その2 季節病 原稿用紙約5枚

 春になると決まって気うつになるわたしのために、英雄(ひでお)はことしのゴールデンウィーク、気分転換の旅行を計画してくれた。新幹線のチケットや、宿泊するホテルの手配を、英雄はその都度わたしに軽い確認を促しながら、全部一人でおこなってくれた。

 英雄と付き合い始めてから五年になる。同い年で、はたちのときに恋人になって、今、わたしは就職をしたけれど、英雄は大学の院でまだ研究をつづけている。

 地質学を専攻している英雄は、わたしのこの気うつを「季節病」と呼ぶ。気象を専攻している友人から聞いたらしい。

 しかし彼は、この時期に気分が滅入るわたしを、非科学的だと言う。気象に詳しいその友人によると、精神に影響を及ぼす季節病は、日照時間が短い冬に多いらしい。わたしが春に気うつになるのは理屈に合わない、と言うのだ。

 だからこれまでのゴールデンウィークは、どこへも出かけずどちらかの部屋に閉じこもり、けんかばかりをしていた。わたしにしては口論に費やすエネルギーさえも、自分をひどく消耗して、苦痛でならなかった。

 そんな英雄がことしに限って違うのは、心理学を研究している人と知り合ったせいらしい。

 英雄は口は悪いし頭も固いけれど、少なくともわたしを心配してはくれている。

 心理学を専攻している人にも、春先のわたしの症状について相談してくれたようだ。

「気温が上昇すると、脳内の血流が良くなる。それに伴って抑うつ物質が分泌されて、その時期に精神のバランスを崩す人は多くいる」

 最近知り合った英雄の友人は、彼にそんなことを教えたらしい。

 それで気分転換の旅行となったのだけれど……。

 それだけでは説明がつかないことを、わたしはよくわかっていたし、英雄も百%納得しているわけではなさそうだ。わたしの気うつは確かに暖かくなり始めたころに始まる。しかしこの症状は、梅雨があけるまでつづくのだ。

 わたしは関東地方にある冬経(とうじん)市という街に住んでいる。わたしの関東地方の「梅雨明け宣言」は、気象庁が報道するそれと、ほとんど一致する。まれに異なる年があるけれど、それは気象庁が出す「速報値」で、あとから修正される梅雨明けの日は、わたしが実感した「梅雨明け」のタイミングと、結局は同じになるのだ。

 気うつの始まりは、確かに抑うつ物質が分泌されるせいかもしれない。

 しかし季節が進むにつれて、自分のなかに何か違うものが入り込み、よほど集中しない限り、思うとおりに自分を動かす――例えば指先一本動かすことすら――普段以上にエネルギーを費やさなければならなくなって来る。

 梅雨の終わりには、悲しくもないのに、一人で泣き叫ぶことがしばしばある。そんなところへ帰宅した英雄は、黙ってわたしを抱きしめてくれるが、その温もりでさえ、混乱したわたしを治めることはできない。

 梅雨が明けるとわたしは約一週間、動けなくなる。それまでの数か月、自分に流入していた「何か」との闘いに疲れ果て、何もできなくなるのだ。当然会社を休む。それ以降、本格的な夏に入ると、わたしは「自分」を取り戻すことができる。

 仕事に支障のあることだから、精神科へも通っている。そこの医師からはこの症状を統合失調症であると診断された。しかし季節的なものである点については、その医師も、合点が行かないと言った。

 誰にも話していないことが、一つだけある。

 自分が不安定な時期は、わたしの視界は、すべてのものが黄色く見えるのだ。セピア色よりももっとヴィヴィッドに、黄色い。すべてのものが、黄色の濃淡を帯びて映るのだ。梅雨が終わるころには、空気が透明感を失うほどに真っ黄色になる。まるで、新しいアーティストが手がけたシュールレアリズムのジオラマのなかに入り込んだかのように。

 いくらわたしの気うつについて寛容になって来た英雄でも、そんなことを聞いたらまともに取り合ってはくれないだろう。

「非科学的、非論理的」

 とあしらわれるのは、わかりきっている。

 もしことし、さらにその変色がひどければ、精神科のドクターにだけは打ち明けてみようと思っているところだ。

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