軍旗掲揚

第一節 

 「炎帝国えんていこく

 それは史上最大の帝国である。かつて、帝国東部、「中原ちゅうげん」と呼ばれる領域に生まれた貧農の子が天から炎の力を授かったと宣言し、「炎帝国初代皇帝神炎帝」を名乗って「中原」の大半を支配する一大勢力を築き上げた。それ以来、帝国の膨張は止まることを知らず、八代皇帝日炎帝の時代には大陸の半分を支配、「四方全てが炎のもの」と言われるまでになった。


 それから百二十年余りが経つ。時は第十六代皇帝真炎帝の時代である。「大宮城炎上事件」によって不慮の死を遂げた先代皇帝の後を継いだ彼は、極端な血縁主義をとった。

 自らも初代皇帝の血をひく彼は、初代皇帝の血をひくもの、及びその功臣の血をひくものは、どんな無能であっても片っ端から官位に就けたのである。当然のことながら帝国は混乱に陥った。朝令暮改は日常茶飯事となり、重税が課され、賄賂が横行した。結果として、国民は怒り、各地で反乱を起こした。

 反乱は時として地域を支配し、軍閥ぐんばつとして独自の勢力を築く。真炎帝の治世六年目には、そのような軍閥が地方を中心に乱立し、帝国は大分裂期を迎えていた。これはそんな頃の話である。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 帝国南西部、青い空と緑の大地がどこまでも続く大草原で、二人の騎手が競いあっていた。黄色がかった肌の騎手と浅黒い肌の騎手が、横一線に並んで風を切り裂いていく。双方若い。まだ二十に届いていないだろう。浅黒い肌のほうは砂漠の血をひいているのだろうか。汗まみれの彫りの深い精悍な顔には、うっすらと笑みを浮かべている。対して黄色がかった肌の青年は、いかにも草原の民といった平べったく丸っこい素朴な顔を歪めて必死に馬を駆っている。


 彼の馬が僅かに前に出た。すかさず浅黒い騎手が馬の腹を蹴って抜き返す。が、彼もすぐに抜き返された。二人の騎手は抜きつ抜かれつ小高い丘を駆けのぼっていき、ほとんど同時に頂上を駆け抜けた。二人は馬の速度を落とし、地面に転がり落ちた。そのままゴロゴロと転がって、並んで大の字になって倒れる。二人とも荒い息をして、そのまましばらく動かなかった。二人の呼吸音が、だんだん静かになっていく。


「今回はガンザンの勝ちか。」


 浅黒い青年がぽつりと言う。


「いや、実質トゥバンの勝ちさ。」


 二人は沈黙した。彼らの馬が草を食んでいる。そよ風が草を揺らし、二人の頬をくすぐる。トゥバンが、よっと言って立ち上がった。馬の背から水筒を取り、水をがぶ飲みする。それを見てガンザンも起き上がった。こっちは水をちょっと口に含んだだけで水筒を戻す。トゥバンがいきなり盛大に咳き込んだ。水があたりに撒き散らされる。慌ててガンザンがトゥバンに駆け寄った。


「どうしたトゥバン。」


 トゥバンはゲホゲホ咳き込みながらまっすぐ正面を指差した。ガンザンがそっちを見ると、だいたい一リン(約五百メートル)離れたところに赤黒い塊がある。馬の死体が腐っているのだろうか。


 ガンザンはなぜトゥバンがこれに驚いたのか分からなくて、彼の方に視線を戻そうとした。もぞり。パッと視線を戻す。今、確かに赤黒いモノが動いたのを見た。じいっ、と赤黒いカタマリを注視する。咳の音が止んだ。ほぼ同時に、赤黒いカタマリが再びもぞりと動いた。ちらりと白っぽい色が見えた気がした。ガンザンがはっと息をのんでトゥバンの顔を見ると、彼は深くうなずいた。


「人だ。」


「助けなきゃ。」


 二人は馬に飛び乗った。赤黒いモノは、近づくにつれてだんだん人の形を明らかにしていった。馬が近付いていることに気付いたのか、それが顔をあげる。血がこびりついた岩のような顔が現れた。額に白い額当てをしている。トゥバンが真っ先に馬を降り、血にまみれた男にかけよって膝を着いた。


「おい!大丈夫か?」


 明らかに大丈夫ではない男がトゥバンの顔をぼんやりと見上げた。瞬間、彼の顔が大きく歪んだ。目から涙が溢れ出す。


「陛下……。」


 彼はわななきながらそう言うと、白目をむいて突っ伏した。


「ヘイカ?何を言ってるんだ?」


 トゥバンは眉をひそめた。男は謎だけを残して、問いに答えようとはしない。風が、草原を揺らして通り過ぎていった。

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