第一話 運命の出会い
☆
予想外の出来事は突然やってくるものだ。
それはある休日のこと――
一人暮らしのアパートでテレビゲームに夢中になっている時に知らない番号から着信が入った瞬間から始まった。
ゲームを一時停止にして、どこに置いたか、着信音を頼りにスマートフォンを探す。スマートフォンはテーブルの上に雑誌が重なった状態で隠れていた。
普段から整理整頓ができない僕は、物を探すのが一苦労だった――気が向いたら片付けるとしよう。
ようやくスマートフォンを手に取り、表示画面を見ると番号だけが表示されていた――登録番号ではないことはすぐにわかった。
〈090〉でも〈080〉でもなかったのでどこかの会社からの着信だった。このような場合、必ず良からぬことのお知らせが確率的に高い。切れる様子がなかったので、仕方なく通話ボタンに触れて耳に当てて「はい」とだけ答える。
『あ、もしもし。二ノ宮(にのみや)陸(りく)様の番号でよろしかったでしょうか?』
スマートフォンから聞こえた声は若い女性の声であった。「そうです」と答えると電話の女性は要件を言った。
『私、中部総合病院の中野と申します。実は先程、二ノ宮静江様がこちらに搬送されましたので、ご家族様である二ノ宮陸様にお越しいただきたいのですが、よろしいでしょうか?』
二ノ宮(にのみや)静江(しずえ)というのは、僕の実の母であり、田舎の実家で一人暮らしをしているはずだった。
自分は二十歳で実家を出て都会でアパートを借りて、一人暮らしをして五年ほどになる。気づけば五年も母に会っていないことになる。
父は僕が小学校高学年の頃に事故で他界しており長い間、母子家庭で育ったのだ。
一瞬、詐欺を疑い、詮索を入れる。
「あの、母はどのような容態で運ばれたのですか?」
『はい。自宅で倒れたようで現在治療中です。今の段階では原因は不明です。楓(かえで)様にもお電話させていただきましたが、連絡が取れない状態です』
楓というのは僕の五歳年下の妹だ。楓も現在実家を出ており、大学に通っている。楓は学費のこともあり、学業以外は基本バイトをしているので僕自身もあまり連絡が取れないというのが現状だった。
しかし、母が倒れたというのが本当ならすぐに駆けつけたいが、中部総合病院となればすぐには無理だ。今日中に行けるかどうかもわからない距離感だ。
「楓には僕から伝えます――あ、あの、すぐに向かいますが、もしかしたら今日中に行けるかわからないので、状況がわかりましたら情報を下さい」
『かしこまりました。では、二ノ宮様のお越しをお待ちしております。なにかありましたらこちらの番号でよろしいですね?』
「はい。よろしくお願いします」
『では、失礼します』
僕は電話を切った。やはり電話は良からぬことだった。頭を抱えながら僕は身支度をした。ゲームを途中で投げ出すのは尺だが、状況が状況であるため、そうも言っていられない。僕は一人暮らしのアパートを出た。
☆
アパートを出て刻表を見てみると、母が運ばれた病院は今日中に着きそうにない。
移動の間、楓は思った通り、電話には出なかった。仕方なく、母親が倒れた事をメールに打ち込み送信した。バイトが終われば見てくれるのでそのうち連絡がくるだろう。
アパートを出たのが十九時過ぎだったので、この日は目的の駅まではたどり着くことはできなかった。やむを得ず近くのビジネスホテルで一夜を明かすことにした。久しぶりの遠出だったので、電車に揺られている間、軽い頭痛にうなされた。いや、ただの疲れだけではない。移動中、母のことで嫌な妄想が膨らんでいたことも影響しているだろう。自然とビジネスホテルでは眠気が出たので、そのまま眠りについた。
この日は楓からの連絡はなかった。
☆
「あの、二ノ宮陸と申します。ここで母の二ノ宮静江が運ばれたと思うのですが……」
早朝、昨日から乗り継ぎヘトヘトになりながらなんとか母が運ばれた病院にたどり着き看護師に声をかけた。
看護師は名前を言うと「あ……」と言って、待っていましたと言わんばかりに対応した。
「二ノ宮様ですね? お待ちしておりました。私、お電話させていただいた中野と申します。すぐに案内いたします」
「あ、あの、その前に母の容態はどういったものですか?」
尋ねると受付の人は考える素振りをして手招きをして近づくように促された。
「お母様の症状は直腸がんです」
「直腸がん??」
がんと聞き、最悪な結末が頭と過ぎった。しかし、僕はがんについての知識があまりなかったので、どのような状態なのかあまりピンとこなかった。顔に出ていたのか、中野はそれを察して説明をする。
「私の方からはあまり言えませんが、〈がん〉と言うだけに軽いものではありません。今の段階では深刻ということを認識していてもらえればいいと思います」
「それで? 母は無事ですか?」と僕は尋ねる。
「はい。今は安静にさせています。後で主治医から説明がありますので、病室でお待ち下さい」
中野は部屋の番号と行き方を教えてくれた。
教えてもらった通りに足取りが重い中、母がいる病室にたどり着いた。この奥に数年ぶりに会う母がいる。
僕は深呼吸をして扉を三回ノックする。
「……どうぞ」
母の弱々しい声が部屋から聞こえてきた。引戸を静かに開けて部屋に入った。
ベッドの上に母が窓の方を向いて横になっていた。こちらからは顔が見えない。
「母さん、僕だけど……??」
僕の声で母は身体を起こし確認する。
「おや、陸かい? 来てくれたのかい」
母は窶れた顔で弱々しく言った。
よく見ると、管や酸素マスクが身体中に取り付けられており、動くのも困難に見える。
母の容態は思った以上に深刻なものだと目の当たりにした。
必死に起き上がろうとする母に僕は慌てて無理しないように促す。
「母さん無理しないで――そのままでいいから」
「……そうかい――すまないね」
母を仰向けにした。
