第三話 「エンドマーク」


わたしとかれの物語が始まってから、数週間が経つ。依然として、わたしたちは共同戦線を続けていた。


「ところで、彼の名前は何て言うの?ほら、いつまでも、『あなた』だと読者にも分かりづらいじゃない?」


気になっていたことを尋ねる。早いもので、数週間の付き合いになるのに、いまだに、わたしは彼の名前を知らなかった。


「ふむ、名前か。そういえば、言ったことはなかったね。だが、申し訳ない。彼の種族と僕たちでは身体のつくりが異なる。つまり、発声器官が異なるんだ。だから、彼の名前を正確に発音することはできない。すまないね」


彼はさらりと返す。心が締め付けられる。彼の名前を呼べないこと、そのことがもどかしい。どうして……?まるで、わたしの心がわたしのものではないみたいだ。ここのところ、調子がおかしい。こんなことは初めてだ。自分の心の色を見ることができたら、この気持ちが何であるかも分かるのに……


「そうなの……ちょっと残念ね」

「まあ、こればかりは仕方ないさ」


彼は、肩をすくめながら、さわやかに笑う。思わず、彼の顔をじっと見つめてしまう。いまだ、彼の心の色を理解することはできない。それでも、同じ気持ちを抱いていてほしい。そう、祈ってしまう。それほどに、この数週間の経験は鮮烈なものだった。初めて、秘密を共有できた。初めて、誰かのまえで「私」でいることができた……


「ところで、もう一つ気になっていたことがあるの……」

「なんだい? 彼について、おおよそのことは話したと思うけど」

「どうして、彼は少女の提案に……乗ったのかしら……?」


上手く、声が出ない。それもそうだ。彼には同じ気持ちを抱いていてほしい。そう思っている。けれども、彼はわたしではない。胸のうちに何を秘めているかは分からない。もし、彼が違うことを考えていたら……そう思うと、気が気ではなかった。


「そうだね……まず、秘密を共有できるもの、同族だと思ったから」


良かった……彼もそう思っていてくれたんだ。心のなかに、暖かなものが広がる。それが何かは分からないけれど、今は、この暖かさを大切にしたい。そう思った。


「それと……」


彼が言葉を続ける。だが、その表情はいつもとは違う。どこが違う……?まるで、彼の色のように、それを形容することは難しい。けれど、何かが違う。確実に。


「種と……」


彼が口を開く。その瞬間、鋭い風が吹き付けてくる。そして、彼の言葉は風に消えていった。


「ごめんなさい。風のせいで、上手く聞き取れなかったの。何て言ったのかしら?」

「さて、もう日も暮れてくる。良い時間だ。今日はここまでにしよう」


彼の表情はいつもどおりだった。さわやかな笑顔で、さらりと言い放つ。さっきの表情は何だったのだろうか……疑惑の種が根を下ろす。心に澱みが広がっていく。瞬間、頬に鋭い痛みが走る。考えるよりも先に、手が動いていた。わたしの勘違いだ。そうに違いない。痛みをもって、雑念を振り払う。


ふと、彼の顔を見る。突然、わたしが自分の顔をはたいたからか、驚愕しているようだった。


「ごめんなさい。なんでもないの。ちょっとボーっとしてて……」

「ふむ……まあ、そういうこともあるだろう。では、また明日」


そう言って、彼は屋上を立ち去る。


「ええ……また明日」


いつものように、彼を見送る。けれど、いつもと違うことがある。それは頬の痛み。何かが変わってしまったことを思い出させるかのように痛みが走る。ズキズキ、ズキズキと。




明朝、教室に入り、いつものように席につく。ふと、前を見る。梓がこちらを見つめている。心の色はくすんでいた。まるで、枯れてしまった向日葵のように。こんな色、見たことがない……


「ねえ、透華。宙野くんと何かがあったの……?」


唇を噛みそうになる。己の愚かしさに腹が立つ。梓の色がくすんでいる?当たり前だ。何せ、わたしの頬には腫れが残っている。屋上で、わたしがつくったものだ。こんなものをつくって、何食わぬ顔で姿を見せたら、心配するに決まっている。


