みりか⑨ 視覚も聴覚もない世界
祐樹から返信が来ない。
ママが水族館のパンダを観たことがないという話を昼過ぎにしたけど、「また後で返事する」と言われたまま音沙汰なしだ。ママの話はある意味ただの口実で、祐樹ともっとお話がしたいだけなのに。
お日様が私の気持ちと共にゆっくり沈み、もう夕方になってしまっている。いや、まだ夕方というべきなのか。たかが数時間返信が来ないくらいで文句を言うのは、いわゆる「重い女」というやつなのかなぁ。
祐樹だって一応大人なんだから色々あるんだよね。知らないけど。
でも、私は祐樹に関することになると我慢ができなくなってしまうらしい。
リビングで返信を待ちながらぼーっとしていると、買い物に行っていたママが帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえり」
「一人でも大丈夫だった?」
「子供じゃないんだから、大丈夫だよ」
一人で留守番をしたのは久しぶりのことだった。けど、目が見えない生活にも多少は慣れてきたから、数時間過ごすくらいならなんとかなった。
「よかった。パパは帰って来るの少し遅くなるって」
「どこ行ったの?」
「んー、蟹沢君と一緒にいる」
「えっ、何それずるい」
「ずるい?」
「あっ、いや。外でご飯食べてるのが」
「そういえばみりか、目が見えなくなってからずっと家にいるもんね。今度どこかに出掛ける?」
危ない危ない。
祐樹と一緒にいるから反射的にずるいって言っちゃったけど、上手く誤魔化せたみたいだ。
「別にいつでもいいよ」
「うん、了解」
ホッと胸を撫で下ろす。
だけどそうしたのも束の間、私は気付いてしまった。
パパが今祐樹と会っているのって、私がママの話をしたことと関係しているのではないだろうか。
いや、きっとそうだ。パパが出掛けていったのも午後だったし。
もし深刻な話になっていたらどうしよう。私はそんなつもりは全然なかったのに。
「あっ、そうだ。はい、これ」
ママが私の手の上に何かを置いた。四角形の薄い板のようなもので、手触りはプラスチックっぽい。
「水族館のパンダだよ」
「あっ、DVDか。すっかり忘れてた」
「ひどっ。せっかく借りてきたのに」
「へへっ。ありがとう」
そういえば、借りてきてって昨日お願いしてたんだっけ。
私は前だけを見ながら生きているから、昨日のことなどすぐに忘れてしまうのだ。
これが祐樹の思い出の映画か……。
四角いプラスチックを撫でながら、祐樹の高校時代に想いを馳せた。
その後、私は落ち着かない気持ちで過ごした。
ママはいつもと同じような様子で晩ご飯を作り、一緒に食べた。
やがて、食事を終える頃にパパが帰ってきた。
「ご飯食べた?」
「いや、まだ」
「じゃあ、今出すね」
ママがパパの分の晩ご飯を並べる音が聞こえた。
パパは祐樹と一緒にご飯を食べにいったわけじゃないんだ。
「祐樹にーちゃんとどこに行ってたの?」
「ううん。ちょっとな」
はぐらかされた。それじゃあ、やっぱり何か真剣な話をしていたのだろうか。
私は自室に戻らずに、テレビを聞きながらパパが食べ終わるのをなんとなく待ってみた。
しばらくするとパパが食べ終わったのか、食器をシンクに置く音やら足音やらが聞こえた。それから、パパとママが椅子に座る音がした。
「みりか、ちょっといいか?」
「うん?」
「大事な話があるんだ」
やっぱり。
今日のパパはいつもより無口だなと思っていたんだ。私には見えないけど、さぞかしそわそわしていたのだろう。
「何?」
「実はな……」
パパとママの話は私の予想より遥かに重大なことであった。
まず、私の本当のママは私を産んだときに亡くなっていて、ママとは血が繋がっていないことが告げられた。
驚きのあまり呆然自失になった私に、二人はゆっくりと話を聞かせた。
本当のママが死んでも、パパはなんとか私を育てようとしてくれたこと。
それから、私の耳が聞こえないということが判明したこと。
スーパーでママと出会い、親しくなったこと。
ママは子供を産めない体になっていたこと。
一緒に暮らし始め、私が二歳になったときに結婚したこと。
私に打ち明けるのが怖くなって、今まで黙っていたということ。
話が一通り済んだあとも、私はしばらく絶句していた。
「みりか、ずっと話せなくて、本当にごめんなさい」
ママが泣きそうな声で言った。
正直なところ、ママと血が繋がっていないということについては別に嫌ではなかった。むしろ私を育ててくれたことにより感謝したいくらいだ。
今の私にとって重要なのは、それとは別のことだった。
「どうして……」
「えっ?」
「どうして今日それを話そうと思ったの?」
「それは……」
「母さんが今日たまたま祐樹と会ったんだ」
パパが話に割って入った。
「それで、祐樹がこのことに勘付いて、父さんが祐樹に話をしに行ったんだ」
な、何それ……?
「それで、みりかにもこれ以上隠すのは良くないと思ったんだ」
「それって、祐樹にーちゃんにもずっと隠していたってこと?」
「そうだが……?」
そうだがって――。
祐樹は高校時代、本当のママのことが好きだったんだよ?
それどころか、今でもそのことを忘れられずにいるかもしれないんだよ?
なのに、亡くなったことを教えてあげないなんて、どうかしてる!
祐樹のこの十七年間は一体何だったというの!?
「許せない……!」
「み、みりか?」
私のことは仕方ない。でも、祐樹を傷付けるのは誰であろうと承知しない。
「パパは酷いよ!」
「祐樹のことで怒ってるのか?」
それに、祐樹が気付いたのだって、私がママと水族館のパンダの話をしたからじゃん!
「祐樹にーちゃんが気付かなかったら、どうするつもりだったの? 結局バレなきゃ話せなかったんじゃないの!?」
「俺も母さんも、いつかはちゃんと話そうと思っていたんだ!」
「言い訳なんていい! パパなんかもう知らない!」
私は立ち上がり、リビングから出ようとした。
「みりか、待ちなさい!」
パパが私の腕を掴んだ。
が、無茶苦茶に暴れてやると、諦めて腕を離した。
私は息を荒くしながら自分の部屋に辿り着き、ベッドに潜った。
ポケットからスマホを取り出し、握りしめる。
祐樹から返信が来ないのも、あの話にショックを受けているからに違いない。
私と同じように部屋で独り悲しんでいるんだ。
できれば今すぐにでも祐樹のところへ行って、手を握ってあげたい。
けど、それは私にはできないことなんだ……。
でも同時に、とある重大な事実に気付いてしまった。
祐樹が好きだった相手はもうこの世にいないということが分かった。
つまり、私の恋のライバルもいなくなったということだ。
この状況下でそんなことを考えている自分に反吐が出そうになった。
私って、最低だな――。
結局、私はその日、部屋から出なかった。
真夜中に一回だけトイレに行ったけど、それ以外ではドアを開けなかったし、パパとママの呼びかけも無視した。
物音のなくなった部屋でずっと横になっていると、視力と聴力を両方失くしてしまったような気分になる。視覚も聴覚もない世界というのは一体どんな感じだろう。
今なら、私の聴力も祐樹にあげちゃっていいと思った。それで祐樹は完全に元の状態に戻る。そして、私は光も音もない空間でひっそりと消え去るのだ。
もしかしたら既に聴力は月の光に奪われていて、私がそれを認識していないだけなのかもしれない。
もう、どっちでもいいや。
やがて意識が体から剥がされ、この小さな部屋の暗闇の中へ溶けていった。
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