大学時代の私-休学中-


4月から大学を休学し、治療に専念することにした私は、とにかく体調を戻さないとと思い、副作用が酷かったですが薬を飲みながら自宅療養していました。

ほとんど横になり、薬も状態が悪かったので少しずつ増えていきました。

不眠、憂鬱感、体のだるさ、焦り、絶望感、自殺願望、リストカット、、とにかく体調が悪すぎて、当時は免許を取るために貯金していた費用で賄っていました。


部活動の事もフラッシュバックするようになり、過呼吸が起きたり涙が止まらなくなったり。

そしてアルバイトでの冷たい目で見られていた時のことを思い出し、絶望感でいっぱいでした。

家にほとんど籠るようになり、出るのはコンビニや病院、友達にたまに会うのも近所で会ったりしていました。

死にたいと強く思い、自傷行為もひどかったりしたので入院の話や薬の副作用の辛さが酷く、なんとか外に出て電車に乗った時は意識を失い、救急搬送されたりしました。

後に現実逃避のために朝に睡眠薬をODしたときは一瞬で意識を失い、後から聞いたのですがその時誰も家におらず、母が夕方帰ってきた頃には家はグチャグチャ、私が部屋で倒れていたみたいです。

そして救急搬送されましたが時間経過の問題等で胃洗浄は出来ない状態だったので、結局はその数年後に胃洗浄をする羽目になったのですが、今思えばあの時は胃洗浄にならなくて良かったなと思いますが内科に1日入院したりしていました。


辛いなと思いながらなんとか生きていましたが、まさに薬漬け、薬物依存状態。

強い薬を処方されていましたが、当時は強い薬でないと一切効かなくなっていたのでもう製造中止になっている精神薬の1番きつい薬のラボナやベゲタミン等も処方されていました。

