祐樹④ 秘めごと
スマホの画面を見てみると、みりかから「いらっしゃい」というメッセージがきていた。
「お邪魔します」
三日ぶりに会ったみりかは、白地でストライプ柄のシャツワンピースの上に黄色いセーターを羽織るという、新種の阪神タイガースファンみたいな服装をしていた。もしかしたら、色が見えないから組み合わせを間違えたのかもしれない。おまけに髪の毛もちょっと跳ねている。とりあえず格好に関しては触れないことにした。
【みりか】私の部屋に上がって
ひとまず靴を脱いで玄関から上がる。けど、僕がリビングではなくみりかの部屋に入っていいものなのかと少し迷った。
みりかが小さい頃に入ったことはあるけれど、今や彼女は女子高生だ。しかも、どういうわけか今日は彼女の両親に無断で呼び出されている。
僕があれこれと考えながら立ち止まっていると、みりかが壁伝いに歩き出した。しかし、階段ではなくトイレがある方向へ進もうとしていた。
ドアにぶつかるんじゃないかと思い、咄嗟にみりかの手を掴んだ。彼女は体をビクッと震わせて、僕がいる方向に顔を向けた。
安心させるため、小さな手を握る力をギュッと強める。僕が盲目だった頃、彼女が僕に送ってくれていたサインだ。
「階段はこっちだよ」
そう言うとみりかはこくりと頷いたので、そのまま彼女の手を引いて階段を上った。かつて彼女が僕にそうしてくれていたのと同じように。
みりかは大人しく僕についてきた。部屋に入ると彼女は壁伝いに歩き、ベッドに座った。
【みりか】ありがとう
【みりか】適当に座っていいよ
僕は言われた通りカーペットの上に座り、室内を眺めてみた。
みりかの部屋は僕の部屋とは違って綺麗に片付けられ、掃除も行き届いている。もしかしたら真利が手伝っているのかもしれない。
改めて今の状況について考えてみる。
目の前で盲目の女子高生がベッドに腰掛けている。両親は不在で、家には僕ら二人きり。
男にとって、これほど危うい状況が他にあるだろうか。いや、あるんだろうけど、これだってなかなかスリリングだ。
親の承諾を得ずに未成年を連れ回すと、未成年者誘拐罪で捕まると聞いたことがある。未成年の家を訪れた場合はノーカウントになるのだろうか?
僕は邪念を振り払うため、みりかに話し掛けてみることにした。
「お母さんはお仕事?」
とりあえず無難な質問をしてみる。親戚の子供に話し掛けるようなつもりで、できるだけ自然に。
「話をするのは初めてだね」みたいな、わざとらしいことは言わない方がいいと思った。却ってお互いに緊張してしまうかもしれない。
みりかは慣れた手付きでキーボードを叩く。
【みりか】今日から仕事
【みりか】夕方まで帰らない
「一人で大丈夫だった?」
【みりか】うん
真利はスーパーで社員として働いている。仕事に復帰し、みりかも一人で留守番ができる状態にまでなったようで一安心だ。笠原家は少しずつではあるが、普通の生活を取り戻している。
「僕はまだ仕事を休んでいるよ」
【みりか】指圧師の仕事?
