第9話 娘の名前を忘れた日
ママが娘(私)の名前を忘れたのは、3月上旬のことでした。
朝、唐突に、「あんたの名前、何だったっけ?」と言ったのです。
ものすごく申し訳なさそうに微笑んでいて、ママが精一杯私に気を使ってくれていること、それでも娘の名前を忘れるまでになってしまったこと、諸々が一気に噴き上げてきて、私は思わず大泣きしてしまいました。
ママの病気のことで私が泣いたのは、あれが初めてでした。
私が泣いているのを見て、ママは「ごめんね、ごめんね」と繰り返していました。
いえいえ、こちらこそ、修行が足りない娘で申し訳ない。
色々なことを恐ろしいスピードで忘れていっているママのほうが、よっぽどつらかっただろうにね。
昨日まで覚えていたことを、今日はもう忘れている。
それは、いったいどんな気持ちだったんだろう。
櫛の歯が欠けるように、なんて生易しいものじゃない。
ママの記憶は、毎日毎日、どさどさ零れ落ちていってしまいました。
もう、自分が結婚していたことも覚えていない。子供を産み育てたことも覚えていない。
何もかもを忘れていく。
それでも救いは、ママが私とお兄ちゃんに全面的に信頼を寄せてくれていることでした。
覚えていなくても、ママの子だということを、感覚で理解していたのかな?
病院に入院してからも、看護師さんたちの言うことを聞かなくても、私たちが言うことには(しぶしぶと)頷いてくれたものね。
つらいこと、苦しいことも一緒に忘れていったのかな。
だからママは、意識がある間はずっと以前のママみたいに朗らかで、ご機嫌で過ごせたのかな。
なにもかもを忘れることで、不安を感じずに済んだのなら――それはそれで、ママにとっては良かったのかもしれないと、今になって思います。
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