みりか③ これはまずいなぁ

 祐樹にーちゃんが玄関から出て行ったあとも、私の胸は力強く鼓動しつづけていた。


 うちに来る前までは何ともなかったのに、彼の声や足音が家の中で響き始めてから、私の心臓もそれに共鳴するように脈を打った。彼に聞こえるはずがないのに、ゆっくり深呼吸をして自分の音を静めようとしていた。


 祐樹にーちゃんの声はとてもあったかい。本当はチャットで話もするつもりだったけど、隣で彼の声を聞いているだけで話そうと思っていたことが全部宇宙の彼方まで吹き飛んでしまい、結局何も言えなかった。せっかく、初めてやり取りをするチャンスだったのに。


 そして、祐樹にーちゃんの願いごとが「私の耳が聞こえるようになること」だったと聞いたとき、喜びと戸惑いで心音がさらに複雑なリズムを刻んだ。


 はまずいなぁ……。


 私はソファーに座って頭を抱えた……ふりをして、もしかしたら顔の方は困ったように微笑んでいたかもしれない。

 するとママが不思議に思ったのか、声を掛けてきた。


「そういえば、蟹沢君にキーボードのお礼言うの忘れてたね」

「何の話」


 私は顔を上げた。

 キーボードとは、私が使っている折り畳みキーボードのことだろうか。


「実は、みりかに渡したそのキーボードは祐樹がくれたものなんだ。もう自分には必要ないからって」


 パパにそう言われ、私は青ざめた。


「それを、早く言ってよ!」

「ごめん。言うの忘れてた」

「私が、恩知らずの子みたい」

「でも今日お前、祐樹と話さなかったじゃん」


 ぐっ。それを言われると返答に困る。

 だけど、私は頑張って反論した。


「キーボードのこと知ってたら、ちゃんとお礼言ってた」

「ホントかなぁ」


 パパはからかうような調子で言った。怒った私は、何も言わずに自分の部屋へ引っ込んだ。

 パパはきっと、アメリカ人のコントみたいに「やれやれだぜ」っていう仕草をしているに違いない。私には見えないけれど。


 壁伝いに歩いて自分のベッドまで辿り着き、勢いよく倒れ込んだ。


「はぁー」


 思わずため息が漏れる。

 さっき別れたばかりなのに、また祐樹にーちゃんに会いたくなっていた。


 しかし、ここでふと疑問に思う。

 今日の私は、祐樹にーちゃんに会ったと言っていいものなのかと。彼の姿も見えないし、言葉も交わしていないのに。


 いや……と、私は頭を振った。

 私には彼が見えなくても、姿

 これは、かつての私たちでは起こり得なかった現象だ。立場が逆転したのだ。


 祐樹にーちゃんが私のことを見ていた。

 改めてそう思うと、嬉しいような恥ずかしいような混ぜこぜな気持ちになり、今更緊張し始めた。ママに頼んで念入りに髪を梳かしてもらい、心底良かったと思った。


 やっぱり、私たちはさっきまで会っていた。祐樹にーちゃんは私を見て、私は彼の声をこの耳に感じていたんだ。


 キーボードのお礼言わなくちゃな……。


 私はまた、祐樹にーちゃんに会う方法を考えなくてはならなくなった。



 幸運なことに、次の日さっそくチャンスが訪れた。


「ちょっと職場で色々あって、仕事に復帰できたらいいんだけど、みりかは家で一人きりでも大丈夫?」


 朝ご飯を食べたあと、ママがそう告げた。


 私の目が見えなくなってからママはずっとお仕事を休んでいて、私は聴覚特別支援学校を休学している。

 すぐに視覚の方の特別支援学校に転校しようという話にはならず、今は様子見の状態だ。

 なので、私は日々をずっと家の中で過ごしている。


 一人で大丈夫か否かと訊かれれば、たぶん大丈夫だろう。家の中だけならなんとか一人で歩き回ることができる。電話に素早く出ることや訪問者への対応は無理だと思うけど、そういうのを無視していいのなら特に心配事はない。


 私は拙い喋り方でそのことを伝えると、ママは安心したかのようにお礼を言った。


「何かあったらいつでも電話してね」

「分かった」


 こうして、ママは今週の金曜日からお仕事に復帰することになった。朝の八時頃に出発し、夕方の六時頃に帰ってくる。その間、私は一人で自由の身だ。これを利用しない手はない。


 祐樹にーちゃんに会う方法をあれこれと考えてみたが、やはりこっそり二人で会うのが一番だと思った。昨日の今日なのに、パパに頼んで呼んでもらうのはさすがに無理がある。


 となると、問題はどうやって会うのかということだ。目が見えなくなった今、私が外に出て会いに行くのは不可能に等しい。


 それならもう選択肢は一つだ。

 パパとママがいない日中に祐樹にーちゃんに来てもらうしかない。


 私は部屋に戻り、すぐに行動を開始することにした。


 祐樹にーちゃんに連絡すること自体は簡単だ。チャットで個別メッセージを送れるようになる設定は昨日済ませておいた。メッセージを送信しても、パパとママには分からない。


 さて、何と送ったものか。

 同年代の友達とはたまに連絡を取り合うけど、祐樹にーちゃんとはやり取りをしたことがない。

 最初は「こんにちは」とか「みりかです」とか言えばいいのだろうか。なんかそんな挨拶ですら不自然に思えてしまう。


 いくら考えても埒が明かないので、とりあえず試しに用件だけを簡潔に入力してみた。


【みりか】大事な話があるから、二人で会って話したい


 これはダメだ。

 なんか重たいし、卒業式が終わったあと体育館裏に意中の相手を呼び出す学生みたい。私はまだそういうのじゃないんだ。今日の晩ご飯は何かってことよりは少し気になるっていう程度の話なんだ。


 これは削除しよう。


 私はバックスペースキーを押した。

 次の瞬間、イヤホンからアナウンスの音声が聞こえた。


「送信されました」


 えっ……。


 血の気が引いた。


 あああぁっ!


