第二話 偽装デート

 ☆

彩子さんとの出会いから数日後、僕は彩子さんのことを忘れずにいた。

仕事中でも、自宅に居ても、片時も彩子さんのことを考えていた。また会いたいと強く思っていたからだ。

僕はレンタル彼女の彩子に依頼しようかとも思っていた――しかし、最後に頼りない姿を見せてしまい、自分がなさけかった。

彩子さんは一人で放火未遂の男を仕留めてしまったのだから。翌日には、放火未遂の男の詳細は大きく取り上げられていた。何もかも失った男の行動は世間からも軽蔑され、同情せざるをえないものだった。彩子さんが仕留めた一部始終の詳細はどこにも報道されることはなかった。知っているのは僕と一緒に乗車していた乗客くらいだろう。乗客も彩子さんのことは何故か何も話していないようであった。当然、僕もそうである。

可愛くて強い――まさに完璧過ぎる女性である彩子さんの妄想が日に日に被くらんでいた。

依頼しようかと、レンタル彼女の受付の番号を押そうとしていたそんな時――一本の着信が入った。

慌ててスマートフォンの画面を見た。画面には『楓』と表示されている。三コール目で通話ボタンに指を触れる。

「はい」

『もしぃ! 兄ぃ』

楓の軽い口調がスマホから聞こえた。

「なんだお前か。どうしたよ」

『何? その気の抜けた返事は! せっかく電話してあげたのにぃ』

電話の向こうで楓が膨れているのがわかった。

「あ、うん。楓からかけてくるのは珍しいな」

『まぁね。大事な試練は終わったから余裕ができたの。それでお母さんのお見舞いにちゃんと行ってきたからそれを報告する為にかけたって訳!』

「そうゆうことか。そんなのメールでいいのに」

と、めんどくさい感じに言うと楓はニヤニヤしながら言った。

『お兄ぃ。お母さんから聞いたよ――超可愛い彼女できたってぇ?』

楓は彩子さんのことを言った。

「え、あぁ、まぁな」

僕は少し誇らしげに言った。いや、見栄を張った。

『相当美人だって、お母さん言っていたよ。来年その人と結婚するってまじぃ?』

楓には母さんに話した情報は全て入っているようだ。

母さんを安心させる為の嘘だったが、楓に嘘がばれると、後々、面倒なので楓にも嘘を貫くことにした。

「あ、あぁ。実はそのつもりで、楓にもそのうち話そうと思っていたところでさ……」

自分がなんだか情けなかった。

どうして僕はいつも咄嗟に次から次へと、こう……嘘が出てしまうのかとつくづく思う。

自分の首を自分で絞める行為に等しい発言で悔いる。

『そっか。やったじゃん! お兄ぃ!』

楓はなんの疑うこともなく素直に喜んでくれた。

その喜びが僕としては息苦しかった。

母に嘘をつく為、妹の楓にも嘘をつくことになるとは……。

『あ、じゃ、今度その彼女さんに会わせてくれない?』

「……え?」

『近いうちに大阪行く予定あるからさ、彼女さん呼んで三人で食事でもしようよ。私のお姉さんになる人なら挨拶くらいしておきたいしさぁ』

楓は彩子さんを交えて会わせろと要求してきた。

それに対して否定しようとしたら楓は嬉しそうに続けて言う。

『じゃ、来週大阪でイベントあるから彼女さんに言っておいてねぇ。あ、そろそろ寝ないと。後はラインでお願いします――では!』

楓は言いたいことだけを言って電話を切った。

楓はどこか自由な部分がある。昔からそれは変わらず、今でもそれは変わらない。それにしてもまずいことになった。自由であるのと同時に楓はしつこいのだ。

頑固でわがままなところがある為、彼女を会わせなかったら会うまでしつこく「会わせろ」と要求することは目に見えていた。

なので、いずれは彼女を会わせなければならないのだ。僕に当然、彼女も口裏を合わせてくれる女性はいない。

頼れる人は『レンタル彼女』というところだけだった。

僕は嘘を突き通す為、再びレンタル彼女の受付番号に電話をすることになった。

        ☆

『お電話ありがとうございます。こちらレンタル彼女の受付でございます。ご依頼でしょうか?』

最初にかけた時と同様に同じ声の男が電話に出た。

「はい。依頼をお願いします」

『ありがとうございます。お客様は初めてのご利用でしょうか?』

「いえ、今回で二回目です」

『左様でございますか。それではお名前と年齢をお願いします』

「二ノ宮陸。二五歳です」

『少々お待ちくださいませ』

電話の向こうからメロディが鳴った。しばらくすると、男は電話に戻ってきた。

『お待たせしました。二ノ宮様。先日はご利用ありがとうございました。今回はどのようなプランをご希望でしょうか?』

「えっと、妹を交えて食事をしたいのですが……」

遠慮がちに言うと男はすぐにプランの解説をする。

『食事ですね。お店は決めておられますか?』

「いえ、全く」

『そうですか。食事だけでしたら、二時間を目安にされた方が良いでしょう。人にもよりますが居酒屋とお考えでしたらかなり絞られてきます。ご希望の彼女はいらっしゃいますか?』

「あ、はい……彩子さんでお願いします」

正直、彩子さん以外は考えられなかった。むしろ彩子さん一択だった。

『彩子ですね……はい。彩子の方は飲酒、大丈夫です。居酒屋の場合は事前の予約をされた方がよろしいです。その場合は二ノ宮様の方でお願いします。それと前回は初回だったので指名料はありませんでしたが、今回は二回目なので指名料二千円がかかりますので、ご了承ください――ここまで何か質問がございますか?』

受付の男はわかりやすい営業口調で説明してくれて特に質問はないと答える。

『では、日付、時間、場所を教えてください』

僕は楓がラインで指定してきた日付、時間、場所をそのまま伝える。

『はい、かしこまりました。当日、彩子の方を向かわせるので楽しみにしてください。料金は後払いで一週間以内に振込の方をお願いします。当日キャンセルされますと、全額お支払いとなりますので、それだけはないようにお願いします』

「はい。了解です」

『では、失礼します』

無事、彩子さんのレンタルの予約ができた。

まさかまたこうして会うことができるとは正直、嬉しかった。

また、彩子さんに口裏を合わせてもらう為、完璧な彼女を演出してもらうことになるのだが、ただ、会えるだけで僕としては満足だった。

後は、楓にバレないことを祈るばかりだった。

   ☆

「お待たせしました。二ノ宮様。本日も私をご指名していただきありがとうございます」

待ち合わせの十分前に到着した彩子さんは僕を見つけて声をかけてくれた。会った早々はまだビジネス口調である。〈りっくん〉と呼んでくれるのは恋人時間が始まってから初めて言ってくるのは前回で経験済みだ。