五年ぶりに会う母は老けたように見えるがいつもの元気がなかった。
いつも活発で明るい母であるが、今は別人みたいで、今の状態は明るさが微塵もなかった。
昔から心配症で口うるさい母であったが、今その口うるさい母はどこか遠いところに行ってしまったみたいなそんな感じである。
その時、病室にノックが入る。
「はい」と答えると、白髪の白衣を着たおじさんと看護師が二人白髪の後ろについて入室してきた。
「初めまして、私はここの主治医小笠原です――あなたが二ノ宮さんの息子さんですね?」
「そうです」
「そうですか。お母様の件についてお話がありますので、別室に来ていただけますかな」
「分かりました」
看護師二人を母のいる部屋に残し、診断室に案内された。椅子に座らされると、小笠原から早速質問が飛び出した。
「お父様はどうされていますか?」
「えっと、自分が幼い時に事故で亡くなりました――そこから母と自分と妹で暮らしていました」
「そうですか。それは失礼しました」
小笠原は申し訳なさそうに頭を軽く下げた。
「お母様のご両親の方も?」
「はい。もう亡くなっています」
「陸さんと妹さんは現在どちらで?」
「自分は実家を出て大阪の方で仕事をしています――妹は名古屋の方で学生です」
「では、お母様はお一人という事ですね」
「はい。先生、母は重い症状なのでしょうか?」
僕の質問に小笠原は即答をしなかった。資料を取り出し説明口調になる。
「……はっきり言って良いとは言えないでしょう。今の段階ではあくまでも一時的に安定しているだけです――これを見てください」
小笠原が取り出したレントゲンの写真を見た。
「ここに大きなホクロみたいなものが見えますか?」
指を差された場所に確かにホクロのようなものがある。
「これが大きくなり、大腸を圧迫している状態です。既に進行が進んでおり、最悪死に至ります。当分の入院生活が必要になるでしょう。手術をして治るかどうかは判断ができませんが」
「それは絶対治るのですか?」
僕が聞くと、小笠原は顔をしかめて考え込むように沈黙して言葉を整理して答えた。
「直腸がんというのは、大腸がんのことで、長さ二メートルの大腸に発生するがんで、大腸粘膜の細胞から発生し、『ポリープ(腺腫)』という良性の腫瘍の一部ががん化して発生したものと正常粘膜から直接発生することがあります。発見が遅れたので進行しており、この状態なら手術も難しいものです。仮に成功しても五年生存率は十八%程度と考えられます。辛いかもしれなせんが見守ってあげるか、ご自身の体力次第です」
「――そんな……」
「我々も全力を尽くします――ですので、二ノ宮さんもある程度は覚悟しなければなりません。お母様のご希望があれば答えてあげられるようにもしてあげて下さい……万が一の場合を想定して後々、後悔されないように」
小笠原の話が終わった後、母のいる病室に戻った。
「母さん」
「陸。母さん長くないって?」
母は自分の容態は聞いていなかった。しかし、自分の身体の事なので、ある程度は察しがついているようだった。
「母さん、確かに容態はよくないみたいだけど、母さんならなんとかなるよ……だから――病気に負けないでよ」
僕は誤魔化さずに励ますことを選んだ。
「陸、ありがとう。楓はどうしているかね?」
「楓は忙しいみたいだからまだ連絡取れない。近いうちにここに来るように言うよ」
「そうかい――陸は最近どうだい? 元気にしているかい?」
「……うん。良くも悪くもないかな」
「彼女さんはできたのかい??」
母は突然、恋愛についての話題を持ちかけた。
「……あ、うん」
「ほう。陸にもついに彼女ができたのかい。死ぬ前に孫をみたいものだね」
母は縁起でもない事を言って笑いを取ろうとした。
母の願いは孫の顔を見ること……。『万が一の場合』と、小笠原の言葉が頭を過ぎり、考えてしまう。なので、そんな笑顔の母に自分は嘘をついてしまった。
「か、母さん。もうすぐその彼女と結婚することになったよ。孫も母さんが長生きしてくれたら近いうちに見せられると思うよ」
「おお、そうかい。なら紹介しておくれよ。母さん、陸のお嫁さんに挨拶しないとね」
「あ、うん。今度連れてくるから――都合ついたらまた来るから楽しみにしていてよ。凄いベッピンさんだから驚くと思うよ。本当に可愛いから」
結婚する人もいなければ彼女すらもいない。思わずデタラメを言ってしまった。人はどうして嘘をつくと、次から次へと嘘を膨らませられるのだろうか――つい、母に孫を見せたいと思い、凄い嘘をついてしまった。そんなことも知らない母はすんなり受け入れてしまう。
「待っているよ。今日は忙しいのにわざわざ駆けつけてくれてありがとね。嬉しいよ」
「倒れたって聞いたら行かないわけにはいかないさ」
「仕事はどうしたの?」
「あったけど休んだ」
「私はもう大丈夫だから帰っていいよ。ありがとね」
「無理しないでね」
一通り話こんで病室を去ろうとする。すると、母は出て行く僕を呼び止めた。
「陸……彼女、連れてきてね」
「も、もちろん」
申し訳ない気持ちで病室を出た。
母は僕が彼女を連れてくるのをあんなに楽しみにしている。非常にまずいことになった。母に彼女を連れてこないとショックで心臓が止まるかもしれない。そんな気がしてならない。
☆
自宅に戻る途中、楓から着信が入った。メールではなく電話できた。
やっとメールを見たのかと思い、ワンコール――ツーコールで電話に出た。
『もしもし。お兄ぃ? お母さん倒れたってどうゆうことよぉ?』
電話に出て早々、要件を聞いてきた。
楓は母と似ていて自分の喋りたいことを一気に言って自由な感じであった。
「ああ、昨日倒れたって。さっき病院行ってきて、今から帰るところ。それでその、母さん……直腸がんらしい」
『直腸がん?』
やはり楓も詳しい症状は知らないらしい。
