祐樹⑥ バイバイ

 訪問マッサージの五日目。

 月並みな言い方だけど、あっという間に最終日となった。


 僕はいつものようにインターホンを押し、いつものように真利とみりかに迎えられ、いつものように足つぼマッサージをした。


 今日みりかは六秒マッサージに耐えた。昨日よりはちょっぴり長いという程度だ。


 振り返ってみると、最後までマッサージに耐えることができていたのは三日目だけだ。

 理由は分からない。僕が真利への想いを打ち明けたことが関係しているのかもしれない。そのときのみりかは、肉体的な痛みとは別の意味で苦しそうに見えた。


 僕はみりかに幻滅してもらうために真利の話をした。

 それほど長くない期間恋人がいたこともあったけど、そんな平凡な話じゃ意味がないと思ったから。

 しかし、彼女が僕に気があるのではないのかということも、僕の推測でしかない。


 でも彼女が僕のことを呼び捨てにしたとき、僕の中でこの推測は確信に近いものに変わった。

 彼女の恥ずかしそうな表情を見て、僕は自分が初めて真利を呼び捨てにしたときのことを思い出した。かつての自分を見ているような気持ちになったのだ。


 いずれにせよ、僕は他人の心の中を覗くなんてことはできない。このまま何も起こらないこと祈りながら、時が過ぎ去るのを待つしかない。


 そして、次の満月の日に僕らは視力と聴力を再び交換する。それで終わり。元の日常生活が戻り、僕の人生はまた正常な形で時を刻み始める――。


【みりか】今日で最後だね


 ベッドに腰掛けたみりかが名残惜しそうに言った。


「そうだね」


【みりか】せっかくだから、今日は私が手話を教えてあげる


 手話を教える?

 なんでまた最後の日にそんなことをしようと思ったのだろうか。

 でもまあ、他に何かやることがあるわけでもないし、みりかの提案に乗ることにした。


「いいよ、教えられてあげる」


【みりか】心して聞くがよい


 みりかは嬉しそうにそう言った。


【みりか】まず、これが挨拶で使う動き


 みりかは手に持っていたキーボードを置いた。両手の人差し指を立ててからクニャリと曲げる動作をして、またキーボードを持つ。


【みりか】これに他の動きを組み合わせると、色んな挨拶になる

【みりか】まずはおはよう


 みりかは目の高さまで上げた拳を腕ごと下げるような動きをして、続けざまに先ほどの挨拶の手話を加えた。


【みりか】やってみて


 みりかはキーボードを持ったり置いたりを繰り返さなきゃいけないので、せわしなく見えた。仕方がないので、見様見真似で同じ動きをやってみる。


「やったよ」


【みりか】よくできました


「いや、見えてないでしょ」


【みりか】だって、しょうがないじゃん


「そうですね」


 こんな調子でみりかの講義は続き、僕は基本的な手話のやり方を学んだ。

 おはよう、こんにちは、こんばんは。ありがとう、ごめんなさい。以下省略。


 この講義が僕と彼女にとってどういう意味を持つのかは分からない。だが、いい暇潰しになったのは確かだった。


 昼食のカルボナーラを食べたあと、僕はそろそろ今後のことについて話をすることにした。


「次会う日についてなんだけど」


【みりか】うん


「次の満月である十月三十一日でいい?」


 日付は事前にネットで調べておいた。今日が十月二十日の金曜日だから、十一日後だ。


【みりか】ハロウィンだね


「別に仮装はしてこなくていいよ」


【みりか】そんなのしないよ


 みりかは小さな子供みたいな笑みを浮かべた。


「じゃあ当日が近づいたら連絡する」


 僕がそう言ったあと、みりかは返事をせずに手を止めた。古い彫刻作品のように、何かを考えながら固まっているように見える。

 しかし、数秒後にその手が再び動き出し、キーボードを叩いた。


【みりか】やっぱり、その日は会わなくていい


 会わなくていい。

 一体どういう風の吹き回しなのだろう? 次の満月の日にもう一度お願いごとをしてみようと言い出したのはみりかの方なのに。

 僕は何か不吉なものが歩み寄ってくるような感覚を覚えた。


「満月の力じゃ元に戻らないってこと?」


【みりか】それはやってみないと分からない

【みりか】でも

【みりか】いずれにせよ、祐樹は私に視力を返さない方がいいよ


 その言葉を見て、不吉なものが完全に僕の体を捕まえてしまったのだと思った。


 どういう意味なのだろう。盲目よりは難聴の方がマシだから、僕にそのままでいてほしいとでも言うのだろうか。


「気持ちは嬉しいけど、こればかりは元に戻さなくちゃいけない。僕のことなら心配しなくていい」


【みりか】そうじゃないの

【みりか】再交換をしても、祐樹は元に戻ったとは言えないということ

【みりか】祐樹は元々、健常者だったんだから


 不吉なものが体の内側まで蝕んでいく。


 みりかの言っていることは確かにその通りだけど、だから何だというのだ。そんなのは今更どうしようもないじゃないか。


「でも健常者にまで戻ることはできないと思う」


【みりか】少なくとも、祐樹が最初に視力を失った原因は分かる


 僕は目を疑った。医者でも分からなかった原因が、こんな普通の女子高生に分かったとでもいうのだろうか。


「それは何なの?」


【みりか】ただの、心因性の突発的な症状だよ


 病院に通い慣れているせいか、女子高生にしては難しい言葉を使うものだ。

 だが、その内容には同意しかねる。


「そんなこと医者は言ってなかった」


【みりか】ママがパパと結婚した話はした?