「これは……その」


言葉に詰まる。まさか、自分でつくったというわけにはいかない。そんなことを言ってしまっては、梓に心配をかけてしまう。もう、手遅れかもしれないが……


「そう……今朝、怪我をしたの。家事を手伝っているときに」


なんとか、言葉をひねり出す。自分でも、苦しい言い訳だと思う。それでも、通すしかない。彼とのことを知られるわけにはいかない。だって、わたしたちのあいだには共同戦線があるから


「そう……なの……ごめんね……変なことを聞いて……」


声が震えていた。恐らく、心配で仕方がないのだろう。けれど、梓は聞かないでいてくれる。わたしのことを気遣って。堪らなく、自分が惨めになる。一層、全てを打ち明けられたら、どれほどに楽だろう。


そのとき、奇妙なことに気付く。梓の心の色に変化が訪れつつあった。そう、彼女の色は「黄色」だ。そのはずだった。だが、今や、それは別の色へと変わりつつある。深い、深い、青紫色に。そして、強い感情が伝わってくる。あまりの強さに、視界が歪みそうになる。一体、この感情は……わたしの知らない感情。こんなものを梓が持っていただなんて……いや、違う。わたしが変えてしまったのだ。


「ところで、透華。今日も体育の授業があるけど、大丈夫そう?良かったら、わたしから先生に言っておこうか?」


いつもの表情。だが、心の色は異なる。そのなかには、未知の感情が渦巻いている。冷たいものが背中をつたう。取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない……



屋上の扉のまえに立つ。気が重い。先日の一件だけでなく、今朝の件もある。さまざまなものが変わりつつあった。もしかすると、屋上には彼がいないかもしれない。そんな想像が頭をよぎる。嫌な想像を振り払おうと、頭を振る。いや……そんなことはない。彼はいるはずだ。いつもと同じように。思い切って、扉を開く。


そこには、彼の姿があった。いつものように。息をつく。安堵の念が広がっていく。良かった。ここは変わらずにある。そうして、彼のもとへと駆け寄っていく。


「やあ、頬の傷は大丈夫かい?」

「ええ、まだ痛むけれど、大丈夫」


いつものように会話を交わす。



「それで、今日はどうするの?」

「そうだね、ちょうど話したいことがあるんだ。いいかな?」

「勿論、何かしら?」

「この物語の結末はどうするんだい。」


一瞬、彼が何を言っているのかが分からなかった。物語の結末……?


「もう、締切の一週間前だろう。そろそろ、決めておいたほうがいいだろうと思ってね」


やがて、理解が追いついてくる。そう、物語であるならば、終わりはある。分かっていたことだった。けれど、目をそらしていた。あまりに、毎日が楽しかったから。


「そう……ね。結末をどうするかは重要な問題よね……」


何とか、言葉を返す。心のなかで、その事実を反芻するも、現実感が伴わない。


「君はどういう結末がいいと思うんだい?」


いつものように、彼が尋ねてくる。意識が朦朧とする。


「ちょっと待って……時間を頂戴。すぐには決められない……」


「ふむ……それもそうだ。確かに、急すぎたかもしれない。だが、締切が近いことも事実だ。そうだね……三日後。三日後までにそれぞれが案を考えてきて、それを持ち寄ろう。どうだろうか?」


それに何と答えたのだろうか。ただ、彼の言うままに頷いた気がする。分からない。いずれにしても、一つの変化が訪れつつあった。小説の公募締切一週間前、わたしたちの物語の終わりが近づきつつあった。



気怠さにまかせ、布団に倒れ込む。このまま眠ってしまいたい。あまりに多くのことがありすぎた。けれど、そうするわけにはいかない。解決すべき問題が山積みだ。まず、梓のこと。彼女の色は変化した。「鮮やかな黄色」から「深い青紫色」へ。こんなことは初めてだ。だから、どうしていいか分からない。けれど、放っておくわけにはいかない。わたしのせいなのだから。もう一度、梓と話してみよう。そろそろ、隠し通しておくことは限界かもしれない。一度、彼にも相談しなければならないだろう。梓に秘密を明かすことは、彼の秘密を明かすことに繋がるのだから……そう、もうひとつの問題は彼だ。物語の結末を考えなければならない。そう思い、机のまえに座る。だが、意思とは裏腹に、身体は動いてくれない。彼に共同戦線を持ちかけるためにプロットを練っていたときは、手が勝手に動いてくれた。どうして、こんなに苦しいのだろう……視界がゆらぐ。駄目だ。時間がないのだから……