毎日毎日薬を飲むだけ、何もやる気がなく体は薬でだるく、ほとんど外に出ていなかったように思います。

お風呂も毎日入るのは困難でホームページを作り、自分の気持ちを吐露していました。

薬を飲めば楽になると思い、薬頼りでしたが良くならず、体もだるい、でも寝れない、死にたい。

自殺の危険性が出てきて入院を勧められても拒否していました。

何度か後に入院になった精神科病院の救急に行きましたが、一向に良くならず、入院なんてしたくないという気持ちがあり、でも死にたい。

母が調べてくれた精神疾患に良い鍼治療の病院を見つけ、通っていましたが遠く、行くのもしんどい。

何度か行っていましたが自分の負担が大きく、もう行くのもやめてしまいました。

もう何もやる気がしない。

死んでしまいたい。

部活動の事を思い出しては過呼吸が起き、自傷行為をする毎日。

やめようと思ってカミソリを捨てましたがそれでも買いに行き、毎日切っていました。


もう生きるのに疲れたなと思い始め、死にたい、もう無理だと考えていました。

死にたいと人に言えなかったので余計に辛かったです。

生きていくのに意味がない、こんなに辛いなら死んだほうがマシだ。

ですがどこかにまだ希望を持っていたと思います。

希望なんて持ったって意味ないのに、、そう思いながらどん底の状態で生きていました。

リストカットをして凌いで死んだように生きる日々。

通院はしていて、ですが部活動の事は話さず親にも話さず、それがトラウマになっていることも話していませんでした。

人に素直に話を出来なかった私は、聞いて欲しい、けれど否定されたくない。面倒臭いと思われたくない。

話したところで理解してくれない。

泥沼状態でした。

極限にきていた時、もう死んだ方が周りの為でも自分の為でもあるんじゃないのか。

自分は苦しいし周りも苦しめている。

ホームページや日記しか吐露出来ず、構ってちゃんと思われるのも辛い。

ただ話を聞いて欲しいだけだったけれど、自分の話が出来なかった私は、死んだら辛かったことを分かってくれるんじゃないか。

部活動の人達を後悔させることができるんじゃないか。

周りは、特にその女の子は自分のなりたかった将来の夢の学校に元気に通っている。

怒りから憎しみに変わりました。

あいつらと出会わなければ。

あの時自分を信じて自分がしたかったことを辞めておいたら。

過呼吸になり、当時の事を振り返ると生きているのが馬鹿らしくなりました。


自殺を考えました。

今まで死にたいと考えてはいましたが、もう何もかもが馬鹿らしくなり、実行に移そうと思いました。

自殺をする場合はどうすればいいのか。

色々検索をしました。

高校時代にホームセンターに練炭を見に行ったものの、それを思い出しましたが買っても実家だからバレる。

免許がないから車の扱いも分からない、借りれない。

部屋だと目張りが大変だったり何個も用意しなければならない、部屋に入ってきた誰かが犠牲になるかもしれない。

そう思い、練炭は辞めようと考えました。

手首を切りお湯に浸ける、それも発見を考え辞めました。

死ぬのは夜中にしようと決め、首吊りを考えました。

ただ、実際苦しくないと聞いても苦しいかもしれない、死体が無惨だとネットで見て、躊躇しました。

外は色々と面倒事になりそう。

家だと発見した誰かがトラウマになるかもしれない。

けれど死ぬことしか考えていなかったので、それを振り切らないと死ねない。と思いました。

遺書は絶対とネットに書いていました。

絶対でなくても遺書は書くつもりだったので、遺書を書きました。

一人一人に向け、謝罪やお礼など色々と書きました。

書いているうちに涙が出てきて、家族や周りに本当に申し訳ないと思いました。

今まで支えてくれた人達を裏切るのだから。

母には「絶対に後追いはしないで」と書き、兄達に母を宜しくとも書いたのを覚えています。

いざ首吊りをしようと思い、部屋を見渡しましたがカーテンレールはすぐにちぎれると考え、ロープも買いに行く気力も無かったので、昔何度か使っていたベルトを見つけました。

これでしようと思い、場所を決め、ですが当時首吊りはただ首を紐などで締めるだけと考えていましたし、変な言い方ですが位置やもやい結び等の結び方、定型、非定型すら知らなかったのです。

ただ固結びし、一度首を掛けてみました。

ですが恐怖心でなかなか全体重を掛けれない。

足を浮かせることが出来ない。

恐怖で足が震えました。

何度か試し、結局その日は無理でした。

情けない思いと、死んだらどうなるか分からない、発見した人にトラウマを植え付けるかもしれない。

母はどうなるのか。

自分自身の死への恐怖、そしてまだ捨てきれていなかったたった少しの希望。

もう少ししたら良くなるかもしれない。

そう考え、その日は辞めました。

ですが日々のしんどさは変わらない。

色んな人への憎しみ、辛さ、特に家族では母が懸命に支えてくれていました。

その人達への裏切り行為。

迷いがありました。

でも辛い。

死にたい気持ちは変わらず、毎晩遺書を引っ張り出し何度も何度も試しました。

でも出来ませんでした。

死ぬことすら出来ない。

こんなに辛いのに死ねない。

なんで躊躇ばかりするんだろう。

今でも覚えています、初夏頃だったかもしれません。

躊躇ばかりしていましたが、この孤独感やしんどさ、憎しみと共に生きていたくない。

裏切りですがもう何も考えず、最後くらいは自分のわがままにさせてもらおう。

無けなしのお金を出し、少しのお葬式代にしようと思い、そして遺影はこれにしてくれ、音楽はこれでと、色々書き足したり机に全て用意した状態でもう何も考えないようにしてまた、首を掛けました。