主治医の小笠原が教えてくれたことをそのまま楓に教えてあげ、母の様子などをわかりやすく教えてあげた。
『ええ、お母さん死ぬのぉ!?』
スマートフォンから楓の大音量で耳がやられた。
電話の向こうで、慌てているのがわかる。
「まだ、死ぬって決まった訳じゃないってば。可能性としてはって話でしばらく入院が必要になるらしい」
『それでもやばいのに変わりない訳でしょ? あわわ、どうしよよ』
「楓、最近何しているの? 病院行って母さんに顔見せられないのか?」
『それは私だって見せたいけど、今身動きが取れないの――人生かかっているから! でも、絶対行くから安心してお兄ぃ』
楓は――芸能学校に通っていて将来の夢は一流のアイドルである。声はやたら高くアニメ声なのでこうして喋っているだけでもかなり耳に響く。そんな訳で狭き門に挑んでいる多忙な妹なのだ。
それと同時に結婚する彼女がいると、母に嘘を付いた事が頭を過ぎる。
楓と話している時に、そんな事を思ってついつい言ってしまった――
「あのさ……楓、もし……良ければ、誰か女の子を紹介してもらえないかな?」
『ふあぁぁ?』
電話の向こうで、とんでもないオーバーリアクションをしているのがなんとなくわかった。そして、聞いてから兄として情けないことを頼んでいると、後から思った。だが、時すでに遅し――だった。
『女の子を紹介? それはどういったご要件でぇ?』
楓は若干警戒気味で聞き返した。
「ああ、ごめん血迷った。今のはなし。聞かなかったことにして――なんでもないから」
『……ふーん』
電話で気まずい空気になった。
「まぁ、そんな訳だから顔見せ頼むよ。またなにかあったら連絡してくれ。じゃまた」
気まずくなり一方的に切る感じで電話を切った。いくら兄妹でもこうゆうのは頼みにくいことだった。
彼女ってどうやって作るものだっけ? 生まれて二五年。彼女経験なし。独身サラリーマン二ノ宮陸の試練は彼女を作ることから始まった。
☆
生まれてこの方、僕は女性と付き合ったことはない。人生一度もそんな経験すらもない。
中学までは共学だったが、まともに女子と話さないまま卒業した。高校からは男子高だったからますます女子との接点がなくなった。女子というものを知らないまま今に至ると言ってもいい。
そんなことで母さんは一生結婚ができないかもと心配させてしまっていた――なので、彼女ができたと、言った瞬間に喜んでくれた母の気持ちはなんとなくわかる。
期待が大きい分だけ裏切られたショックは大きいだろう。
店でステーキを頼んだら、卵かけご飯が出てきたようなそんな感じだ。それだけは避けなければならない。その為には嘘を本当にするしか手はない。しかし、そんな嘘に付き合ってくれる知り合いは残念ながら身内にはいなかった。そもそもそのような嘘を知り合いに頼むことすら恥ずかしい。僕の人生で最大の難関が立ち塞がったと言ってもいい。『口は災いの元』というのはこうゆうことをいうのだろうか。
何も思いつかないままベッドに寝転んだ。白い天井を見ても結果は同じだった。体制を崩し、横になってあることに気づく。
ポストの郵便物を抜き取って見ないままテーブルの上に無造作に置いていたチラシに目が止まる。何気なくそのチラシを確認した。
チラシの見出しにはこう書かれていた。
『レンタル彼女。あなたの理想の彼女をお貸しします』
「レンタル……彼女?」
聞きなれない言葉を僕は声に出して読んだ。
チラシにホームページのQRコードがあったので、スマートフォンでかざしてアクセスした。すると、可愛い女の子がたくさん出てきた。まるでアダルトサイトにアクセスしてしまった風景だった。
ホームページを見ている時にある名案が浮かんだ。
「あ、これ使えるかも!」
彼女をレンタルして、母に会わせれば、嘘を本当にすることが可能になるかもしれない。
そのようなことが頭を過ぎり、早速受付の電話番号に電話をすることを決意した。
☆
『はい、こちらレンタル彼女受付です。ご依頼ですか?』
電話をしてワンコールで男性の人が電話に出た。
思わずかけてしまったが、ここまできてしまったら後に引けない。
「あ、はい。依頼します」
『ありがとうございます。お客様、今回のご依頼は初めてでございますか?』
「そうですけど」
『では、ご利用方法について軽く説明させていただきます。まず、彼女は九十分からのご利用になります。お値段としては十分千円単位で九十分なら九千円、二時間なら一万二千円、三時間なら一万八千円、四時間なら二万四千円となっていきます。金額としまして、時間、指名料、交通費で金額が決まります。精算の方は全て後払い制の振込となっております――ここまでよろしいですか?』
意外と高いと思ったが、とりあえず先に進める為に「はい」と答える。
『続いて、デートについての注意事項です。基本、デート中にかかった費用はお客様の方でお支払いお願いします。次に彼女に性的な行為は全て禁止とさせていただきます。それと、閉鎖的空間のデートの禁止、後、撮影・盗撮・盗聴などの行為の禁止です。その他常識のある行動でデートをお願いします――よろしいですか?』
「はい、わかりました」
いくら彼女といっても本当の彼女ではないからやらしいことは全てダメということである。僕は説明を聞きながら納得する。ルールに関してはかなり厳しいとみえる。
『では、お名前、年齢、デートプランのご希望があれば教えて下さい』
「えっと、二ノ宮陸です。歳は二十五でプランは母のお見舞いです」
『――二ノ宮様ですね。ちなみにお見舞いというのはご自宅でしょうか? 密室空間はダメですけど……』
「あ、いえ、病院です。後、場所が遠いのですが、大丈夫でしょうか?」
『場所はどちらですか?』
「四国の方になります」
『なるほど――では、一番良い方法としまして、現地集合にして、その場からデートということにしましょう。時間は大体二時間くらいで見込んだ方がいいですね。彼女さんたちは大阪の人なので、交通費の方が通常の倍以上しますがよろしいですか?』