まぶしい光が差し込んでくる。あまりのまぶしさで、目をしばたかせる。かすむ視界のなか、机の時計を見る。6時……?6時……!?思わず、立ち上がってしまう。そんな……よりによって、こんなときに眠ってしまうだなんて。自分の意志の弱さが呪わしい。だが、泣き言を言っている場合ではない。時間は過ぎ去っていくのだから。


とにかく、もう一度、梓と話そう。いや、そのまえに、彼と話しておかなければ。今日の授業の準備を終えるやいなや、家を飛び出す。


いつものように、彼は屋上にいた。わたしはこれまでの経緯を話す。


「なるほど。つまり、一色(いっしき)さんには僕たちの物語がバレつつあると」


そういうと、彼は深く考え込む。申し訳なさと情けなさで居たたまれなくなる。縋るように、彼の心の色を確認しようとする。けれど、彼が何を考えているかは分からなかった。心を読めないことがこんなにも不安だなんて……


そのとき、ある考えが思い浮かぶ。それはあまりに当たり前のこと。でも、わたしにとっては、そうでないこと。まさか、梓はこんな不安をいつも感じていたというの……


風の音だけが聞こえてくる。長い、長い時間が経ったように思える。彼が口を開く。


「そうだね。この場合、話したほうがいいだろう。勿論、リスクはある。だが、秘密を隠し通しておくことには無理があるだろう」


安堵する。何よりも、梓にこんな思いをさせなくてもすむことに。


「ありがとう……! 今日、梓に話してくるわ」


踵を返し、屋上をあとにする。早く、彼女に秘密を明かしたい。そして、その不安を晴らしてあげたい。自然と、足が早まる。気付けば、わたしは教室の扉のまえに立っていた。不安はある。わたしの秘密を知って、梓がどのような反応をするか。もしかしたら、拒絶されてしまうかもしれない。それだけのことはしてきた。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。思い切って、扉を開ける。


いつもの席に、彼女はいた。


「おはよう、透華。今日は早いんだね」


彼女の色を確認する。深い、深い青紫色。そして、わずかな濁り。やはり、彼女の感情のほとんどは読み取れない。そこには混然としたものがある。だが、覚えがあるものもあった。心を締めつけるほどの思い、苦しさ。これは……?


「おはよう、梓。あのね。大事な話があるの。いいかしら?」


「うん。わたしもね。大事な話があるんだ。でも、ここで話すのも何だし……」

「屋上に行こう?」


そう、彼女は言い放った。



屋上への扉を開ける。いつもの場所、けれど、いつもとは違う。何故ならば、傍にいるのは彼ではない。梓だ。


「ん~いい風。ここって、こんなに気持ちよかったんだ」


表面上、彼女はいつもと同じに見える。だが、彼女の色には濁りが広がりつつある。

まるで、汚泥が広がるかのように、彼女の心はじわじわと蝕まれつつあった。心が締めつけられる。早く、秘密を告げなくては……口を開こうとする。


「透華、わたしね。ずっと心配していたんだ。透華のこと。最近の話じゃないの。ここに入学して、透華と友達になってから。ずっとなの」


梓は語り始める。口を挟もうとした。けれど、梓の言葉はあまりに切実だった。とても、そんなことはできなかった。


「ごめんね、こんなこと、本当は言わないほうがいいんだと思う。でも、透華がずっと何かを隠していたことは分かっていたの。けれど、わたしには何も出来なかった。だって、透華はそんなものはないかのようにしていたから。それが透華の望みならば、わたしはそれでよかった……」


やはり、彼女は心の機微に敏感だ。まさか、そこまで知られていただなんて……


「でもね。最近、透華は楽しそうにしていた。これまでが嘘のように。わたしには、そのことが自分のことのように嬉しかった。だって、友達が楽しそうにしているんだから。それに、わたしには出来なかったことだから」


