第4章

祐樹⑭ 旅の果てに

 十月二十八日、土曜日。

 部屋に引き籠っていたみりかを外へ出したあの日から、五日が経った。


 先週の平日は日中の間ずっとみりかとお留守番をして、週末には街中で麻里と会い、それから健斗と一緒に真利の実家に行った。


 だけど、この五日間は笠原家の三人とは会わなかったし、みりかもメッセージを送ってこなかった。短い間とはいえ、毎日のように会っていた人と急に会わなくなると妙に物寂しく感じるものだ。


 昨日になってやっと健斗が連絡を寄越してきた。内容は前に会ったときに話したことのおさらいで、今日の十時に車で僕の家まで迎えに来てくれるという話だった。


 身支度を終えて待っていると、約束の時間ぴったしに彼らはやって来た。


【健斗】着いたぞ

【健斗】今日は後ろの座席でみりかをサポートしてくれ


 そのメッセージを見て外に出ると、アパートの前に健斗の黒い軽自動車が停まっていた。

 健斗が運転席から「乗ってくれ」というジェスチャーをしたので、僕は後部座席側から車内に入った。


 当たり前のことだけど、後部座席にはみりかが座っていた。

 今日の彼女は何というか、小奇麗な服装をしていた。白のニットソー、黒いフレアスカート、黒のショルダーバッグ。足元には白杖が置いてある。

 久しぶりの遠出だからだろうか、いつもより気合いが入っているように見える。一応お墓参りということを意識して、麻里が見繕ったのかもしれない。この前とは違って、髪の毛も綺麗にブラッシングされている。


 僕はいつも通りのラフな服装なので妙に恥ずかしくなった。

 でもよく考えたら、僕が何を着ようがみりかには見えないから、服装に気を遣う必要もなかった。


 健斗が僕らに向かって何かを言い、車が発進した。

 みりかは僕のいる方向に顔を向け、瞼を閉じたまま薄らと微笑みを浮かべた。それから、いつものイヤホンと小型の折り畳みキーボードとスマホを鞄から取り出した。


【みりか】ひさしぶり


「久しぶり」


 久しぶりといっても五日しか経っていないんだけど、みりかも寂しいと感じてくれていたのだろうか。


【みりか】今日は私が祐樹とパパを中継してあげるね


「ありがとう。助かるよ」


 運転中はスマホを使えないので、健斗が言ったことはみりかに教えてもらうしかないだろう。


【みりか】今週は何をしていたの?


「特に変わったことはしてないよ。本を読んだり、映画を観たりしてた」


 みりかの方は文字を入力しなければならないので、僕らの会話は普通の人より時間が掛かる。

 いつの間に車は狭い住宅地を抜け、大通りに出ていた。


【みりか】私もDVDなら観たよ

【みりか】水族館のパンダ

【みりか】目が見えない人のための副音声も付いてた


 僕が麻里とレンタルショップで会った日に、彼女が借りたものだ。そういえば、みりかに頼まれたと彼女は言っていた。


「面白かった?」


【みりか】良くも悪くも原作ファンに求められていることを淡々とこなしているだけの映画だったかな

【みりか】個人的にはもっと監督のこだわりも出した方が良かったと思う

【みりか】まあ、あの小説は独特の文章や空気感が売りで話の内容は薄いから、2時間の尺に縮めるくらいがちょうどいいのかもね

【みりか】あ、でも主題歌は本当に良かったよ


 なんか急に語り始めたぞ。

 みりかの顔を見てみると、もの凄く満足そうな表情をしていた。


 映像も見ていないのによくもまあここまで上から目線で批評できるものだなと、僕は感心した。この作品に対する熱意は実の母である真利から遺伝子レベルで受け継がれているのかもしれない。


 そのあともみりかの「水パン談義」に付き合っているうちに、車はインターチェンジまで辿り着いた。



 高速道路に入ってしばらく経ったあと、サービスエリアで休憩することにした。

 出発してから一時間くらい経っていて、ちょうど折り返し地点まで来たといったところだ。


 車の外に出ると、健斗はみりかを僕に託してトイレがある方へ走っていった。実はずっと我慢していたのだろう。


 今日は麻里がいないから、みりかがトイレに行くときは施設の人に手助けしてもらわなければならないけど、今はまだ大丈夫なようだ。


 とりあえず僕はみりかの腕を掴んで歩き出し、適当なベンチを見つけ、そこに彼女を座らせた。


「何か食べたいものはある? ソフトクリームとかたこ焼きとかイカ焼きとか売ってるけど」


【みりか】じゃあソフトクリーム

【みりか】バニラね


「分かった。待ってて」


【みりか】ありがとう


 僕は足早に売店まで行き、チョコレートとバニラのソフトクリームを買い、バニラの方をみりかの手に持たせた。


 僕も経験があるけど、目が見えない状態でソフトクリームを食べるのはなかなか難しい。

 みりかの鼻先にクリームが付いてしまったので、ポケットティッシュで拭き取ってやった。なんだか小さな子供の面倒を見ているみたいだ。だけど、みりかは照れくさそうに笑っていた。


