8話 眠らない街で(1)
「あんたのキスは死ぬ程イイんだってねぇ。ここいらじゃちょっと評判だよ」
脂粉の匂いをさせながら、女がしどけなく腕を絡めてくる。
血を塗ったような真っ赤な唇で甘く囁いた。
「・・・試してみるか?」
男は藍色の瞳を魅惑的に揺らめかせて、女を誘う。
女は妖艶な笑みを浮かべて、男の唇へ己の唇を寄せるが、男はそれをするりとかわし、女の耳の下に吸い付いた。
赤い唇から官能の色を濃くした溜息がこぼれ、女は顔をのけ反らせて悦楽に酔う。
うっとりとした表情を残して・・・それきり動かなくなった。
男は女の身体をテーブルにもたれさせると、酒代を置いて席を立つ。
女たちの嬌声と、それに埋もれる酔った男たち。
ほとんど灯りの無い穴ぐらのような裏酒場で、出て行った男の眼が深紅に光った事など、気付く者は誰も無い。
「あんな噂が立ったのでは、この辺りもあまり使えないな・・・」
ブツブツと独り言を言いながら人気の無い路地に出ると、テレンスは地を蹴って高々と跳びあがり、手近な屋根の上へと着地した。
眼下の歓楽街に目をやる。
ここは、食事をするには都合の良い場所だ。
多少、異様な事が起きても、酔っ払いの
眠らない街は真夜中というのに、沢山の灯りで
ほんの10年ほど前は、こんな時間まで開いている店など数軒しか無かったのに・・・。
鉄道網の整備により、人と物の往来が活発になった。
その鉄道を所有するのは、ウィルトン家だ。
元々、同家が経営する紡績工場の製品を運ぶ為に敷いたのだが、成果はそれに留まらない。
列車は地方から働きに来る者たちを運ぶ。
人が増えれば、それを相手の商売人たちが、住む家を作る職人たちが来る。
様々な店ができれば、またそれを目当てに人が来る。
そうやって、この街は急速に発展して行った。
テレンスは屋根を跳んで、別の路地を目指す。
街が発展して夜が明るくなって行くのはあまり歓迎できないが、歓楽街が大きくなったのは不都合な事ばかりではない。
妙な噂が上ったからと、遠くの街まで狩場を変える必要が無くなった。
新興の歓楽街の繋がりはまだ薄く、数ブロック離れてしまえば、別の街も同然だ。
人目の無いのを見計らって、建物の隙間へと降りる。
そして何事も無かったように路地へと出て行った。
「あの・・・お花はいりませんか?」
呼び止められて振り返る。
若い娘が不慣れな愛想笑いを作って、小さな花束の入った籠を差し出した。
こんな遅い時間に花売りとは珍しい。
確かに夜の商売ではあるが、もう少し早い時間に見るものだが・・・。
「もらおう」
言われた代金を娘に渡す。
「あの、あの・・・お客さん、あの・・・」
娘は声を震わせていた。
「も、もう少しお金をはずんで下されば・・・も、もっと綺麗な花をさ、差し上げますよ」
しどろもどろと感情の入らない言葉を口にする。
こちらを窺う気配にチラリと視線をやれば、物陰に男が立っていた。
この娘の元締めか、それとも宿に連れ込んだ途端、乗り込んでくる
金額を聞く。
懐から金を出し、籠の中へ投げ込んだ。
娘はそれを見て、歯が鳴る程に震えだした。
テレンスは投げ込んだ手で、籠の花束を全て掴み取る。
「3束か・・・まあいい。後はまけておいてやる。今夜はこれで帰れ」
ポカンとした顔の娘を置いて、
「・・・最近はああいう手合いが増えたな」
眠らない街の裏路地を歩きながら、テレンスは独り言を呟く。
近頃は、見るからに世慣れない娘が、酒場で酔客の相手をしたり、通りで男客を引いたりするのが目立つ。
それは何の代償なのか。
親の借財か、それとも自らの
あの年頃の娘は苦手だ・・・。
家で待つ蜂蜜色の髪の娘を思い出す。
カーテンの隙間から、今夜も黙って見送っていた。
テレンスは頭をひとつ振った。
もう少し渇きを癒してから帰らなければ。