梓の表情が変わる。それに伴い、濁りが広がっていく。いまや、それは彼女の心の色を埋め尽くしている。


「でも、昨日、透華の頬には傷があった」


いまや、梓の心の色は青紫色とも言えないようなものになりつつある。ただ、濁りだけがそこにはある。


「透華、わたしはね。透華が幸せなら、それでよかったんだ。けど、昨日の透華は苦しそうだった。もしかすると、前よりも」


苦しそうに語る。その表情は、泣いているようでもあり、怒っているようでもあった。


「わたしは嫉妬した。宙野くんを。こんな気持ちがわたしのなかにあるだなんて知らなかった。知りたくなかった。そうして、わたしは気付いたの……」


自分の目を疑う。心のなかの濁りが晴れていく。まるで、濁りがあったことが嘘のように。そして、それに伴い、彼女の心の輝きは増していく。今や、それは目を灼くほどに。


「わたし、透華のことが好き。何でかなんてわからない。ただ、好きなの。苦しくて……仕方がないの……!」


彼女の綺麗な瞳から、一筋の滴がこぼれおちる。


ああ、そうだ。何故、彼女の心のなかに覚えがあるものがあったのか。わたしはその理由を悟る。そう、それはわたしが彼に抱いているもの。胸を締め付け、その人を想うと、心が温かいもので満たされる。そうか、わたしは彼のことが好きなんだ……


「ごめんね。変なこと言って……でも伝えておきたかったんだ……」


そう言い終えると、梓はわたしの傍をさっとすり抜け、屋上から姿を消した。階段を下る音が聞こえてくる。思考が追いつかない。伝えたかったことを伝えることもできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。



瞼を開ける。身体の節々が痛む。どうやら、家に着いたら、机の椅子に座り、そのままの姿勢で寝てしまったようだ。


今朝のことを思いだす。いまだ、現実感が湧いてこない。梓がわたしのことを好きだなんて……いや、わたしもだ。わたしが彼のことを好きだなんて。あの場では、混乱のあまり、何も言えずに立ち尽くしてしまった。だが、このままでいいはずがない。彼女に応えたい。


そのためには、わたしの想いに決着をつけなければならない。彼への想いをはっきりさせず、梓の気持ちに向き合うだなんて、そんなことは不誠実だ。


そう……わたしは彼のことが好き……彼のことを思い出す。さわやかな笑顔、飄々とした口ぶり、掴みどころのないところ、いずれもわたしの心を強く締め付ける。これが好き……?わたしには分からなくなっていた。好きが何なのかが。確かに、梓の感情を通して、自分の感情が何であるかを自覚した。けれど、これが好きなのだという確信が持てない。確信をもてるほどに強い理由が見つからない。


思わず、頭を抱えてしまう。そのとき、梓の言葉が脳裏をよぎる。


『何でかなんて分からない。ただ、好きなの。苦しくて……仕方がないの……!』


それで……いいのだろうか。好きに理由はいらない。そうかもしれない。難しく考える必要はなかった。ただ、好きという気持ちをそのままに受け取ればよかった。赴くまま、行動すればよかった。


わたしは筆をとる。梓の想いに答えるため、そして、彼との物語にエンドマークを打つため。もはや、迷いはなかった。



明朝、教室の扉のまえに立つ。深く息を吸いこむ。そして。扉を開ける。いつもの席。そこには梓の姿があった。


「透華……」

「梓、おはよう。話があるの。屋上で」


彼女の想いに答えるため、そう、私は言い放つ。



屋上への扉を開ける。ここはいつもと変わらない。けれど、わたしたちの関係はすっかり変わってしまった。わたしと梓のあいだ、微妙な距離がそれを物語っている。


「梓。まず、謝らせて。いままで、たくさんの嘘をついてきたこと。本当にごめんなさい」


精一杯の想いを込めて、頭を下げる。


「透華……顔を上げて」


彼女の顔を見る。今にも、梓は泣きそうだった。居たたまれない、申し訳ない、それらの感情が蠢く。今すぐ、ここを逃げ出したくなる。でも、もう、逃げない。そう決めたから。


「梓、聞いてほしいことがあるの。いままで、わたしが何を隠してきたのか」


そうして、わたしは語りだす。わたしの遍歴を


遍歴を語り終え、そっと息をつく。梓の表情を伺う。今も、彼女は泣きそうにしている。彼女の心の色は、昨日の輝きが嘘のようにくすんでいる。この感情は……共感。今、彼女はわたしの孤独、痛みに思いを馳せ、それを自分のことのように感じている。どこまでも純粋で、一途な想い。だが、ここで終わるわけにはいかない。


