パート2:この世界に立つ
自分を意識する。自意識を持つ。
我思う、故に我有り。
そのように、男は唐突に自分というものを認識した。
夢から覚めたような感覚だった。
今まで朧気だった五感の全てが、意識と繋がったようだ。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。
転生し、一年余りが経ったこの瞬間、幼子の脳が漸く男の意識を動かすに足る性能に達したのだ。
と同時に、肉体が経験してきた事を、記憶としてではなく、経験の蓄積として自分のものになった事を悟る。
……本当に転生したのか。
『彼』は本当にカミサマだったのだろうか。もしかしたら悪魔の方なのかもしれないが、どちらにせよ、とんでもない力の持ち主ではあるのは確かなようだった。
……それにしても、前世とは何もかも全く違う。
現在の五感全ての感覚に違和感はない。しかし、前世での感覚も覚えてはいる。
まず違いを感じるのは空気だ。
基本的に男は都市部で暮らしていたが、あそことは空気の澄み具合が違う。
これは単純に空気中の不純物の量の差だろう。
現代社会の、物理的に澱んでいた空気とはまるで違う。綺麗な空気だ。
もう一つは視界だ。
全てがぼやけている。
前世の男は、とても目が悪かった。
裸眼では眼前にまで寄せないと文字を読めず、更には強度の乱視持ちでもあった。
なので普段から眼鏡をかけており、勝手知ったる家の中ならともかく、外や知らない場所で眼鏡を外すということは殆どなかった。
なので慣れぬ場所でこのような状況になるのは、少し不安であった。
しかし納得もしていた。ネットか何かで得た知識に、子供の視力が十全に機能するには一年ほどは時間がかかるらしい。
そして転生する時に願ったのは健康な身体だ。故に『彼』が約束を違えてなければ、これは元々あって然るべき状態なのだ。だからこれは時間が解決するだろうと、あたりを付けた。
そこまでは自分自身に対する現状の確認だ。
では、今現在はどういう状況なのかと言えば、
「■■■! ■■■■、■■!」
「■■■! ■■■ッ!」
ままならない視界の中で両親と思しき二人の男女が、少し離れたところで何事かをこちらに話しかけていた。
新しい自分の両親だというのはなんとなく分かる。
特殊な事情でもなければこのように赤子に話しかける男女、というのはあまり考えられないだろう。
はっきりとは記憶にはないが、今までずっとそばにいてくれたような感覚がある。身体も外敵に対する警戒もないので、ほぼ確実と言って良いだろう。
そして赤子である男自身は、妙にフカフカな絨毯の上に足を投げ出して座り込んでいる。
すぐ横には、落ち着いた色合いのソファがある。
どういう事か考える。そしてその為の材料欲しさに、再び両親らしき人影を注視する。
どうやらこちらに手招きをしているように見える。
僅かに残る記憶を探ると、今までは四つん這い、所謂ハイハイで彼らの方に向かっていた。
がしかし、その時の様子とは少し違うようにも見える。
何となくではあるが今までよりも、より遠くで、より熱心に催促しているようだ。
……立って歩け、と。
これは初めて赤ん坊が歩くという、記念すべき瞬間らしい。と、男の意識は予測した。
そうか、だから今自分は目覚めたのだな、と男は得心がいった。
この世界で生きていく為の第一歩。
言葉通りの状況だ。ここから始まるのだ。
ならば、と男は身体に力を入れた。
ゆっくりと、ソファに手をつき立ち上がる。
だが、中々思うようにはならない。
筋力が足りない。バランスが取りずらい。身体のコントロールが難しい。
それでもやらねばならない。でなければ何も始まらない。
そもそもいくらかは練習しているようで、全く出来ない訳ではなさそうだ。
……いける。
今生の両親たちも応援してくれている。
ソファを支えにゆっくりと一歩を踏み出す。
まだまだ踏ん張りがきく身体ではない。それでも手をつきながら一歩ずつ。
途中で倒れそうになるも倒れない。わざとソファにもたれ掛かり、転倒するのだけは防ぐ。
ソファ伝いに歩く。
一歩進む度に両親が喜ぶのを見て心の中で苦笑する。こういうのは世界が変われど、どこでも一緒なのだな、と。
そんな事を考えつつも転けないようにゆっくりと進み、そして。
「■■ー! ■■■■!」
「■■、■■■■■■」
ソファの端に到達した。ここからは支え無しだ。
ここから両親までは、ソファ以上にある。
だが、行く。歩かねばならない。
歩く。
まるで綱渡りをしているかのようだ。
ただでさえ、体勢が崩れやすい身体なのだ。支えもなしに歩くのは厳しい。
それでも歩く、歩く。
何度も倒れそうになるが堪えつつ、前に、前に。
そして――、
「■■■■■■! ■■■! ■■■!」
「■■■ー!! ■■、■■■■!」
母親の胸に飛び込んだ。というよりも、体力切れで倒れこんだようなものだが。
二人が喜んでくれる。
それは男にとっても祝福だった。
この世界に転生し、その一歩を刻んだ自分への。
だから、男も何か返さねばならないだろう、そう思った。
返せるものは一つしかなかった。
「お、父さ、ん。――お母、さ、ん」
微かな記憶で。舌足らずな口調で。なんとかそれだけを絞り出した。
これが今できる精一杯だ。
と、
「――――ッ」
「――――!?」
両親は一瞬、ともに息を飲んだ。
そして、歓声を上げた。
もみくちゃにされて色々と話しかけられるが、流石にまだ何を言っているのかは分からない。やはりというか、少なくても男が前世で生まれ育った国の言語ではなかったからだ。どこか別の国の言葉と似ている気もするが、細かいところまでは分からない。男は語学に明るかった訳でもなかったのだ。
先の言葉も、多分そうだろうとあたりを付けただけだったが、間違いではないようで安心した。
そんな中、彼らがこちらを見て、ある単語を言う。
先ほどまで、応援していた中でもあった言葉だ。
その言葉にも予測がついた。
きっとそうだろうとずっと思っていたが、ここで確信した。
その言葉を胸に刻む。
「――――ロム」
それが男の新しい、この世界での名だった。
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