またこうして会うことができるのが、なにより嬉しかった。

今日の彩子さんの格好はキャミソールにカーディガンを羽織っており、ロングスカートで全体的に白をイメージした服装だった。彩子さんは何を着ていても似合うだろう。

以前は何もしていない自然な髪型だったが、今日はシュシュで髪を軽くくくっているスタイルだった。彩子さんが天使に見えた。

見とれていると、彩子さんはそれを察したのか手を口に当てて咳払いする仕草をした。

「彩子さん。お久しぶりです。また会えて嬉しいです」

「そうですか。それは光栄です」

彩子さんはビジネス的に言った。

やはり僕のことは単なる客としか思っていないように見えた。仕方がないことだが、なんだか寂しく思う。

「では、二ノ宮様。デートの時間の前に確認をとらせていただきます」

彩子さんは前回同様、注意事項の説明に入った。

「今回、依頼されたデートプランは二ノ宮様の妹さんと三人で食事会。お時間は二時間と聞いておりますが間違いないでしょうか?」

彩子さんは自分が依頼した内容を正確に言った。

「はい。間違いないです」

「では、二ノ宮様は今回で二回目ですが念の為、注意事項です。私が嫌がることはしないでください――よろしいですか?」

彩子さんはシンプルでわかりやすい注意事項を言った。

これを聞くのも二度目なので充分頭に入っている。

「はい。わかりました。それと彩子さん。デートを始める前にお願いがあるのですが……」

「はい。なんでしょう」

「今回も妹はレンタル彼女のことは知りません――なので、バレないように口裏を合わせてもらえないでしょうか?」

僕は彩子さんに両手を合わせてお願いした。

今回の依頼は嘘を突き通す為の演出でもあるのだ。少しでも楓に疑われたら、即刻母に告げ口をされてしまう。そうなれば、母はショックを受けて病気が悪化しそうでならないのだ。その為には彩子さんに完璧な演技をしてもらう必要がある。

「そんなことだろうと思いました。本来なら第三者を交えてのデートはあまりよろしくないのですが、二ノ宮様のような事情があれば例外にすることができます。今回のプランはおまかせください。レンタル彼女のプロである私にかかれば完璧な彼女を演出させてあげますよ」

彩子さんは全てを見透かしていたかのように言った。

彩子さんはもしかしたら本当にレンタル彼女のプロなのかもしれない。おそらく自称だろうが……。

まぁ、依頼した以上、完璧な彼女を演出してもらわないとこっちは困る。彩子さんの演技力は僕が認めている。

そんな彩子さんはなにやら腕時計をイジっていた。設定が終わるとこちらに腕時計を見せつけながら言う。

「では、二ノ宮様。そろそろ時間ですので、彼女を始めさせていただきます。前回説明不足だったので、今回付け足しで説明します――この時計に二ノ宮様が指定された二時間を設定しました。彼女スタートから時計のスイッチを作動させます。時間が0になったらアラームが鳴りますので、それが鳴りましたら彼女終了の合図です――いいですか?」

坦々と彩子さんは彼女の制限時間について説明した。

そんなことだろうと思っていた。一秒でも狂いがないように正確に時間を計る。それが彩子さんのレンタル彼女のやり方でもあるのだろう。

「了解です」

「では、彼女タイム、スタートです」

彩子さんは腕時計のスイッチを押した。

       ☆

「いらっしゃいませ。お客様、ご予約はされていますでしょうか?」

居酒屋に入ると、店員はすぐさま対応する。

「あ、はい。二ノ宮です。三人で予約しているのですが……」

そうゆうと店員は待っていましたと言わんばかりに誘導した。

「二ノ宮様ですね。お待ちしておりました。女性のお連れ様が既にお待ちです。どうぞこちらへ」

女性のお連れ様というのは楓のことであろう。僕よりも早く待機しているようだった。

ちなみに、この居酒屋は事前に僕が予約しておいた。メニューを選ぶのが面倒だったので、コース料理で予約をしておいたのだ。

席に誘導されながら、廊下で僕は後ろにいる彩子さんに小声で言った。

「彩子さん――既に妹は待機中だからお願いしますね」

そう言うと、彩子さんは親指を立てて、了解したと口パクで言った。

案内された座敷の席では楓がスマートフォンをイジって退屈そうにしている感じでこちらを見る。

「あ!」と楓はいじるのを止めて立ち上がった。

「お兄ぃ! 久しぶり。女を待たせるなんて良くないぞぉ」

楓は両手をグゥにして怒るポーズをする。

こうして面と向かって会うのは三年ぶりくらいだろうか。

前に会ったのは実家に荷物を取りに来た時で、その時は、まだ母も元気で楓もまだ実家にいた時だった――家を出てから会うのは本当に久しぶりだった。

久しぶりに見た楓は髪の色は金になっており、服装もチャラチャラになっているが、中身は全く一緒だった。

「初めまして。私、彩子と言います。あなたがりっくんの妹さんですか?」

彩子さんはまたしても僕の事を『りっくん』と呼んでくれたことに感動した。

「あ、初めまして。私、陸の妹の楓です。うわ、可愛い」

楓は彩子さんを見て手を口に当てていた。想像以上に可愛い彼女で驚いているのだろう。

無理もない――なんて言ったって彩子さんなのだから。彩子さん以上に可愛い人なんていないっていうくらい彩子さんはお人形みたいに可愛いのだ。

「ふふ。ありがとう。私なんかより楓ちゃんの方が可愛いわよ」

「あ、ありがとうございます。さ、さ、二人とも突っ立てないで座って、座って」

楓は照れながら言った。

彩子さんのつかみどころは完璧だった。僕と彩子さんは楓の向かいの席に腰を下ろした。

テーブルには既に鍋が準備されており、火を点火すればすぐに食べられる状態になっていた。

「飲み物、何にするぅ?」

楓は着席と共に聞いてきた。

「えっと、とりあえず生ビール」

居酒屋でのお決まりのフレーズを僕は言う。

「私、ビール飲めないからカシスオレンジにする。彩子さんは何にしますかぁ?」

「私も、りっくんと同じく、生ビールを」

了解、と楓は言って店員に生二つとカシスオレンジを注文する。一分もしないうちに頼んだ飲み物をテーブルに並ぶ。

「とりあえず、乾杯しましょう」

ここは彩子さんが仕切った。

何に? と思ったが、彩子さんは思いがけない乾杯の前置きを言う。

「それでは私とりっくんの婚約を祝しまして乾杯!!」

グラス同士の音が響いてから気づいた。

今、なんと言いましたか? 婚約?

確かに母の前では婚約した形になっていた。

前回、その現場にいた彩子さんなら状況を盛るような形になる。それはあくまでも、その場しのぎの言い訳だ。この場で自らそれを持ち込むのか。

「あ、そっか。二人、結婚するのよね? せっかくなので詳しく聞きたいです!」

楓は彩子さんからの公言で火が付いたように言った。

できればこちらとしては軽い挨拶程度を済ませて詳しいことは先延ばしにしたかったのだが、またうまい言い訳を考えなければならない。

乾杯を済ました彩子さんはジョッキを斜めにして、グイグイとビールを飲み干す。男らしい飲みっぷりに見とれてしまう。彩子さんは見かけによらず酒は強い方なのか?