「はい。大丈夫です」
『ありがとうございます。では、最後にご希望の彼女はいますか?」
そう言われて迷った。
何人かの写真があるが正直、誰がいいのかさっぱりわからなかった。即答ができなかったので仕方がなく、受付の人に任せることにした。
「あの、おまかせでいいですか? できればメチャクチャ可愛い人でお願いします」
『かしこまりました』
この後、詳しい場所と時間の打ち合わせをして電話を切った。早く母を安心させる為、次の休日の日にデートを申し込んだ。
後は、当日を待つのみ。果たしてどんな女の子が来るのか期待を胸にその日が来るのを待ち望んだ。
☆
僕は再び長い道のりと時間をかけて、母がいる病院の近くの駅にたどり着いた。
予定は一三時からのデートだが、予定よりも三十分早く着いてしまった。しかし、その分、期待を膨らませて待つことができる。
あまり期待しすぎて、期待ハズレだった時のことも考えると油断はできない。来るまでのお楽しみである。
電話の人に何か当日目印になるアイテムを身につけてほしいと頼まれたので、アディダスの帽子を被ることにした。普段帽子なんて被らないのだが、目印のアイテムはこれしか持っていなかったので仕方がない。格好にも気合を入れており、カーキのズボンにチェックのシャツにおしゃれな上着の重ね着をしてきた。残念なことに、これが僕の中の最大のおしゃれだった。そう、残念なことに……。
三十分前に駅を出たすぐの噴水で待ち合わせなのだが、まだそれらしき女性は現れない。何人か僕の横を行ったり来たり通るのをただ眺めていた。
それから二十分が経った頃、一人の女性が駅から降りてきた。
なんの迷いもなく僕の方にまっすぐ歩いて来る。そして、目の前まで来てその女性に声をかけられた。
「アディダスの帽子……。あなたがご依頼した二ノ宮陸様でしょうか?」
声をかけてきた女性の身長は百六十センチくらい。身体は細身で胸が普通よりデカくみえる。茶髪で髪は腰まであり、顔は可愛い系でまさに僕の理想だった。黒タイツにピンクのミニスカートで服装はエロくみえる。アイドルでもこのような人はいない可愛さに目を奪われる。普通に生活していても絶対にこのような女性と知り合うことはまずないだろう。
結果として期待を裏切らない――いや期待以上だった。こんな子が僕の彼女になるというのが信じられないくらいだ。一つ気になるのは手提げバックと重そうに持っている風呂敷に包まれた荷物だった。一体何が入っているのだろうか。
目の前の彼女を観察していると彼女はもう一度、声をかけてきた。
「あ、あの、二ノ宮様ですよね?」
「――は、はい。そうです」
うっかり彼女にみとれてしまって返事が遅れてしまった。
彼女としては百点満点中百点の女性だった。ニヤニヤしてくる顔を必死に抑えて冷静を保った。職場と店の店員以外で女性と話すのはいつぶりであろうか。もう覚えていない。こんな可愛い子が僕に話しかけてくるなんてこれは夢か? とも疑ってしまう。だが、これは正真証銘の現実だ。
「あ、よかった。違ったらどうしようかと思いました。では、初めまして。私、レンタル彼女の彩子(あやこ)といいます。本日はよろしくお願いします」
彩子さんは律儀に頭を下げてお辞儀をした。
それに釣られて僕も同じ角度で「こちらこそ」と言い、お辞儀をする。
「では、彼女を始める前に注意事項の確認をします。聞き逃しのないようにしてくださいね」
彩子さんは首をかしげて目をそらしていた僕の目線に合わせる。目と目を合わせられない僕は中学生か! と、自分で自分を突っ込みたくなる。
「では、本日は二時間のデートで二ノ宮様のお母さんのお見舞いだと聞いております――それは間違いないですね?」
「はい」
「では、注意事項です。私の嫌がることはしないで下さい――以上です」
彩子さんは簡単に説明を終わらせてしまった。
細かい説明が入るのでは? と思ったが、あまりにも短くわかりやすい注意事項で拍子抜けしてしまう。言われてみればその通りだ。
嫌がることはしてはいけない。彼女としては当たり前でもある。
彩子さんは腕時計を確認して時計のスイッチをカチカチと鳴らす動作に疑問を持つがこれからこの子は二時間だけ僕の彼女になるんだと心が踊っていた。
「では、十三時になりましたので、ただいまより二ノ宮様の彼女を務めさせていただきます――デートの誘導お願いします」
彩子さんは敬礼した。
その姿は一段と可愛く見えて目を奪われそうになる。
「あ、じゃ……近くの喫茶店に行こうか。まず、母に会う前に軽く打ち合わせしないとだし」
「かしこまり! 行きましょう! りっくん」
「りっくん??」
「恋人中はそう呼ばせていただきますね! ダメですか?」
彩子さんは上目遣いをして聞いてくる。
「ダメでは……ないです」
「良かった! りっくん、早く行こうよ」
彩子さんは突然キャラが変わったように可愛さ全開で僕に接してきた。僕は女の子にあだ名で呼ばれたことがないので緊張した。あだ名どころか名前で呼ばれたことすらないだろう。
りっくん、か。悪くないかも。
噴水から徒歩一分以内の喫茶店に二人で入店した。
周りからはどのように見えるだろうか。当然恋人同士だろう。
店員に見せつけるように席についてコーヒーを二つ注文する。
向かい合って座っている彩子さんに夢中になっていく。
会ってまだ五分くらいだが、こんな簡単に人を好きになる自分が恐ろしい。
今までこのようなことはなかった――いや、こんな可愛い人を目の前にしたら誰だって好きになるだろう。それだけは間違いなかった。
緊張の中、僕は彩子さんに質問した。
「彩子さんはおいくつなのですか?」
「二十ってことになっています」
なにやら頭に引っかかるような言い方だった。
ことになっている?
