祐樹⑬ 太陽と月、ふたりぼっち

 気が付くと朝になっていた。


 どうやら昨日はあのまま眠ってしまっていたようだ。

 服は外出用のままだし、ひどく腹が減っている。


 とりあえずうがいをして、ペットボトルのお茶をたっぷり飲み、部屋着に着替えた。


 そのあとはまるで魂の抜け殻のように一日を過ごした。

 食事以外にはほとんど何もしなかった。テレビを観ようとしたり、昨日買った小説を読もうとしたりしたけど、長続きはしなかった。


 ただ一つやったことといえば、真利と過ごした高校時代の日々を思い出すことだ。

 真利の人生が十七年前に止まってしまったのと同じように、僕に流れている時間もその歩みを止めてしまったような気がした。


 変化が訪れたのは夜になってからだった。

 晩ご飯の支度もせずにベッドで横になっていると、誰かからメッセージが届いた。


【健斗】聞きたいことがある


 今度はなんだろうか、と眉をひそめた。

 今月はほぼ毎日この一家と話をしている気がする。


【祐樹】どうした?


【健斗】みりかのことだ


 そういえば、昨日みりかにも真利のことを話すと言っていた。結局どうなったのだろう。


 そう思ったところで、昨日の昼過ぎからみりかとのチャットを止めていたことを思い出した。

 また後で返事する、と伝えてから何もしていない。そのあと色々あり過ぎて、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

 僕は、やってしまったと言わんばかりに頭を掻いた。


【祐樹】詳しく


【健斗】昨日みりかに真利の話をしたんだが、それっきり部屋に籠って出てこなくなった


 何やってんだよ……。

 みりかのことが心配になった。彼女があの話でショックを受けるのは想像に難くない。


【祐樹】聞きたいことというのは?


【健斗】みりかはどうもお前のことで怒ったみたいなんだ


 僕のことで?

 どういうことだろうか。


【祐樹】僕が何かしたのか?


【健斗】いや、そうじゃない

【健斗】俺がお前に真利の件を隠していたから怒っているんだ


 その言葉を見て僕は驚いた。

 みりかが本気で怒っているところなど一度も見たことがない。にもかかわらず僕のために、あるいは僕の代わりに怒ってくれているのだろうか。


【健斗】あれはちょっと普通の反応じゃなかった

【健斗】何か心当たりはないか?


 何と答えるべきか迷った。

 みりかがそこまで怒ったのは、おそらく僕が真利を好きだったということを知っているからだ。


 だけど、今それを健斗に話す気はない。いつか話すとしても、ずっと先のことになるだろう。


【健斗】部屋に食事を持っていっても、ほとんど手を付けていないんだ


 どうやら相当参っているようだ。

 僕のことを心の弱い人間だと言っていたけれど、みりかだって等身大の女の子なんだ。


 できることならみりかの力になってあげたい。でも、一体僕に何ができるというのだろう。


 僕だけじゃなくみりかも真実を知った今、昨日の話の続きをしたところで全く意味がない。

 僕は平気だ、だから君が気に病む必要なんて全然ない。そう伝えればいいのだろうか。


 そんなことを言う気にはなれなかった。

 正直なところ平気ではないどころか、かなり傷付いていたし、疲れてもいた。そんな状態で気休めを言ったところで、みりかには見抜かれてしまうだろう。


 きっと僕は何もできない。真利に対しても、何もできなかったんだから。


【祐樹】心当たりというのは特にない


【健斗】分かった

【健斗】変なこと聞いてすまない。これは家族で解決するべき問題だった


 家族、か――。


 僕は真利の顔を思い浮かべようとした。

 でも胸中とは裏腹に、心の中に現れたのはみりかだった。いつも前向きで、楽しそうに笑っていた女の子。

 もしかしたら、健斗が麻里に真利の面影を重ねていたのと同じように、僕はみりかに真利の面影を重ねているのかもしれない。


 真利に訊きたかった。

 心の弱い僕が君の娘を助けることができるのか、彼女の笑顔を取り戻せるのか、と。


 しかし、そんなことをしても真利は何も答えないだろう。

 彼女はもう存在していないのだから。


 そのことを理解すると、僕はようやく体を起こした。


【祐樹】待って

【祐樹】今からそっちに行ってもいい?


【健斗】うちに?


【祐樹】僕ならどうにかできるかもしれない


【健斗】やっぱり何かあるのか?

【健斗】別にチャットで話し掛けてくれるだけでもいいんだぞ


【祐樹】いや、直接会いたい


 実際に会ったところでチャットは使わなければならない。

 にもかかわらず、僕らは今まで何度もあの部屋で会ってきた。それにはきっと何かしらの意味があったはずだ。


【健斗】分かった。頼む

【健斗】悪いけど、今はお前が頼りだ


【祐樹】任せろ


 みりかの家までは電車で一駅の距離だ。

 まだ晩ご飯も食べていないのに、すぐに支度をして家を飛び出した。

 

 僕は、みりかのために強くならなくちゃいけない。



 約三十分後、みりかの家に到着した。

 インターホンのボタンを押し、健斗に招き入れてもらう。


「みりかの部屋に上がらせてもらっていいよね?」


 僕が開口一番にそう言うと、健斗は喋らずに目と手の動きだけで了承してくれた。


 玄関から上がると、健斗の妻である麻里がいた。

 昨日レンタルショップで偶然会い、そのあと一緒に喫茶店へ行った彼女だ。


 彼女はもう僕にとっても真利ではないし、みりかの実の母親でもない。


 でも麻里のことを嫌いにはなったわけではない。むしろ友達としては好きなままだ。

 みりかが生まれてからの十数年間、笠原家の母親として僕に接してくれていたのは真利ではなく麻里なのだ。その事実はどう足掻いても覆らない。


 麻里が上目遣いで不安そうな顔をしていたので、僕は彼女の肩をポンと叩いてやった。

 大丈夫、みりかは助けるし、これからも君とは友達のままだ、という想いを込めて。


 麻里は安心したかのように小さな笑みを浮かべた。


 階段を上って真っ直ぐにみりかの部屋へ向かう。

 二人は僕を信じてくれているのか、階段の下から見送っていた。


 みりかの部屋の前に立つと、僕は彼女にメッセージを送った。


【祐樹】今みりかの部屋の前にいるんだけど、入ってもいいかな?


