みりか② 寝癖

 翌日、私はたぶん、また病院に連れていかれた。

 車で少し遠い場所まで行き、歩かされたり座らせられたり、あるいは寝転がったりさせられた。昨日と比べるとかなり長い時間、検査されたと思う。

 周囲でどんな会話がされていたのか理解することはまだできず、私には依然として自分の状況が分からないままだ。


 学校には行かなくなった。

 私が通っていたのは、聴覚障害者を対象とした特別支援学校。なぜか聴覚障害者から視覚障害者に変身してしまった私にとっては無縁の場所だ。

 それに、こんな理不尽で無茶苦茶な状況下で学校なんかに行っている場合じゃない。


 私は学校に行かなくなった代わりに、喋る練習をすることにした。というより、ママが一日中話し掛けてきて、私に会話を教えてようとした。

 今までは昼間にお仕事へ行っていたけど、休んで私の面倒を見てくれているみたいだ。


 私が最初に発音を覚えた言葉は「みりか」だ。その次には「ママ」という言葉を言えるようになった。どうやら赤ん坊と同じらしい。


「ママー」

「みりか!」


 ママは、私が「ママ」って言うと喜んでくれているような気がした。声の感じで分かるんだ。それに、目が見えなくても幸せオーラが肌で感じられる。おそらく。



 ある日、パパが小さい折り畳みキーボードを私にくれた。

 今まで知らなかったけど、スマホには、文字を入力すると同時にその文字の音声を読み上げる機能があるらしい。

 キーボードをブラインドタッチしながらスマホに文字を読ませれば、目が見えなくてもある程度は使うことができるのだそうだ。

 ブラインドタッチは元々得意だから、これには大いに助かった。


 数少ない学校の友達からも、私を心配するメッセージが届いた。

 私はインフルエンザで休んでいることになっているらしい。

 本当のことを言うわけにはいかないので、感謝の言葉だけを伝えた。


 ママが家事をしているときは、ひたすらスマホをいじって色々な言葉の発音を覚えようとした。

 以前は、スマホばかり見ていると「本も読みなさい」とかいうメッセージが送られてきたけど、状況が状況だけにそういうことも言われなくなった。


 そんなこんなで、私は一週間みっちり練習をして、そこそこの日常会話を話せるようになった。

 さすがに普通の人と比べるとたどたどしいし、周りの会話を全て聞き取れるわけじゃない。でも、パパとママとお話をするにはこれで充分だ。


 少しずつ会話を重ねる中で、私の症状の原因がまだ不明なままであることも分かった。でも、それほど落胆はしなかった。最初は辛かったけど、今は話ができるようになってちょっと楽しくなってきたところだ。


 私はパパとママに尋ねた。


「祐樹にーちゃんは、どうしてる」


 もともと祐樹にーちゃんは数ヶ月に一回くらいしかうちに来ていなかったけど、あの日以来祐樹にーちゃんに関する話を聞いてなかったから、なんとなく気になった。


 それに、私は目が見えなくなってしまったけど、耳は聞こえるようになった。祐樹にーちゃんの声も聞いてみたいし、お話もしてみたい。


 だけど、パパとママは私の問いに対して少し黙った。

 まさか祐樹にーちゃんに何かあったのだろうか。


「みりか、落ち着いて聞いてくれ」

「うん」


 胸がドキドキする。


「祐樹は、目が見えるようになった代わりに、耳が聞こえなくなってしまったんだ。ちょうど、みりかと正反対みたいに」

「え」


 一瞬、心臓が止まったような気がした。

 祐樹にーちゃんは目が見えるようになった代わりに、耳が聞こえなくなってしまった?


「そんな」


 せっかく祐樹にーちゃんと同じ世界に来れたと思ったのに、また私たちの世界の位相がズレてしまった。周波数が変わり、お互いの存在を受信できないままだ。


 これには少なからずショックを受けた。

 しかし、こうなった原因に一つだけ心当たりがある。


「もしかしたら、私のせい」

「なんだって?」

「みりか、どういうこと?」

「みんなで、満月を見に行ったとき、お願いごとをした。祐樹にーちゃんの目が、治りますようにって」


 私はお月見ドライブに行った日のことを思い出した。

 祐樹にーちゃんの腕を握って満月を見上げたとき、確かにそう思った。


「…………」


 パパとママは再び沈黙した。


「みりか、そんなことで目が治るわけないでしょ」


 ママが諭すように言った。


「私がこんな風になった理由も、分かった」

「えっ!?」

「私と祐樹にーちゃんは、視力と聴力が交換された。満月の力で」

「ちょっと、何言ってるの!」


 ママの反応は、信じられないという声色だ。

 だけど、こんなに明瞭で簡単な答えなのに、どうして大人たちは気付かなかったのか、どうして受け入れらないのか私にはとても不思議だ。

 仕方がないので、建設的な提案をしてあげることにした。


「祐樹にーちゃんをうちに呼んで、話を聞けばいい」


 少しの間があった。そして、パパの声が聞こえた。


「まあ、原因はともかく祐樹にまた来てもらうのはいいんじゃないか」

「そういえば蟹沢君、耳が聞こえないのに喋ることはできてたね。なんか不思議」


 そうだったんだ。あのときは会話が聞こえても理解することができなかったから、気が付かなかった。

 それなら私が祐樹にーちゃんの声を聞くことはできるということになる。


 私は黙って、会話の続きに耳を澄ませた。


「こっちからはチャットで話すしかないかなぁ。けど、それでも顔を突き合わせた方がいいと思う」

「蟹沢君がいいなら別にいいけど……」

「今聞いてみるよ」


 それから、パパとママはしばらく黙った。パパが祐樹にーちゃんにメッセージを送っているのだろう。


 祐樹にーちゃんは暇だったのだろうか、すぐに返事がきた。


「明日でも大丈夫だって」

「じゃあ夕方迎えに行って、スーパーに寄ってきてくれる?」

「いいよん」


 これで、私は明日祐樹にーちゃんと再びことになった。私には彼の姿が見えないし、彼には私の声が聞こえないのだけれど。



 その日の夜はなかなか寝付くことができなかった。ベッドの上で何度も寝返りを打った。


 どういうわけか、私は視力を失ってから祐樹にーちゃんのことをよく考えるようになった。視力を失っても寝ている間は夢を見ることができるもので、近頃は祐樹にーちゃんがちょくちょく出演している。今まではじゃなかったと思うんだけど。

 目が見えなくなって、かつての祐樹にーちゃんと同じ立場になったからだろうか。それとも、この異常事態を彼と共有しているからだろうか。


 祐樹にーちゃんはパパとママの昔からの友達で、私の物心がついたときから時折うちに来ていた。彼は目が見えなくて、私は言葉が話せないのに、小さい頃はよく遊んでくれていた。家族でもないのに、生まれたときから知っている不思議な存在だ。


 もう一度祐樹にーちゃんの顔を、夢ではなく現実の世界で見たい。

 カッコイイのにたまに寝癖がついていたり、髭の剃り残しがあったりするところが可愛らしかった。

 これがいわゆる「失って初めて大切さに気付く」というやつ?


 はたして、私たちが元の状態に戻る方法はあるのだろうか。いや、きっと何かある。祐樹にーちゃんと力を合わせればなんとかなる。そう信じたい。

 また目が見えるようになったら、今度は私が祐樹にーちゃんの寝癖を直してあげよう。


 私は眠りに落ちるまで、高鳴る胸の鼓動に耳を澄ませていた。

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