近頃はバートも忙しく、夜勤の日でなくとも明け方近くまで帰らない事もある。
こうして食事に出歩くのも、ままならない日が続いていた。
さっきの花売りを救ったなどとは思っていない。
今夜だけの事だ。
明日の夜にはまた、あの娘はガス燈の下に立って、震えながら泣きながら、男の手を引くのだろう。
街は発展を続け、あらゆる人間を呑み込み大きくなった。
成功を夢見て、ここへ来た者たちも大勢いた。
だが、その全てが成功を手に入れられる訳も無く、夢破れてこの裏路地に流れ着く人間も少なくない。
「お兄さん、いい男だね。遊んで行かない?」
路地の薄暗い壁際で、女が手招きをしている。
派手な化粧をしているが、若い女だ。
安物のドレスは化粧に劣らず派手な色合いで、胸元が豪快に開いていた。
「おや、花なんか持っているのかい?」
女はテレンスのクロークの内側からのぞく花束に、興味を示す。
テレンスはひと束取って女の胸元に押し込み、腰を抱き寄せた。
「これでごまかそうって手かい?綺麗な顔をした男は、みんなズルいね」
女はそれでも、テレンスの目を艶めかしく見つめる。
そんな女の身体を建物の壁に押し付け、自由を奪った。
「ここじゃダメだよ兄さん、店に入っとくれ。親方に叱られちまうんだよ。勝手に客とシケ込んだまま消えちまう娼婦が多いって話でさあ。店以外でヤルとうるさいんだよ。その代わりにさぁ・・・天国を見せてやるよ・・・」
粘りつくような声音でテレンスの耳に囁く。
その頭を少し傾けて耳の下辺りに唇を付けた。
「ダメだって・・・あ・・・」
女は言葉にならない甘い呻きを漏らしていたが、やがて何も言わなくなり、テレンスが手を離すとズルリとその場に崩れ落ちた。
「悪いな。天国とは折り合いが良く無い」
倒れた女に言葉を落とすテレンスの瞳は、深紅に輝いていた。
人目に付く前に、その場を離れる。
路地の暗がりへと身体を滑り込ませ、そこから屋根の上へとひと息に跳び上がった。
やはり身体が軽い。
若い異性の血はすぐに活力になる。
ふと、昼間にメグが言っていた事を思い出してクスリと笑った。
メグが言っていたのは、あながち全てが間違いだった訳ではない。
同性よりも異性、老人よりも若者の血の方が力になるのは本当だ。
ただ純潔かどうかはさして問題では無いが。
・・・いや、あれは花嫁の話だったか、と思い返した時、
「テレンス先生、こんばんは」
可愛らしい声が、空から降ってきた。
仰ぎ見ると、エリザ学院の制服を着た少女が、時計塔の三角屋根のふちに座っていた。
編み込みをカチューシャのようにした髪を夜風に揺らして、テレンスを見下ろしている。
「門限どころか消灯もとっくに過ぎている。外を出歩いて良い時間では無いな、1年生」
ウフフッと、悪戯っぽく笑って、リゼットはテレンスのそばに舞い降りた。
「あら、可愛いお花を持っているのね」
羽織ったクロークからさっきの残りの花束が覗いていた。
「欲しければやろう」
「いいの?花嫁へのお土産なんでしょ?」
上目遣いにリゼットが見てくるが、テレンスは黙って花束を差し出す。
「あいかわらず、変なトコが照れ屋さんね」
リゼットはクスクスと笑いながら、花束を受け取る。
だが、すぐにその笑いを止めた。
「・・・テレンス、このお花、若い花売り娘から買ったわね・・・」
「それが?」
「死んだわ。たった今」
テレンスは眉根を寄せる。
ふわりと空中に身体を浮かせたリゼットが、暗い路地の一角を目指して降下した。
その辺りは、テレンスが花売りから花を買った場所に近い。
リゼットはそこで何かを見つけ、手に取って戻って来た。
To be continued.
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