祐樹⑨ 遭遇

 みりかに高校時代の話を聞かせた次の日、僕は繁華街に繰り出した。「水族館のパンダ」を読み終わったから、新しい本を買いに来たのだ。ついでに、時間が余れば映画でも観てみようとも思っていた。


 仕事もせずにこんなことばかりしていると、自分がダメ人間になってしまったようにも思えてしまう。

 しかし、みりかに視力を返してしまったらもう二度と本を読むこともできなくなるかもしれないし、視力があるうちにしかできないことをやるのは今の僕にとって最も重要な使命だ。


 今日は日曜日ということもあり、街は多くの人で賑わっている。

 といっても、僕にはその喧騒が聞こえているわけではない。街の人々はあくまでも無音のまま話したり笑ったり騒いだりしている。


 まだ危なっかしいときもあるけれど、何も聞こえない状態で人混みを歩くのにも慣れてきた。

 僕は誰にぶつかることもなく、目的地である大型の本屋兼レンタルショップに辿り着くことができた。


 まず始めに本のコーナーへ行き、小説を何冊か買った。

 レジで何かを質問されたけど、どうせ「ブックカバーはお付けしますか」とかそんなところだろうと当たりを付け、適当に頷いていたら乗り切ることができた。


 その次にレンタルコーナーへ寄った。字幕があれば映画の内容も大体理解できるので、何か面白そうな作品がないものかと棚を眺めながら歩いた。

 すると、邦画の作品が並んでいるエリアで見覚えのある後ろ姿を見つけた。


 それは真利だった。高い棚に囲まれている彼女の背丈は、いつもより小さく見える。

 後ろから近づいて見てみると、彼女はDVDのケースを手に取り裏面を眺めていた。


 さらに近づき彼女の真後ろに立ってみると、僕は驚いて目を見開いた。


 真利が手に取っていたDVDは「水族館のパンダ」だった。

 なんで今更そんなものを眺めているのかは分からない。でも僕は昨日までその原作を読んでいたので、運命といえば大げさだが、シンパシーのようなものを感じてしまった。


 そこで真利が背後の気配に気付き、こちらを振り向いた。

 僕と思いっきり目が合い、たぶん大きな声を上げて驚いた。


「やあ」


 僕が片手を上げて挨拶すると、彼女は口をパクパクさせて何かを言った。

 だけど、すぐに僕の耳が聞こえないことを思い出してくれて、スマホを取り出した。


【真利】ビックリした!


「奇遇だね」


【真利】ホントにね

【真利】蟹沢君もDVD借りにきたの?


「まあ、そんなところ」


 いちいちチャットで会話するのも面倒なはずなのに、真利は嫌な顔もせず……というより、むしろ楽しそうに僕と話をしてくれている。


【真利】私もみりかに頼まれたんだ


 真利はそう言ってDVDのパッケージを僕に見せた。


 なるほど。僕が昨日みりかに水族館のパンダの話をしたから、彼女が興味を持って映画のDVDを真利に頼んだというわけか。運命でも偶然でもない。シンパシーを感じて損した。


 でもたまたまここで出会ったのはちょっとした奇跡かもしれない。

 思い返せば、真利と二人きりになるのは高校生のとき以来、十数年ぶりだ。


「これ懐かしいな」


【真利】ひょっとして蟹沢君がみりかに教えたの?


「そうだよ」


【真利】やっぱり!

【真利】みりかと仲良くしてくれてありがとね


 そんな風に言われると、自分がみりかの同級生の友達みたいに思われている感じがして、なんだか落ち着かない。もう三十五歳だというのに。


「どういたしまして」


【真利】よかったら私にもオススメのDVD教えてよ!


「いいよ、ついてきて」


 僕は店内を歩き出し、真利が後ろからついてきた。

 図らずも彼女と一緒にレンタルショップを周ることになってしまい、ちょっとだけ舞い上がりそうだ。高校生のときにもこうして一緒にレンタルショップに行ったことを思い出し、あの頃に戻ったような気分になった。


 僕は真利に選りすぐりの作品をいくつか紹介し、彼女はその中からとあるアニメ映画を選んだ。僕自身は興味を惹かれる作品が見つからなかったので、何も借りないことにした。


【真利】レジに行ってくるから、その辺で待っててもらっていい?