 なんでここで真利の話が出てくるんだ。それは僕の視力とは関係ないはずだ。


【みりか】祐樹は、ママがパパと結婚した現実を受け入れることができなくて目を逸らしていた

【みりか】そして私が生まれる日、トラウマが視力の喪失という症状となって現れた

【みりか】他の男と作った子供なんて見たくないってね


 僕は呆然としてしまった。

 まさか、そんなことが起こり得るのだろうか。満月の力で視力と聴力が交換されるなんて話よりはよっぽど現実的ではあるけれど。


 確かに、片想いだった真利の結婚や出産の話は医者にしていない。他人に易々と話すようなことではないし、それが関係しているだなんて思っていなかったからだ。


【みりか】そういうことは医者には話してないでしょ?


「うん。でも、失恋が失明を引き起こすなんて普通はありえない」


【みりか】そう、普通じゃないんだよ

【みりか】祐樹は自分で思っているより、心が弱い人間なのかもしれない

【みりか】人一倍


 どうしてそこまで言われなくちゃいけないのだろう。みりかはどういうつもりなんだろう。

 さすがに少し苛立ちを覚えた。


「百万歩譲って、結婚のショックで失明したとする。でも僕は目が見えなくなっても自立して、ちゃんと生活ができているんだ。それでも僕が人一倍心の弱い人間だと思うの?」


 なるべく冷静になろうとしながら反論した。

 みりかは僕の心情を読み取ろうかとするように、ゆっくりと返事を打った。


【みりか】ごめんなさい

【みりか】少し言い過ぎた

【みりか】でもやっぱり、祐樹をまたこの暗闇の中に放り込む気にはなれない

【みりか】少なくとも今はまだ


 みりかは、彼女なりに僕のことを心配してくれているのだろうか。僕が再び視力を失くすということが辛いのかもしれない。自分が光を失ったままでいることよりも。


 嬉しくなくはないが、僕もみりかと同じだ。

 僕だって、みりかがずっと盲目のままでいるのは嫌だ。


 いずれにせよ、今はお互いに気持ちの整理ができていないし、結論は出ないような気がした。


「次の満月まで、まだ時間はある。ゆっくりでいいから、もう少しじっくり考えてほしい」


【みりか】ごめん

【みりか】そうする


 それで話は終わった。

 僕たちはそれからずっと言葉を交わさずにいた。


 やがて、壁に寄りかかって座っている僕の肩に、みりかがもたれかかった。

 僕は何もせずにじっとしていた。

 時間が止まり、この部屋だけが世界から切り離されてしまったような感覚に陥った。


 どのくらい時間が経ったのか分からないけれど、突然みりかが動き出し、手に持っていたキーボードを叩いた。


【みりか】ママが帰ってきた


 時刻はいつの間に夕方六時を過ぎていた。

 みりかは下の階の玄関扉が開く音を聞き取ったのだろう。


 これで、訪問マッサージという名目の子守も終わりだ。

 結果的には地震なんて起こらなかったし、不審者も来なかった。僕がいる間は電話やインターホンさえ鳴らなかったみたいだ。


 でもだからといって、五日間もこの家を訪れたことが無駄だったなんて思っていない。

 みりかはあまりにもたくさんのことを僕に伝えようとしてくれた。


【みりか】今までありがとう


 そんな風に言われると、これが今生の別れになってしまうような気がして、ほんのちょっとだけ切なくなった。


「どういたしまして」


 僕のつまらない返事を聞いて、みりかは微笑んだ。



 二人で階段を下りると、そこには真利がいた。

 真利は僕にお礼を言い、最終日なんだから夕食を食べていかないかと誘ったが、丁重にお断りをした。


 笠原家ならいつかまた訪れるだろうし、この五日間が綺麗に締めくくられてしまうと、本当に何かが終わってしまうような気がしたのだ。


 僕が玄関から出ようとすると、いつものように真利が手を振ってくれた。

 真利の顔もしばらく見られなくなるのだと思い、少し寂しくなった。


 みりかはいつの間にキーボードを持っていた。

 玄関の外に出てからスマホの画面を見てみる。すると、彼女からメッセージが届いていた。


【みりか】バイバイ


 たったそれだけだった。

 みりかは本当に、次の満月の日に僕と会わないつもりなのだろうか。僕らはずっと視力と聴力が入れ替わった状態で生きていくのだろうか。


【祐樹】またね


 簡単に返事を送ったけれど、それに対する返信は来なかった。


 とにもかくにも、この小さな陽だまりのような五日間はこうして幕を下ろした。

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