橋の上より海を臨みて


 あと一泊の滞在が決まった。旅の途中で手に入れた「貴重品」を適切な店に持ち込み、検品のうえ換金してもらう。それにかかる時間だけ、その街に滞在するのが常だ。今回はどうやら、山で調達したミトラ脂と、毒嚢付きの触肢が売れそうだ。いつもなら出発までは各々好きに行動するが、今回は三人ともやることは決まっていた。キヤ曰く、「まずは聞き込み。調査の基本だな!」とのことで、街を行く人間に「黄昏喰いのヘイリュー」についてを聞いて回る。

 ヘイリューの身の上に関しては、昨晩宿の主人から聞いた情報がほぼ全てだった。何年か前に、旅人としてこの街を訪れたこと。この街を気に入ったのか、そのまま街の外れに居着いてしまったこと。そしてその頃から橋の上に立ち、夕焼けを消してしまうようになったこと……。

 ただ、その動機が全く分からなかった。住民たちの好き勝手な憶測はいくらでも聞くことができたが、核心に迫っていそうなものはなかった。


「ま、本人に聞くのが一番なんだが……」

 話では、ヘイリューは必ず日暮れ前には橋の上に現れる。コンタクトを取るとしたらその時だった。

「でも本人に直接『なんで夕焼けを食べちゃうんですか?』って聞くの、なんだか間抜けね」

「そうなんだよなあ」

「そうだね、彼は理由を語りたがらない。俺にもね」

 突如割り込んできた知らない声に、三人は文字通り飛び上がった。零夜、キヤ、ティエラの輪の中に、いつの間にやら見知らぬ青年が混ざっている。青年は驚いている三人を気にも留めずに「でも誤解されやすいけど、ヘイリューはそんなに悪いやつじゃないよ」と続けた。

「いや……誰?」

 キヤの疑問はもっともだった。「あ、そうだよね。俺はソラトっていうんだ」と返す青年に「そういう意味じゃねえよ!」と突っ込むのももっともだ。単純に名前を訊かれているのではないと気付いたソラトは、ようやく自分はヘイリューの友人であると説明する。ヘイリューが旅人としてこの街に来たころからの付き合いらしい。


 ソラトは飾りパンを焼いて細々と暮らしている、どこか間の抜けた青年だった。ひと仕事終えたらいつもの道具を担いで街なかへ小椅子を落ち着け、そこから見える風景をカンバスに写し込むのが趣味なのだという。

「わあ、綺麗な絵」

 ティエラが感嘆した、それは油絵だった。橋のたもとから大通りを見下ろす構図で、実際に見える景色より鮮やかな色が使われていて美しい。

「こうして毎日、街のどこかを描くんだ。何年もかけて筆を入れ続けてる大きな絵もあるよ」

 話しながらも、ソラトの手は休むことなく筆を操り、色を重ねていく。零夜は一瞬でその手付きに魅了された。零夜であれば青一色で塗りつぶしてしまいそうな空も、ソラトの手にかかれば黄色や桃色、そのほかたくさんの色で彩られていく。それでいて、空であるという確固たる概念を失わない。まるで魔法のようだった。


「それで、ヘイリューと仲のいいあんたから見て、ヘイリューってどんな奴なんだ?」

 油絵には特に興味のなさそうなキヤが、話の本筋を元に戻す。

「時々話すくらいだけど、悪いやつじゃないってのは確かだよ。パンがあんまり売れなかったときなんて、余り物を買ってくれたり。それに……」

 ソラトは手を止めて、手元を覗き込んでいた三人の顔を見上げた。油絵の具の匂いと共に、彼はいたずらっぽく笑う。

「俺の絵を褒めてくれたんだ」

 はあ? とキヤが素っ頓狂な声をあげる。「自分でも単純だとは思うけど」と、ソラトが自己弁護する。

「多分ヘイリューは、芸術が好きなんだと思う。この街で絵を描いてるのなんて俺くらいのもんでさ。俺のアトリエ……って言ってもただの庭小屋なんだけどさ、そこにもたまに来るんだよ。絵を見たいって。落ち着いてて思慮深い、ヘイリューは良いやつさ」

 夕焼けを消したりなんてしなければ。とソラトが続けた言葉に、零夜はいよいよ首を傾げることになる。


 ヘイリューという男の人物像が見えてこない。夕焼けを消す迷惑な旅人。芸術が好き。芸術が好きということは綺麗なものが好きなんだろうという、一般的かつ短絡的な零夜の認識からすれば、美しい夕焼けを見られなくしてしまうヘイリューの行動は説明がつかなかった。

