祐樹⑩ この光の向こうに、君がいる

 僕は真利を問い詰めるべきなのだろうか。この真利が本当に高校時代に一緒だった真利なのか。


 それを確かめるのは簡単だ。高校時代のことについて彼女が知っているのか訊けばいい。


 だが本当にそれを暴いてしまっていいものなのだろうか。

 そんなことをしてしまったら、もう後戻りはできない。僕たちの関係性は壊れ、今までのようにはいられなくなる。

 何を隠しているのか知らないけれど、彼女だって理由があってそうしているはずなのだ。


「そんなはずはない」


 気が付けば、僕はそう言っていた。真利が水族館のパンダを知らないはずがない、と。


 こんなわけの分からない状態のまま、何も気付いていないふりをしながら友達を続けるなんて僕には無理だ。


「僕たちは一緒にその映画を観に行ったんだ。健斗と峯岸さんも一緒に」


 真利は驚いたように目を開いた。

 が、今度はすぐに返事を送信した。


【真利】そうだったっけ? ごめん、忘れてた


 嘘だ。

 高校時代の話でも、そんな簡単に忘れるわけがない。


「君は本当に僕たちと同じ高校にいた真利なのか?」


 もう自分を抑えられなくなっていた。たとえ不審に思われても、そう訊かずにはいられなかった。


【真利】どういうこと?


「そのままの意味だよ。じゃあ峯岸さんがやってた部活は何だ? 高校のときからの友達なんだから覚えてるだろ?」


【真利】卒業してからは会ってないから、付き合いは高校のときだけだって


 ああ、ダメだ。やっぱりこの人は真利じゃない。

 真利と峯岸が友達になったのは高校じゃなくて中学校だ。だから違うクラスなのに峯岸も映画に誘ったんだ。


「真利と峯岸さんは中学の頃からの友達だよ」


 彼女の顔が引きつる。


「今のは鎌をかけただけだ。なあ、もうやめにしないか? どう考えても君が昔の真利のことを知っているとは思えない」


 僕は我を忘れて捲し立てた。

 すると彼女は目を伏せて、口元に自虐的な笑みのようなものを浮かべた。


【真利】やっぱり、蟹沢君と二人になるのはまずかったか

【真利】健斗がいるときは上手く誤魔化してたけど


 認めた……のか?

 僕は心臓が鈍く疼くのを感じた。


【真利】蟹沢君の言う通りだよ

【真利】私は、蟹沢君と健斗が高校のとき一緒だった真利さんじゃない


 その言葉は、雷に打たれるのと同じくらい衝撃的だった。

 自ら暴いたことなのに、改めて本人の口から言われると胸が苦しくなった。


「どういうことなの?」


【真利】ごめんなさい、私からはこれ以上言えない


「君が真利じゃないなら、真利は今どうしているんだ?」


【真利】真利さんは、健斗のもとから離れてしまったの


 離れてしまった?

 健斗と真利が結婚したあと、一体何が起こったんだろう。


 僕は話についていくだけで精一杯だった。


「二人は離婚していたってこと?」


【真利】ここから先は健斗から話した方がいいと思う

【真利】電話するから少し待っててもらっていい?


「分かった」


 とりあえず彼女の話が終わるのを待つことにした。わけが分からないので今は従うしかない。


 彼女は口元を手で押さえながら電話をかけた。当然会話の内容は僕には聞こえない。


 彼女が電話している間、改めてその顔を観察してみた。


 今までは何の疑いもなく真利だと思っていたけれど、絶対にそうかと問われれば断言はできない。僕が視力を失う前、最後に真利の顔を見たのはもう十七年ほど前なのだ。十八歳と三十五歳じゃ顔なんて随分変わってしまうし、その間によく似ている人とすり替わってしまったら気が付かないかもしれない。女の人は化粧だってするし。


 この人が健斗の妻になったのはいつのことなのだろうか。

 みりかも知らなかったということは、みりかの物心がつく前ということになる。


 僕たちが高校を卒業してから、みりかが生まれて物心がつく前までの間――。


 いや待てよ。そうなると、みりかはということになるんだ?


 考えれば考えるほど謎が増えて、頭が痛くなってきた。僕はこれ以上考えるのはやめることにした。健斗に訊けば全て分かることだ。今考えたってしょうがない。


 数分経ったところで彼女の通話が終わった。


【真利】ごめん、待たせて


「大丈夫だよ」


【真利】うちの最寄駅まで健斗が車で迎えに来るから、そこまで一緒に行こう


「了解」


 健斗が来るのか。

 何もかもを隠していたあいつに対して、僕は今どういう感情を抱けばいいのか分からない。単純に怒ればいいのか?