 今のメッセージが送信されましただって!?


 昨日ドキドキしっぱなしだった心臓が「またですか、おたくも好きですねぇ……あらよっと」と言わんばかりに激しく動き始める。


 どうやらバックスペースキーの下にあるエンターキーを押していたようだ。


 なんでエンターキーで送信される設定になってるんだよ!


 私は罪のないスマホに呪詛の言葉を吐きたくなった。

 だが、送ってしまったものは仕方がない。

 ベッドに座り、スマホを握りしめながらじっと待った。


 すると、すぐにスマホが振動した。

 息の根が止まりそうになりながらも、スマホに届いたメッセージを読み上げさせる。


【祐樹】大事な話って?


 返信はたったのこれだけだった。


 この人もまた随分と淡泊な人だな。


 滞りなく会話が始まって安心もしたけど、少し寂しいような気もした。

 私が送信したメッセージはとりあえずで打ち込んでみた適当な文だったので、もちろん大事な話なんてものは何もない。

 キーボードのお礼は言いたかったけど、今それを言ったら彼に会うこともなく用事が終わってしまう。


【みりか】私たちの視力と聴力のこと


 私たちにとって大事な話は今のところこれしかない。

 後先をよく考えもせずに送られたメッセージ。


【祐樹】二人で話したいっていうのはどういう意味?


 問題はここからだ。この先へ進んでしまうと、簡単に後戻りはできなくなる。祐樹にーちゃんと笠原家の関係性に大きな影響を及ぼしてしまうかもしれない……。


 まあいいか。えいっ。


【みりか】うちに来てほしい。パパとママには内緒で


 送信してしまった。

 こうなってしまったら、あとはもう突き進むしかない。

 

 その後のやり取りはトントン拍子で進んだ。ゼンマイの巻かれた、トコトコ歩くオモチャのように。


【祐樹】二人には話せない大事な話ということ?


【みりか】そういうこと


【祐樹】分かった。いつ行けばいい?


【みりか】明後日の午後1時に来て


【祐樹】了解。それじゃあ、その日時に。


【みりか】うん


 私の短い返事を最後に、祐樹にーちゃんとの初めてのチャットは終了した。

 スマホが何の音声も発しなくなり、私は呆然と天井を見つめる。


 物心ついた頃から祐樹にーちゃんとは知り合いだったけど、どんな形であれ言葉を交わしたことなんて一度もなかった。

 でも、やろうと思えばこんな簡単にできちゃうんだな。


 なにがともあれ、私は祐樹にーちゃんと二人で会う約束を取り付けた。

 これから私たちがどうなるかなんて、これっぽっちも分からないけれど。



 祐樹にーちゃんが来る日、パパとママがお仕事に出掛けてしまうと、さっそく準備を始めた。


 前回は適当な部屋着を着ていたので、服装にもちょっと気を遣うことにした。

 今の私には服の形や色の取り合わせも見ることができない。だから自分の記憶と手触りを頼りに、一番気に入っているコーディネートの服を捜し出し、身に纏った。


 髪の手入れもママに頼めないから、手探りでなんとかブラッシングをした。かつての祐樹にーちゃんみたいに寝癖が残らないように。

 でも、私が彼の寝癖を可愛いと思ったのと同じように、彼も私の寝癖を可愛いと思ってくれたりするのだろうか。


 お昼になったら、ママが作っておいてくれたナポリタンを食べた。一人で食べるには勿体ないくらい美味しいと思った。

 パスタを食べ終えたあとは、汚れの見えない食器を洗い、リビングのソファーで休んだ。


 あと三十分もしないうちに祐樹にーちゃんがうちに来るのか。


 ソファーの上で膝を抱えながら、そのときを心待ちにした。

 私たちの視力と聴力についての話も、もうちゃんと考えてある。


 そして午後一時、まるで時報のように時間ぴったしにインターホンが鳴った。

 応答しても祐樹にーちゃんには声が聞こえないので、素早くメッセージを送ってあげる。


【みりか】中に入って


 玄関の前に立った。スマホは上着のポケットに入れ、折り畳みキーボードを手に持つ。


 玄関扉の開く音が聞こえた。

 そして、誰かの靴が床を擦る音。

 玄関扉の閉まる音。


 これは祐樹にーちゃんが鳴らしている音だ。彼が今私の目の前に立っている。

 私はそれを、聴覚を通して認識している。一方で、彼は今私の姿を見ている。

 私たちは、再び会ったのだ。


 キーボードで文字を打ち込み、彼にメッセージを送信した。


【みりか】いらっしゃい

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