一瞬戸惑いました。

恐怖心も出ました。

でも、もう無理だから。

首をベルトに掛け、足を浮かせました。

すぐに意識は飛ぶ訳ではなく、何秒か分かりません。

私にとってはすごく長かったように感じますが実際は短い時間かもしれません。

シン、としていました。

目の玉が出るような感覚にもなりました。

あ、死ねるのかな。と思った瞬間、ブチッとベルトが切れました。

ドサッと落ち、何が起きたのか分からず、ふと見るとベルトが完全に千切れていました。

死ねなかったんだ、と思った途端に涙が出て、その場で号泣しました。

死ねなかった悔しさもあるかもしれませんが、恐らく死ななかった、という安堵もあったと思います。

やはりまだどこかで思い残しがあったのだと思います。

頭が割れるように痛く、その日は色々な物を片付けてすぐに寝たと思います。

次の診察で、この件は詳しく主治医には話しませんでしたが、切迫していたことを話すと即入院になりました。

何度か見学に行き、入院拒否したり救急に行った精神科病院でしたが、もう私も諦めがあったのかもしれません。

19歳で初めて精神科に入院しました。

まずODで内科に入院したとはいえ、1日だったり親も付き添いが必須と言われていた状態で1日の入院でしたしどういったものか分からず、見学での恐怖があり、親が帰ると不安でいっぱいでした。

急性期病棟だったので、最初は保護室でした。

荷物検査し、衣服を専用の服に着替え、顔写真を撮られ、金属探知機をされ。

保護室はベッドしかない部屋でした。

窓は鉄格子で上の方しかなく、外の景色も分かりませんでした。

担当医と話しましたが、泣いてばかり。

薬を処方され、寝れませんでしたがとにかく目を瞑り、次の朝を迎えました。

朝、ご飯を食べるのに案内されたロビーとも言えない狭い空間で、色々な人に見られました。

この病棟が一体どんな作りになっているのかも分からない。

閉鎖病棟で外の様子も、保護室のフロアは今が何時かも分からない状態でした。

保護室生活が4日程続き、一般病棟に移りましたが、移ったと言っても移動したようなもので、隔離からの大声で叫んでいるのも一般病棟でも様々な人がいましたし、看護師さんも冷たく、毎日泣いていました。

今が何日かも定かではなく、テレビもなく、私は経過観察だったので個室の、保護室よりかは多少マシなだけの病室でした。

心理検査をしたり、少しずつ患者さんと話し、最年少だったので話してくれる人はいました。

ですが突然暴れたり隔離室からの声や喧嘩、覚醒剤の話や何がなんだか分からない状態で不安定が続き、毎日毎日泣いていました。

いつまでこんな生活が続くんだろうと考えていました。

薬が増え、それが躁転だったのかもしれませんし、今思えば夏場だったので躁転の原因かもしれません。

人格が一変したように明るくなり、生きてて良かった!と思いました。

意気揚々とし、担当医に良くなったことを伝え、仲の良い患者さんと話したり、泣くこともなくなり、所謂「怖いもの無し状態」でした。

退院したらまた学校を頑張って、次こそ行くんだ!と思っていました。

薬も減り、もう睡眠薬程度の量になり、嬉しく、あの時死ななくて良かった、と感じ、結局は束の間になるのですが元気な入院生活となりました。

その入院期間はおよそ1ヶ月程度でした。

担当医と最後の病棟の診察で、「双極性障害かもしれない」と伝えられました。

当時、双極性障害や躁鬱病という病は知らなかったので、ピンと来ませんでした。

とにかく良くなったんだと思っていたので、その入院施設のある病院か、前の心療内科に戻るか決めることになり、元の病院にしました。

報告書には恐らくですが双極性障害の疑いを書かれていたかもしれません。

退院し、元の心療内科に通い、(心療内科と精神科の違いも当時はよく分かっていませんでした)

少ししてお金も無いのでアルバイトを久しぶりに始めることにしました。

採用してもらい、元気なのでなんでも出来る感がすごく、シフトも社員さんに驚かれるような程の稼働時間、日数のシフト提出をしていました。

自分が双極性障害かもしれないという意識もなく、良くなった、治った、と感じ、遊びに行ったりアルバイトに行っていました。

ですが少しして、丁度秋頃だと思いますが再びしんどくなり始めました。

あれだけ行けていたアルバイトに行くのが辛くなり、ミスや泣いたり、シフトも大幅に減らし、病院でも安定剤や睡眠薬の投与が再開していたので起きれない、出勤時間を間違える。