「綺麗なものが好きなら、どうして綺麗な夕焼けを消しちゃうんだろうな」

 零夜の疑問に答えたのはソラトだった。

「たぶん、綺麗だからだよ」

 ソラトの視線の動きに合わせ、零夜の視線も海へと向かう。今はまだ日は高く、海は青々と輝いている。ときおり魚が跳ねるのか、銀色の光が短く瞬く。

「ここから見える海は、夕焼けの時が一番美しい。その美しさに魅せられて……ヘイリューはあの綺麗な夕焼けを、ずっと独り占めしておきたいんじゃないかな」

 ソラトは小椅子の脇に置いてある、油絵の具に視線を落とした。様々な色を満たしたチューブがあるが、ほかの色と比べて赤色と橙色だけはほとんど減っていない。

「俺も、ここに座って夕焼けを描くの、好きだったんだけどなあ」



 日が沈もうとしている。零夜たちはソラトと共に、そのまま橋のそばでヘイリューを待っていた。ソラトの描いていた町並みの油絵も、もう完成に近い。

「……来たぞ、ヘイリューだ」

 キヤが囁く。「いつの間にあそこにいた?」

 手元ばかり見ていたソラトと、ソラトの作業をずっと見ていた零夜はともかくとして、キヤとティエラは確かにずっと橋を見張っていたはずだ。全く視線を逸らさなかったかと言われればそういうわけではないが、しかしそれにしてもヘイリューは、唐突に橋の上に現れた。宿の主人が言っていたことを思い出す。近付くといつの間にか姿を消してしまう……。

 ソラトはそんなヘイリューの神出鬼没ぶりには慣れているようで、手際よく描き道具を片付けると「ヘイリュー、こんばんは」と声をかけた。海を見つめていたヘイリューが振り向く。彼の瞳もまた、夕焼けの橙色だった。


「ソラト。それに……昨日の旅人さんたちか」

 まだ夕焼けにはならない、しかしほんのりと色づき始めた日の光が、ヘイリューの顔の半分だけを照らす。

「理由は言わずとも分かる。おおかた宿の主人あたりに、俺を追い出すように頼まれたんだろう?」

 零夜たちは顔を見合わせ、これはもう隠す必要もなさそうだと判断したキヤが「そうだ」と答える。へイリューは笑った。またあの、何の思惑も読み取れない笑みだ。

「俺はこの街を離れないよ」

 ヘイリューの笑顔が、一瞬だけ鮮やかに彩られた。大きく傾いた太陽が赤色の光を発し始めたその瞬間――夕焼けは消え失せ、空は夜に塗りつぶされていた。

「理由も教えない。君たちに言っても理解できないだろうから」

 挑発的な言葉に、キヤの眉間にしわが寄る。「それはちょっと勝手すぎるんじゃねえか?」キヤの凄みにも、ヘイリューは動じる素振りすら見せない。「そうとも、俺は勝手な人間なんだ」


 零夜とティエラは、睨み合う両者をはらはらと見守る。流血沙汰は避けたいが、キヤはどうにも血の気が多い。加えてヘイリューも、人の神経を逆撫でするのが上手いようだった。

 しかし零夜には、ヘイリューからどうにも悪意だけは感じ取れないのだった。人が好すぎるだけだと言ってしまえばその通りだが、零夜は他者の悪意には敏感な方だ。

「なあキヤ。ちゃんと事情を訊こうよ」

 キヤを落ち着かせようと口を挟むが、その努力をほかでもないヘイリューが嘲笑う。

「訊かれても答えないと言ってるだろ? きみたちが俺を追い出すつもりでも、どうせ無理だよ」

 その一言が決定打だった。「ほざけ!」と吠え、キヤがヘイリューを捕まえようと手を伸ばす。次の瞬間、「あっ」と小さく叫んだのはティエラだった。

 夜を迎えた橋の上を、生ぬるい風がとろりと撫でていく。へイリューの姿はどこにもなかった。「どこいった?」と辺りを見回すキヤの目にも、零夜やティエラの目にも、もちろんソラトの目にも、今しがたまでそこにいたはずの男の姿は映らない。闇に溶けたという表現が最もふさわしかった。

「ヘイリュー……」

 ソラトが呟く。濃い夜闇が、足元を深くひたしていた。

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