後に義昭はその顔に露骨なまでの不快感を表す。


「しかし、これはただの犬ではないか。本当にこんな犬に私を上洛させることが出来るのか?」


 気持ちはわかるけど、ここでそれを言うのはどうだろう。なんて思っていると、思いっきり眉根をひそめた六助が周囲に向けて叫んだ。


「者共、出会え出会えーぃ! この不届き落ち武者野郎をくすぐりの刑に処せ!」


 全員が一斉に義昭の元に駆け寄って、これでもかというくらいに全身をこちょこちょし出した。全力で足掻きながらも、抵抗虚しく泣き笑いながら叫ぶ義昭。


「あひゃひゃひゃ! あひゃひゃ! 悪かった! 麻呂が悪かったから許してたも~」

「いくら元将軍様の弟君でも、この場で言うのはまずいことでしたね」

「私たちは将軍だろうが天皇だろうが織田家に仇なす者は全て敵とみなします。それをきちんと身体に刻み付けておかなければ」


 帰蝶と六助がそんな風に話すのを眺めていた。義輝ってのが征夷大将軍で、義昭はその弟だったらしい。

 六助にとって義昭は、あくまで織田家の為に利用するためだけの存在ってことなのか。恐らくおうぎまち天皇? というか朝廷もそういう扱いなんだろう。

 普段は忠義に厚いおバカというイメージしかなかった六助の意外な一面に感心していたら、いつの間にかくすぐりの刑が終わっていた。六助の合図と共に散り散りになっていく武士たち。

 義昭は立ち上がって膝に手をつき、肩で息をしながら謝罪の言葉を口にした。


「す、すまなかった。京都までの道中、くれぐれもよろしく頼むぞ」

「キュン(おうよ)」


 こうして、織田家上洛への道のりはスタートしたのであった。

 俺と帰蝶、義昭を中央にして前後に長い列が成されている。俺たちの周りには馬廻衆が控えていて、その中には六助もいた。

 駕籠の中で、竹で作られた水筒のようなものから水を皿に汲んで、帰蝶がこちらに差し出してくれている。


「プニ長様。お水、飲みますか?」

「キュ~(飲みゅ~)」


 犬になってから、特に帰蝶と出会ってからは知能指数がぐんぐん低下しているような気もするけど、もはやそんなことはどうでもいい。この幸せな時間を全力で堪能することだけが今の俺の人生目標なのだから。

 でも、差し出された皿に顔を近付けてぺろぺろとやろうとした、その時だった。


「ずぞぞぞぞぞぞ……むう、これが美少女の注いだ水の味ですか。この世のものとは思えないほどに美味ですね」


 いつの間にかソフィアが俺と帰蝶の間にいて、皿の端に口をつけて勢いよく水を飲みほした後、真剣な表情でぺろりと口元を拭ってからそんなことをほざいた。


「キャンキャン! キャンキャン! (おいふざけんな! 俺にも飲ませろ!)」

「私が新しいのを注いであげますから、そんなに興奮しないでください!」

「ワオワオワオ~ン! (お前が注いだのじゃ意味ねえんだよ!)」


 ソフィアは力なく床に落下すると、身をよじらせて泣き真似をし出した。


「ひ、ひどい……私だって女の子なのに……およよ」

「キュキュキュン(およよって久しぶりに聞いたな)」


 まあ確かにこいつも見た目は可愛い……あれ? でも女神ってことは、それなりに歳はとってる、よな。そうなるとソフィアの実年齢ってどれくらいなんだ? もしかして結構おば……。


「わ~ん! 帰蝶ちゃん、プニ長様がいじめます!」


 また俺の思考を読んだのか、わざとらしく帰蝶に泣きつくソフィア。対して、帰蝶はまるで母親のように、穏やかに微笑みながら俺を諭して来る。


「あらまあ。新しく水をお注ぎしますので、どうかお静まりくださいね」

「キュン(あざーす)」


 とくとくとくとく。竹水筒から「プニ長様」と書かれた皿へ、生命の源が注がれていく。ソフィアに乱入されない内にと急ぎ目に口をつけたら、どこからか川のせせらぎが聞こえて来るような気がした。

 蒸し暑い空気もスパイスになっているのか、帰蝶が注いでくれた水はとても美味い。やがて全て飲み終えると、いつの間にか床に座って饅頭を食べているソフィアに尋ねた。


「キュ、キュンキュンキュキュン? (今回はいつまで居られるんだ?)」

「う~ん……はっきり決まっているわけではないですけど、そこまで長くは居られないですね」

「キュン(そうか)」


 いつも通りってことだな。詳しくは知らないけど、忙しい仕事の合間を縫って来てくれているだけでもありがたい。

 するとソフィアは珍しく、少し申し訳なさそうな顔になった。


「不便な思いをさせてごめんなさい」

「キュンキュウンキュキュン(今はもうそこまで不便でもないよ)」

「そうなのですか?」

「キュ、キュキュウンキュンキュン(うん。帰蝶が身の回りのことは大体してくれるし、賛成や反対の大まかな意思表示くらいなら出来るしな)」


 一旦話が切れた頃合いを見計らって、帰蝶がやや緊張した面持ちでソフィアに声をかけた。


「あ、あのっ」

「はい、何でしょう!」

「私もプニ長様とお話がしてみたいです!」

「ワン! (俺も!)」

「どうぞどうぞ」


 ソフィアが俺たちの間にスタンバイすると、帰蝶は改めて俺の方に向き直り姿勢を正した。心なしか、どこか意を決したような雰囲気を漂わせている。俺も一体何を聞かれるのだろうかと座りなおし、固唾を呑んで言葉を待った。


「プニ長様」

「キュ(はい)」

「はい!」

「私は正室として、きちんとプニ長様を支えることが出来ているのでしょうか? どこか至らない点はありませんか?」

「キュン(えっ)」


 意外な質問に面食らってしまった。ここで聞いて来るなんて、普段からよっぽど気にしていたことなんだろう。

 帰蝶は不安そうに俺の返答を待っている。


「キュウンキュキュンキュ。キュキュキュンキュウン(至らない点なんて一つもないよ。これからもよろしくお願いします)」


 ソフィアはそこで急にきりっとした表情になり、まるでキザ男がそうするように顎に手を当てて凛々しい声を作り始めた。


「至らない点なんてあるわけがないだろ? これからも頼むぜ俺の可愛い帰蝶……愛してる」

「まあ」

「ワン! (おいっ!)」


 帰蝶が着物の袖で口を隠しながら驚くのと同時に、ソフィアを成敗しようと襲い掛かった。しかし俺の右前足は虚しく宙を切ってしまう。


「プニ長様ったら! そんなに照れなくてもいいのに!」

「キャンキャン! (待てこの野郎!)」


 そのままするりと駕籠の外へ逃げたソフィアを追っていく。


「おお」「何事だ」

「プニ長様と妖精様だ!」「いと尊し」

「いと尊し」


 俺が疲れて動けなくなるまで、ソフィアとの追いかけっこは続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る