 なんだかメリーさんの怪談みたいだなと思った。

 みりかは僕を受け入れてくれるだろうか。もしかしたら返事をしないかもしれない。


 しかし、予想に反して彼女の返信はすぐに来た。


【みりか】いいよ

【みりか】電気はつけないで


 一応、ドアを軽くノックした。自分には聞こえないノックというのも不思議な感覚だ。

 中に入ると、確かに部屋の照明は消えていた。


【みりか】たぶん、今ひどい顔してると思うから


 真っ暗な部屋の奥で、スマホの画面らしきものが小さく光っている。

 みりかは壁の方に顔を向けながら、ベッドで横になっていた。イヤホンは片耳だけに付けているのかもしれない。


 僕は自分のスマホの光を頼りに、適当に座って壁にもたれかかった。


 暗い部屋の中で二つのスマホが煌めいている。

 まるで、何もない宇宙に太陽と月だけがぽつんと浮かんでいるかのように。


【みりか】何しに来たの?


「足つぼマッサージだよ」


【みりか】そんなことしなくても私は大丈夫

【みりか】子供がちょっと拗ねてるだけだよ


 みりかは大体の事情を察したようだ。


「健斗は、君が僕に関することで怒っていると言っていた。健斗が真利の話を僕に隠していたことだ」


【みりか】はじめはそうだった

【みりか】でもずっと考えていたら、パパの気持ちもちょっとは理解できたの


「それじゃあ、どうして部屋から出てこないの?」


【みりか】今は別のことを考えている

【みりか】祐樹には話さない方がいいかもしれないことだけど


 僕には話さない方がいいこと?

 見当がつかないけど、これだけ傷付いたあとなんだから、もう何を言われても平気な気がする。

 それに、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。


「よかったら話してほしい」


 そう言うと、少しの間チャットによる返事が止まった。

 何かを躊躇するような沈黙だ。


【みりか】それじゃあ、言うね

【みりか】私を産んだお母さんは、やっぱり祐樹と結ばれるべきたったと思うの


 真利は僕と結ばれるべきだった――。

 みりかの考えていることは僕の予想外のことであった。なぜ今更そんなことを考えているのだろう。


「どうして?」


【みりか】お母さんがあのとき子供を産まなければ死ぬことはなかった

【みりか】だから祐樹は高校のとき、お母さんをパパに会わせるべきじゃなかった

【みりか】そうしたら、もし結ばれなくても、少なくともお母さんが死ぬことはなかった


 淡々と紡がれるみりかの言葉に唖然とした。彼女がこんなことを言う子だとは思わなかったのだ。自分では大丈夫だと言っていたけれど、明らかに冷静さを欠いている。


 僕はとりあえず彼女のペースで対話をすることにした。


「そうかもね。でも、僕が会わせなくても二人はどこかで出会っていたかもしれない。峯岸さんも一応共通の知り合いだったんだし」


【みりか】出会っていたとしても、祐樹はお母さんに好きだって伝えるべきだったんだ

【みりか】何かが変わっていたかもしれない


 卒業式の日に駐輪場で真利とボタンを交換したことを思い出した。

 あのとき僕が真利に告白していれば、彼女は死なずに済んだのだろうか。それは分からない。


 でも、どうしてそんなこと言うんだよ?

 もしそうなっていたら、んだぞ?


「そんなのはただの結果論だ」


【みりか】分かってる

【みりか】でももし高校時代に戻ったとしたら、お母さんとパパをまた会わせる?


「それは、今の記憶を保持しているという前提の話?」


【みりか】面倒臭いなぁ。それでいいよ


「過去に戻れたとしても、僕はやっぱり真利を健斗に会わせると思う」


【みりか】なんで?

【みりか】そうしたらお母さんは死んじゃうんだよ?


「そうしないとみりかが生まれて来ないからだよ。それはみりかを殺すのと同じことだし、僕にはそんなことできない」


【みりか】お母さんを犠牲にしても、私は生まれて来ていいというの?


 みりかが何に悩んでいるのかずっと分からなかったけど、その言葉を見て、やっと彼女の苦悩を理解することができた。


 みりかは自分が生まれて来たせいで真利が死んだと思っているんだ。彼女には全く非がないのに、責任を感じてしまっているのだろう。


 違う、それは違うんだ――。


「たとえ何回時間を巻き戻したとしても、僕は毎回みりかに会いに行くし、毎回足つぼマッサージをやってやる。一緒に公園だって行ってあげるし、DVDも観る」


 みりかが僕のことを好きかもしれないとか、そんなことを心配するのはもうやめた。


「君は何も悪くない、責任は僕と健斗が取る。だから、安心して生まれて来ていいんだ」


 僕は自分の気持ちを正直に伝えるべきだ。あとのことは、なるようになればいい。


「未来を生きるべきなのは、みりかの方なんだ」


 再びみりかの返事が止まった。


 君は今どう思っている?

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