最後は大泣きし、辞めました。

鬱状態に陥り、なんであの時調子が良かったのにすぐにしんどくなるんだろうと考えていました。

双極性障害で調べてみたり先生の話を聞いてもあまり理解出来ず。

抗鬱剤から気分安定薬メインに投薬をしていましたが、何せ自分が双極性障害ではなく鬱病と考えていたので自覚症状が分からずこの自身の理解をするまで今もよく分からないことの方が多いですし、病識があまりないので何年も苦しみがありました。

ですが双極性障害と言われた時の事を考えると早い段階で先生は気付いたので、相当な気分の波、今までの気分の差や躁転したときの違う視点から見てくれたのが早くに発見出来たのかもしれません。

今でも私は病識をきちんとしているかと言われると、そうではありませんし、良くなった!と思うことが多々ありますが、過去の事を振り返ったり、周りの意見に耳を傾けることが重要だと思います。

「元気だね」と言われるのはとてもいい事なのですが、元々の性格等もあると思いますが、「元気すぎる」状態が危ないのかもしれません。

その後に地獄の鬱状態がハイになってしまった分大きいです。


鬱状態に再び陥った私は、また同じことが起きたと落胆していました。

自傷行為は再発し、やはり部活のことで泣いたり過呼吸が起きたり。

死にたいとまた思うようになり、大好きだった本も副作用で読めず、映画等も見れませんでした。

薬の副作用で食欲増進し、外に出ないので太っていきました。

あれだけ友達を誘ったり、誘われたら遊びに行っていたのに一切遊びに行けず。

やっと親に部活の出来事を話しました。

母は泣いていました。

そんなに辛いことがあったんだね、と自分のことのように泣いてくれて、否定せずに聞いてくれたことが嬉しかったです。

病院でその話をし、カウンセリングを受けることになりました。

鬱状態がひどい私は自殺願望や不眠、自傷行為も酷く、秋だったので余計に体調が悪かったので週一で病院には行っていましたが、外にはあまり出れませんでした。

そして1月の成人式の為に色々と用意があり、せっかくだから成人式には行こうと思っていたのでなんとか1月に体調不良でしたが成人式に行けました。

少しして、もうすぐ休学期間が終わる頃に少し持ち上がり、もう一度復学して頑張ろうと思い、3月に休学が終わり、復学しました。


学年が1つ下の人達との必修や、休学中全く勉強していなかったこと、そして教師になるための教職の授業は単位を落としまくっていたので2回生で履修出来なかったこと。

そういったことは深く考えていませんでした。


復学するという希望を胸に、希望を持っても必ずしも上手くいくと限らないということを今まで経験しても希望や夢はいつまでも持ち続けていました。


ですが、希望や夢は持たないと実現出来ないことも事実です。

何回後悔や挫折をしても希望を持つことが悪いことではなく、むしろ良いことだと思います。


自殺関係の事を書きましたが、自殺は自分自身を苦しめたり傷つけたりするだけでなく、もし後悔してももう遅い、1番の最大の後悔だと考えています。

私も実際今鬱状態で死にたいと考えてしまいます。

ですが、「とりあえず今日を適当に生きてみよう」という気持ちで生きてみるのも良いのかもしれません。

死にたいと思うことは悪いことではありません。

ただ実行に移しては欲しくない、というのが私の考えです。

辛かったら逃げたらいい、仕事だって学校だって。

逃げることが悪いことではありません、ただ死ぬということはしないで欲しいと私は思います。

けれど死にたいと思ってその辛さや行動に移してしまいそうであったり、生きることが辛いとも思います。

生きる価値なんてない、死にたい、そんな気持ちを抑えるのは難しいです。

少し自分本位に生きてみるのもいいのかもしれません。

自分が今必死にもがいて生きていることを少しでも褒めてあげてほしいと私は思います。

自論になってしまいましたが、これは私にも当てはまることだと思っています。



長文になりましたが、休学期間の私はこんな感じでした。

次回は復学後の私を執筆させて頂こうと思います。


長文お読み頂きありがとうございました。


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