「それより、楓さんの事が知りたいです。普段何をされているのですか?」

話を逸らしたのか、彩子さんはグラスをテーブルに置いて楓の事を聞いた。

「あ、自己紹介名前だけだったよね。私、二十歳で高校を出てすぐに芸能学校に行っていて、まだ研修生として活躍しています。将来の夢はアイドルです!」

「え、アイドル? すごいですね。生で目指している人見たのは初めてです。憧れますよね。私も羨ましく思います」

彩子さんがその気になれば楓には悪いが、すぐにでもなれると思う。

彩子さんはどこからどう見てもアイドル級の顔であり、楓より(兄として最低だが)アイドルに向いている。

「今は頑張りどきです。一年もしないうちに名前くらいは有名になってみますよ」

楓は自信有りげにそのようなことを言う。

「ところで彩子さんはおいくつですか? 職業の方は?」

それは禁句だ――楓よ。彩子さんはレンタル彼女として、活躍している。そのような職業が会社として、成立しているのかは謎であるが、今それを聞くのはまずい。

僕は彩子さんに視線を送る。頼むからレンタル彼女なんて堂々と公言するのだけはやめてほしい。何か適当な嘘を言ってくれと視線を送り続ける。

その思いが通じたのか、彩子さんはウインクして合図をした。

「年は二十歳です。楓さんと同じですね。仕事は人助けの仕事と言っておきましょう――あまり郊外できるものではないので」

思いが通じたのか、彩子さんはなんとかごまかしてくれたようだ。とりあえずは一安心である。

「あ、タメだったのか。なら敬語で話す事はやめません?」

「はい。そうだね」

彩子さんは敬語を解いた。

「人助けってどんな仕事なの?」

「ごめん。それだけは秘密なの」

彩子さんは可愛らしく両手の人差し指同士をクロスして×を作った。

「お兄ぃは彩子ちゃんの仕事はどう思っているの? 当然知っているよね?」

それは知っている。彩子さんはレンタル彼女なのだ。

どう思っているのかと言われても僕にはイマイチ、ピンとこない。レンタル彼女と言う仕事は依頼があれば指定された時間の間だけ依頼者の彼女になる仕事。初対面の人を彼女として尽くすのだから内心辛いこともあるかもしれない。

「結構大変だと思うよ」

第一、今もこうして彩子さんは僕の事情に付き合わられている身である――居心地としてはあまりよくないのかもしれない。

僕としては助かっているので、人助けと言われればその通りである。

そんなことを考えていると、彩子さんは「すいません」と、店員を呼んで二杯目の生ビールを注文していた。まぁ飲み放題なのでいくらでも飲んでもらっても構わないのだが……イメージが。

「じゃ、二人の出会いは?」

楓は次の質問を投げつけた。

「なんで?」

僕は咄嗟に反論する。

「だっておかしいもん。お兄ぃは対してイケメンでもなければ性格もそんなに良くはない――なのに、こんなお人形さんみたいな可愛い彩子ちゃんと付き合えて、しかも結婚だよ? 普通に考えて、一生の奇跡と運を使い果たしても起こるはずがないよ――だから、洗脳されているとか、脅されているとかしか考えられないというのが私の思った本音です」

「…………」

実の妹ながらかなりの毒を吐かれた。

いっそ思っても言わないでほしかった――そう、これは図星だからだ。

全ての奇跡や運を使い果たしても、おそらく彩子さんみたいな人とは一生結婚までできないだろう。人生を何回繰り返してもそれは同じであろう――なので、図星をハッキリ実の妹に言われると矢が心臓を貫いた感じになる。生きる希望すらなくなりそうだ。

しかし、そう言われた矢先、彩子さんの方から腕を組んできて楓に言った。

「それは違います。私は洗脳されている訳でも脅されている訳でもありません。私とりっくんは運命的な出会いで結ばれました。りっくんが私を呼べばすぐに駆けたくなる要素があります。飼い犬と化した私は尽くしたくなるような魅力を感じさせてくれます。私はそんなりっくんを愛してやまないのです――なんて言ったって、りっくんは私のパートナーなのですから、絶対的な契約です。それはこれからも変わることはありません」

胸を当てる勢いで(実際当たっているが)僕の腕をしがみつきながら彩子さんはそんなことを言う。

大胆な行動に僕は顔が真っ赤になるが、彩子さんのセリフを置き換えてみれば、それはあくまでもレンカノと依頼者の関係に違いなかった。僕が依頼すればすぐに駆けつけてくれるし、お金をくれるという魅力があると言ったように聞こえるのは何故だろうか。

恋人を見せつけるかのように彩子さんは頭を肩の方に引っ付ける。まるで本物の彼女みたいだ。形だけは……。

恋人というのはこうゆうことなのだろうか。付き合ったことがないので恋人がどうゆうものなのか、わからない僕には理解できない。

そんな恋人同士の光景を特等席で見ていた楓は開いた口が閉まらないように口を開けて固まっていた。

見てはいけない光景。ありえない光景。まるで幽霊を見てしまったかのような反応をしていた。

ここまで見せつけられては認めざるを得ないだろう。

楓は開いた口をようやく閉じることができ、言葉にした。

「まさかここまでお兄ぃがやるとは思わなかったわ。人間、死ぬ気になればなんでもできるって改めて理解したわ」

楓は僕という男がどのように見えていたというのだ。

かなり見下されているようにも思うが、兄をそこまで下に見ていたというのか。

さりげなく、鍋の具材をよそったり、大皿の食べ物を三等分に小分けをしたりと小さな気遣いをしてくれる彩子さん。気を使ってくれることも彼女としては満点だ。グラスが空いたら次の飲み物も彩子さんが注文してくれる。

