第3章
みりか⑦ 水族館のパンダ
祐樹が玄関から出て行ったあと、彼から「またね」という返信が届いた。
私はそれ以上メッセージは送らず、リビングのソファーに座って魂が抜けそうなくらい大きく息を吐いた。
今、心の中は、何もない白い壁の部屋のように静まり返っている。
結局、祐樹に好きだと言えないままこの日々が終わってしまった。
せっかく喋れるようになったんだから、私の声で好きだって伝えたい。けど、そんなことしても今の彼の耳には届かない。それが、ひどくもどかしい。
でも、だとしても、やっぱり祐樹には盲目に戻ってほしくないと思った。たとえそれが私のエゴだとしても。
彼が心配だから守りたいという気持ちと、彼に嫌われたくないという想いがシーソーのように動き続けている。どちらを選択すればいいのか分からない。
そのままソファーに座って物思いに耽っていると、キッチンがある方向からママの音が聞こえてきた。より正確にいえば、ママが晩ご飯の支度をする音が。
そういえば、ママにとって祐樹はどんな人なんだろう。ふとそんなことを思った。
「ママー」
「なーに?」
ママは料理を続けながら返事した。包丁で野菜を切る音が聞こえる。
「祐樹にーちゃんって、高校のときはどんな人だったの?」
そう訊くと、包丁の音が止まった。
室内が静寂に包まれる。私は小首を傾げた。
数秒経つとまた包丁の音が聞こえ始めた。
「別に、今と変わらないよー」
ママはそう答えた。でも心なしか、さっきよりほんの少し声が低くなっているような気がした。普通の人には聞き分けられないほど僅かな差だけれど。
「ふーん」
もしかして、何か隠しごとでもあるのだろうか。実は祐樹がママに惚れていたことを知っていて、弄んだり二股かけていたとか。
祐樹はママに告白とかはしなかったみたいだけど、あの話のどこまでが本当なのかは分からない。
私の恋愛脳が急速に回転し始めた。
「じゃあ、パパはどんな人だったの?」
「パパもあの通りだってば。もー、どうしたの急に」
「別にー」
「やっぱり蟹沢君と何かあったの?」
「ないよ」
そう答えると、ママは何も言わなかった。
この会話はそれ以上続かなかった。
晩ご飯が出来る頃、パパが帰ってきていつものように三人で食卓を囲んだ。
「なんだ、祐樹は帰っちまったのか」
パパは残念そうな声色でそう言った。
「それで、やっぱり目は良くならないか?」
「うん」
「まあ、そのへんはあんまり期待してなかったけど。でも来月からは盲学校に転校するしかないな。長引きそうだ」
それでも私はかれこれ一ヶ月は学校を休んだことになる。親としては当然の判断だろう。だけど、
私は、次の満月の日に再交換できるかもしれないという話をするべきか迷った。たぶん、今話せばダメ元でもやってみようということになるかもしれない。
でも、もし成功したら祐樹を再び盲目にしてしまうことになる。自分が今苦労しているからこそ、そうするのは気が進まなかった。
「うん、転校するしかないね」
結局私は、再交換の話はしないまま晩ご飯を食べ終えた。
次の日の午後、ママは一人で買い物に出掛けていった。
土曜日なので私は一人きりではなく、パパも家にいる。やることがないのか、ずっとリビングでテレビを観ている。
いい機会だから、パパにも色々と話を聞いてみることにした。
「パパ」
「んー?」
「ママって、高校生の頃はどんな人だったの?」
「どんなって……あんな感じだよ」
「なにそれ、つまんない」
ママと全く同じ答えだ。ボキャブラリーが貧弱なのか、この夫婦は。
それとも、結婚して長い月日が経ってしまうと、出会った頃のときめきなど忘れてしまうものなのだろうか。あー、やだやだ。
「じゃあ、祐樹にーちゃんは?」
「なんだ、もしかしてお前祐樹に惚れてるのか?」
冗談のつもりなのだろう、パパはケラケラと笑った。
「そ、そんなわけないでしょ」
私は慌てて言葉を返した。
でも本当は好き。
いつかは誰かが支えなくちゃいけなくなるのに、自分だけ迷惑かけたくないって言って、一人でいたがるの。だから、私が支えたい。
なんでか知らないけど、小さい頃からよくうちに来てくれてたし、私こんなだから普通の子より友達少ないし、だから、話ができなくても祐樹にーちゃんがうちに来るの楽しみで、それで……。
「わかってるって」
パパは笑いやんで、私をなだめるように言った。
一瞬、心の中を読まれたような気がして焦ったけど、そういうわけではなさそうだ。
