祐樹⑯ 初めて君と話した。
みりかを地面に下ろし、なんとか呼吸を整えようとした。
女の子とはいえ、人一人抱えて階段を駆け上がるのはやっぱり無茶だったみたいだ。でも、みりかが階段で転んでケガをするのは嫌だったから、こうするしかなかった。
僕に抱きかかえられて、みりかはどう思っただろうか。
訪問マッサージというお題目で笠原家に通っていた頃、僕はわざとみりかに嫌われようとしたことがあった。みりかの母親が好きだったことを彼女に打ち明けた。
でもみりかは僕のことを嫌いにならなかったし、その話がきっかけで真実に到達することもできた。
それ以来、わざと嫌われようとすることはやめた。もしみりかが僕に好意を持っているとしても、それで構わないと思った。
みりかはみりかだ。彼女は真利じゃない。
僕は、一人の人間としてはみりかのことが好きだ。だから、そんな彼女の気持ちを邪険にすることなんてできない。
呼吸が落ち着いてきたので、そろそろ始めようと思った。
みりかは今か今かといった様子でそわそわしている。あまり彼女を待たせてはいけない。
それに、平日だからかだろうか、僕らの他には誰もいなかった。人が来る前に済ませてしまった方がいいだろう。
今日も曇りのない星空、あの日と同じように満月が天に佇む。
夜の片田舎で小さな灯りが無数に散らばっている。
「みりか、もう大丈夫だよ」
僕はみりかの正面に立って肩を軽く叩き、右手で彼女の左腕を掴んだ。再交換の始めだ。
と思いきや、みりかは僕の手を振りほどき、片手に持っていた白杖を地面に落とした。
どうしたんだろうと首を傾げていると、彼女は手探りで僕の両手を握った。
僕らは今、向かい合ったまま両の手が繋がれている。
わかったよ。
それじゃあ、はじめよう――。
僕は願った。みりかの目が見えるようになってくれ、と。
僕はもう見えなくなってもいい。
みりかの色んな表情を見ることができた。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、眠ったり。
真利、この一ヶ月で君の娘の顔をたくさん見れたよ。
だから、もう元に戻していいんだ――。
繋いだ手が温かくなった。
そして、僕の耳に音というものが聞こえ始める。スピーカーのボリュームのつまみを徐々に回していくように。
「◎※×!」
いきなりみりかが叫んだ。でも、何て言っているのかまだ聞き取れない。
彼女の背景が少しずつぼやけていく。視力が下がってきているみたいだ。
「ゆうき!」
みりかの言葉を聞き取ることができた。
初めて聞く彼女の声は、僕の名前を叫んでいた。
そうか、交換中はお互いの言葉を聞くことができるのか――。
「みりか!」
僕は久しぶりに自分の声を聞いた。
まだ聞こえは悪いけど、たしかに長い間聞いてきた僕の声だ。
「祐樹、やっと話せた!」
みりかの瞳が、僕を見つめている。
彼女と目が合うのも初めてのことだ。
「みりか!」
「聞いて、祐樹! 私、祐樹にとっても感謝してるんだ!」
「僕に?」
「パパやママとお喋りさせてくれてありがとう! 祐樹のおかげ!」
みりかは儚げに笑いながら、続けざまに言う。
「家にいっぱい来てくれて、ありがとう」
「たくさんメッセしてくれて、ありがとう」
「落ち込んでるとき励ましてくれて、ありがとう」
「一緒にお墓参りに来てくれて、ありがとう」
「楽しかった、嬉しかった!」
「それからっ、それから……」
みりかの声が涙ぐんでいる。
お礼を言いたいのは僕の方だ。
僕の方こそ、言葉では語り尽くせないほどみりかに感謝しているんだ。
「僕だって、ありがとう」
「祐樹ぃ……」
視界がぼやけ、みりかの表情が不鮮明になってきている。残された時間は少なそうだ。
「私、祐樹のことが好き! 大好き!」
「えっ」
「これからもずっと一緒にいたい!」
本当に僕のことが好きだったのか――。
視界がかなり暗くなってきた。
どうしたらいいんだ?
なんて答えたらいいんだ?
僕はみりかのことをどう想っているんだ?
初めて顔を見たときは、真利の面影があると思った。
内緒で家に呼び出されたときは、緊張した。
部屋でのんびりチャットをしたり、足つぼマッサージをしたり、一緒に公園に行ったり、そんな穏やかな日々が楽しかった。
真利が好きだったことを話したときは、少し申し訳ないと思った。ちょっとした言い合いにもなった。
訪問マッサージが終わってしまうときは、寂しいと思った。
真利の死を知って引き籠ってしまったときは、助けたいと思った。
みりかが立ち直って、僕が「とても良い顔してる」って伝えたときは、本当に素敵な表情をしていると思ったんだ。
そのあと照れくさくなって、冗談だってことにしてしまったけれど。
墓参りに行ったときもそうだった。
ソフトクリームを鼻につけたり、足湯でうっとりしたり、帰りの車の中で僕にもたれかかって寝てしまったり、そんな彼女と過ごした時間の一つ一つが僕にとって……。
この気持ちが本物なのかどうかは分からない。恋愛感情ではないのかもしれない。
でもそれを僕自身の声で伝えられるのは、もうこの一瞬しかないだろう。この先に機会がないからこそ、みりかだって今想いを伝えてくれたんだ。
だから僕も、みりかに対する気持ちに一番近い言葉を口にした。
「僕もみりかが好きだ」
彼女がハッと息を呑む音が聞こえた気がした。
気が付けば、僕の目は完全に見えなくなっていた。
もう舞台の幕は下りてしまったのだ。
最後の一言がみりかに聞き取れたのかどうかも分からない。
「すぃっ……きぃ……」
みりかは泣きながら声にならない声を漏らしている。もう自分自身の声も聞こえていないだろう。
「ふふふっ……」
笑っている。
やっぱり僕の最後の言葉はみりかに届いたようだ。
そこで急に我に返り、血の気が引く音が聞こえた気がした。焦っていたとはいえ、とんでもないことを口走ってしまった。
こんな若い子に手を出したら、最悪の場合逮捕されてもおかしくはない。
ネットニュースのコメント欄にロリコンだのキモいだのと書かれ、SNSで拡散されてしまうだろう。
僕はどうすればいいのか分からず立ち竦んだ。
本当にみりかのことが好きなら、今すぐ彼女を抱きしめてあげるべきだ。
でもそうすることができない。理性がそれを拒んだ。
いや、それだけじゃない。
僕は恥ずかしくなってしまったのだ。いい歳して少年のように怖気づいているのだ。ここへ来るためにみりかを抱きかかえて走ったことも、できることなら記憶から抹消したい。
今暗闇の中に残されているのは、繋いだ手の温もりだけだ。
その指先にどんな未来が待ち受けているのかは分からない。
まあ、なんにせよ、だ。
僕は今日、初めてみりかと話をした。
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