「じゃあ普段何していますか?」
「私の日常生活は謎にしておいて下さい――ところで、りっくん! お母さんはどんな人なのでしょう?」
彩子さんは話を逸らすように話題を変えた。
嫌なことは答えられないということなのだろうか。
あえて詮索はせずに注文したコーヒーを一口啜り、質問に答えた。
「母さんは口うるさくて厳しい人だけど、女手一つで育ててくれたから感謝している。心配症でいつも僕のこと気にかけてくれる良い母だよ」
昔のことを思い出しながら言った。
父が他界してから母は僕と妹の為に厳しく間違った道に進まないようにしつけてくれた。そのおかげで問題なく安定した日々を送れた。母は自分にはなくてはならないたった一人の母親だ。
「そっか。良いお母さんだね。お見舞いってことは何か病気ですか?」
彩子さんは聞いてはいけないようなことかと、少し遠慮がちに聞いた。
「うん。実は直腸がんらしい。彩子さんに今回こうして来てもらったのには訳があります。それを聞いてほしい」
「お聞きします」
「実は母に彼女がいるって嘘をついてしまって、凄く嬉しそうにしているわけでして、嘘だとばれるとショックを受けてしまうかもしれない――だからこうして彩子さんを連れてきて安心させたい。その為に協力してほしい。病室だけでもいいから本気で恋人を演じて下さい――お願いします」
僕は頭を下げた。
「何か勘違いしていませんか?」
「え?」
「私はプロのレンタル彼女ですよ。お客様に最高に満足してもらえるような完璧の彼女を演出するくらい容易いです」
レンタル彼女にプロなんてあるのかと思ったが、演出という言葉に当たり前だがビジネスなのだと思い、少しがっかりしてしまう。
ひと時の夢でもこの子と少しでも長くいたいと思うが時間制限がある。早いうちに済ます用事は済ましておかないといけない。
「彩子さん!!」
思わず立ち上がり大声で叫んでしまった。
周りにいた客と店員の視線は僕に集中する。彩子さんは驚いたように「はい」と返事をする。
言ってから僕も気づいた。周りの視線が痛い。
「あ、いえ。そろそろ行きましょう。時間がもったいないです」
「そ、そうですね。はは……」
彩子さんが作り笑いをしているのはなんとなくわかった。
僕といっしょにいて、気まずくさせてしまったのだろう。伝票を持って席を立つ。
「あ、デート中の発生金額は僕持ちでしたよね?」
「はい。ご馳走様です」
彩子さんはおごってくれた感謝を忘れずにお礼をする。
奢られて当然といったような態度の女がいるが、このようにお礼をしてくれたら、出す立場としても気持ちがいい。外見だけではなく内面も可愛い彩子さんにまた一つ好きになるポイントだった。
店には三十分程度しかいれなかったが、遊帳にお茶を楽しむような時間はない。
彩子さんとのデートに残された時間は後、一時間二十分だ。
☆
喫茶店を出て、タクシーで一五分ほど乗って母がいる病院にたどり着いた。時間にして後一時間に迫っていた。
事前に母にはこの日に彼女を連れてくると伝えてある。母は彩子さんを見てどのような反応をするのか楽しみである。
受付で入室の許可をもらい、母がいる病室の前にたどり着いた。
ドアを二回ノックする。
「……どうぞ」
母の弱々しい声が中から聞こえてきた。スライド式のドアを引いた。
「母さん」
母は来たときと同じように窓の方に身体を横向きにしていた。
「母さん」
もう一度呼びかける。すると、ようやくこちらを振り向いた。
「おや、陸。また来てくれたのかい?」
「行くって言ったでしょ」
「ああ、それって今日だっけ?」
母ももう歳なのかもしれない――そう錯覚した。
「お母様、こんにちは」
彩子さんは律儀に母に挨拶をする。
「どちら様ですか?」
「申し遅れました! 私、陸くんと交際させていただいております――彩子と申します。今日はお母様にご挨拶をと思って遥々やってまいりました。今後とも末永くお付き合いさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
彩子さんは僕と初対面の時と同様に律儀に頭を下げて母に挨拶をした。角度も真っ直ぐで完璧過ぎるお辞儀にみとれてしまう。
「あ、そうだ――これフルーツの盛り合わせです。良かったらどうぞ!」
重そうに持っていた風呂敷の荷物はこれだったのか――と、横から見て関心をした。具沢山で林檎、蜜柑、桃といったフルーツが十種類ほど詰まったバスケットを母に渡す。
「あらあら、ありがとね。彩子さんだっけ? よくできた子じゃない」
と、母はバスケットを受け取りながら、チラッと僕の方を見る。
「母さん。具合はどう?」
「少しはよくなったと思うわ。でも、再来週に手術があるって先生言っていたわ」
「お母様! 病気に負けないで下さいね」
彩子さんは母の両手を取り、両手でギュッと握り締めた。
「あ、ありがとう……彩子さん」
彩子さんの神対応に若干母は引いているように見えたが、僕としては入る隙がない場面だった。
「あ、私、林檎剥きます。看護師さんに包丁借りてくるね」
そう言って彩子さんは病室から出ていった。
母と二人きりになった病室。思ったより母の顔色がよく見えた。
「陸。彩子さんとどうやって知り合ったの?」
母の質問に一瞬迷った。なんて答えようか。
「え……っと。ネットかな?」
苦し紛れの言い訳だったが、母は「そうなんだ」と、疑う素振りはなかった。
「あの子――良い子ね。可愛いし、性格も良さそうだし、あんたには勿体無いくらいに」
おっしゃる通りです。僕には勿体無いくらいに手も届かないような存在だとは口が裂けても言えなかった。本物の彼女ではないのが残念過ぎる。
「あんな可愛い子を泣かすようなことをしないでね」
「わかってるって」
すると、彩子さんは包丁を持って病室に戻ってきた。
「借りられました」
彩子さんは戻って早々、林檎の皮を剥きだした。途中で切れることなく、一本の皮が床につくくらいに長く剥ける。「そういえば」と母は質問する。