「はい。あーん」

彩子さんは唐揚げを食べさせようとしてくれた。

まさに恋人ならではのシチュエーションだ。

しかし、妹の前で、これはいいのかと思ったがいつの間にか楓はトイレに立っていた。

ふーふーと彩子さんは息を吹きかけて冷ました唐揚げを食べさせてもらう。

「美味しい?」

「うん」

「良かった」

彩子さんは笑顔で言った。

その笑顔がまさに天使そのものだった。

「今の段階では、うまく誤魔化せているでしょうか?」と、彩子さんは一時的に恋人モードを解いた。

「あ、はい。少し危なっかしいところもありましたが、なんとかばれていないようです」

「そうですか。残り時間まで全力で尽くさせてもらいます」

「よろしくお願いします」

と、ちょうど楓はトイレから戻ってきた。

「ハァ、少し酔ったかも」

楓は少しふらつきながら戻ってきた。

アルコールは最初のカシスオレンジのみでその後の飲み物はカルピスやお茶である。

今までは知らなかったが、どうやら楓は酒には弱い方である。

「潰れる前に二人にお願いがあるけど聞いてもらえる?」

既に潰れかかっている楓は改めてといった感じで言った。

「はい」

彩子さんは背筋を伸ばして聞く体制に入った。釣られて僕も自然と背筋が伸びる。

「実は私、来週、大阪のスタジアムで新人アイドルのステージに出る事になったの。これが初めてのステージなの」

「あ、すごい。良かったじゃん。おめでとう」

「おめでとうございます」

素直に祝う僕と彩子さん。

「ありがとう。実は今日は下見としてこっちに来ていた訳――そこでお願いがあるの。二人に私の晴れ舞台を観に来てほしいの!」

そう言って、楓は鞄から二枚のチケットをテーブルの上から差し出した。

「これは私が出るステージのチケットです。もちろんこれは私の自腹です。観てくれる人で知り合いがいないから心細いの。だから来てくれないかな?」

上目遣いでチケットを差し出す楓。

それに対し、彩子さんは――

「私は構いませんよ。楓ちゃんのステージ見てみたいですし」

彩子さんは微笑みながら言った。

「本当ですか?」

「ええ。りっくん次第ですけど」

そう言って、彩子さんは僕に視線をチラリと送り、楓に見えないようにテーブルの下で親指と人差し指をくっつけてお金のジェスチャーをする。

要するに彩子さんは僕が彩子さんを依頼すれば行ってくれるという前触れだった。

それもそうだ――彩子さん一人でステージに行く理由はないのだ。

あくまでも僕がデートを依頼して初めて行く事が成立する。

「お兄ぃ、どう? 予定あったりする?」

楓は不安そうに僕を見つめる。

妹の晴れ舞台なのだ――行かない訳にはいかないだろう。

「もちろん。行かせてもらうよ」

そう言うと、楓は満面の笑みになった。

こうゆうときは可愛いのだが……。

「ありがとう。来てくれなかったらどうしようかと思ったよぉ。私、こう見えてプレッシャーには弱いの。まぁ、デートと思ってきてくれればいいから絶対見てね」

普段から明るい楓は本番に弱いのは知っている。

練習が本番の方が発揮できるってくらいに――なので、本番で緊張して大コケという展開も予想できない訳ではない。

「いやぁ、楓ちゃんが輝いている瞬間を見られるのは楽しみですね」

と、なぜか棒読みで言う彩子さん。

正直彩子さんからしてみればただの仕事であり、自分から行きたいというものではないのかもしれない。

こちらが用意したプランに従うだけだから、彩子さん自身が楽しむことは決してない。

楽しむのはあくまでも依頼者が楽しむ事。彩子さんは楽しむのではなく、楽しませる立場なのだ。

その辺はわかっているつもりだった。悲しい事に。

もしかしたら、彩子さんはアイドル自体も興味がなかったりして……。むしろ嫌いとか?

「すみません、お客様。そろそろお時間です」

居酒屋の店員は宴会終了を告げた。

いつの間にか、時間を回っていた事に気づく。

「わかりました。すぐに出ます」

「申し訳ございません」

店員が去った後、楓は話を割って入るような勢いで言った。

「あ、あのさ! お兄ぃ! 今夜、この後の予定は?」

「え……帰るけど?」

「彩子さんも帰るのですか?」

「はい。帰らせてもらいます」

二次会でもするのかと思ったけど、予想は外れだった。

「あ、あの。今夜だけ、泊めてほしいの。名古屋まで帰る電車もないし。早朝には帰るからお願い」

楓は両手を合わせてお願いをした。

まぁ泊めるくらいならいいだろうと思い承諾した。

「助かったよ。実は最初からそのつもりだったりして」

「…………」

完全にアテにしていたようだった。

そうゆうことなら断ろうと思ったが、夜の街に女の子を放り出すわけにもいかず、仕方がなくそのまま引き取ることにした――あくまでも仕方がなく……だ。

居酒屋の会計を全額、僕が全て払うことになった。

デートで発生した金は僕が払うことと、レンカノの注意事項に記されているため、彩子さんの分も払う必要があった。

楓だけ払わすのも兄としてカッコつかないので全額まとめて払った次第だ。居酒屋のコース料理の三人分となると軽く諭吉が飛んでいったが、ここは泣く泣く手放すとしよう。

居酒屋を出たところで、ちょうど彩子さんの腕時計のアラームが鳴り響いた。恋人終了を知らせる音だ。

慌てて楓を待たせて、彩子さんと別の場所で本日の依頼金額の受け渡しをする。

「では、二ノ宮様。時間を過ぎましたので、本日の請求書になります――確認してください」

彩子さんは既に彼女モードからビジネスモードへと口調を変えていた。甘いムードはもうなかった。

僕は彩子さんが差し出した請求書を確認する。

『指名料――二千円

デート時間二時間分――一万二千円

交通費――千円

合計――一万五千円。口座番号……』

「交通費が安い」

思わず口にする。前回より格段に安く感じるのだ。

「はい。私、近所なので、今回は交通費の方は割安です」

近所と言われ、少し親近感が湧いた。

要するに彩子さんはここから片道五百円以内の駅に住んでいることになる。それだけでも心が踊る。

「二ノ宮様。どうしますか?」

「え?」

「次回のレンタルです。話の流れだと、レンタルの予約をしておく必要あるのではと思いまして――私もいつレンタルされる分からない身ですし、今のうちに予約された方が得策だと思います」

言われてみれば確かにそうだ。

彩子さんを今のうちにレンタルしておかないと楓のステージを一緒に行けなくなる。他の誰でもなく彩子さんでなければならないのだ。

「そうですね。じゃ、予約してもいいですか?」

「はい。承知いたしました。来週の十五日でしたよね? 時間の方はどうしましょうか?」

「はい。えっと……」

ステージが始まるのは一九時から二一時までの二時間となっている。

と、なれば間を挟んで一八時から二二時までのデートでいいだろう。

「一八時から二二時の四時間でお願いします」

「承知しました。それでは場所はステージが行われる現地でよろしいですね?」

「はい」

「では、来週キャンセルがないようにお願いします。今回のご依頼感謝いたします。次回もよろしくお願いします。二ノ宮様、私はこれで失礼します」

彩子さんは軽くお辞儀をして、夜の街に歩いていった。

その姿を見えなくなるまで眺めていた。彩子さんの姿が見えなくなり、ふと、気づく。

おっと、こうしてはいられない。僕は楓を待たしている事を思い出し、楓の元へ走った。

        ☆

「ただいま!」

楓は僕の家に上がるなり、そんなことを言う。

『ただいま』と言うのは少しおかしくないだろうか。ここは僕の一人暮らしのアパートであって楓の家ではない。ここは『お邪魔します』と言うのが妥当ではないだろうか。

楓は僕より先に家の中に上がり込むなり、勝手に冷蔵庫を開けてジュースを飲み始める。楓は少し自由過ぎるところがある。まるで自分の家のように普通に主を差し置いてやりたいようにやる。僕の許可は一切受けない。

楓がここに来るのは今回が初めてという訳ではない。

僕がここに引っ越してきた時に一度、母と一緒に訪れたことがあった。今回が二度目と言う事になる。

「うわー……散らかっている。男の一人暮らしって悲惨ねぇ――よくこんなところで生活しているわねぇ」

部屋を見るなりいきなり毒を吐く。いきなり上がり込んだ楓が悪い。もう少し事前に言ってくれれば対応は出来ていたはずだ。多分。

「まぁ寝られるだけなら文句ないか。今夜は豚小屋で我慢するか、うん」

楓の毒舌は止まらない。悪かったな、豚小屋で。

時刻は二十三時を回ろうとしていた。後、一時間もしたら日付が変わってしまう。

「楓、風呂は?」

「先入るから用意しといて」

「はい」

家主は僕なのに主導権を握られている気がした。例え妹といえ、気迫と発言力はあるのだ。ただ、図々しいだけなのだか……。

風呂を沸かし、タオルと着替えを用意する。完全にお母さんの仕事だ。楓が先に入って、僕も楓が入った後に風呂に入る。風呂から出ると既に楓は就寝していた。しかも僕のベッドを占領して。

ベッドから落としてやろうかと思ったが、そんな勇気はなく、押入れから布団と枕を引っ張り出して、カーペットの上で寝る事になった。  

時刻は既に深夜〇時を回っていた。

酒も回っていて一日移動していたとなると流石に疲れたのだろう。楓は仰向けのまま動かない。せっかくなので、その姿をスマートフォンのカメラに収めようと起こさないように忍び足で楓の眠っているベッドに近づいた。普段ハイテンションで口が悪い妹は寝ている時は可愛いものだ。けしてロリコンではないけど、寝顔の写真くらい兄として許されるだろう。

