みりか① 涙を流すために存在するもの

 車が家に到着すると、私はママの腕にしがみ付いて自分の部屋まで行き、ベッドで横になった。


 ママは私に毛布をかけ、何かを語りかけた。その意味を理解することはできないけれど、ママの声には温もりのようなものが感じられた。


 しばらくすると、バタン、という音が聞こえた。ママが部屋から出て扉を閉めた音かもしれない。トントントントン、という連続した音は、階段を下りるときの足音だろうか。

 ここへ帰って来るまでの間に色々な音を聞いたから、何がどんな音を発するのか何となく分かりかけてきた。


 ようやく自分の部屋で一人になり、冷静に物事を考えることができるようになった。私は今日起こった出来事を振り返ってみることにした。



 あの公園で満月にお願いごとをした瞬間、私は闇の世界に連れていかれてしまった。視界が徐々に暗く――やがて、になり、何も見ることができなくなった。


 同時に、今まで体験したことのない感覚が私の脳へ入り込んできた。

 それが生まれつき失われていた感覚、「聴覚」であるということに、直感的に気が付いた。


 だけど、次々に送られてくる音が何を意味しているのか分からず、頭の中がパニックになってしまった。

 いつの間にか祐樹にーちゃんの腕を離してしまい、私の手は虚しく空を切った。その手を自分の顔に近づけてみても、やっぱり何も見えなかった。


 どうしたらいいのか分からず困惑していると、誰かが私の手を掴んだ。近くにいたパパかママかもしれないし、祐樹にーちゃんが手を握ってくれたのかもしれない。

 頭ではそう理解しているけれど、目が見えない状態で誰かにいきなり手を掴まれるのはとても怖かった。

私は余計に取り乱し、抵抗した。


 やがて、私の聴覚にさっきまでとは違ういくつかの音が聞こえてきた。その音たちは、お互いに何かを交換しているような感じがした。

 もしかしたら、パパやママや祐樹にーちゃんが「お話」をしているのかもしれない。

 かつての私では、口の動きを見ることでしか認識できなかった行為だ。今はそれを別の感覚として認識することができている。


 そう思うと、ほんの少しだけ安心することができた。暴れるのをやめると、誰かが私を抱きかかえ、歩き始めた。体付きがいいからきっとパパだろう。


 さっきから何が起きているのかさっぱり分からないけれど、とりあえずこの状況に対して自分でどうこうするのは一旦諦め、パパとママと祐樹にーちゃんを信じて大人しくすることにした。


 それから車でどこかに連れていかれ、歩かされたり座らせられたりを何度か繰り返した。たぶん病院だろう。とりあえず、なすがままにされることにした。


 そして、自分の診察結果も分からないまま車へ戻り、こうして家に帰ってきたというわけ。

 落ち着いて考えてみても、どうして私の目が見えなくなり、耳が聞こえるようになったのかが分からない。


 私はただあの満月にお願いしただけなんだ。、と。

 なのに、なぜ満月という奴は私の方に異変をもたらしてしまったのだろう。


 そんなことに頭を悩ませているうちに、今度は睡魔が私のもとへやってきた。今日はもう着替えて眠ることにしよう。


 目が見えないままパジャマを捜し出して着替えるのは、なかなか骨の折れる作業だった。

 ふと、同じく目の見えない祐樹にーちゃんのことを思い出した。毎日こんな風にして生きていたのか、と改めてその大変さを実感した。


 そういえば今日聞いた「声」の中に祐樹にーちゃんの声も含まれていたのだろうか。

 分からない、目が見えなくなって祐樹にーちゃんの腕を離してしまった瞬間から、私は彼の存在を一度も感じ取ることができずに帰ってきてしまった。


 それに私の目が見えなくなってしまったら、誰が祐樹にーちゃんの腕を引いて歩くのだろう……。

 なんてね。そんなのは私たちと出掛けるときだけの話だ。祐樹にーちゃんは、普段は一人で生活しているんだから。


 でもこれから祐樹にーちゃんと一緒に歩けなくなるとしたら、とっても寂しいなと思った。

 いや、それだけじゃない。パパやママの顔も見えなくなるし、テレビや映画や本やパソコンだって見られなくなってしまう。夕陽を眺めて一日の終わりを感じたり、綺麗な花に見惚れて季節に想いを馳せたり……そんなこともできなくなる。それに、学校だってどうしたらいいのだろう。