「そういえば二人はいつ結婚する予定なの?」
「え?」
彩子さんは初めて聞いたような反応をする。実際初めて聞くのだから当たり前なのだが……。
「違うのかい?」
僕は母に見えないように彩子さんに両手を合わせて口裏を合わせてくれるようにお願いを込めて念を送った。
それを見た彩子さんは察してくれたのか、母に見えないように親指を立てる。
「そ、そうだ、来年には式を挙げる予定だよね? 彩子さん」
「え、ええ。実はそうなの。今日はそれの報告も兼ねて来ました。お母様」
「来年って随分先ね。まぁ母さん嬉しいけど」
二人で苦笑いをして猿芝居をしていたが、なんとか誤魔化せたようだった。彩子さんの咄嗟の対応も見事なものである。
「お母様、林檎剥けました。食べて下さい」
彩子さんが爪楊枝で指した林檎を母に食べさせる。
「ありがとう。彩子さん」
母は林檎を美味しそうに食べた。
「そういえば母さん。楓は来た?」
「来週くるみたいよ。忙しいのかしらね」
楓、早く来てあげろよ、と思った。
「りっくん」
彩子さんは母に見えないように小声で呼びかけた。
「そろそろ時間です。切りの良いところで退散をお願いします」
「え、もう、そんな時間?」
腕時計を確認すると時間は後、一五分と迫っていた。そろそろ身支度をしなければならない。
「母さん! ごめん。明日、朝早いからそろそろ帰らないと……」
「あら、そう……。わかった――気をつけてね」
母はもの寂しそうに言った。
来てすぐ帰るとなると寂しいのであろう。僕も同じ気持ちである。だが、これ以上、彩子さんに付き合わせる訳にはいかない。
「また必ず来るから元気でいてね」
「お母様、お大事にしてください」
彩子さんはお辞儀をする。
「陸、彩子さんも今日はありがとう。また来てね――待っているから」
「ええ。必ず!」
彩子さんは堂々と嘘をついてみせた。
ここから出たら接点がなくなるというのに。あくまでも最後の最後まで恋人としての役目を果たすらしい。
「それと陸」
母は僕を呼び止めた。
「頑張るのよ」
何を? と、思ったがその場に合わせて「うん」と答える。
「母さんも元気で。また近いうちに来るからね」
そう言って僕と彩子さんは病院を後にして再びタクシーを捕まえて駅に向かった。
☆
病院から駅にたどり着いた。
当然行きもそうであったが、タクシー代は当然、僕持ちだった。これもデートの費用である。
ピッピッピッピッ!!
突如何かのアラームが鳴りだした。音は彩子さんから聞こえてくる。彩子さんは腕時計を見て音を止めた。
「りっくん……いえ、二ノ宮様。どうやら予定していました、二時間は経過したようです」
どうやら恋人時間の終了を知らせるアラームのようだった。彩子さんは、一秒も狂いがないように、キッチリと時間を測っていたのだ。
りっくんから二ノ宮様と、呼び方も代わり、恋人モードからビジネスモードに変わったのも、それのせいであろう。何もそこまでメリハリを付けなくてもよいのでは、とも思う。
「本日はご依頼ありがとうございました。楽しい時間は過ごせましたか?」
「はい――時間が少なかったので、少し物足りない気がしますが……」
「それはよかったです。またご依頼して下さいね――それとこちらが本日の依頼料となっております。目を通して、後日、下に書かれた口座に振込の方をお願いします」
そう言って彩子さんは手書きの紙を渡してきた。
僕はそれを受け取り確認する。
『本日の請求書
指名料――無料
デート時間二時間分――一万二千円
交通費――一万一千五百円
フルーツの盛り合わせ――五千円
合計――二万八千五百円。口座番号……』
「あ、あの、彩子さん……フルーツの盛り合わせというのは……?」
「はい。今回はお母様のお見舞いということで、事前に用意させていただきました。彼女が手ぶらできたら印象が悪くなると思いますので、よりリアルな彼女を演じるべく持ってきました」
「いえ、そうではなくて、これも僕持ちの経費となるのでしょうか?」
「何を言っているのですか? 当たり前じゃないですか。私が赤の他人の為に自腹でフルーツの盛り合わせを買う訳ないでしょう」
彩子さんは僕が言っていることに理解に苦しむといった感じで僕を睨み付けた。『赤の他人』と、ハッキリ言われて、軽く凹んだ僕だったが、言われてみればその通りだった。初対面の男の母親のお見舞いなんて考えてみればおかしな話だけど、レンタル彼女という立場上、それは演技である為に、完璧に装なければならない。その為には、手土産の一つも持ち合わせなければ務まらなかった。その為の費用は仕方がない。
何も五千円もするものを買わなくてもいいのでは――と思ったが、ここは固唾をのんで支払うしか選択肢はなさそうだ。
「わ、わかりました。フルーツの盛り合わせの費用も振り込んでおきます」
「はい、当然です。振込期限は一週間以内でお願いしますね――では、私はこれで」
彩子さんは用が済んだ――と、いった感じで帰ろうとする。
僕は慌てて彩子さんの後ろ姿を呼び止めた。
「あ、あの……ちょっと待ってください」
彩子さんは足を止めて振り向いた。
「はい? まだ何か……?」
咄嗟に呼び止めてしまったが、何を話すか何も考えずに止めてしまった。少しでも彩子さんと一緒にいたいと思い、僕はこんなことを言ってみる。
「彩子さんは大阪の人でしたよね?」
「はい。そうですが?」
「僕もなんです。今から長い距離を新幹線で帰るのでしたら、大阪まで一緒に帰りませんか? どうせ僕も帰るところなので、その……せっかくなので、ご一緒できればと思いまして」
僕のセリフで彩子さんは固まった――いや、人差し指を顎に当てて考える素振りをしていた。その姿も一段と可愛く見えた。
「恋人時間は終わっています――そのことはご理解されていますか?」