「そう」
【みりか】私も学校休んでる
「大丈夫だよ。僕らは急いで復帰しなくてもいい」
みりかはここで少し間を置いた。何か思うところがあるのかもしれない。
【みりか】私もそう思うよ
そろそろ本題に入ってもいい頃合いだ。会話の流れもその方向へ向かっている。
「今日は何か僕に話したいことがあるんだよね?」
【みりか】うん
「僕らの身に起こったことについて?」
【みりか】うん
【みりか】でも、その前に言わなきゃいけないことがあるの
「何?」
【みりか】キーボードありがとう
【みりか】嬉しかった
みりかはキーボードを僕に見せるように、両手を伸ばした。瞼を閉じたままニッコリ微笑んでいる。
それは僕が初めて見たみりかの笑顔だった。だが、彼女の笑みには昔好きだった真利の面影があり、胸が締めつけられそうになる。
数秒だけ放心してしまったことに気付き、慌てて返事をした。
「どういたしまして。タイピングが上手くてビックリしたよ」
【みりか】元々得意だったから
そのキーボードは僕が盲目だった頃に使っていたものだが、念のために健斗に渡しておいて本当に良かったと思った。それは彼女に使われるために今まで存在していたのだという気さえする。
それに、みりかも少しは会話ができるはずなのに、耳の聞こえない僕のためにわざわざチャットでメッセージを送ってくれて、嬉しいような申し訳ないような、複雑な気持ちになった。
僕はみりかの姿を見ることができるけど、彼女の声を聞くことはできない。
みりかは僕の声を聞くことができるけど、僕の姿を見ることはできない。
すぐ傍にいるのに、まるで別の世界と交信しているようだ。
【みりか】話が逸れちゃったけど
【みりか】さっきの話の続き
「視力と聴力の話?」
【みりか】そう
【みりか】それを元に戻す方法があるよ
みりかのそのメッセージを見て、僕は目を見開いた。
「どうやって?」
【みりか】簡単な話
【みりか】次の満月の日にまた同じことをすればいい
次の満月の日にまた同じことをする?
僕は眉をひそめた。
「また満月にお願いするってこと?」
【みりか】うん
【みりか】けど、この前とは逆のことをお願いするの
【みりか】分かる?
みりかの言わんとしていることは分かる。
あの日、僕はみりかの耳が聞こえるようになることを願い、みりかは僕の目が見えるようになることを願った。
その結果、みりかは視力を失った代わりに聴力を得た。僕は聴力の代わりに視力を得た。言うなれば、僕らの視力と聴力が交換された。
仮に満月の力のようなものが本当にあるとして、今度はみりかが僕の聴力の回復を願い、僕がみりかの視力の復活を祈れば、視力と聴力は
それは理解できる、が――。
「分かるけど、そんな簡単に戻るのかな」
ただ念じるだけで視力や聴力なんてものがすぐに回復したり失われたりするとは到底思えなかった。
【みりか】でも、他に何か方法がある?
そう言われるとぐうの音も出ない。みりかの言う通りだ。
加えて、視力と聴力の交換は現実として一度起こってしまっている。それは絶対に揺るがない事実だ。
「ないね」
【みりか】たぶん病院では治らない
「それは僕も思う」
【みりか】それに、もしかしたらこれはお願いごと以上の特別な意味を持っているのかもしれない
僕は再び眉間にしわを寄せる。
視力と聴力が交換されたのは、単純に僕らがお互いの回復を願ったからではないということなのだろうか。
「特別な意味って?」
【みりか】それはまだ分からない
【みりか】とにかく、次の満月まで待とう
満月が現れる間隔は大体一ヶ月くらいだ。頭の中で、残りの日数を逆算してみる。
「次の満月まであと二週間ちょいだけど、それまで待てる?」
【みりか】私は大丈夫
【みりか】祐樹にーちゃんは?
祐樹にーちゃん。その言葉を聞いてキョトンとしてしまった。
僕はそんな風に呼ばれていたのか。そろそろおっさんと言われてもおかしくない年齢になるのに。
「僕も大丈夫」
独身で貯えもそこそこあるから一ヶ月程度休んでも金銭的に困ることはないし、一般企業と違って僕がいないと企画や生産に支障が出るということもない。
しかし、仮にあと二週間仕事に復帰できないとなると、何をして過ごせばいいのだろう。
視力があるのが今だけだとしたら、景色がいい観光名所なんかを見て回るのも悪くないかもしれない。テレビや映画も時間の許す限り見ておきたいところだ。
そんなことを考えていると、みりかの返信がなかなか来ないことに気が付いた。
不思議に思い、視線をスマホの画面からみりかの方へ移してみる。
彼女は必死に何かを考えているような表情をしていた。何かあったのだろうか。
僕が何か言おうとすると、みりかは僕の方へ顔を向けた。
が、その閉ざされた瞳は僕ではなく僕の背後にある何かを見ようとしていた。
とてつもなく嫌な予感がする。
だが僕はおそるおそる後ろを振り返ってみた。
そこにはスーツ姿の真利がいた。部屋のドアが半開きになっていて、顔を覗かせている。彼女の瞳は驚いたかのように見開かれている。
夕方まで仕事に行っているんじゃなかったのか?
