祐樹③ 視力を取るか、聴力を取るか

 視力か聴力、どちらかを選べと言われたら、多くの人は視力の方を選ぶのではないだろうか。得られる情報量に差がありすぎる。

 僕は聴力の代わりに視力を取り戻してから、改めてそのことに気付かされた。


 満月の日の三日後の夜、僕は健斗と会っていた。といっても、何か大事な話をしたわけではない。健斗の職場の近くで一緒にコーヒーを飲んだだけだ。


 だがしかし、コーヒーショップに着くまでの間、街中を歩くということがあまりにも簡単すぎて感動したものだ。僕は今まで、いかに神経をすり減らして生きていたのかということを実感させられた。


 それはまあさておき、僕と健斗はコーヒーを飲みながら互いの近況を話し合った。僕の耳は聞こえなくなっているので、健斗はスマホのチャットでメッセージを送ってくれた。傍から見れば、同じテーブルの席に着いているのに片方はひたすらスマホをいじり続けているという、なんとも奇妙な光景であっただろう。


 やはりというか、さすがにというか、僕とみりかに起こった異変の原因はまだ分かっていない。

 元に戻らないといけないということは分かっているんだけど、僕としてはまだ積極的に原因を調べようとはしていなかった。補聴器を使うことは試してみたが、それでも何も聞こえなかった。


 みりかもまた、病院で精密検査を受けてもそれらしき原因というものは何も分からなかったそうだ。

 健斗はここ数日のみりかについて話してくれた。


【健斗】真利がみりかに喋り方を教えているよ。小さい子供に教えるみたいに


 僕はその場面を想像してみた。


「微笑ましいな」


【健斗】今はまだ楽しそうなのが救いだよ。みりかが小さい頃は、そういうことができなかったからな


 確かにそうだ。彼らは普通ではない子育てを強いられていたのだ。並大抵の苦労ではなかっただろう。


 一方、僕は先週まで指圧師として働いていたんだけど、聴力を失ってからは仕事を休んでいた。

 施術自体は問題なくできるだろうが、聴力を失くしてコミュニケーションに支障が出る状態では仕事にならない。その指圧治療院には僕の他にも指圧師がいるので、適当な理由をつけてしばらく休ませてもらうことにしたというわけだ。


 僕はそんな面白みもない近況を話し、目が見えない頃に使っていた小型の折り畳みキーボードを健斗にあげた。みりかがスマホを使うのに必要だろうと思ったから。


 それから、盲目患者に必要な知識をいくつか教えてあげた。健斗は僕に感謝と励ましの言葉を述べ、その日はお開きとなった。



 しかし、その数日後となる週末、今度は健斗の家に呼ばれることになった。

 僕らに異変が起こってからちょうど一週間。何も進展がなく彼らも焦ったのだろう、真利も交えてゆっくり話をすることになった。


 それ自体は何の問題もない。だが、十六年ぶりに真利の顔を見て以来、僕は妙な胸騒ぎを感じていた。

 未だに未練があるとか、決してそういうことではないんだけど、目が見えなかった頃のように気楽に彼らの家に行くことができない。高校時代の真利と現在の真利が交互に頭の中に浮かんでしまう。


 とは言っても、招かれたら行かないわけにはいかないので、僕は駅前で健斗と待ち合わせをした。

 健斗の家を訪れるときは、いつもこの場所から二人で歩いて行く。今日は、歩いている間は終始無言であった。


 途中にスーパーへ寄り、夕飯の買い物に付き合って、僕も少しばかりのお金を出した。ちょくちょく家に行かせてもらっているから、これくらいのことはしないといけない。


 健斗の家に着くと、自分の家を見たときと同じように「こんな家だったのか」と感慨に耽った。


 少し緊張しながらリビングへ入る。そこには真利とみりかがいた。


「こんばんは」


 二人に挨拶をすると、真利は笑顔で僕に手を振ってくれた。

 みりかはソファーに座っていて、僕のいる方向に顔を向けてはいるが、その瞼は閉ざされている。自分の家にいるのに、どこかそわそわしているような感じがした。


 真利が作った夕飯に、スーパーで買ってきた惣菜を少し加え、食卓を囲う。けど、例のごとくスマホでチャットをしながら食事をするという非常にお行儀の悪い状態になってしまった。かつては普通に話をすることができていたから、こんなことはしていなかったんだけど。