「いいよ」


 彼女は右手で「ごめんね」というジェスチャーをして、レジに並んだ。日曜日だから会計待ちの列が長く、時間が掛かりそうだ。


 僕は適当にスマホをいじりながら待つことにした。

 待ち受け画面を見ると、チャットにメッセージが入っていたので開いてみた。


【みりか】今大丈夫?


 それを見て、心臓が跳ね上がりそうになった。意味もなく店内をキョロキョロと見回してみる。みりかが尾行をしていて、棚の陰からこちらを見ているような気がしたのだ。


 だけど、そんなことはありえないとすぐに気が付いた。

 彼女は今目が見えないのだ。監視なんかできるわけがない。刑事ドラマの見過ぎだ。


【祐樹】どうしたの?


【みりか】ちょっと気になることがあって


 何だろうか。

 真利の会計が済むまでまだ時間が掛かりそうなので、真利と一緒にいることはとりあえず伏せて話を聞いてみることにした。


【祐樹】言ってみて


【みりか】昨日、水族館のパンダの話をママにしたら、ママはそれを観たことがないって言ってたの


 みりかの言葉を見て、僕は一瞬頭が真っ白になった。彼女の言っていることが上手く呑み込めない。


【みりか】祐樹は高校生のときに一緒に映画観たんだよね?


 その通りだ。

 それに、みりかには詳しく話さなかったけど、真利はあの作品をかなり気に入っていた。理由は分からないけれど、真利がみりかに嘘を吐いたということなのだろうか。


【祐樹】そうだよ

【祐樹】話は分かった。悪いけどちょっと今外だからまた後で返事する


【みりか】あっ、ごめん。いつでも大丈夫だから


 一旦やり取りが終了がし、スマホをポケットに仕舞った。


 そういえばさっき真利と話したときも、DVDをみりかに頼まれたから借りにきたとしか言っていなかった。僕が懐かしいと言っても高校のときの話はせず、僕のオススメの映画くらいにしか思っていないような印象を受けた。


 何らかの理由でみりかに隠さなきゃいけないのだとしても、僕にまでそんな態度を取る理由はないはずだ。真利のことはそれなりに理解しているつもりだったけど、これに関しては彼女の気持ちが想像すらつかない。


 いや、結局僕は真利のことを理解しているつもりでいただけで、実のところ何も分かっていないのだろう。なにせ、彼女が健斗に好意を寄せていたことにすら気が付かなかったのだから。


 あれやこれやと頭を悩ませていると、ほどなくして真利が戻ってきた。


【真利】お待たせ


「おかえり」


【真利】蟹沢君、まだ時間ある? よかったら一緒にその辺プラプラしてかない?


 えっ。


 年甲斐もなくドキリとした。僕の方は駅まで一緒に戻るくらいのつもりでいたからだ。まさかこの歳になって真利とデートのようなことをするとは夢にも思っていなかった。


「僕はいいけど、そっちは大丈夫なの?」


【真利】夕方までに帰れば大丈夫。


 心配しているのはそういうことじゃない。


【真利】それに、主婦にだって家のこと忘れて友達と遊ぶ時間が必要なの


 そこまで言うなら僕としても断る理由はない。まあ昔からの付き合いだから、健斗にバレたとしても問題はないだろう。みりかはどう思うか分からないけれど。


「了解。じゃあ行こうか」


【真利】うん!


