祐樹⑤ 風の音が好き

 夕方になると真利が帰ってきて、一日目の訪問マッサージは無事に終了した。


 真利は夕飯も食べていったらと誘ってくれたが、丁重にお断りした。少しとはいえ――本当に少しだけど謝礼も貰っているし、昼には真利が作ってくれていた焼きそばをみりかと一緒に黙々と食べたので、夕飯まで頂くわけにはいかないと思った。


 街が薄闇に包まれる頃、僕は帰路につきながら今日の出来事を思い返していた。


 みりかに足つぼマッサージをしようとしたあと、彼女は僕の耳元で何かを言った。

 あれは一体何だったのだろう。今、僕の耳が聞こえなくなっているということは彼女も当然分かっているのに。


 何かを囁いたのは確かだ。声は聞こえなかったけど、彼女の吐息をその耳に感じた。そして、その吐息には何か特別な意味合いが含まれているような気がした。


 もしかしたらだけど、僕の自惚れでなければ、みりかは僕に気があるのではないのだろうか。

 そう思い始めていた。


 視力と聴力が交換されてから、彼女は何かにつけて僕を自宅へ呼ぼうとしていた。

 実際に会ったときも、どこか不自然な態度や言動が見受けられた。

 落ち着かない様子でそわそわしているときもあれば、妙に浮かれていたりしているときもあった。

 これが僕の考え過ぎであればいいのだけれど。


 彼女にどんな心境の変化があったのかは分からない。

 けど、仮に彼女が僕を想っているとして、一体どうすればいいのだろう。彼女はまだ十六歳で、僕はもう三十五歳だ。それに盲目と難聴。どう考えたって恋人にはなれない。


 あと、これが一番の問題なのだけれども、僕は昔真利のことが好きだった。ちょうど僕と真利が今のみりかと同じ年齢の頃に。


 しかも再び目が見えるようになってから――いや、真利の姿を見れるようになってから、僕の心の中で何かが巻き起ころうとしている予感があった。僕だって人のことは言えないのだ。


 いずれにせよ、みりかの気持ちは確かめなければならない。

 残り四日間、彼女の様子に注意を払う必要がありそうだ。



 訪問マッサージの二日目、さっそく新たな展開が起こった。


 昨日と同じようにみりかに足つぼマッサージを施すと、彼女は三秒だけ耐えた。

 そのあと、僕らはテレビを観たりチャットをしたりしながら同じ時を過ごした。僕が本を読んでいる間、みりかは音楽を聴いている、なんてこともあった。


 お昼ご飯に真利が作っておいたエビピラフを食べると、みりかがこんな提案を持ちかけた。


【みりか】近くの公園に散歩にいきたい


 正直、戸惑った。視覚障害者のみりかを外へ連れていくのは、僕が依頼されたことの範疇を超えている気がした。


「外を歩くのは危ないんじゃないかな」


【みりか】祐樹にーちゃんに掴まっていれば大丈夫


「通行人に見られたら、変な風に思われるよ」


【みりか】白杖もあるし、視覚障害者と付き添いにしか見えない


 実際その通りではあるのだけれど、みりかは何としても公園へ散歩に行きたいようだ。

 まあいい、行けば彼女がどういうつもりなのか分かるかもしれない。


「分かった。でも危なそうだったらすぐ帰るからね」


【みりか】やった!


 僕らは上着を着て、玄関の外に出た。肌寒いけど、空がどこまでも透き通るように青く、絶好のお散歩日和だ。


 みりかは右手に白杖を持ち、左手で僕の腕を掴んだ。口元に笑みを浮かべている。自分を引っ張って歩けと言いたいのだろう。


 彼女はキーボードをコートのポケットに仕舞っているので、歩いている間は僕に意志を伝えることができない。以心伝心で行くことになる。


 でも仕方がないので、僕はみりかに腕を掴まれたまま歩き出した。

 公園は歩いて数分のところにあるからなんとかなるだろう。閑静な住宅街だから車や通行人も見当たらないようだ。


 しかし、いざ歩いてみると自分一人のときよりはずっと神経を使うことが分かった。なにせ、人様の娘さんを怪我させるわけにはいかないから。


 そう思った矢先、曲がり角の手前でみりかが手を握る力をぎゅっと強めた。何かがあるときの合図だ。僕が盲目で彼女が手を引いてくれていたときもそうしていた。僕はすぐに足を止めた。


