第四話―③ 泥だらけの男の子
「大丈夫かな? ハルトにいちゃん、しんじゃったりしない!?」
──な!?
い、今なんて! 今、何て言ったの!?
その言葉の意味を頭で理解するよりも先に。
「どど、どういう事なんですか!? 彼に、
反射的に、私は彼らの元に駆け寄っていた。
「君は、確かあの時の……! ああ、良い所で会った!」
「ねえちゃん、ハルトにいちゃんが、おれの、おれのせいで……」
一体、何があったの!?
「落ち着け、太一! ……ごめんね。今日もデートだったんだろ? なのにこんな……」
泣き出してしまった太一くんを
「実はね、さっき──」
太一くんのお父さんが語るところによると、こうだった。
お父さんと太一くんは、新設されたテーマパーク目当てに、親子二人で遊びに来ていたらしい。私も、その場所の
「……その途中でね、本当に偶然だったんだけど、学生時代の友人と再会してしまって」
趣味で自作のアクセサリーや小物類を路上販売しているという『友人』。
お父さんも、彼と会うのは久しぶりだったらしく、太一くんそっちのけで、話が弾む弾む。夢中でお
なんでも、退屈した太一くんが、宣伝のぬいぐるみに付いていってしまい、気が付いたらお父さんとはぐれてしまった、らしい。
見知らぬ街に、ただ一人。周りに知っている人間は誰もいない。
泣きじゃくる太一くんの前に通りがかったのが……そう、入間くんだった。
事情を知った入間くんは、太一くんを
けれど、テーマパーク目当てだろうか、折しも快晴だった事も災いし、どこを見ても人、人、人ばかりで、なかなか見つける事ができなかったようだ。
「おまわりさん、交番にいなかったんだ。おれ、とーちゃんの電話番号のメモ、わすれちゃって……れんらくも、できなかったんだ」
かわいそうに。そんな状況じゃあ、この子も不安だったに違いない。
それでも
「こいつが、横断歩道の向こうにいる僕を見て、一目散に駆け出しちゃってね。信号が赤だというのに、それを気にもせずに……」
お父さんを見つけて、よっぽど
その横合いから、スピードを出したトラックが突っ込んできて──
「
「な、そんな……!」
「全身、泥だらけで、怪我をしたかどうかも
「そ、それで?」
「大遅刻したとか、
……あまりの事に、私は言葉も出なかった。まさか、そんな事になってたなんて!
「もしも、彼に連絡が付いたのなら、教えてくれないかい? 息子の恩人だ。お礼もしたいし……何より、彼の体が心配だ! 頭でも打っていたら、その場は平気でも時間が
戸惑う私に太一くんのお父さんが名刺を差し出し、そう告げた。
その後、どんな会話をしたのかはおぼろげで、よく覚えていない。
わかっているのは、差し出された名刺を受け取り、連絡を約束したくらいだ。
──気が付いたら私は、駅の方へと足を向けていた。
入間くんは、この駅を利用していた
「──あ!」
いた、見つけた! あの特徴的な後姿は、間違いない!
「入間く──」
そのまま、彼の元に駆け寄ろうとして──言葉を、失った。
彼の姿は、
太一くんのお父さんの話にあったように、頭から泥を
元は良い値段であったろう服はあちこちが破れ、泥にまみれ……ボロ布と化していた。
パッと見た所、血などは流れていなさそうだったが、それでも思わず目を背けたくなるほどに、その姿は痛々しかった。
「何あのブサイク! やだー汚い! ホームレスかなんか?」
「うわ、気持ち悪……っ おい、目を合わせんなよ」
周囲から、彼を嘲笑する言葉が聞こえてくる。
泥に
そして、そんな彼の様子を見て、
そればかりか、スマホで写真を撮っている人さえいる。
「──ッ!」
瞬間、私の心に燃え上ったのは、たとえようのない怒りだった!
彼が、どれほどの事をしたのか知りもしない癖に、よくも、そんな──!
