その7 香港の占い師 原稿用紙約8枚 最終章

 さすがに黄色いな。

 男は深護市に着いたとたん、苦笑する。

「春先から梅雨明けにかけてが最も黄色い」

 と、数十年前の学者が仮説を立てていたと聞いていたために、わざと時期をずらして真夏にやって来たのだが、それでもやはり街は黄色い。

 男はその前に、樹の海へも訪れていた。そこでは「青」を見た。「冬に青い」と耳にしていたので、敢えて夏を選んだのだった。

 彼は香港で占い師をしている。店は出していない。知り合いを占って、知り合いが知り合いに広め、そうしていつしか中華圏の、表に出ない世界では、かなり名の通った評価を得られるようになった。一方で彼は、英語、日本語、フランス語、イタリア語を使いこなすことができるため、次第にクライアントは世界中へ広まりつつある。

 日本にも顧客ができた。そこからふと、「青い樹の海」、「黄色い暇山」という噂を聞きつけ、関心を持って一人、日本を訪れたのだった。

 男にその話をした日本人は、ほかに「赤」と「白」があるとも言った。

 しかし男は、それでは足りないと感じていた。

 男は東洋占星術を扱う。五行思想が根底にある。

 東洋の五行思想では、「木」が「青」「緑」、二月始めの立春から始まる。「火」が「赤」、五月の立夏から。「金」が「白」、八月の立秋以降の二か月。「水」が「黒」、十一月の立冬から始まる二か月。そして、それぞれのあいだを埋めるように一か月ずつ「土用」という月があり、そこでは「黄」「茶」が強くなる。

 木火土金水の順に季節が巡るため、年に四か月ある「土用」のうちで、「火」である夏と、「金」である秋のあいだにある「土用」が、もっとも勢いを持つ。日本では夏と秋の土用のあいだに栄養価の高いものを摂る風習があることを彼は知り、理に適っていると唸ったことがある。

 やはり、「黒」が足りていない……。

 男はそれがどこかにあると確信している。探して歩くことをしなくとも、この星のどこかには「黒い街」が存在しているに違いなく、いずれ男の知るところになるであろう。

 男は、すべての色覚異常の受容体を持っている。だから、深護市や樹の海などのように、土地そのものが異常な場所にいない限り、季節の五行が強める色によって、一年を通して色覚に異常を感じ取り、男にとってはそれは精神に不調を来たすものではなく、むしろ季節の風物詩と呼べるほど、日常のことだった。

 この街の「黄色」は、異様な強さを持っている。樹の海の「青」も尋常ではなかった。この小さな島国に二か所も、どうしてこれほど異常な土地が集まっているのか?

 男は仮説を持っている。

 数十年前、日本人科学者によって書かれた「仮説」によると、地震や火山の噴火による溶岩の流出で、その土地の磁場の異常が原因ではないかとされていた。

 男はその仮説をさらに推し進めた考えを持っている。

 日本列島は、四つのプレートがぶつかり合うことで形成されている。そのために火山が多く、その活動に伴う地震も多い。

 一方で、「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈は、インド亜大陸がユーラシアプレートに衝突した際に隆起したものである。

 男はその地域を訪れたこともある。くだんの仮説を立てた科学者は、インドへ調査に出かけるということばで仮説を締めくくっていたが、その後その科学者の論文は現在まで残ってはいない。

 男は別の仮説を持っていた。「インドモンスーン」を、西日本地域の色覚異常の原因とする点では同じである。しかし、根源は、「インド」そのもになるのではなく、もう少し東側の、アルプス山脈の麓、ちょうどインド亜大陸がユーラシアプレートに衝突した辺りでないかと考え、インドなくネパールを訪れた。男はその土地で、非常に黄色い世界を見た。そこはまるで一日中砂ぼこりが舞いつづけているかのようで、茶色みを帯びた黄色い粒子が街じゅうを覆っていた。

 今、深護市で彼の色覚受容体が感じ取っているものは、インドで感じたものに比べ、例の仮説にも書かれていたとおり、鮮やかに黄色い。

 男は、祖国では感じたことのない不気味な波長が靴の裏から脳まで伝わって来るのを、はっきりと感じ取っている。

 色覚異常の地域差と、犯罪発生率が比例するということは、近年科学的にも実証されつつある。

 男は、この街で犯罪が多いことは当然のことだと考える。

 そのとき。

 地面がゆれた。大きな地震が襲って来たのだ。

 ついに来たのか。

 百年近く前から、日本には大きな地震が来ると、予測はされていた。

 このわたしが呼んだのか?

 男は、足元のアスファルトに亀裂が入って行くのを見ながら自嘲する。その場にしゃがみ込む。

 ゆれは、三分余りつづいた。

 背の低い建物のいくつかは傾いているが、備えが行き届いていたらしく、大きな建物ほど頑丈に、巨大地震など気にしないといった様子で、平然とそこにそびえている。

 と。

 突然男は気づいた。

 明るい!

 世界が急に明るくなったのだ。まるで火災現場から逃げ出して、真っ黒な煙に巻かれた景色から、脱することができたかのように。

 男自身、つねに、黒の色覚異常に影響をされていたのだ! どうりで、冬の黒さが異様に強かったわけだ、と納得をする。

 ふと、ゴッホの『ひまわり』の色彩が、男の脳裡に浮かぶ。ゴッホはあの色を本物のひまわりの色、黄色だと信じていたと言われている。

 それと同じように、これまで男が「白」だと信じていた色は、本当は灰色だったのだ。

 そしてこれは、男だけに起きた変化なのではなく、この世界に住むすべての人々に一斉に起きた、「色覚治療」なのではなかろうか。

「自然治癒力、か」男は一人、低い声でつぶやいた。「ゴッホの色調も、これを境に変化したかもしれないな」

 この大きな地震によって、多くの犠牲者が出ることだろう。男は考える。数年前に香港で起きた地震で、妻子を亡くした。周囲が男を案じたにも関わらず、男は「これも自然の摂理。地球に抗うことはできない」と、毅然としていた。心に悲しみが湧かなかったことには違いないが、悲哀よりもあきらめのほうがまさっていたのである。

 地球は生きものである。ヒトなどの動植物は、そこを謂わば「間借り」して生かしてもらっているに過ぎない、という思想が、男の根本にあった。

 地球という生きものは、自らが一度は歪めてしまった磁場を、こうして一斉に自己修復する作用を持っているのだ。ヒトなど、地球上に暮らす多くの動植物にも備わっているのと同じように。

「歪んだ磁場によって患っていた心も癒え、色覚異常もなくなり、心がリセットされる人も多く現われるであろう。

 あるいは。歪んだ磁場の影響を受けているものは、ヒトに限ったものではないかもしれないな……」

 ゆれがおさまったのを感じた男は、その場に立ち上がる。

 濃い青をした真夏の空、男が仕事で用いる暦では、すでに「秋」である。

 青い空に、白っぽい太陽が、何に遮られることもなく、燦然と光を注いでいる。

 次第に男の視界は、「秋」特有の白さを、ほんの少し、帯び始めた。


了 四百字詰め原稿用紙31枚

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