「も、もちろんです。それを承知でお願いしています。恋人みたいにしてもらわなくて結構です。赤の他人として扱ってもらって大丈夫です。話しかけたりしなくてもいいので、責めて、彩子さんの隣にいるだけでもできないでしょうか?」
自分で言ってから思った。
何をこんなに必死になってお願いしているのか――と。
これではまるで、振られた彼氏の最後の悪足掻きみたいではないか。これは彩子さんも引くのでは――と、ドキドキして反応を伺った。彩子さんはついに腕組までして僕をみつめる。引いている――完全に引いている。
そう思ったが彩子さんからまさかの答えが帰ってきた。
「そうですね。どうせ帰る方向も一緒ですしね。私一人ですと心細いですし、まあ、ボディガードとしてはいいでしょう。隣にいることを許可します」
彩子さんは若干上から目線で許可してくれた。
こっちから頼んだことなので、なんと言われようと仕方がないのだが、また少しでも一緒にいれることはなにより嬉しかった。
「本当ですか? ありがとうございます」
「ただし!」
彩子さんは片手を前に掲げた。
まるで犬に待てと言っているような感じで、僕を静止するように言う彩子さん。
「あくまでも隣にいるだけですよ? それ以上の接触は禁止です。恋人ではありませんので、それでよろしければ許可します――よろしいですね?」
「も、もちろんです。僕は彩子さんの隣にいれるだけで満足です」
「そうですか――では行きましょう」
そう言って、彩子さんは急かせかと駅の方に僕より先に歩いて行った。僕は彩子さんの後を追う感じになる。
☆
電車と新幹線を乗り継ぐのに実に四時間はかかる道のりだった。だが、今その長い道のりがとても楽しく感じられた。なんて言ったって僕の隣にはアイドル以上の美少女がいるのだから――。ただ隣にいるだけだが、一緒に行動して、隣の席に座れるだけでとても幸せだった。
宣言通り、駅に入ってからは一言も会話がない。言ってみれば僕は空気になっていた。
彩子さんは気まずそうな様子は一切なく、無表情で平然としていた。電車に乗っているときは本を読んでいた。
完全に僕の存在を消そうとしたような感じだった。本を読んでいる姿は絵になるようなワンシーンである。
ブックカバーで隠された本のタイトルはこちらからは見えない。『喋りかけるな』と、言われているので『何を読んでいるの?』なんて聞けるはずもなかった。ただたに彩子さんの横顔をじっと見つめていた。僕の視線が気にならないのか、彩子さんは黙々と本のページをめくり続けていた。ただ、本に集中しているだけで、周りの視界が見えていないようである。彩子さんは意外と本を読むスピードは早いようだ。
新幹線が乗れる駅までたどり着くと、彩子さんは電車の扉が開いたと同時に猛ダッシュした。何事かと思い彩子さんの後を追う。
行った先には男の自分には入れない場所であった。
彩子さんはトイレに駆け込んだ。どうやらずっとトイレを我慢していたようだった。仕方なく、僕はトイレの入口で待つことにした。彼女でも友達でもない女の子のトイレを待つその姿はなんとも言えない姿であった。途中、トイレの目の前にあるコンビニに目が止まり、彩子さんを待つ間にコンビニで飲み物を二つ購入した。
トイレから出てきた彩子さんはごめん、ごめんといった感じで片手を使いジェスチャーした。
喋らないというのは、これはこれできつい。これくらい口で言ってほしかったが、僕が言う権利はなかった。
新幹線で二時間の乗り継ぎにて、彩子さんと隣の指定席に座り、そこでも会話という会話はなかった。彩子さんが窓際に座り、僕が廊下側に座っていて彩子さんが席を立つ時、「通ります」というくらいであった。
席についている間は、彩子さんは基本読書をしている。本を読み始めた彩子さんは自分の世界に入っており、隣に僕がいるというのにガン見しようが全く眼中にないといった感じで寂しい気分になる。
「あ、あの……」
僕が彩子さんに話しかけると返事はせずに、こちらを睨めつける様に見た。それは『話しかけるな』といった眼だとすぐにわかった。
そそくさと自分の鞄をゴソゴソしながら
「良ければお茶でもどうですか? さっき駅の売店で買ってきた物ですが……」
そう言うと、彩子さんの表情は和らいだ。
麦茶のペットボトルを見せると、警戒が解かれたように言った。
「あ、それはどうも――ちょうど喉が渇いていたところだったの。有難く頂くわ」
彩子さんは差し出した麦茶に、手を伸ばした。
「当然タダですよね?」
彩子さんはお金を要求してこないのかの確認をした。
「ええ。もちろんです」
「そう」
彩子さんは確認が終わると、安心したかのように麦茶を受け取り、蓋を開け一口飲んだ。
普通にあげるつもりで買ってきたが、彩子さんからしたら警戒されていたようだった。
物をあげれば喜んでくれるというのをこの時に学んだ。
僕も自分用に買っておいた炭酸飲料を取り出し、飲み始める。それを見た彩子さんは「あ」と言って話しかける。
「私にもそれ下さい――一口でいいので。炭酸が今、飲みたい気分ですので」
「え……」
「ダメですか?」
「いえ。どうぞ」
僕は彩子さんに自分が口を付けたペットボトルを差し出した。彩子さんはそれを受け取り、ゴクゴクと飲んで自分に返した。
「はい。ご馳走様です」
「いえ」
普通に返された彩子さんが飲んだペットボトルを見つめていた。これがいわゆる『間接キス』にあたる。これは自分が口にしていいのか――いや、間接キスでこんなに緊張している自分はなんなのか――しかし、普通の間接キスではない。これは彩子さんが口にしたモノだ。等の彩子さんは再び読書モードに突入しており、自分の世界に入っていた
見ていないことを確認し、自分はその横で彩子さんの間接キス入りの炭酸を飲んでいた――いや、別に隠れて飲むものではないが、反射的にそんな行動をしていた。これではまるで、好きな子がいない間にリコーダーの先を舐めるのと同じではないか。良い歳をした大人が何を考えているのやら……。
中身はまだ中二の自分がいた。こんなのなんともないことではないか。そう、なんでもないことだ。