「……行かないで」

楓は突然口を開いた。

やばい、ばれたのかと思ったが、どうやら寝言のようだった。

「……行かないで、ママ」

楓のその言葉に手が止まる。

母さんの夢でも見ているのだろうか。うっすらと閉じた目から涙がこぼれた。それをみてしまったことで写真を撮るのをやめた。

母さんが死んでしまった夢でも見ているのだろうか――そっと、自分の寝床に戻り、目を閉じた。すると、いつの間にか眠りに落ちていた。

         ☆

翌日、目が覚めると楓の姿はなくベッドの布団が綺麗に畳まれていた。

部屋をよく見ると、綺麗になっているのは、布団だけではない。見た目でわかる身の回りのゴミが全てなくなっており、綺麗に片付いていた。

テーブルの上には一枚の書置きが残されていた。

『お兄へ。突然お邪魔して泊めてもらい、ありがとう。助かりました。私は予定があるので、約束通り始発の電車で名古屋に帰ります。部屋のゴミがすごかったので、捨てておきました。普段から綺麗にしておきなさい! 彩子さんが来たとき引くと思うから綺麗を保つ事! ではさらば。

SP、来週のステージちゃんと来てよね。私頑張るから。応援よろしく! 楓より』

彩子さんがこの部屋を訪れることは決してないけど、知らないうちに片付けてくれたと知り、意外と良いやつだと思った。

直接言えないからこうしたのだと思うと楓はツンデレなのかもしれない。ツンデレは妹要素があって悪くはない。

楓の移動に気づかないほど僕は熟睡していたようだ。

来週が楽しみになってきた。

      ☆

 楓が出るステージの当日、僕は会場に訪れていた。

 今回は屋内にある小さな劇場なのだが、随分わかりにくい場所にある。街中のどこかのショップのようなところで、普通に歩いていたら素通りしてしまうだろう。まだ無名の楓はこの小さな劇場からスタートするようだ。

ステージが始まるのは、一九時。彩子さんと待ち合わせが一八時。現在の時刻は一五時。まだ、彩子さんと会うまで三時間も余裕があった。晴れ舞台だからといって、少し早く来すぎてしまったようだ。適当にどこかその辺で時間を潰すことを考える。目に止まったのは、古本屋の店だった。とりあえず、そこに行く事を決める。

店内は落ち着いた様子で、昔ながらの古風な感じが漂っていた。

普段、本はあまり読まない僕はここに来るべきではないのだが、時間潰しにはちょうど良かった。

よく見れば漫画もある。昔、好きだった漫画本を手に取り、中を開く。中を見ると当時の思い出が蘇る感じがした。いつの間にか漫画に夢中になっていく自分がいた。一巻読み終えると、漫画本を棚に戻し、店内を物色してみる。小説の通路に差し掛かった時ふと、気になるタイトルの本を見つけた。『私がいなくなった世界』

それに手を伸ばそうとした時、反対側から別の手が伸びてきた。指と指が触れた瞬間、瞬時に手を引っ込めて相手を確認する。

「あ……」

「え? 彩子さん!」

 なんと、本に手を伸ばしてきたのはまさかの彩子さんだった。

反射的に伸ばした手を引っ込めたが、それは彩子さんも同じだった。

「彩子さん、どうしてここに?」

「二ノ宮さんこそ……」

 考えてみれば、同じ時間、同じ場所で待ち合わせているので、付近にいることは不思議ではない。おそらく彩子さんも時間を持て余していたのだろうと錯覚した。

「彩子さんも早く着きすぎて時間を持て余していた、という感じですか?」

「あなたといっしょにしないで下さい」

 恋人モードではない彩子さんの口調は少し素っ気ない感じだった。彩子さんと約束している時間まで後、二時間ほど時間がある。

「その本……」

 彩子さんはさっき手に取ろうとしていた本を指差す。

「その本、私が先に見つけた本です。譲っていただけませんか?」

僕はただ、なんとなく目についただけなので、買うつもりはない。

「ええ。どうぞ」

「やった」

彩子さんは『私がいなくなった世界』と、いうタイトルの本を手に取り、満面の笑みを浮かべた。

「面白いのですか? その本」

「さぁ……ただ、この人の作品の本はデビューから読んでいます。ですが、この『私がいなくなった世界』だけは読んだことがなかったので、探していたんです。いやぁ、見つかって良かったです」

彩子さんはその本を持ってレジに通す。その姿を見て、彩子さんは本当に本が好きなのだと、錯覚した。電車で読んでいたのもその人の作品の本なのだろうか。

「では、私はこれで、後ほどお会いしましょう」

 彩子さんは本を買ってそんなことを言う。約束の時間前に会ったからといってそこから一緒に行動を共にする訳ではないらしい。約束の時間まではそれぞれ別々の行動で時間になれば合流するようだ。偶然会ってまたもう一度会うのも著しいと思い、僕は彩子さんを呼び止めた。

「あ、あの、待ってください」

僕は店を出ようとする彩子さんの足を止めた。

「はい? どうかされましかた?」

「彩子さん、この後、何をされる予定ですか?」

「適当に時間を潰す……じゃ、なかった。ちょっとした買い物をする予定です。それが何か?」

「あ、でしたら一緒に……

「嫌です!」

 彩子さんは僕が言い終わる前に答えた。後に続く「一緒に時間を潰しませんか?」というのが、目に見えていたようだ。せめて言い終わってから答えてほしい。どのみち、断られたらショックなのだが……。

「『一緒に時間を潰しましょう』では、デートになってしまいます。それでは潰すことになりません――完全なデートです。電車で帰った時は、私の都合が良かったからです。しかし、今回はいる意味がありません。どうしてもと言いますならお金を払って下さい。そうすればレンタル彼女として一緒にいますよ?」

「…………」

彩子さんと一緒にいることはそう上手くいかなかった。本来の彩子さんとの時間まで後二時間。しかし、時間の前に偶然、こうして会って二時間後にまた会うのは、二度手間になる。せっかく会えたのだからここからデートをしたいという気持ちが高ぶる。

「わ、分かりました。お金を払います。なので、デートしてください」

「正気ですか? 元々の時間は四時間で二万四千円、指名料二千円、交通費が三千円で二万九千円が今日の料金――もし、今からデートを始めたら、デート時間が六時間になり、料金は四万一千円になるんですよ? 少しは冷静になってください。レンタル彼女もそんなに安くないんですから」

 彩子さんは的確な料金の説明をしながら、僕の財布事情を心配してくれた。こうして聞くと、毎回利用するとかなり高くつくと思った。しかし、ここはお金よりも時間を取ることにした。

「大丈夫です。お金のことはなんとかなります。なので、デートさせてください。お願いします」

僕は頭を下げる。

 お金のことは問題ない。今までまともに働いてきた貯金は多少ある。お金を払ってでも、今は彩子さんと過ごしたいと心から思っていた。なので、この偶然(必然的のような気もするが)を無駄にしたくなかった。

