第5話 やってきた熱

 その日の最後の授業は体育だった。

 体育着に着替えた私たちはグランドに向かう。この時期の体育は嫌い。ひたすらグラウンドに引かれた白い線をグルグル走り続ける持久走が待っているから。苦しいのは嫌い。走っても走ってもグランドの茶色しか見えず、景色も変わらないし。1日の終わりだと思って、それをモチベーションに頑張る。

 本来は、体育は男女別れて行うが、持久走に関しては合同で行うのがうちの高校だ。男の方が体力あるから女子を抜かしまくって良い顔できて良いね。



 これから経験する苦しい思いに気が晴れないまま、グラウンドに向かう。歩いている途中、意識が朦朧として何かにつっかえることもなく転びそうになった。

 昼休みから、なんだか身体が変だった。心臓が脈打ち、身体が熱い。少し歩いただけなのに身体が怠く、息苦しくて呼吸が荒くなっている。定まらない焦点の中、ぼんやりとスローモーションのように見慣れた景色が脳内に流れてくる。



「優、大丈夫?」



 さすがに私の様子がおかしかったのか、理絵は心配そうに手をそっと背中に置いて尋ねてきた。



「大丈夫だと思う」



 立ちくらみがして、その場で立ち止まる。立っていることが少しつらい。どこかに座りたいかも。ちょっと休めばきっと平気。

 理絵は私のおでこにピタッと手を当ててきた。ヒヤっとしたその手は私に安らぎを与えた。



「あっつ! 熱あるって! 保健室行こう」


「いや、大丈夫」



 理絵の手はいつも冷たいんだし、誰にやったってきっと今みたいに熱いって言うでしょ。そんなもんだ。



「こんな状態で持久走なんてしたら死んじゃうでしょ!」



 心配症だなぁ。でも確かにこの状態で走るのはまずいかもしれない。

 理絵は私の手を引きながらきょろきょろと周りを見渡している。



「ごめん水島君、あたし優を保健室に連れて行くから遅れるって先生に言っといて!」



 学級委員の水島君にそう伝えると、理絵は私の手を自分の首に回し、私の腰に手を添えて身体を支えた。どっかの酔っ払いを介抱する体勢。おおげさじゃない? クラスメイトが心配そうに見ている。これは少し恥ずかしいかも。手を解こうとしても、理絵はそれを許さなかった。

 華奢な身体でよくも頑張ってくれますね。腰にしっかり巻かれている細い腕を見てぼんやり思う。



「歩ける?」


「人間だから二足歩行できるよ」


「いや、知ってるから。今の状況聞いてるの!」


「ヒューマンビーイングだから歩ける」


「言ってること同じやん。頭までおかしくなっちゃったの?」


「いつも通りだよ」


「まぁ確かに……」



 確かにってそこ納得しないでよ。遠まわしに私のこと頭おかしいって言うのやめてくれないかな。

 支えられながら歩いて、保健室に着いた。



「あれ、どうしました?」



 保健室の先生はデスクに座って何か書いていたが、私たちの姿を見ると立ち上がってこちらまでやって来た。



「すごい熱なんです……。目もなんか死んだ魚の目みたいになってるし」



 悪気はないのは分かってるけど、本人いる前で死んだ魚の目って言わないで欲しいんだけど……。



「本当ね、体温測ってみましょう」



 何、本当ねって。

 死んだ魚の目に同意したってこと? 先生。ちょっとひどくない?