「それで? 祐樹の高校時代の話だっけ?」
「うん」
「でも本当に特別な話なんてないんだ。高校のときは同じクラスにもならなかったし。ママは祐樹と同じクラスだったけど」
パパの喋り方は自然で、隠しごとをしているようには思えなかった。少なくとも今のところは。
「じゃあ私が生まれたときは?」
「んっ」
今度はあからさまに口籠った。
だけど、すぐに取り繕うように話し出した。
「……祐樹が視力を失くしたときの話か? 祐樹から聞いたのかもしれんが、偶然にもお前が生まれた日のことだったんだ。それからお互い大変になってな、しばらく会わなくなったんだ。でも二年くらいしてから俺が声を掛けた。久しぶりに会わないかって」
そうだったんだ。
でも、私が生まれてから祐樹がパパと会わなくなった理由は、単純に失明したせいだと思っているみたいだ。私はそれだけじゃないと思うけど。
「それからずっと、今の関係が続いているんだよ」
「……わかった」
そう言って、パパのいるソファーの傍に立った。
「色々話してくれて、ありがとう。パパのこと、大好き」
「嘘つけ」
「嘘だよ」
「ガビーン」
「でも、パパと二人で、こんな風にお喋りするのは楽しい。それは本当」
「お前は良い子だよ」
そう言われると私はちょっと嬉しくなった。
パパに向かって微笑みを浮かべ、自分の部屋へ戻った。
祐樹と話をしていない日はなんだか物寂しくなる。
今週は月曜日から金曜日まで毎日祐樹がうちに来ていたもんだから、そんな楽しい時間が急になくなってしまうと、何をすればいいのか分からなくなってしまう。
情けないことに、私は今日も祐樹とチャットをしようかと考え始めていた。
最後に話してからまだ一日も経っていない。本当の恋人ですらもう少し我慢ができそうなものなのに。
でも、視力を戻すとか戻さないとかそんなことは関係なく、私はただ祐樹ともっと話がしたいんだ。彼のことをもっと深く知りたいだけなんだ。
気が付くと私は机の上に置いていたキーボードとイヤホンを手に取り、息をするように彼へのメッセージを打ち込んだ。
【みりか】こんにちは
そのまま、勢いで送信した。
祐樹はどう思うだろうか。鬱陶しいと思っているだろうか。それとも呆れているだろうか。お砂糖一粒分でもいいから、私と話したいと思ってくれたら嬉しいな。
ドキドキしながら待っていると、すぐに返信が来た。
【祐樹】こんにちは
【祐樹】どうしたの?
さすがに無視はされないと思っていたけど、実際に彼のメッセージを聞いてホッとした。
【みりか】別にどうもしないけど
【みりか】今暇?
【祐樹】まあ、暇だね
やっぱり。
好きな人が暇人だというのは、なかなか素晴らしいことだ。
【みりか】私も暇だから、話し相手になってほしい
【祐樹】いいよ
【みりか】今日は何してたの?
【祐樹】本を買いに出掛けて、そのあと家でずっと読んでた
【みりか】何の本?
【祐樹】水族館のパンダ
その本なら知っている。二十年くらい前にヒットした小説で、パンダイルカと飼育員の交流を中心に水族館内の人間模様を描いた作品だ。学校の図書室で借りて、夢中になったなぁ。
【みりか】ネタバレしてあげようか?
【祐樹】鬼畜……
私は思わず吹き出した。
【みりか】嘘だよん
【みりか】でも、なんで今頃それ読もうと思ったの?
その理由が特に気になったわけではなく、なんとなく訊いてみただけなんだけど、祐樹の返信は少し遅れて来た。
【祐樹】実は高校のときに読もうと思ってたんだけど、読まないまま終わって
【祐樹】最近そのことを思い出したんだ
あ……。
たぶん、私に高校時代のことを話したから思い出したんだろう。
水族館のパンダのことを訊いたのは地雷なのか、それとも千載一遇のチャンスなのか、私には分からない。でも、ちょうど祐樹の高校時代の話を訊きたかったところだ。
祐樹とママにはまだ私の知らない何かがあるような気がする。
確証があるわけじゃないけど、昨日のママの反応を聞いてそう思った。
【みりか】よかったら、祐樹が高校生のときの話をもっと聞かせてほしい
【みりか】できるだけ色んなこと
再び彼の返信が止まった。どうするのか迷っているのかもしれない。
二十秒ほど経ったところで、ようやく返事が来た。
【祐樹】いいよ
【祐樹】ちょっと思い出すから、少しだけ待ってて
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