 次の瞬間、曲がり角の死角から車が現れ、ほとんど減速せずに目の前を横切っていった。


 危ない車だな、と肝を冷やした。

 普段も注意してはいるけれど、少し気を抜いただけで命の危険に晒される。今もみりかが車の音を聞いてくれていなかったら、事故になっていたかもしれない。


「ありがとう」


 みりかにお礼を言うと、彼女は薄らと微笑んだ。

 僕は歩くスピードを少し緩め、みりかもそれに合わせた。


 そのあとは特に何も起こらず、僕らは無事公園に着いた。

 何の変哲もない小さな公園だ。そこにあるのはブランコと砂場とジャングルジムだけ。一組の親子がいたが、遊具には目もくれずにキャッチボールをしている。


 僕はみりかをベンチに座らせた。彼女は白杖を脇に置き、ポケットからキーボードを取り出して開いた。


【みりか】車には気を付けましょう


 開口一番に――とはいってもチャットだけど、ダメ出しをしてきた。


【みりか】嘘だよ

【みりか】ありがとう


「いや、こっちこそ。怖くなかった?」


【みりか】大丈夫

【みりか】祐樹にーちゃんがちゃんと引っ張ってくれてたから


 そうなのだろうか。

 僕は自分の役目を果たしたという自信がなかった。助けられたのは僕の方だったのではないかと。


【みりか】ここには何がある?


「ブランコと砂場とジャングルジム」


【みりか】ふーん


 さすがに公園の遊具には興味を惹かれないようだ。

 僕はみりかと同じようなことを訊いてみることにした。


「ここでは何が聞こえる?」


 みりかのキーボードを打つ手が止まった。周りの音に耳を澄ませているのかもしれない。


【みりか】風の音と親子の声

【みりか】あと、どこかで車が走っている


 僕も耳を澄ませてみたが、聞こえるのは無音だけだった。いつも日常の後ろ側に存在していた音というものが少しだけ恋しくなる。


【みりか】私は風の音が一番好き


「羨ましいな」


 これは慰めではなく本心だ。光を失っても前向きで純粋な気持ちでいられる彼女のことが、眩しいとすら思えた。


【みりか】あと、祐樹にーちゃんの声も好きだよ


「僕の声?」


【みりか】うん

【みりか】優しくて、なんだか安心する


 自分では、歌手や声優のように良い声をしているとは到底思えない。

 やっぱりみりかの気持ちはそういうことなのだろうか。


 僕は少し困ってしまい、話題を変えることにした。


「せっかくだから公園で遊ぶ?」


 みりかが小さい頃、健斗に連れられて三人で公園に来ていたことを思い出し、提案してみた。


【みりか】何して?


「ブランコがオススメだよ」


【みりか】やってみる


 僕はみりかをブランコまで連れていき、座らせた。


 これは僕個人の勝手な意見だが、目が見えない状態でやるブランコというものはなかなか面白い。特に立ち漕ぎなんかは、体が宙に浮いているような気分になる。僕はそのことを盲目になってから初めて知った。もちろん、周囲の安全を確認する人が傍にいる必要はあるけれど。


 みりかも、始めこそは座りながらおそるおそる漕いでいた。でも、すぐにいてもたってもいられなくなり、ブランコの上に立った。

 はたから見ているとちょっと危なっかしいが、みりかは楽しそうにブランコを漕ぎ続けた。


 数分後、みりかがブランコに飽きてしまうと、僕らはまたベンチに戻った。


【みりか】あー楽しかった!


「だろ?」


【みりか】祐樹にーちゃんも昔やってたの?


「みりかが小さい頃に膝の上に乗せて漕いだよ」


【みりか】マジで?


「マジで」


【みりか】それ今でもできる?


「重いから無理だな」


 そう言うと、みりかが僕の腕を思いっきりはたいた。笑い声は聞こえないけれど、クスクスと笑っている。僕もつられて笑う。

 それから、なんとなく空を見上げて彼女のことを考えた。


 みりかが僕のことを好きだとしたら、いつかこの笑顔に現実を突きつける日が来るのだろうか。

 もしそうしなければならないのなら、僕にも考えがある。結局のところ、彼女には諦めてもらうしかないのだ。そのためなら僕に幻滅してもらう覚悟だってある。それも、できるだけ最低な方法で。


 もう一度みりかの顔を見た。何も知らない彼女は口元に柔らかな幸せを浮かべているように見える。

 が来るまでは、少しでも長く彼女に笑っていてほしい。僕はそんな風に思った。

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