7話 歯の無い鍵
その時、ふわりと肩に何かが掛けられて、アメルはふと顔を上げた。
「夜はまだ冷える。身体に毒だ」
テレンスの深い藍色の瞳がそこにあった。
掛けられていたのは彼の上着だ。
「ありがとうテリィ」
温もりの残る上着を、アメルは両手でかき寄せる。
「・・・あれに何か言われていたのか?」
あれって・・・。
アメルは思わずクスクスと笑い出す。
ケインはテレンスの雇い主であるのに、なかなか大胆な口だ。
街の資本を握っていると言っても過言ではないウィルトン家には、誰もが遠慮がちな物言いになるというのに。
「ケイン=ウィルトンを『あれ』呼ばわりするのは、この街でテリィとバートさんぐらいよ」
「あれは、あれで構わん」
テレンスは馬車が消えた方へと目を向けている。
額に掛かる黒髪が、夜風に吹かれてなびくのを、細い指が煩うるさそうにかき上げた。
「・・・バートさんは、ウィルトン家のヴァンパイアはケインだって言ってたわ」
テレンスの視線がこっちに向いた。
「パパとママの事故もケインが仕組んだ事だと思っているの。表立っては口にしないけど、まだ調べているみたい」
遠くで馬車が石畳を踏む音が聞こえる。
どうやら辻馬車がまだ動いているようだ。
普段ならとっくに
「アーサーはバートの親しい友人だからな。思う所があるのだろう」
テレンスの言葉にアメルは頷いた。
バートは、アメルの父親の幼ななじみだ。
アメルが12歳の時に、両親であるアーサーとジェーンが馬車の事故で亡くなった。
それからというもの、バートは家族のようにアメルの面倒を見てくれている。
そして、アメルにはそんな人物がもうひとり居た。
「・・・ねえ、テリィ」
アメルはテレンスを見上げる。
「・・・テリィは・・・ヴァインパイアは本当に居ると思う?」
春の風がゴオと音を立てて耳元を掠めて行った。
アメルの問いに、テレンスの瞳が見開かれる。
だがそれは、すぐに穏やかなものへと戻った。
「・・・怖い話を聞くと、夜中にベッドで泣きベソをかくぞ」
ハッと、アメルは顔を真っ赤にした。
「ひどいテリィ!もうそんな子供じゃないわよ!」
拳を振り上げて抗議するが、テレンスは笑って受け流す。
「夜も遅い。中へ入ろう」
優しい声に、アメルは「ええ」と微笑む。
「立ち話は疲れるんだ・・・」
テレンスはよろりと玄関にもたれ掛かった。
巨大な資産を有する実業家、ウィルトン家の当主ジャック=ウィルトンが亡くなったのは、2年前の事だ。
残された莫大な遺産は、彼の遺言状に従い、相続者たちに分けられる事となった。
まず彼の次男であるケイン=ウィルトン。
彼はすでに父親を継いで経営を任せられていた事もあり、同家が持つ資産のほとんどを受け取った。
次に孫息子ジェフリー=ウィルトン。
同家が所有する別邸と、広大な別荘地が譲られた。
最後に孫娘アメル=ブライス。
彼女に譲られたのは、エリザ学院に寄り沿うように建っていた、古い3階建ての家とその土地だけであった。
分配は明らかに不平等であったが、それが亡くなった者の意思であり、受け取った者たちからの不満は無く、全ては丸く収まる・・・はずだった。
この遺言状に書かれていない遺産があると知れるまでは。
それは銀行の貸金庫であった。
生前、ジャック=ウィルトンが執事にも任せず、自分で管理をしていたようで、中に何が入っているのか知る者は誰も居なかった。
しかも、金庫を開ける鍵の行方が分からなくなっており、開ける事もできない。
ならば、合鍵を作るなり壊すなりして開ければ良いという話になるが、この銀行の頭取が、金庫に関する別口の遺言状を、ジャック氏から預かっていたのだ。
「金庫の鍵を持って来た者が誰であろうとも、その者に中にあるものを全て譲る。それ以外はいかなる理由であっても、金庫を開ける事を禁ずる」
それは故人による直筆のもので、疑う余地の無いものであった。