 僕と真利は繁華街の表通りでウインドウショッピングをした。

 何か目的があったわけではない。けど視力が戻ってからもこういうことはしていなかったから、何もかもが綺麗で眩しく、歩くだけでもわくわくした。


 真利の隣で歩いていると、ふと彼女の歩き方に違和感があることに気付いた。ほんの僅かだけど、左足を引きずっているように見える。視覚を失うと聴覚が研ぎ澄まされるのと同じように、聴覚を失うとその分動体視力が過敏になるのかもしれない。


 もしかしたら僕の知らない間に足を悪くしていたのだろうか。

 けど、一応女性の体のことなので彼女には何も訊かず、ショーウインドウに視線を戻した。


 飾られた真新しい服を眺めていると、自分の格好がやたら古臭く見える。何年も服を買っていなかったので、また目が見えなくなる前に買っておいた方がいいなと思った。


 しばらく歩いたあと、喫茶店に入った。

 僕たちはアイスコーヒーを注文し、またチャットと口頭による奇妙な会話が始まった。


【真利】やっぱり、たまには友達と出掛けるのもいいね


「あまり友達と遊びに行ったりしないの?」


【真利】みりかが生まれてからは全然

【真利】ほら、あの子普通の子とは違うじゃない?


「確かに」


 障害を持つ子の親というのは、休日も色々と気苦労があるのだろう。


「まあ、僕も似たようなものだよ。健斗と真利以外に昔の友達なんかと会ったりはしていない」


 そうフォローしたところで、店員がアイスコーヒーを持ってきた。

 僕だけが喋っているので、不機嫌な妻に一方的に話し掛ける夫に見えているかもしれない。


【真利】そんなもんだよねぇ


「そういえば、峯岸さんはまだ交流あるの?」


 真利の返事が止まった。彼女の顔に目をやると、表情が固まっているように見えた。


「高校が一緒だった奴いるじゃん。みんなで遊びに行ったこともあるし」


【真利】卒業してからは会わなくなっちゃったな


 真利の返事はその一言だけだった。峯岸の話はしたくないような気配を感じた。


 峯岸と喧嘩でもしたのだろうか。女性は一度仲違いしたら修復不能になるとも聞くし。


 いや……そうではないかもしれない。

 みりかから聞いた水族館のパンダに関する話を思い出した。真利はみりかに水族館のパンダを観たことがないと言ったらしい。


 やっぱり真利は高校時代に関係する話を一切したくないと思っているのかもしれない。少なくとも僕とみりかに対しては。


 どうしてだろう。やはり僕には女心というものがさっぱり理解できない。


「そっか。まあ、そんなもんそんなもん」


【真利】そうだよね


 とりあえず峯岸の話は流すことにする。が、水族館のパンダを観たことがないとみりかに言ったことに対して、理由を尋ねるべきなのか僕は悩んだ。


 いや、それも意味がないかもしれない。高校時代の話をしたくない相手には僕も含まれているのだから。


 でも、そう考えるとなんだか虚しくなりそうだ。

 真利とは結ばれなかったけど、僕にとって大切な思い出であることに変わりはない。暗闇の世界でも、この思い出を大事に抱えていたからこそ生きていくことができた。


 その高校時代がなかったことにされているような気がして、少し嫌な気持ちになった。そんなこと、僕には耐えられそうにもない。


「ところで、さっき借りてた水族館のパンダだけどさ。昨日ちょうど原作を読んでたから、それでみりかにその話をしたんだ」


 ちょっとばかり探りを入れてみることにした。

 しかし、僕はこのあとすぐに後悔をすることになる。深く考えもせずにそんなことをするべきではなかったのだ。


【真利】そうなんだ! 有名だからタイトルは分かるけど、どんな話か知らないんだよねぇ


 その瞬間、世界が止まったような気がした。


 水族館のパンダを観たことがない。

 真利はみりかだけではなく僕にもそう言った。高校生のときに一緒に観に行ったのにも関わらずだ。


 真利は一体、何を言っているんだ。

 高校時代の話をしたくないとかそういうことではなく、本当に覚えていないのだろうか。

 記憶喪失? いや、そんな安易な小説みたいなことなんて滅多に起こらないはずだ。


 まさか……。


 僕は記憶喪失以上に突拍子もない仮説を思い浮かべてしまった。


 真利は水族館のパンダを観たことがないのかもしれない。

 つまり、目の前にいるこの女性は、今まで真利だと思っていたこの人は、僕が高校時代に好きだった女の子とは別の人物なのではないのだろうか、と――。

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