 僕は迷いを振り払うかのように頭を振ってみた。

 まずは話を聞いてみるしかないだろう。何かを想うのはそのあとでもいい。


【真利】あともう一つ


「何?」


【真利】私のことは今はまだ真利と呼んで。せめて健斗から話を聞くまでは


「……分かった」


 彼女は儚げに微笑んだ。

 僕たちはどちらからともなく立ち上がり、レジで個別に会計を済ませた。


 喫茶店から出ると駅まで少し歩き、電車に乗った。その間僕たちはチャットを使うこともなく、身振り手振りだけで目的の電車まで辿り着いた。


 車内は混んでいて、僕と彼女は身を寄せ合うような姿勢になってしまった。息遣いまでが聞こえてしまいそうなくらいに。

 でも、こういうときは耳が聞こえない方が助かる。今彼女とどんな言葉を交わせばいいのか皆目見当もつかないから。


 もし今一緒にいるのがだったら、僕は胸をときめかしていたのだろうか。それも分からない。そんな人生を歩むことができていたならきっと素敵だっただろうなと、ちょっとだけ思った。



 笠原家の最寄駅に着き、近くの駐車場まで歩いた。

 すると、そこには見覚えのある黒い軽自動車が停まっていた。


 真利が近づくと健斗が運転席の窓から顔を覗かせ、夫婦の会話が始まった。

 僕はその場で立ち尽くし、二人の姿を不思議な気持ちで眺めていた。


 しばらくすると、話が済んだのか真利がこちらを振り返った。


【真利】それじゃあ私、歩いて帰るから


 そうなのか。

 どうやら僕は健斗と二人きりで話さなければならないらしい。


「気を付けて帰って。あと、さっきは色々ときつい言い方をしてごめん」


 真利は口元を緩めた。

 今度は嬉しそうな微笑みだった。


【真利】私の方こそごめんね。蟹沢君はやっぱり優しいよ

【真利】じゃあ、またね


「バイバイ」


 彼女は手を振って去っていった。

 またねと言われたけど、次に会ったとき彼女は僕にとってどういう存在になっているのだろう。


 彼女の姿が見えなくなると、僕は助手席のドアを開けた。


 運転席にいる健斗がニカッと笑ってこちらを見た。僕と冗談話をしているときの、いつもの健斗だ。

 今日の出来事がただのドッキリで、これから健斗がネタばらしをする。そんな結末だったらどんなにホッとするだろうか。


 車内には健斗の他には誰もいなかった。もしかしたらみりかもいるのではないかと思ったけど、家でお留守番をしているようだ。

 ちょっと心配だけど、真利もすぐに帰るから一人で大丈夫だということになったのだろう。


 僕は助手席に座り、とりあえず対話を始めることにした。


「よお」


【健斗】おう


「最近はよく会うね」


【健斗】そうだな


 あまりにもいつも通りだ。どう切り出すべきなのだろう。


「彼女から聞いたと思うけど、彼女は真利ではないと言われた」


【健斗】そうだ

【健斗】あいつは俺たちと同じ高校だった川原真利じゃない


「どういうことか教えてくれるんだよね?」


【健斗】ちゃんと話すよ。でも場所を変えたい

【健斗】今から一緒にとある場所に来てほしい。その方が手っ取り早いからな。ここから三十分くらいのところだ


 とある場所。

 その響きに僕は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。


「どこなんだ?」


【健斗】川原真利の家だ


 なんだって――。

 息が止まりそうになった。


【健斗】そこに真利がいる

【健斗】高校時代を俺たちと一緒に過ごした川原真利がな


 鼓動が強く脈打ち、額に脂汗がにじむのを感じた。


 真利は健斗のもとを離れたと聞いたから、どこか遠いところにいるのだと勝手に思い込んでいた。

 それが、今からいきなり会うことになるなんて……。


「よく分からないけど、急に押しかけて大丈夫なの?」


【健斗】ちゃんと連絡はしてある


 僕はため息を吐いた。わけが分からなくとも、そこまで言われたら腹を括るしかあるまい。


「分かったよ。どこにでも連れていってくれ。それで、全部ちゃんと説明してくれ」


【健斗】悪いな

【健斗】車を出すぞ


 健斗はスマホをポケットに仕舞い、僕はシートベルトを締めた。

 車がゆっくりと動き出し、駐車場を抜け、大通りへ出たところでスピードを上げた。


 時刻はもう午後五時を過ぎ、街は秋の柔らかな夕陽に包まれていた。

 僕は窓越しにその光を眺めながら、これから会う真利について考えた。僕が視力を失ったあと真利はどこでどんな人生を歩んでいたのだろうか、と。


 そこで僕はあることに気付いてしまった。

 それはとても甘くて危険な欲望の蜜のようなものだ。


 つまり、どんな理由であれ真利がもう健斗の妻でないのなら、なおかつ今はパートナーがいなかったら、チャンスがあるのではないかと――。


 十七年ぶりに僕と真利が会う。それが僕たちの人生にとってどんな意味を持つのかは分からない。

 けど、どんな結果になるのだとしても、僕はやっぱり真利に会いたい。


 目を閉じて、高校時代の真利の顔を思い浮かべようとした。

 瞼の裏側にはなぜかみりかの顔が浮かんできた。


 みりか、ごめん――。


 僕の気持ちとは裏腹に、車は一直線に走り続けている。

 光の先にいる真利のもとへ向かって。

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