「梓、わたしね。彼のことが好きなんだ。だから、あなたの想いに答えることはできない」


そう、彼女の想いに答えなければならない。何故なら、わたしは彼のことが好きだから


「これからも、友達でいてほしいなんて。そんな図々しいことは言わない。でも、伝えておきたかった。こんなにも、わたしのことを想ってくれる、あなたには本当のことを……」


そう言い終え、わたしはうなだれる。怖い。梓の心の色を確認することが。もし、彼女の心が怒りで染まっていたら……そうされても、仕方のないことをしてきた。そんなことは分かっている。でも、どうしようもなく、怖かった。


足音がゆっくりと近づいてくる。その音が、わたしの恐怖を駆り立てる。気付くと、足が震えていた。どうしようもなく、臆病なわたし。足音が止まる。思わず、目をつぶってしまう。


瞬間、暖かい感触がいっぱいに広がる。顔をあげる。そこには梓の顔があった。瞳からは大粒の涙が零れ落ちている。


「どうして……言ってくれなかったの……!」

「ごめん……でも、不安だった。梓にも拒絶されるんじゃないかと思って」

「……バカ……でも、言ってくれて、ありがとう。辛かったんだね……」


頬を温かいものが伝う。気付けば、わたしは涙を流していた。そうして、わたしたちは抱き合い、泣いた。これまでの隙間を埋めるように。



本鈴が鳴る。もう、授業が始まるころだ。


「えへへ、授業、さぼっちゃったね」

「うん。初めてさぼっちゃった」


胸の中を、心地よいものが満たしていく。わたしたちのあいだに、距離はなかった。


「でも、ごめんね。梓の気持ちに応えられなくて」

「もう、それは言っちゃだめだよ! 振った側が振られた側のことを気にするなんて駄目!」

「ごめん……いや、ありがとう。梓。わたし、頑張るね」

「うん。頑張って。応援してる」


梓は、クシャクシャの顔で笑う。その目には涙が浮かんでいる。けれど、あの涙はさっきのものとは違う。心の色を確認せずとも、わたしはそう確信していた。もう、能力に頼る必要はなかった。


「じゃあ、いくね」

「うん、いってらっしゃい。わたしはもう少しここにいるね」


梓に背を向け、屋上の扉へと歩き出す。後ろから、声が聞こえてくる。耳を澄まさないと聞こえないようなもの。堪えるかのような嗚咽。思わず、後ろを振り向き、彼女を抱きしめたくなる。けれど、その衝動を必死に堪える。わたしがそうするわけにはいかない。わたしは進まなくちゃいけないんだ。


屋上の扉を開け、階段を下りていく。彼に想いを伝える。これで、わたしたちの物語を終わらせよう。



放課後、屋上の扉のまえに立つ。何枚かの原稿用紙を握りしめて、わたしは深呼吸する。そして、扉を開ける。


そこには、いつものように、彼の姿があった。


「やあ、一色さんとの問題は解決したのかい?……いや、その様子を見るに、大丈夫だったようだね」

「ええ、今日は大事な話があるの。聞いてくれるかしら?」

「勿論。で、何の話だい?」

「これよ」


そう言って、わたしはいくつもの原稿用紙を掲げる。昨晩、仕上げられたもの。わたしと彼の物語の行き着く先。そのプロットだ。


「なるほど。もう出来たのか。期日までは一日あるが、早かったんだね」

「ええ、色々あってね。これを読んでほしいの」

「良いとも。では、目を通させてもらうよ」


胸が締め付けられるように痛い。梓もこの痛みを経験したのだろうか。そこには、わたしの想いが綴られている。そう、物語を通して、彼との関係は始まった。逆に言えば、物語なくして、彼との関係はあり得ない。だからこそ、わたしは想いを告げる。物語を通して。


『遠い星のあなた、わたしはあなたの名前も知らない。はじまりは敵意だった。やがて、それは仲間意識へと変わっていった。そうして、あなたのことを好きになりました。そう……わたしはあなたのことが好き。大好きです。例え、物語が終わってしまうとしても、この想いを伝えておきたかった』









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