「……そうですか。そこまでして、私と過ごしたいということなのですね。お金を払ってもらえるのでしたら話は別です。払ってくれる分、満足させてあげるよう、完璧な彼女を演出します。本当によろしいのですね?」

「はい、お願いします」

「分かりました。では、本日の予定であった一八時からではなく、一六時からスタートすることで変更いたします」

 そんなこんなでなんとか予定を二時間早めてもらった。

「では、合計六時間ということで、本日はよろしくお願いします」

 そう言って彩子さんはお辞儀をした。「こちらこそ」と、僕もつられてお辞儀をする。

 彩子さんは腕時計を弄りだした。最初にする時間設定だ。

「二ノ宮様、時間を六時間に設定いたしました。タイマーを押した時点で、彼女タイムがスタートします。では、本日のデートの確認をします。本日は妹の楓様のイベントライブですね。とりあえず、大まかなデート目的はこれですが、細かいプランは何かお考えですか?」

「いえ、とりあえず食事とかですかね」

「そうですか。細かいプランは依頼者である二ノ宮様におまかせします。では、ちょうど一六時になりますし、始めましょう」

 彩子さんは腕時計のタイマーを押した。

       ☆

「りっくん!」

 早速、彩子さんは僕の事を『りっくん』と、呼んでくれた。

 彩子さんは今、僕の彼女なのだ。この時間が新鮮そのものだった。

「どこに行く? ステージまで後、三時間だよ?」

「えっと、じゃ、カラオケで軽く歌うとか……」

「それはダメなの!」

 彩子さんは両手の人差し指で×を作る。前も見たけど、やはり可愛い。

「個室系はレンタル彼女の注意事項に反します」

 言われて気づいた。そういえば、そのような注意事項があったけ? カラオケは個室系でいわば、密室空間にあたる。そのような場所はデートの場所としては禁止となっている。レンタル彼女とデートできるのは公共の場に限られるのだ。そう――デートとしてできる場所は周りに人がいるようなところだ。

「あ、ごめんなさい。そのこと忘れていました」

「はい。別の場所を提供してね」

 彩子さんはニッコリと微笑む。

 と、なると、他の場所はどうしようか。ふと、目に止まった店がある。

「彩子さんゲームセンターはどうでしょうか?」

「うん。いいよ」

 彩子さんは親指を立ててグッドをする。

 店内に入るとゲームや機械の音が耳に響いた。ゲーセンに来るのはいつ以来だろうか。普段、家でゲームをしている為、ゲーセンまで足を運ぶことはなかった。ここで一時間くらい遊んで、その後に軽く食事してちょうど楓のステージの時間になる頃だろう。予定としては、これでいこう。

「彩子さんは得意なものとか、してみたいものはありますか?」

「……んん。私、なんでもできますよ。りっくんの得意なやつでも大丈夫」

『なんでも』と、言われて悩んだ。

「じゃ、マリオカートでもしますか?」

「あ、いいですね~! やりましょう」

 彩子さんはノリノリだった。

 運転席に座り、二人分のお金を投入する。二人対戦で、コンピュータが二人入り、レースが始まる。彩子さんは無表情でハンドルを回す。すぐに一位の座を奪われた。僕は彩子さんの後ろに張り付く感じになる。かなり、接戦だ。僕は冷や汗になりながら、ハンドルを握る。アイテムを取って亀の甲羅を彩子さんにぶつけた。見事に命中し、彩子さんを抜いて、一歩リード。一位の座が回ってきた。

「――チッ!」

 あれ? 今、彩子さん舌打ちした? なんだか申し訳ない気持ちだった。ただのゲームなのに……。仕返し――と、いう訳ではないが、彩子さんもアイテムを取り、台風を僕にぶつける。彩子さんに抜かされ、そのまま彩子さんが一位でレースが終了――

「やったー。一番!」

 彩子さんは万歳して喜んだ。たかが、ゲームでも嬉しかったのだろう。僕は手を抜いた訳ではないが、彩子さんの舌打ちで若干、動揺していたのが、敗因に繋がったのだろうと、自己分析した。

「次は何にしますか? 彩子さんが決めてください」

「うーん――そうだなー……」

 彩子さんは店内をウロウロして、次にやるゲームを探していた。

「あ、りっくん! あれやりましょう」

 彩子さんが指したのは、ダンスゲームだった。上下左右の矢印のボタンを足で踏んで、リズムよく踊るゲームだ。僕はリズム系のゲームは正直、得意ではない。しかし、彩子さんがやりたいと言うなら、やらない訳にはいかない。これもまた、僕が二人分のお金を投入する。

 彩子さんはK‐POP系の音楽をセレクトして音楽が始まる。画面に映るコンピュータを真似して踊ればいいのだが、いきなりできるのもではない。身体全体を使うこのゲームはかなりハードである。 反射神経はあまりよろしくない方なので矢印の方向がどこにくるのかわからない。踏んだと思ったら踏めてないし、リズム感がないのは目に見えていた。

 対する彩子さんはほぼ完璧にステップを踏む。コンピュータの画面と同じ動きをする。動きがまるでアイドルそのものだ。これはもはや、彩子さんの得意分野なのだろう。

 結局、三回やって、彩子さんに勝てることはなかった。ちなみに僕は平均すら達していないボロボロだった。

「ふう」

 彩子さんはやりきったといった感じだった。彩子さんの額からうっすらと、汗が出ていた。少し踊っただけで体力を使うのだろう。

「私の圧勝ですね。りっくん」

少しドヤ顔気味で言う彩子さん。

「彩子さんはダンス上手いですね。さすがに初めてではないですよね?」

「ええ。昔、ダンス教室に通っていました」

 これは彩子さんの新たな情報である。メモメモ……と。

「彩子さん、お願いがあるんですけど」

「はい、なんでしょう」

「次、あれ、やりませんか?」

 僕が指したのは、プリクラの機械だった。指されたプリクラ機を見て考える彩子さん。悩んでいるようだ。

「プリクラですか。ダメってことはないですけど、撮るには条件があります。それが守れるようでしたら、撮っても構わないですよ」

「条件……ですか?」

「はい。プリクラをスマホなどに保存しないことです。最悪したとしても、それをSNSとか、ネットに公開するのだけはやめてほしいです。それがプリクラを撮る為の条件です――約束できますか?」

レンタル彼女の禁止事項で、この項目もあった気がした。これは個人情報を守るための事項でもある。その為に写真を撮るには、警戒されることなのであるのだろう。

「はい! 約束します」

「りっくんを信じましょう。プリクラを許可します」

 許可された。彩子さんに信用されたことがなんだか、誇りに思える。

 彩子さんとの記念の一枚。プリクラ自体、初めてであるので、緊張が高ぶる。プリクラ機の中はお洒落な空間で、落ち着いた雰囲気である。恋人設定にして写真を撮る。

『二人でハートのポーズを描いて~~』

 機械がポーズを指定する。それに従って彩子さんとハートを描く。

 その後も機械に指定されたポーズをとって写真を撮る。その後に写真に落書きを加える。単純に名前と今日の日付を加えて写真が印刷された。メールアドレスの入力で写真を送れるが、ここは彩子さんの名誉の為に飛ばす。