僕は焦った。
招かれた身とはいえ、健斗や真利に内緒で勝手に高校生の娘の部屋にまで上がりこんでしまったのはまずい。旧知の仲だから警察沙汰にはならないと思うけど、かなり心証が悪いと思った。それに、僕個人としても真利にこんなところを見られたのは辛い。
どうしようかと思っていると、みりかが口を開いて真利に何かを言った。おそらく何かしら言い訳をしているのだろう。真利は少し心配そうな顔をしているけども、怒ってはいなさそうだ。
何度か言葉を交わしたあと、真利は部屋から出て行った。
【みりか】ごめん
【みりか】とりあえず、私が一人で不安になったから祐樹にーちゃんを呼んだのだと言っておいた
そのメッセージを見て、僕はちょっとだけ安心した。たぶん、階段を上る足音なんかを聞いて咄嗟に機転を利かせたのだろう。
【みりか】ひとまず一階に行こう
「わかった」
僕らはリビングまで行き、テーブルの席に座って真利を待った。
やがて私服に着替えた彼女がやってきて、この前のようにチャットを始めた。
【真利】ごめんね! みりかが急に呼び出したみたいで
「大丈夫だよ、僕も暇だったし」
【真利】私も出勤してから急に心配になって、今日は早く帰れそうだから午後半休にしてもらったの
そうだったのか。
その展開はみりかも予想できなかったのだろう。横目で見ると、不機嫌そうな顔をしていた。
【真利】やっぱり、目が見えないのに一人にするのはまだ心配だよねぇ
【真利】地震とか不審者も来るかもしれないし
僕としては、もう高校生なんだからそれなりになんとかするのではないだろうかとも思ったけど、まあ母親に危機管理能力があるのはいいことだ。それに、僕が不審者としてカウントされていなかったのでホッと胸を撫で下ろした。
「仕事は休めそうにないの?」
【真利】来週いっぱい、来れないバイトが何人かいて、どうしても私が出なくちゃなんだよね
「健斗も?」
【真利】ちょっと厳しいかなぁ
真利は首を捻った。
みりかも何か迷っているような表情だ。自分が呼び出した手前、「私は一人で大丈夫だよ」とは言えないのかもしれない。
【真利】よかったら、蟹沢君に頼めないかな?
「僕に?」
【真利】私がいない間だけ、いてほしいの
【真利】来週の平日だけ
どうせ暇だから一向に構わないのだけれど、真利からそんなことを頼まれるとは意外だ。
【真利】ちゃんとお礼もするから
真利が両手を合わせて「お願い」のジェスチャーをした。すると、みりかが真利に何かを言って、二人の話し合いが始まった。
もしかしたら読唇術とやらで何を言っているのか分かるんじゃないかとも思ったけど、僕にはさっぱりだった。まだまだ経験が足りないのだろう。
「僕は大丈夫だけど、親戚とかにも頼めないの?」
【真利】親戚もちょっと色々あって……
「そういうことなら、別にいいよ」
とりあえずそれだけ言っておいた。僕もできるだけ
それから二人はまた二言三言言葉を交わし、結論を出した。
【真利】それじゃあ、お願い!
【真利】健斗には今日話しておくから
「わかった」
きっと健斗なら同意するだろう。あいつも意外と過保護なところがあるから。
【みりか】よろしくお願いします
三人になって初めてみりかが会話に加わった。急にかしこまって敬語になり、ぺこりと頭を下げた。まるで、さっきまでの僕ら二人のやり取りが何かの秘めごとであったかのように。
そのあとは少し雑談をして、適当なタイミングで引き上げることにした。
【みりか】今日はありがとう
玄関から出るとき、みりかが個別メッセージを送ってくれた。
僕はみりかと真利に手を振り、音の鳴らない扉を開けた。
かくして僕は五日間、一日の大部分をみりかと共に過ごすことになった。
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