そしてこの遺言状は、堂々と銀行に掲げられたのである。
もちろんそれも故人の意思であると、遺言状に書き添えられていたのだ。
それを目にした強欲な者たちが、連日ありとあらゆる鍵を持って銀行を訪れ、金庫を開けようと試みた。
しかし、金庫の扉は誰の鍵を持ってしても、全く動かない。
あまりの騒ぎになった為、ケイン=ウィルトンが銀行ごと買収し、金庫は厳重に警備される事となった。
今でも、鍵は見つかっていない。
真夜中、アメルはふと目を覚ます。
音は無い。
けれども確かに玄関から、誰かが出て行く気配があった。
ベッドから身体を起こして、そっとカーテンの隙間から外を覗く。
ガス燈のほのかな明かりの中を、長身の後姿が歩いて行くのが見えた。
テレンスだ。
ああ、今夜はバートが家に居るんだった。
アメルは小さく息をついた。
今夜が初めてではない。
この家で一緒に住むようになってから、夜更けにこっそりと出かける姿を、何度も見ている。
どこへ行っているのか、気にならないといえば嘘になる。
朝には必ず戻っていて、出かけていた素振りすら見せない。
本人に問いただすのは気が引けたが、バートに聞いてみるのもいけない気がして、一度だけそれとなくマーサに言ってみた事があった。
「アメルさん、テレンスさんも大人の殿方ですからね、色々なご事情がおありなんですよ」
その事情とやらに見当が付かない程、アメルは子供では無い。
ただその時に、妙な生々しさを感じて、恥ずかしいような腹立たしいような、変な気持ちになったものだ。
物心付いたときには、すでにテレンスが居た。
彼と自分の家族がどういった関係にあるかとか、彼がどういった身上の人物であるのかなど、子供にとってはどうでも良い事に過ぎない。
忙しい両親に代わって、自分をかまってくれる人は、何者であろうと大好きな人だった。
ふと、唇に手を当てる。
子供の頃、彼の顔を見れば言っていた「大好き」という言葉を、口にしなくなったのは・・・いや、できなくなったのは、いつ頃からだったか・・・。
きっと、同じ頃だと思う。
テレンスが変わっていないと気付いたのと・・・。
「あいつは昔老けていたんで、今頃になって歳の方が追いついて来たんじゃねえのか?」
バートが笑ってそう言った事があった。
そうかもしれない・・・とも思う。
でも、近頃はバートを見ると、亡くなった父もこんな風になっていたのかな、と、しみじみ思う事がある。
なのに、テレンスにはそういう感じが無い。
いつの記憶も、テレンスはそのままの姿だ。
テレンスはこちらを振り返らずに、大通りに向かって歩いて行く。
やがて建物の角を折れて、姿が見えなくなった。
あの方向には、眠らない夜の街がある。
そこにはきっと、自分と同じ位の年齢の娘たちも居るだろう。
あの春の終わりの原っぱでキスをしてくれた時から、テレンスは変わらない。
なのに自分はもう、幼い女の子では無い。
・・・これは、どういう事なのだろう・・・。
答えはある。
アメルの胸の中に。
けれど鍵をかけた。
自分の胸に。
アメルは首に下がっている鍵を取り出した。
鍵はここにある。
祖父の葬儀が終わった時にテレンスから渡されたのだ。
何を開ける鍵なのかは聞いていない。
テレンスもそれきり、鍵については何も話さない。
だから自分も、誰にも話していない。
これは鍵穴に噛み合わない鍵。
誰にも開けられない。
だから閉じておこう。
このまま、ずっと・・・。
知らないままにしておこう。
気づかないままにしておこう。
だって・・・
気づいたら
知ってしまったら
開けてしまったら・・・
・・・テリィが居なくなってしまう・・・。
だから・・・
アメルは窓を離れて、冷たくなったベッドに潜った。
To be continued.
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