 そこで、ようやく事態の深刻さに気が付いた。

 どうしようもなく悲しくなり、見えない目から涙がポロポロと溢れ出した。今や私の瞳はただ涙を流すために存在する器官となっていた。


 やがて泣き疲れた私はいつの間にか眠りに落ちた。

 暗闇の中で独り歩き続ける夢を見たような気がした。



 目が覚めても、私の世界に朝陽は昇っていなかった。

 実際にはカーテンの隙間から光が漏れていたのかもしれないけれど、その眩しさを感じることさえできない。


 しばらくの間、どうして目を開けているのに真っ暗なんだろうと寝ぼけていたけど、やがて昨日の出来事を思い出し、まさに目の前が真っ暗になった。


 朝になっても世界が暗いということが、これほど絶望的なことだとは。


 そもそも、今が本当に朝なのかも分からない。真夜中に目が覚めただけなのかもしれない。今の私では、時計を見て時間を確かめることすらできないんだ。


 そのままベッドから起き上がることもせずに、放心状態になってしまう。


「ふわぁー」


 こんな状況下なのに、いかにも呑気そうなあくびが出た。


 まあ、寝起きなんだから、さすがにあくびの一つくらい出るでしょう。

 そう、あくびくらい…………。


 あれ? 今のって?


 今更になって、自分が視覚の代わりに聴覚を手に入れていたことを思い出した。


 じゃあ、さっき聞こえたのはもしかして……。


 私は起き上がって、もう一度あくびをするように息を吐いてみた。


「うぇー」


 やっぱり、聞こえた。これはというやつだ。


 昨日はパニックになってて気が付かなかったけど、パパやママの声らしきものが聞こえたんだから自分の声だって当然聞こえるはずだ。


 生まれて初めて自分の声を聞き、謎の感動に包まれた。

 試しに色んな声を出してみると、だんだん楽しくなってきた。


「まー」

「あよよよ」

「のうのうのうのう」


 自分の声で遊んでいると、部屋のドアが開く音が聞こえた。


「◎△※!?」


 誰かが何かを言った。もしかしたらママが私の声を聞いて、部屋まで来たのかもしれない。


 いつもママが言っている「おはよう」の口の動きをしながら、声を出してみた。


「おあおー」


 すると、その誰かは私に抱きついた。


「◎△※! ◎△※!」


 同じ言葉を叫びながら、頭を撫でてくれた。きっと喜んでくれているんだと思う。

 私もその人の頭を撫でてあげた。艶々とした髪。やっぱりママだ。


 声を出す練習をもっとすれば、いつかママやパパと「お話」ができるようになるかもしれない。頭を撫でるだけじゃなく、朝はちゃんとおはようって言って、寝る前にはおやすみって言いたい。


 そうだ、祐樹にーちゃんもだ。ママとパパとは今まで文字で会話していたけど、祐樹にーちゃんは目が見えないからそれすらできなかった。

 でも私がお話できるようになれば、初めて直接会話することができるようになる。

 祐樹にーちゃんは一体どんなことを話す人なんだろう。

 そんなことを考えるとわくわくした。


 満月の不思議な力によって闇の世界に放り込まれてしまったけれど、「声」というものが一筋の光となって私を導いてくれるような気がした。

 それに、目が見えないけど耳は聞こえるというのは、完全に祐樹にーちゃんと同じ立場だ。自分が祐樹にーちゃんと似た者同士になれたことも、私にとっては救いだった。

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