祐樹⑦ 高校時代(前編)
僕が真利と出会ったのは、高校の入学式の日のことだ。
その日は、今でも鮮明に思い出せるくらい気持ちよく晴れていて、新しい学生生活の門出にふさわしい春の青さだった。
教室に入って自分の席を見つけると、その隣の席にとても可愛らしい女の子が座っていた。長く艶やかな黒髪がとても印象的だったことを覚えている。
そう、その人こそが僕の人生を大きく変えてしまうことになる女性、川原真利だった。
でも僕たちは、この日何か言葉を交わしたわけではなかった。初日だからお互いに緊張していたのかもしれないし、隣の席の人と会話が必要となる場面もなかった。
僕は前後の席の男子と話し、真利は前後の席の女子と話をしていた。
真利と最初に会話をしたのは数日後のことだった。
別々のクラスになった健斗と一緒に帰ることになり、自転車に乗って片田舎の道を走っていた。道が広いから、歩道で横に並んでも迷惑になることはない。
適当な雑談をしながら走っていると、下校ルートの近くに広い公園を見つけた。
その後も特に予定はなかったので、公園に寄り道をしていくことにした。
自転車置き場に自転車を停め、僕たちは公園の中を散策し始めた。
ちょっとした丘みたいになっているところに高台があるらしく、健斗がそこを登りたいと言った。バカと煙は何とやらというやつだろうか。
丘を数分歩き、もう少しで高台だというところで、いきなり健斗が叫んだ。
「自転車の鍵かけ忘れた!」
「えっ……下に戻るか?」
「いや、ちょっぱやで取って来るから、先に高台で待ってて!」
「了解」
健斗は下り坂を走って下りていった。まあ、転んだところで僕の責任ではない。
言われた通り高台まで行くと、見晴らしのいい景色が眼前に広がっていた。芝生になっているところに寝転がり、健斗を待つことにした。
爽やかな風が頬を撫で、心地良くなった僕はいつの間に目を閉じていた。
意識が飛んだかどうかということまでは覚えていない。もしかしたら少し眠ったのかもしれないし、そんなことはなかったのかもしれない。
ふと瞼を開けると、僕の隣に誰かが立っているのが見えた。しかもうちの高校の制服を着た女子だ。
僕は慌てて飛び起き、その人の横顔を見た。
川原だ――。
隣の席の女子、川原真利がなぜか芝生の上で佇みながら街の風景を眺めていた。
「のどかなところだね」
真利はその艶やかな髪を風になびかせ、そう呟いた。
「川原……」
僕はおそるおそる声を発した。すると、真利はこちらを振り向いた。
「うん、川原。話すのは初めてだね」
「そうだな」
「ここで何してるの?」
「友達を待ってる。自転車の鍵かけてなかったから」
「……ふーん」
「川原は?」
「私はただ、学校帰りに寄り道してただけ。そしたら、蟹沢君が寝てるのを見つけたの」
「そうなんだ」
「うん」
「……」
「……」
なんだかイマイチ会話が弾まない。お互いに、話すのはそれほど得意な方ではないようだ。早くも気まずい沈黙に包まれてしまっている。
僕はポリポリと頭を掻き、真利は恥ずかしそうに目を伏せた。
「それじゃ、私行くね」
「あ、ああ」
「また明日」
「また明日」
微妙な空気のまま、真利は去ってしまった。
せっかく可愛い女子と仲良くなれるチャンスだったのに、と思った。
そのあとすぐ、健斗が走って戻ってきた。
「ごめん、間違えて違う場所に行ってた!」
「いいよ、別に」
「そういえば、うちの学校の女子がいたぞ」
「ああ、それうちのクラス。さっきちょっと話した」
「そうか、性交したら教えろよ」
「わかった」
「わかったの!?」
というのは冗談にしても、やっとお近づきになれたんだから、これから少しずつ親しくなっていけばいい。なにせ、あの子とは席がお隣なんだから。
僕は自分にそう言い聞かせた。明日からの学校生活がちょっとだけ楽しみになった。
なんにせよ、この日僕は初めて真利と話をしたのだ。
翌日から僕と真利は、少しずつではあるけれど教室でも話をするようになった。はじめは真利の方から話し掛けてくることが多かったけど、次第に僕からも話し掛けるようになった。