 保健室の先生は私の体操着の首の部分を強引に引っ張ると、脇に体温計を入れてきた。荒い。体温計くらい自分で入れられるのに何すんだよ。体育着の首元伸びちゃうじゃん。



「……」



 体温を測っている間はしゃべっちゃだめらしい。

 理絵も無言でじっとしていた。



「もう授業始まっちゃうでしょ? あとはこっちでやっとくから、行っていいよ」



 保健室の先生が理絵にそう言った。



「でも心配で……」


「別にいたいなら構わないけど、遅刻しちゃって良いの?」


「クラスの学級委員に遅刻するかもってことは伝えてあるので」



 体温計がピピピっと鳴った。

 私が体温計を取り出そうとする前に保健室の先生の手が私の脇に伸びた。自分で取り外しもさせてくれないの? 先生。



「38.6℃。高熱だ、早退しましょう。家はここから遠い? 親御さん迎えこれたりする?」



 思ったよりも高熱だった。参ったな……。



「親は共働きで……。すいません、今は少し休ませてください。そしたら多分1人で帰れるので」


「優……! あたし送って行くよ」


「理絵は授業に行って」


「でも……この状態で歩いて帰るなんて心配だよ」



 理絵は胸の前で拳をぎゅっと握りこんでいる。



「持久走出たくない気持ちは分かるけど、大丈夫だから」


「は? あたしがサボりたいから優に付き添ってると思ってんの?」


「持久走好きじゃないって言ってたじゃん」


「……こんなに純白な心で優を思っているにそんな目で見ていたなんて。先生、この子認知に問題ありです。認知症用の薬ありますか?」


「誰が認知症なの? あと、先生巻き込むのやめてもらって良いですか」


「認知症の薬はないけど、市販の解熱剤ならあるからこれ飲んでちょっと寝とく?」



 先生は苦笑いで引き出しから錠剤を取り出した。



「本当にそれが解熱剤なら飲みたいです」


「解熱剤です」



 先生から受け取った錠剤を口に入れて水で流し込む。



「優、授業終わったら来るからそれまでここにいて? 分かった?」


「あなた誰ですか。あなたは私にとって何なんですか」


「先生、やっぱり認知症の薬飲ませてください」


「仲が良くて良いね」



 先生は半笑いでベッドを整えている。



「先生、あたし授業終わったらまた寄るんであの子を1人で帰さないようにしてもらえますか」


「薬が効くまで時間かかるだろうし、授業後であればタイミング的にも丁度良いかもね」



 理絵は先生と会話して、保健室から出て行った。



「最近寒くなってきたじゃない? だから体調崩す生徒も多いの。インフルエンザとかでないと良いんだけど……」



 寝ろ、と言わんばかりにベッドをパンパン叩いたので、遠慮なくベッドに潜り込んだ。



 保健室特有の薬品の匂いに慣れない。気持ち悪い。

 これ寝るの無理じゃない? っと思いながらも、眠気を生起させる薬の成分が効いたのか、気がついたら意識を手放していた。



 ――――――――――――――



「優、優」

「おい、優」



 声をかけられて目を覚ますと美男と美女が私のベッドの横に立っていた。春日井と理絵だ。あぁ、いつぞやのデジャブ。私は2人から生まれた子供にでも転生したんだろうか。

 虚な意識が輪郭を表してくると、2人とも体操着のままなのが分かった。授業が終わってから来てくれたんだ。理絵は宣言通りだけど、春日井もいるのはなんでなんだろう。



「あぁごめん、寝てた」


「起こしちゃってごめんね。大丈夫?」

「大丈夫か?」



 心配そうに顔を覗き込む2人。

 若干まだめまいはするが、さっきよりも視界はクリアな気がする。



「なんとか……ありがとう。春日井も来たんだね」


「女子の中にいなかったから成宮に聞いたら、高熱だって言うから」



 春日井は人差し指で頬をかきながら少し口をすぼめて言った。



「女子の中に私がいないってよく気が付いたね。この地球を構成する何十億という人口の中の1に過ぎないのに」


「スケール違いすぎだろ。クラスの女子なんて20人弱だし、友達いないことくらい気づくだろうが」


「優のこと話したらさ、俺も行くって言って飛んできたんだよ。愛されてるね」



 理絵は春日井の顔を見てニヤリと笑った。相手をイジったり冗談を言う時に理絵はこういう顔をする。



「ばっ……そんなんじゃねーよ! 友達の心配するのは当たり前だろ!」


「ねぇ、春日井ー。いつから優のこと名前で呼んでるの?」



 理絵は春日井のお腹のあたりを人差し指でつついた。



「う、うるせぇな。そんなのなんだっていいだろ。俺は友達のことは名前で呼びてぇんだよ!」


「あたしのことは、なのにね?」



 春日井の顔がみるみる赤くなるのが分かる。本当に分かりやすいな。

 私は心の中で笑った。



「春日井も理絵のこと名前で呼んだら?」



 仲は良い方なんだから理絵のことも名前で呼べば良いのに。

 理絵のことは「友達」としては見ていないから、あえて名字呼びなのかな。



「お、おう……じゃあそうするかな」


「ごめん、それは気持ち悪いからやめてー」



 容赦ない理絵。でも、全然棘がない優しい言い方だった。



「なんでだよ! 気持ち悪いとか地味に傷つくわぁ」


「調子どう?」



