祐樹⑮ 声

 健斗にアパートの前まで送ってもらい、自分の部屋に帰ってきた。


 今の僕にとっては、家の外だろうと中だろうと世界は静寂に支配されている。

 でもこの部屋は、聴力が戻ったあともずっと静かなままなのだろうという予感があった。


 カーテンを開けると、夕陽が1Kの部屋を柔らかなオレンジ色に染め上げる。


 今日も色々あったな――。


 僕はベッドに腰掛け、一日の出来事を思い返した。

 車での遠出、パーキングエリアのソフトクリームと足湯、真利の墓、カレーうどん、そして……。


 さっきまで僕に寄り添って寝ていたみりかのことを思い出した。彼女を起こさずに帰ってきてしまったけど、やっぱり別れの挨拶くらいはするべきだっただろうか。


 みりかは言った。満月の日に僕らの視力と聴力を元に戻すと。

 僕は言った。残された日に綺麗なものをたくさん見ておくと。


 なんとなく部屋を見回してみる。

 別に綺麗なものとはいえないけれど、この部屋を見ることができる日も残り僅かだ。


 結局、視力と聴力の交換現象って一体何だったんだろうな――。


 ふとそんなことを思った。

 それから、前の満月の日に、封をされた段ボール箱を見つけたことを思い出した。


 中身を見ることができるのは今のうちなので、一応確認してみることにした。

 クローゼットの上段から段ボール箱を下ろし、ガムテープを剥がす。

 中を見てみると、細々とした小物がまとめて放り込んであった。懐中電灯、使わなくなったガラケーとその充電器、様々なジャンルの書籍……。


 よくよく考えてみると、それらは目が見える人にしか必要のないものばかりだ。

 目が見えなくなったあと、親がまとめて仕舞ってくれたのだろうか。


 しばらく考えてみたが、思い出すことができない。なにしろ、ここへ引っ越してきたのは十年前のことだ。


 段ボール箱の中身を全部出してしまうと、木製の写真立てに入れられた一枚の写真を見つけた。高校時代に撮った写真だった。


 真利――。


 どこかの噴水の前で、僕と健斗と真利が笑顔で写っている。

 そう、僕たちはあの頃、三人でこんな風に笑っていられたのだ。


 それにしても、こんな古い写真を今でも取って置いていたんだな。


 何気なく写真立てを裏返してみると、裏側にセロハンテープで何かが留められているのを見つけた。


 あっ……。


 それは卒業式に貰った真利のボタンだった。彼女がソーイングセットの小さなハサミで外した袖のボタンだ。


 こんなところにあったのか……。


 ようやく真利とお別れができたばかりだというのに、どうして今更彼女にまつわるものが出てきてしまうのだろう。


 でも、ここまで来たらもう乗りかかった船だと思い、古いガラケーの方も見てみることにした。


 充電器の電源プラグとコネクタを、それぞれコンセントとガラケーに挿して電源を入れる。

 すると、十六年前に使っていた機械なのに問題なく起動させることができた。


 待ち受け画面は、豆腐の形をしたキャラクターだった。

 そういえば、高校時代にこんなのが流行っていたっけ。


 ひとまずメールの受信ボックスを開いてみる。


 僕は視力を失ってから一ヶ月後に、ガラケーからスマホに替えた。メールや入力した文字の読み上げ機能を使うためだ。


 つまり、このガラケーにはその時点までのメールが残っていることになる。

 とりあえず新しいメールから順に遡ってみることにした。


 だが残念なことに、受信されているのはメールマガジンばかりだった。最後の一ヶ月は全くメールのやり取りをしていなかったので、当然といえば当然だけど。


 ちまちまとスクロールしていくと、メルマガじゃないメールを一件見つけた。


【健斗】何かあったのか? 話したくなったらでいいから、いつでも連絡してくれよ


 それは、真利が死んでみりかが生まれた日の二週間後に送信されたメールだった。僕は既に視力を失っていたから、今まで読まずに放置してしまっていた。


 あいつ、自分の方が大変なのに僕の心配なんかしていたのか。


 あるいは、この言葉は僕に救いを求めているようにも見える。

 不可抗力とはいえそれを無視してしまったことになり、胸が痛んだ。


 さらに遡っていくと、健斗のメールは他にもあった。送られたのは出産日の三日後だ。


【健斗】子供は元気に生まれた。けど大事な話がある。電話してほしい


 大事な話というのは真利が死んだことだろう。真利の実家で教えてもらった通り、最初は僕に真利の死を伝えようとしていたんだ。


 ごめんな、健斗。お前には本当に申し訳ないことをした……。


 僕は少し泣きそうになりながらも、再び受信ボックスをスクロールした。まだ健斗のメールがあるかもしれないと思ったから。


 そして、出産日の当日の朝に送られたメールを見つけ、僕は目を見開いた。

 

 手が震え、鼓動が激しくなる。その送り主の名前を見るだけで、今にも涙が零れそうになる。


 だけど、僕は意を決してそのメールを開いた。



【真利】


 久しぶり、蟹沢君! 元気?

 私は今日、子供を出産する予定です。


 蟹沢君とは最近会わなくなっちゃったね。

 色々なこと、私から話せてなくてごめんね。

 でも、蟹沢君とはずっと友達だと思っています。


 無事に生まれたら、蟹沢君にもみりかの顔見せたいな!


 絶対にまた会おうね!

 3Kは不滅だぞ!(笑)



 そのメールを見て、崩れ落ちそうになった。


 真利は出産する前、僕にメッセージを残してくれていたのだ。

 しかも、それが僕へ宛てた最期の言葉となってしまった。


 結局僕は真利のために何もできなかった。

 僕がメールに気付かないまま、真利はこの世を去った。

 僕と真利が会うことは二度となかった。


 潤んだ目でもう一度メールを見てみる。


 ああ、でも一つだけ真利の望みが叶ったな――。


 失意の中、僕はそのことに気が付いた。


 それは、僕にもみりかの顔を見せたい、という文だ。不幸中の幸いか、その願いだけは実現した。

 なにせ僕とみりかはなぜか視力と聴力が交換されたんだから。

 そのおかげで、みりかの顔を……見ることが……。


 え?


 僕は違和感を覚えた。

 これは本当に「なぜか」なのか?


 もしかして――。


 なぜ僕らの視力と聴力が交換されたのか、ずっと謎だった。

 だけど、ようやくその理由に思い当たった。


 もしかして、

 天国にいる真利が、僕にみりかの顔を見せるために願いごとを叶えたんじゃないのか?

 高校時代の思い出の場所であるあの公園で――。


 頭ではそんなことはありえないと分かっている。

 でも、そうであると信じたい。他に理由なんて思いつかない。


 真利……。


 もう一度、高校時代の写真と真利のボタンを手に取る。

 写真の中の彼女は変わらずに可愛く笑っている。


 たとえ純粋な友情だったとしても、僕たちはお互いに特別な存在だったのかもしれない。


 それを理解したとき、僕の瞳から涙が零れた。


 ずっと、泣きたいのに泣けなかった。

 でもようやく彼女のために、声を上げて泣くことができた。

 その声は自分自身には聞こえないけれど、真利のいるところまで届いたらいいなと、僕は思った。

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