ある日、真利が教室で熱心に何かの本を読んでいるのを見て、声を掛けてみた。
「何読んでるの?」
「水族館のパンダ」
真利はその本から目を離さずに答えた。
「……何それ?」
「知らないの? 夏に映画化するんだよ」
ようやくこちらに顔を向け、驚いたように言った。
「へぇ、水槽の中をパンダが泳いでるの?」
「違う違う、パンダイルカのお話だよ」
パンダイルカとは何だろうか。僕は上半身がパンダ、下半身がイルカという奇怪な生物を思い浮かべた。
「なかなか面白そうだね」
「でしょ? ああ、映画も見たいなぁー」
僕と真利の会話はいつもこんな感じだった。
僕は特に面白いことも言えず、笑いが起こるようなことはあまりなかった。全くないというわけではないけれど、決してたくさんとは言えなかった。
それでも僕は真利と話すのが楽しかったし、もっと多くの時間を彼女と過ごしたかった。それこそ、一緒に映画館に行くなんてことができたら最高だなと思っていた。
そして、その願いは夏に叶うことになった。
きっかけは健斗だ。
あいつも「水族館のパンダ」を読んでいて、その映画を観に行こうと言い出したのだ。
「それなら、うちのクラスの女子も誘っていいか?」
僕は真利と遊びに行きたい一心でそう提案し、健斗も快諾した。
結局はこの出来事が僕たちの運命を大きく変えることになる。このとき僕が真利を誘わなければ、真利と健斗が出会うことはなかったかもしれないのだ。
「川原、『水族館のパンダ』の映画、夏休みに観に行かないか?」
「えっ、蟹沢君と!?」
学校の廊下で会ったときに誘ってみたら、真利は目を見開いて訊き返した。
「大丈夫、僕の友達も一緒だから。そいつがどうしても観たいって言うから」
「あっ、そうなんだ……」
「川原も誰か誘っていいからさ」
「うーん、じゃあそうしようかな」
この浅はかな行動が正しい選択だったのかどうかということは、今になっても分からないままだ。
健斗と真利が出会わなければ、僕が真利と結ばれるチャンスだってあったのかもしれない。
当日、真利は峯岸という女子を連れてきた。ショートヘアーで、大人しそうな印象の子だった。真利とは中学時代からの友達で、今は健斗と同じクラスらしい。
僕と真利が同じクラスで、健斗と峯岸も同じクラス。僕と健斗は親友で、真利と峯岸も旧知の仲。
僕たちの関係はちょうど四角形のように繋がっていた。
でも健斗と峯岸は、今までクラスではあまり話をしたことがないらしい。
僕と真利が仲良くなっている間に、健斗と峯岸も親しくなれたらいい。そうすれば、いつかそれぞれがカップルになったときダブルデートなんかもできるんじゃないか。最初はそんな能天気なことを考えていたものだ。
今思えば、酒も飲めない高校生がちょっと背伸びして合コン気分で一緒に出掛ける……これはそういうイベントだったのかもしれない。
その日、僕は夏休みの一ページを思いっきり満喫した。
映画を観るときの座席の順番は健斗・僕・真利・峯岸で、しっかりと真利の隣をキープしていた。真利の横顔をチラチラ見ないように堪えるのが大変だった。
その後に行ったボーリングではチーム戦をすることになったんだけど、ジャンケンで僕は真利と同じチームになることができた。
僕はストライクを決めて、真利とハイタッチをした。真利の手に触れた瞬間、恋心が弾けそうになった。健斗はふざけたアメリカ人みたいなオーバーリアクションで悔しがり、峯岸は控えめで優しい笑みを浮かべていた。
もしかしたらだけど、この日が僕の人生の中で最も幸福な一日だったのかもしれない。もし僕が魔法を使うことができたのなら、ここで時間を永遠に止めて宇宙の歴史を終わらせるべきだったのかもしれない。
なぜなら、この日以来、真利は僕ではなく健斗に心を惹かれていくことになるのだから。
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