これ程の怒りを感じたのは、生まれて初めてだった。
感情の赴くままに、周囲の野次馬達を怒鳴りつけてやろうと口を開いた、その時。
「どうしたの、
「おい、何やってんだお前!」
突然聞こえてきた声に出鼻を
「あれは…‥
名物トリオの残り二人が、入間くんのところに駆け寄っていく。
「
「それはこっちの
「亮一君の言う通りだよ! それに、その姿は一体どうしたのさ!?」
「こ、これは、そのぅ……」
「ああ、ちょっと待て」
備前くんがぐるり、と周りを見渡し、野次馬達をにらみつけた。その目は血走り、異様な迫力が込められているのがわかる。先ほどまで憤っていた私でさえ、背筋が凍り付いてしまう程に。
「おい、見せもんじゃねえぞ……
備前くんの一喝を受け、周囲の野次馬達が
私もまた腰が引け、思わず尻もちをついてしまいそうになる。
こちらに向けられたわけでもないのに、聴いただけで全身の毛が逆立つようだ。
「さて、うるせえのはいなくなったみたいだ。チラホラ遠巻きで見てるのはもう放っておくぞ。写真でも撮りやがったら、ぶん殴りにいくが」
「事件になるから、穏便にね。それはそうと、
「えっと、これは、そのぅ……」
迷うようなそぶりを見せた後、
「こ、転んじゃってさ! いやあ、俺ってばドジで仕方ねえよなあ!」
え、彼は、何を言って……
「馬鹿抜かせ! どこの世界にただ転んだだけでそんな風になる
「そうだよ、幾らなんでもそんなわけ……」
「いや、
「晴斗君……」
「てめえ、まだそんな事を──!」
確かに、そんな言い訳が信じられるわけがない。私だってそうだよ。
けれど、憤って詰め寄る
「そっか。まったく、君は昔からドジだよね」
「おい、
「
二人の視線が絡んでぶつかり合う。見えない火花が散ったようにさえ見えた。
しかし、それも一瞬の事。先に目を
「……チッ。わーったよ」
「悪いな。ありがとう、二人とも」
お礼を言う入間くんからそっぽを向き、備前くんは
「でも、その様子だと。今日のデートは……」
「……急用ができたって言って、断ってきたよ」
「お前……」
入間くんはがっくりと肩を落とし、力無くうつむいた。
「……こんな姿で話しかけたらさ、
──え?
「俺はいいんだよ。どんなに笑われたって、罵倒されたって。慣れてるし、何とも無い。けどさ、けど……俺の事を好きだって言ってくれた女の子が、笑い者にされるのだけは耐えらんねえよ……」
ぽた、と。彼の目から、泥の滴とは違う液体が落ちるのが見えた。
よろり、と私の足がふらつく。目の前が揺れ、立っている事さえむずかしくて、へたり込むようにして地面に尻もちをついてしまった。
──それほどに、彼の言い放った言葉は衝撃的だった。
「ごめん! せっかくみんなにも励ましてもらったのに!
「……まったく、そのズレっぷりが
「でも……朝比奈さんが」
「まあ、彼女に連絡もせず、待ちぼうけさせちゃったのは確かに良くないけどね。でも、それだって取り返しのつくことでしょ? 絶交を言い渡されたわけでもないんだからさ」
「そうだ、んな事で一々悩んでんじゃねーぞ、鬱陶しい! 朝比奈には明日、ちゃんと謝ればいいだろ?」
「……ああ、そうするよ。サンキュ、二人とも」
「とりあえず、その
「そうだね。服はこちらで用意しておくからさ。とりあえず、その辺のスパ銭で体を洗ってきなよ。それと、一応病院にも行こうね。どこか打ってないか見てもらわなきゃ」
「うう、友情が目に染みるなあ。こ、これは汗なんだからねっ」
「キメエ」「キモイね」
そうして、彼らはその場を立ち去って行った。私は、情けない事に一歩も動けず……
三人の背中を、そっと見送ることしかできなかった。
『俺の事を好きだって言ってくれた女の子が、笑い者にされるのだけは耐えらんねえよ』
耳に、先ほどの彼の言葉がずっと
ざわめく胸をそっと押さえ──私も、その場から立ち去った。
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