 僕たちは適当な雑談からやり取りを始めた。みりかは会話に加わらず、イヤホンでチャットを音声として聞きながらご飯を食べていた。

 真利がみりかに口頭で何かを言い、みりかがそれに返事をした。もちろんその内容は僕には聞こえない。


【真利】もうキーボードで文字も打てるけど、今日はなんだか恥ずかしがってるみたい


 何も言わないみりかのことを真利がフォローした。


「気にしないでいいよ」


【真利】みりかが蟹沢君に来てほしいって言い出したのに


「みりかが?」


 意外だった。てっきり真利が言い出したのかと思っていた。いや、あるいはそう望んでいたのだろうか。


【真利】お月見に行った日みりかが、蟹沢君の目が見えるようになりますようにってお願いしたの

【真利】だから、蟹沢君の聴力とみりかの視力が交換されたんだって

【真利】どう思う?


 その一連のメッセージを見て、心臓が止まりそうになった。

 どうもこうもない。みりかが僕の視力の回復を望み、僕もみりかの耳が聞こえるようになることを望んだ。そして、その結果こうなった。


 僕は、自分の願いごとが何だったのかを話すべきか迷った。もしみりかの考えが本当なら、僕がみりかの世界から光を奪ってしまったことになる。視力は聴力より優先されるべきなのに。


 だが結局、正直に話すことにした。隠したところで物事が前に進むわけじゃない。


「みりかの言う通りかもしれない。僕も、みりかの耳が聞こえるようになってほしいとお願いした」


 真利と健斗は驚いたように目を見開いた。僕には聞こえないが、二人で何かを話している。

 みりかは僕から顔を背けていた。もしかして怒っているのだろうか。こんなことになったのは僕にも責任があると。


【健斗】わかった。でもそのことは別に気にしなくていいぞ


【真利】そんなことで視力と聴力が入れ替わるわけないし


 二人はそう言って笑ってくれた。僕も少し安心した。あくまで、超常的な現象は信じないというスタンスらしい。


 その後も僕たちは原因と対策について話し合ったが、有力な手立ては思いつかず、とりあえずみりかをいくつかの病院へ連れていくという結論で終わった。僕自身は病院を回るつもりはないけれど。


 みりかは最後まで会話には加わらなかった。でも僕としてはそれほど気にならなかったし、むしろ自然なことのように思えた。僕とみりかはメールやチャットですら会話をしたことがないのだから。


【真利】でも、みりかは今日髪型とかすごく気にしてたの

【真利】みりかの髪を梳かしたのなんて十年ぶりくらいかな


 真利はまた笑った。

 確かにみりかの髪はシャンプーのコマーシャルみたいに艶めいている。盲目になって日も浅いみりかが自分でこんな風に髪を梳かすのは難しいだろう。僕は目が見えるようになって初めて、今まで自分の髪がいかにいい加減にセットされていたか思い知ったものだ。


 みりかが真利に何かを言って、健斗も笑い始めた。なんとなく会話の内容の想像がつき、僕もつられて笑った。


 やっぱり僕はこの一家が好きだ。

 高校時代、真利への想いは叶わなかったけど、今でも僕たちがこうして笑っていられるのだから、それで良いのだろうと思った。


 やがて食事が終わり、僕はこの幸せな家をあとにした。

 独りで夜道を歩いていると、言葉に表せない想いが鎌首をもたげる気配を感じた。


 しかし、僕は数日後に再びこの家を訪れることになる。

 みりかから、「大事な話があるから、二人で会って話したい」というメッセージを受け取ることによって。

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