「はい。りっくんの分です」

 彩子さんに渡された半分のプリクラを受け取る。

「ありがとうございます。大切にします」

「はい。私も記念として、大事にします」

 彩子さんの写りはよくできている。より、美少女になっていた。

 それに比べ、自分の顔が変だった。写真写りが悪い。隣に写っている彩子さんになんだか申し訳なく思う。

「彩子さん。お腹空きません? 何か軽く食べませんか?」

「あ、お構いなく。私に気を使わなくても大丈夫なので、りっくんのしたいようにしてくださいな」

 彩子さんは手を前に掲げて左右に振る。

「いえ。御馳走させてください。僕が無理に付き合わせてしまっているので、安いものであれば奢ります」

「あ、では、おまかせします」

ゲーセンを出て、時刻を確認する。一七時一三分。少し食べるくらいなら時間はあるだろう。辺りを見渡す。目の前にはチェーンのうどん屋がある。

「彩子さん。うどんは好きですか?」

      ☆

 一八時三〇分。

 彩子さんと軽く、うどんを食べた後、劇場である店舗の列に並んでいた。この先に楓が待つステージがある。楓からもらった二枚の入場券を持って順番待ちしていた。

「いよいよ……ですね。りっくん」

 彩子さんは横でそう言った。

「はい。楓は今頃、緊張でびくびくしていると思います」

「応援してあげましょうね」

「はい」

 列が少しずつ進んでいく。もう、入場が開始されているのだろう。

「次の方、チケットをお願いします」

 自分たちの番が来て、スタッフがチケットの提示を求める。僕は自分と彩子さんの分の二枚分をスタッフに渡した。

「はい。確かに。ライブはこの後、一九時からになりますので、中に入ってお待ち下さい」

 スタッフは店の中に入れてくれた。中に進むと、小さな室内に観客が式詰め状態で満員電車の状態だった。会社のロビーのようなシンプルな室内。そこにこの人数だ。おそらくチケットの番号が四百五十六番だったので、この室内に役五百人はいることになる。椅子とか、指定席なんてものはなく、その辺で立ち見といった感じになる。それにしても、新人アイドルにこの人数は多いのではないかと思う。

「でききるだけ、前の方に行きましょう」

 彩子さんは僕の袖を引っ張り、話しかけてきた。確かに後ろの方ではよく見えない。彩子さんに言われるがままに、人の間を縫って前の方に行く。ステージからよく見える場所までたどり着くことができた。

 突然、照明が暗くなっていく。時間を見ると十九時になっていた。

 ついに、ライブの開演だ。

 煙幕にステージが包まれて、スポットライトがステージを動き回る。BGMが流れだし、それっぽいムードが出てきた。煙幕から何人かのシルエットが浮かんでくる。そして、ライブが始まる。煙幕が晴れると、ステージの上には、十人の少女が現れた。華麗なステップを踏み、ダンスをする。左から三番目には楓の姿があった。

「あ、楓ちゃんだ」

 彩子さんは楓を見つけたようだ。他のメンバーと同じように踊っている。一曲目の出だしとしては完璧だ。しかし、まだマイクは持っていない。一曲目が終わり、挨拶の時間になった。

「みなさん、こんにちは。ミラクルです」

 メンバー全員で言った。ユニットの名前は『ミラクル』と、言うことを初めて知る。

「皆さん、今回こうして集まってくれてありがとうございます」

「ありがとうございます」

 リーダーらしき人が言って、メンバーも同じく言い、全員でお辞儀をする。僕は楓の姿を目で追う。

「本日は私たち新人ユニットの為に足を運んでいただき感謝です。実は私たちは今日が初ステージです。初舞台に来ていただいたみなさんには感謝感激です。それではメンバーの紹介をしましょう。まずは私、リーダーの……」

 次々と、紹介していくメンバーたち。そして、ついに楓の自己紹介が始まる。

「皆さんこんにちは! 二ノ宮楓。二十歳です。私も皆さん同様に緊張しています。おそらく、メンバー一番の緊張です。実はこの会場のどこかに私の兄とその彼女さんが来ています。私の応援の為にわざわざ駆けつけてくれました。その兄の気持ちに応えるべく、このライブを成功させたいと思っています」

 楓は僕と彩子さんのことを堂々と自己紹介の場で言った。なんだか照れくさい。

「なので、私がこのスタート時点に立つことができたことはメンバーのみなさんと応援してくれた皆さんのおかげです。これからも応援をよろしくお願いします」

 楓は観客に向かって深くお辞儀をした。敬意の印なのだろう。

 観客はそんな楓の姿に拍手をした。横にいる彩子さんも拍手をする。

「以上、ミラクルのメンバーでした。それでは、引き続き、新曲の方を披露します――と、言っても全て新曲なのですが」

 リーダーは自分で自分を突っ込む。

 その後も、ライブは派手に行われた。

「なんだか、良い曲ですね。楓ちゃんも切れの良いダンスをしていて、素敵です」

 横で彩子さんはそう言ってくれた。彩子さんは首を左右に揺らして曲に乗っているようだった。確かに良い曲だ。聞いていて引き込まれる感じだ。楓もいつの間にか、マイクを持ってメンバーとともに歌っている。その姿はまさにアイドルそのものだった。普段の楓の姿とはまるで別人みたいだ。まさか、妹に見とれる日がくるなんて……。しかし、それ以上にみとれるものは彩子さんだった。どの角度から見ても美しい。いや、今は彩子さんではない。楓の姿をよく見ることだ。初めて見る楓の別の姿。母にもみせてやりたい。

 ふと、楓と目が合った。それを見た楓はウインクしてきた。

「あれ、りっくん。顔赤いけど、どうしたの?」

「え? 赤くなっていた? いや、対したことないから」

「そう」

 僕は妹を見て何をドキドキしているのやら。

 二時間のライブ、そして、アンコールが終わり、無事に本日のライブは終了した。

 ライブの終わりに楓からメールが来た。

『少し時間ある? 特別に関係者の控室使わせてもらえるから彩子さんと来てよ』

 それを確認した僕は彩子さんに

「彩子さん、楓が控室に来てほしい、と、連絡が来ました。一緒に来てもらえませんか?」

「はい。喜んで」

 ステージの舞台裏にある関係者の入り口に訪れる。すると、スタッフの一人が近づく。

「おや、ここは一般の人は禁止ですよ?」

「あ、あの、二ノ宮楓の兄なのですが……」

 そう言った瞬間、スタッフは察してくれた。

「あぁ、楓ちゃんの。どうぞこちらです」

 スタッフは中に案内してくれた。案内された控室に彩子さんと入る。

 すると、三分後に楓が衣装の姿のまま、控室に入ってきた。

「お兄ぃ。来てくれたんだね」

「おつかれ! 良いステージだったよ」

「楓ちゃん、感動しました」

 ライブの成功を祝った。

「ありがとう。ステージから二人の姿、ちゃんと見ていたよ。応援ありがとう。彩子ちゃんも来てくれて嬉しかったです」

「私も、楓ちゃんばかり見ていました。メンバーの中で一番上手だったよ」

「いや~そんなことも――あったりして」

 いや、『そこはそんなこともないですよ』と、言うべきでは……。

「あ、こんなこと言うとメンバーに怒られちゃう」

 うん、そうだろう。

「呼んだのは、お礼が言いたかったからなの。お兄ぃと彩子さんが来てくれたから勇気もらえました。本当にありがと」

 楓はお辞儀をする。

「なに言っているんだよ。全部、楓の力だよ。らしくないこと言うなよ」

「うん、そうだね。全部、私の力だった」

「…………」

 すぐ調子に乗るところが楓の悪い癖だった。

 ピッピッピッピッ!