新幹線の乗車中は彩子さんを眺めて時間が過ぎていった。
長時間、新幹線に乗り、腰が痛くなったところでようやく最後の電車に差し掛かった。
これを乗り合わせたら、彩子さんとはお別れである。長いようで短い。好きな人との時間はあっという間に過ぎるものだ。
急行の電車で二人がけの椅子をなんとか死守することに成功し、新幹線の時と同様に彩子さんが窓際、僕が廊下側に座った。
時間にして、三十分ほどで目的の駅にたどり着く。
つまり、彩子さんとの時間も残り三十分ということになる。この三十分という時間をしっかりと噛み締める。このまま時間が止まってくれればいいのにと強く思うくらいだ。最後まで存分に彩子さんの読書姿を観察するとしよう。
彩子さんを眺めて電車が最初の駅に止まった頃、それは中断されることになる。電車がゆっくりと動き出した時、悲劇が起った。
「キャー!」
突如、前の車両の方から悲鳴が響き渡る。
何事かと思い、僕は彩子さんを置いて声の方へ向かった。
「動くな!!!」
そう言ったのは無精髭を生やした中年のおっさんだった。
中年の男の周りには何かの液体が散乱しており、周りの人間は男を避けるように円を囲んでいた。男は懐から何かを取り出した。
「両手を頭にして縮まれ! さもないと今すぐ火の海にしてやるぞ!」
男が取り出したのはライターだった。
周りに散乱している液体はどうやらガソリンだと錯覚した。
男のいる車両は一番車両で運転席がある車両だった。僕は元々が二番車両だったが、声を聞いて一番車両にやってきたといった感じだった。
「おいこら! 聞こえなかったのか! 両手を頭にして縮まれって言っただろうが!」
男は僕を見てそう言った。
他の乗客は男の言われた通り、頭に両手を置いてしゃがんでいた。仕方なく、僕も乗客と同じ体制をした。男に刺激を与えると何を仕出かすかわからない。
「いいか――俺は生きていても仕方がない。俺の人生はどうでもいい。そうさせたのはお前らのようなゴミどものせいだ。会社もクビにされ、嫁も子供も逃げられた。金も全てもってかれてしまい、何もかも残されていない俺の気持ちなんてどうせどうでもいいよな!お前ら凡人どもには関係ないだろ!」
男は大声で叫んだ。
これはただの八つ当たりに過ぎない。誰もが思ったことであるが口にするものはいない。男をさらに興奮させてしまうからだ。しかし、その中で男に反論する者がいた。
「それってただの八つ当たりじゃない。馬鹿じゃないの」
男に反論したのは彩子さんだった。
僕が縮まっている後ろから出てきたのだ。
「彩子さん、何やっているのですか! 危険です――下がってください」
「下がるのはあなたです。二ノ宮さん」
彩子さんはそう言って僕の前に出ていった。
「なにしている女! これが目に入らないのか! 動けばドカンだぞ! 分かっているのかコラ」
彩子さんが前に出たことによって男は興奮気味で言った。
より危険な状態に変わってしまい、彩子さんの身勝手な行動を止めなければならない状況になっていた。
「彩子さん――刺激を与えてはダメです。急いで男の言う通りにしゃがんでください」
僕は後ろから小声で彩子さんに注意を促した。彩子さんは僕の言うことは聞かずに前へ出る。
「あなたの望みは何? こんなことをしても無駄だってわからないの? いい年をした大人がガソリンまいて脅して恥ずかしくないの? 見ていてとても痛々しいわ」
彩子さんの質問攻撃に男は曇った表情を見せる。
「うるせえ! お前に俺の苦しみが分かる訳ない。何もかも消えてなくなればそれでいい」
「ふざけるな!!!」
彩子さんは怒声を吐き散らした。
「甘えるな。人のせいにするな。うまくいかないのなら努力しなさい。人は変われる。簡単に人生諦めるな!」
彩子さんが男に説教を始めた。それに対し男は興奮する。
「一回りも年下の小娘に言われる筋合いはない。何もかも消えて無くなれ!!」
男はガソリンに火を付けようとした。
それを見た彩子さんはペットボトルを男に投げつけた――そう、僕が差し出した麦茶のペットボトルだ。
投げたペットボトルは男のライターを持つ右手に命中した。ライターは男の手から離れ、男の後ろに回転して座席の下に滑り込んだ。
「いってぇ!!」
男は当たった右手を抑える。
それを見た周囲の一人が言った。
「い、今だ! 取り押さえろ!」
その掛け声で周囲にいた乗客たちは一斉に男に襲いかかった。
男は瞬く間に大人数に押しつぶされた。僕は加勢に向かう勇気がなく、気が抜けて地べたにへたりこんだ。
彩子さんは僕を跨いで自分が座っていた座席に戻ろうとした。
「邪魔」
その言葉がとても重くのしかかった。
「彩子さん!」
僕を跨いでいく彩子さんの後ろ姿に話かけた。
「怖くなかったのですか?」
そう言うと彩子さんは振り向いた。
「別に――私、怖いものないです。それと二ノ宮さん。ボディガード失格ですね」
ヘタリこんでいる僕を上から見下すように彩子さんは言った。
「…………」
僕は何も言い返す言葉がなかった――いや、軽くショックを受けた。まるで踏みつけられたみたいに重くのし掛かった。
電車が駅に到着すると、警察が男の確保の為、一気に流れ込んだ。
そのどさくさに紛れて、彩子さんは電車の扉に向かい、僕に言った。
「二ノ宮さん――私はここで降ります。デートは楽しかったです。次回も機会がありましたら、私をご指名ください。その時は今日以上に楽しませてあげます。今日はご依頼ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。では、失礼します」
そう言って彩子さんは電車を降りて、ホームの方へ歩いて行った。僕はしばらくその背中を見届けた。
こうして僕、二ノ宮陸とレンタル彼女の彩子との物語は始まるのであった。
☆
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