 ソフトクリームを食べている間に健斗が戻って来た。


【健斗】2階に足湯があるみたいだぞ


 サービスエリアに足湯があるなんて珍しいなと思った。

 でも足湯ならみりかも楽しめるし、せっかくだからちょっと入ってみるのもいいかもしれない。


「行ってみようよ」


 僕がそう言うと、健斗はにっこりと頷いた。僕には聞こえないけど、みりかも嬉しそうな顔で健斗に返事をしていた。


 僕たちはソフトクリームを平らげたあと、二階へ上がった。

 そのフロアには小さな四角形の足湯がいくつかあり、人々がそこに足を入れて寛いでいる。


 健斗が代金を支払い、さっそく足湯に浸かってみることにした。

 みりかは健斗に手伝ってもらいながら、おそるおそる足をお湯に入れた。お湯に触れる瞬間ビクッと体を震わせたけど、脛までお湯に浸かると、だらしなく口を開けて気持ちよさそうにしていた。まさに恍惚といった表情だ。

 ほどよい温度のお湯で、僕も疲れが足から溶け出していくような心地がした。


 窓の外には清々しい青空と山あいの景色が見える。

 特別に立派な眺めとはいえないけれど、こんなありふれた幸せをみりかにも見せてあげられたらなと思った。


 足湯から出たあと、僕たちは車に乗り込みサービスエリアを出発した。


【みりか】あー気持ち良かった!


「そうだね」


【みりか】また来ようね!


 真利の墓参りに行くときはサービスエリアの足湯に寄る。それを恒例行事にするのもいいかもしれない。今度は麻里も連れて。


 いつになるか分からないけれど、次に来るときはみりかの視力も元に戻っているはずだ。足湯に浸かりながらのんびりと景色を眺めることができる。


 そう、また何度だって来ればいいんだ。真利と違ってみりかは今生きているのだから。


「またみんなで行こう」



 それから数十分走ったところで、高速道路から出た。

 車はちょっと寂れた田舎町に向かって走っていく。


【みりか】もうすぐ着くって


「うん、今は人通りの少ない町の中だよ」


【みりか】そうなんだ

【みりか】今更だけど、どうしてあのときお墓参りに行こうって言い出したの?


 真利のお墓に行く理由。

 僕は少し考えて、言葉を選んだ。


「僕はまだ本当の意味で真利に再会していないからかな。それに、真利にみりかの顔を見せてやりたかった」


 みりかもすぐに返信をせずに、少し考えた。

 そして、たった一言だけ、僕に言葉を返してくれた。


【みりか】ありがとう


 やがて、車は墓地の近くにある駐車場に停まった。

 二時間だけの旅が終わり、いよいよ真利の眠る地に到着したのだ。


 ここからは段差が多くなるので、直接会話ができる健斗がみりかを連れていくことになった。

 僕は二人の後ろからゆっくりとついていった。


 真利の実家である川原家の墓は、丘の斜面にある墓地の一角にあるらしい。

 本来は真利も笠原家の墓に入るのが一般的な考えではあるけれど、事情が事情だけに一悶着あったのだろう。僕もそこまで深入りするつもりはない。


 墓地へ向かう途中、廃れた表通りにある小さな花屋で菊の花を買った。供花用の小振りな花束だ。

 店主の老婆は終始、奇妙な一行を眺める目付きで僕たちを見ていた。目は口ほどに物を言う。確かに、見ただけで僕たちの関係性が分かる人はいないだろう。


 そのまま町中を数分歩くと、墓地の入口に着いた。敷地内にたくさんの墓石が並んでいるのが見える。

 僕たちの他には一組の家族しか見当たらず、余計に寂しく感じた。

 健斗はみりかに腕を掴まれながら供花も持っているので、僕が管理事務所で手桶とひしゃくを借り、水汲み場で水を汲んであげた。


 それから三人で石畳の道を少し歩いた。

 数あるお墓のうちの一つの前で健斗が立ち止まる。視線の先には「川原家之墓」と刻まれた墓石があった。


 これが真利の眠る墓――。


 僕と健斗は墓石に水をかけ、花を供え、水鉢に水を入れた。


【健斗】お前が先にお参りしてくれ


「いいのか?」


【健斗】随分待たせたからな

【健斗】それに、俺たちは時間が掛かるんだ


 健斗は少し離れたところにいるみりかに目をやった。

 僕と健斗が準備をしている間も彼女はそこで待っていた。


 僕は健斗に従い、先にお参りすることにした。

 点火した線香を線香皿に置き、手を合わせる。


 僕はようやく真利のもとへ来ることができた。

 といっても、真利に報告するべきことなんて、ほとんどない。

 言いたいのはたった一言だ。


 真利、僕は君のことが好きだった。

 これは卒業式の日の駐輪場で言うべきだったのかもしれないけれど、

 君がいなくなってから言うのはみっともないのかもしれないけれど、

 それでも僕は伝えたかったし、伝えるべきだった。

 ずっとずっと前から告白したいって思っていたんだ。


 今更こんなこと言われても、君は困ってしまうだろう。

 でも、二十年掛かってしまったけれど、ようやく伝えることができた。

 僕はもう大丈夫。これでやっと前を向ける。

 君が命を懸けて産んだ子供も元気に育っているし、これからも君の家族とは仲良くやっていけると思う。

 だから、僕たちのことをずっと見守っていてほしい。


 僕が何を語りかけても、真利は何も言わない。愛の告白に対する返事もない。

 でも、それでいいんだと思えた。

 どっちにしろ叶わぬ恋だったのだから。


 僕は立ち上がり、健斗とみりかのもとへ戻った。健斗に目配せをして、みりかの白杖を預かる。

 それから健斗が墓前に線香をあげ、親子で並んで合掌をした。


 それは、みりかが初めて実の母親と会った瞬間であった。

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