「ん? なんの音?」

 楓は突如、鳴り出した音の出先を探す。

 ま、まずい! この音はもしや…………

「二ノ宮様! どうやらお時間になったようです」

        ☆

「二ノ宮様! どうやらお時間になったようです」

 彩子さんがそう言った時、鳴ったのは彼女時間であるアラームの音だと、錯覚した。まさかよりによって、こんなタイミングでこなくてもいいのに。それにしても、もう時間だっただろうか? 部屋の壁時計をよくみると、二十二時を指していた。二十一時でライブが終了し、その後、三十分のアンコール。そして、今こうして楓のところに来ていろいろ話していたら二十二時になってしまったということだろうか。時間を気にしていなかった僕にとっては最悪の結末である。

「二ノ宮様? 時間ってなんの?」

 楓は急に彩子さんの口調が変わったことに疑問を浮かんだ。

 彩子さんは彼女時間を一秒も狂いなく、正確に測っている。彼女時間中は文字通り、彼女としての振る舞いになるし、口調も親近感が出る話し方にもなる。しかし、その時間が一秒でも過ぎれば、契約終了ということで口調はビジネス的になる。つまり、今の彩子さんは僕の彼女ではなくなったということだ。それを楓の前でされたら、これまでの積み重ね(嘘)がパァになる。

「二ノ宮様……」

「あああああああああああそうだ!!」

 僕は彩子さんの声をかき消すように大声で言った。

「え? な、何?」

 楓はなんのことかさっぱりわからない感じだった。

「ごめん、楓! なんだか、彩子さんが急用、思い出したみたいだから帰らないといけなくなったみたい――だから、駅まで送ってくるよ」

 そう言って僕は彩子さんの手を引いた。

「え、え? あ、そうなの? じゃ、私も……」

「楓は来なくて大丈夫だから――それよりメンバーのところに行ってあげなよ。多分みんな楓のこと、待っているから」

「そ、そうね。うん、じゃ、気を付けて……」

 僕は楓が言い終わる前に彩子さんの手を引いて控室を逃げるように出た。 

       ☆

「二ノ宮様。痛いです。離してください」

控室を出て、人気のないところまで彩子さんを引っ張り、不機嫌気味でそう言われた。

「あ、ごめんなさい」

 僕は彩子さんの手を離した。彩子さんは僕が繋いでいた手を汚いものが付いていたかのように祓った。その様子がなんだか悲しくなってくる。

「彩子さん。何も楓の前であんなこと言わないで下さいよ。もう少しで楓にばれるところだったじゃありませんか」

 僕は少し怒り気味で言う。

それに対し、彩子さんは

「あくまでも私はレンタル彼女であり、時間契約で彼女をしています。一秒でも残業はできません」

「しかし、その場の流れというのもがあるじゃないですか! それに時間が迫っているのでしたら、その前に僕に言ってください。そうすれば対応ができたはずです」

「言おうとしましたが、兄妹の分かち合いに水を差せませんでしたので」

 実際、終了時間で水を差されたのだが……。

「残業させたいのであれば、延長という方法もレンタル彼女にはあります――その場合、三十分単位になりますが」

「あ、そうなんだ」

 レンタル彼女にはそういうこともできたことを思い出した。

「はい。まぁ、私も悪いところはありましたので、そこは認めます。すいませんでした」

 彩子さんは頭を下げた。

「あ、いえ、もう大丈夫です。楓にこのことさえばれてなければいいので」

「それなら、よかったです。それでは、本日の請求ですが……」

 彩子さんは話をすぐにお金の話に変えて、手書きのメモを渡した。

『本日の請求書

指名料――二千円

デート時間六時間分――三万六千円

交通費――三千円

合計四万一千円。口座番号……』

 デート前に彩子さんが言った口頭での料金がそのまま書かれていた。

「メモに書かれた口座に一週間以内に振り込みお願いします。手数料は二ノ宮様持ちでお願いします」

「はい。わかりました」

「本日のご依頼誠にありがとうございます」

 彩子さんはお辞儀をする。

「では、私はこれで失礼します」

 その場を去ろうとする彩子さんに僕は呼び止める。

「あ、あの、彩子さん!」

「……なんでしょう?」

「正直に答えてほしいのですが……彩子さんから見て、僕はどのような男に見えますか? 僕は彩子さんの事が大好きです」

 つい、告白してしまった。彩子さんの気持ちが知りたい。そんな思いの告白だった。しかし、彩子さんの答えはこうだった。

「何も思っていません。二ノ宮様が私のことを思ってくれるのは嬉しいことですが、私が二ノ宮様の事を好きになることはないでしょう。こう言ってはひどいかもしれませんが、私はあくまでもレンタル彼女――二ノ宮様とデートをしているのは、仕事なのです。キャバクラと何も変わりません。私たちはただ、お客さんの相手をしているだけであり、彼氏を作る為にしている訳ではありません――ご理解いただけますか?」

 彩子さんは僕の事を男としては全く見ていない。あくまでも仕事として相手をしているのだと、言い切った。その言葉が重くのしかかる。

「僕は家族に嘘を誤魔化す為に彩子さんに依頼しました。仕方がないと思って……。しかし、依頼して彩子さんと共に行動して、僕は彩子さんのことを好きになってしまいました。今まで恋愛してこなかった僕が初めて恋した相手があなただった。この気持ちは膨らむばかりです。僕は諦められません」

「わからない人ですね。本物の恋人にはなれません」

「そうゆう、禁止事項はあるのですか?」

「――依頼者と恋人になることの禁止はありませんけど……」

「なら、できるんですね」

「……はい。しかし、私は依頼者と付き合うことはありません。私は皆さんの彼女なのです。お金さえ払って頂ければいくらでもお相手はします」

「彩子さんはどうしてレンタル彼女をしているのですか?」

 僕はもっとも聞きたい質問を彩子さんにぶつけた。彩子さんがなぜこのような仕事をしているのか知りたかった。

「…………」

 彩子さんは答えない。もう一度言う。

「彩子さん!」

「デリケートゾーンです」

「え?」

「その質問はお答えできません。そこは私のプライベートなので」

「…………」

「また何かご縁がありましたらレンタル彼女の彩子にご依頼下さい。その時は彼女としてあなたに尽くすことを約束します」

 尽くすということは依頼した時間限定という意味であろう。あくまで依頼者として、レンタル彼女として

「またのご利用をお待ちしております。では、私はこれで失礼します」

 彩子さんは無常にも僕の反対方向に歩みだした。届くけど、届かないこの距離。僕は彩子さんの存在にまた一つ、悩まされたことになった。どんなに一緒に笑っても、どんなに一緒に食事をしても、どんなに一緒に楽しんでも、それは全て、仕事として付き合っているこの悲しみ。彩子さんのその笑顔が作りものだとはどうしても思えない。そう信じたい。僕が手を伸ばした先は届くことはないのだろうか。この先、僕は彩子さんとどうしていくべきであろうか。キャストと客の関係は埋めることはできないのであろうか。そんな淡い考えを持ちながら僕は彩子さんの後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。

      ☆

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