 傷心中の春日井をよそに、保健室の先生がカーテンをめくってこちらにやって来た。



「大丈夫です」


「優、帰れるか?」


「帰れるよ、ありがとう」



 ゆっくりと上半身を起こした。

 身体が重い。この状態で歩いて帰るのしんどいな。でも帰らなきゃ。そこに家がある限り。



「あたしのお母さん今家にいるから連絡したら車で迎え来てくれると思う」


「それは申し訳ないから平気。家も逆方向じゃん。そんな遠くないし、普通に帰れるから」



 心配してくれたことはありがたいけど、そこまでしてもらわなくて大丈夫だ。



「俺途中まで一緒だから送ってくよ」


「まじ?」


「おう」


「男の子が一緒なら心強いね」



 先生はそう言うと、デスクの方に戻って行った。



「弱ってるからって優に手出ししちゃだめだからね?」


「するわけねーだろうが。……ちょっと優の荷物持ってくるからここで待ってろ」



 春日井は保健室を出ていった。

 何から何まで本当に申し訳ない。



「春日井が私を名前で呼ぶようになったこと、どう思った?」



 理絵はえ? といった顔でこちらを見た。



『ねぇ、今、寂しいって思った?』



 昼間、深瀬と順調な様子の理絵に言われた言葉。

 私もここで返してみた。春日井と私はそんな関係じゃないけれど、なんとなく理絵にいじわるを言いたくなったから。



「うーん……本当仲良しなんだなって……。実際春日井はすごく優のこと心配してたし、付き合ってるって噂される理由が分かったというか……。でもね、一緒に心配してくれて、あたしは嬉しかったよ。こんなにも気にかけてくれるんだって。春日井になら優のこと任せても良いかな、って思っちゃった」



 何それ。良い子すぎない?

 誰かが熱が出たってここまで私は心配しないと思う。だって、たかが熱だし。

 でも熱が出たのが理絵だったら……。そりゃ確かに心配するし付き添いたいと思うだろう。そして深瀬が今回の春日井のポジションだったら……「任せて良い」と思えることはできただろうか。無理な気がする。



「付き添ってくれるの持久走サボりたいからだとか言ってごめん」


「ホントそれ」


「理絵は優しすぎるよね。人間的に出来すぎてると思う」



 誰に対しても優しくて、嫉妬心がない。良心の塊みたいな人だ。私に彼氏できたらきっと心から祝福してくれるんだろうな。なんなんだろう、この差。



「優が大事だからだよ。あたしだって人並みの人間だから悪いところだっていっぱいあるし……」



 僅かに口角を上げて優しい眼差しを向けてきた。あまりにも温かすぎる眼差しだった。



  私の前に天使がいる。急に抱きしめたい衝動に駆られた。熱で理性は失われかけていた。

 両腕を彼女の腰に回して引き寄せ、ちょうど彼女の胸の位置に顔を埋める。この愛おしい存在がずっとこの先も失われませんように。



 柔らかくて温かい。



『トクン……トクン……』



 理絵の心臓の音。

 柔軟剤の良い香りの中に微かに感じる汗の匂い。持久走だったから少し汗をかいたんだね。でもこの匂い、安心する。

 私は引き寄せた腕に更に力を込めると、理絵は私の頭を抱きかかえるように腕を絡め、頭を撫でてきた。



「どうしたの。優、かわいい」



 頭上で理絵が囁く。甘い声に脳が蕩けそうになる。



「汗臭くない……?」


「全然」



 熱で身体は蝕まれているはずなのに安らぐ。しばらくこのままでいたい。

 私のことを大事だと言った彼女がとにかく愛おしくてたまらない。



 今くらいは熱で浮かれていたっていいよね。



 その時、保健室のドアが開く。その音で私は瞬時に理絵から身体を離した。



「ほら、これ」



 私のバッグを持った春日井が現れた。

 ちゃっかり着替えも済ませてきたようだ。



「更衣室に置いてある荷物は成宮が持ってきてやってくれるか」


「あ、うん!」


「ごめんまじで」


「いいよいいよ、気にしないで」



 その後、理絵から着替えを受け取り、帰路に出た。理絵は逆方面なので春日井と2人になる。

 荷物は春日井が持ってくれていた。



「今日部活は?」


「今日は自主練の日だから休んでも平気」


「ホントごめん、迷惑かけて」



 ゆっくり足を進めるけれど、襲ってきた立ちくらみで転びそうになった。春日井は私の体を咄嗟に支えた。ガシっと受け止められる。



「おい、大丈夫かよ」



 その身体は固く、太く、先ほどの理絵の身体とは大違いだ。



「乗れ」



 春日井は屈むと私に背中を見せてきた。これはいゆる、おんぶってやつですね。



「恥ずかしいです」


「そんなこと言ってる場合かよ、怪我されたら俺が成宮に殺されるんだから」


「こうして怪我の連鎖が生まれるわけですね」


「ふざけてねーでとっとと乗れや」


「いや……さすがに……重いし」


「お前の体重くらい余裕だから。現役野球部なめんなよ。今日は自主練の日だし、負ぶれば俺の自主練にもなるんだから、それくらいは協力しろ」



 春日井は引いてくれなさそうだ。

 練習まで休ませてしまったし、罪悪感もある。



 私は春日井の首に手を回して体重を彼の背中に預けた。彼の背中は広くて、ゴツゴツとしていた。

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