祐樹② 瞼の裏の流星群

 異変に気が付いた健斗と真利がすぐにみりかのもとへ駆け寄った。何があったのか手話で訊こうとしているが、やはりみりかにはそれが見えていないように思える。

 健斗がみりかの腕を掴むと、彼女はじたばたと暴れ出した。真利が戸惑いながら何かを話しているようだが、僕には聞き取ることができない。


 この二人の姿を見るのも十六年ぶりだ。最後に見たのは僕たちがまだ十九歳の頃だ。


 健斗はあの頃とそれほど変わっていなかったが、真利は歳を重ねたことによってむしろ綺麗になっていた。年相応に顔つきは変わっているんだけど、心の可憐さのようなものが内面から溢れているようにも見えた。

 こんな異常事態にも関わらず、僕は久しぶりに見る真利の顔に少しだけ見惚れてしまった。


 やがて、健斗と真利は僕の様子がおかしいことにも気が付いた。健斗が僕を見て口元を動かしているが、何を言っているのか分からない。


「ごめん、声が聞こえない」


 僕は無意識の内に言葉を発していた。


 もちろん、自分自身の声も聞こえなくなっている。けど、声の出し方が体に染み付いていて、音として聞こえなくても自分の思い通りに喋ることができているという実感があった。


 そういえば、後天的に難聴になった人は声が聞こえなくても喋ることができるという話を聞いたことがある。どういう感覚なのか不思議に思っていたけど、こういう感じだったのかと理解することができた。


「なんでか分からないけど、耳が聞こえなくなって、目が見えるようになっている」


 そう言うと健斗が察してくれたのか、ポケットからスマホを取り出し、画面を僕に見せつけた。全盲だった僕でもスマホは持っているが、実際にこの目で見るのは初めてだ。


《本当か?》


 文字を読むのも十六年ぶりのことになるけど、画面には確かにそう表示されている。


「本当だ。こんなことで冗談は言わない」


 僕は健斗の目を見て言った。これで、盲目だった僕の目が見えていることを証明できた。

 二人はそんな僕を見て焦りの表情を浮かべる。困惑しながら二言三言会話を交わし、健斗が再びスマホの画面を見せつけた。


《みりかは目が見えなくなっているかもしれない》


 同意だ。みりかはさっきから僕たちの顔を見ようともしていない。


「僕もそう思う」


 僕が頷くと、健斗はまた文字を打ち直した。


《これから病院へ行く》


「わかった」


 健斗がみりかをなんとか抱きかかえ、僕たちは丘を下りていった。

 目が見える状態でレンガの道や石の階段を歩いていると、さっきまでこういう場所を歩いていたのか、と答え合わせをしている気分になった。


 駐車場に着くと急いで車……黒の軽自動車に乗り込み、出発した。

 病院へ向かう車内でみりかを観察しているうちに、僕はあることに気が付いた。


 みりかは目が見えなくなった代わりに、耳が聞こえるようになったのではないだろうか。僕の耳が聞こえなくなった代わりに、目が見えるようになったのと同じように。


 真利も僕と同じ考えに至ったのか、みりかに向かって話し掛けている。みりかもそれに反応しているように見える。


 どうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からない。

 もしかして僕が満月にお願いしたことが関係しているのだろうか。まさか、そんな非現実的なことが起こっていいわけがない。



 夜間急患診療を行っている病院に着き、みりかから先に診察を受けることになった。健斗と真利が付き添い、僕は廊下にある長椅子に座って待った。


 二人は医師に対してどんな説明をしているのだろうか。まあ、現状をありのまま言うしかないのだろう。家族で月を眺めていたら娘の目が見えなくなりました、と。


 医師はそんな無茶苦茶な症状に対してどう対処するのだろうか。

 僕は担当の医師が少し気の毒になった。


 三十分ほど待っていると、診察室から笠原一家が出てきた。三人とも難しい表情をしている。


 健斗がスマホに文字を入力し、僕の目の前にかざした。


《目が見えなくなってる。耳は聞こえるっぽい。他は異常なし。明日詳しく検査。次はお前の番》


 そこに書かれていることは、概ね僕の予想通りの展開だった。僕は健斗の目を見て頷いた。


 健斗が僕の診察にも付き添い、真利とみりかにはロビーで待っていてもらうことになった。


 診察室に入ると、デスクの前で初老の医師が座っていた。既に僕の症状についても聞いているのか、明らかに困った顔をしている。


 僕は口頭、医師は筆談で話をしたが、僕から与えることのできる新情報などはほとんどなかった。せいぜい、十六年前に突然失明したことくらいだろうか。だけど、結局そのときも原因は分からずじまいであった。僕の五つのセンサーは、神様が好き勝手にスイッチを切り替えてしまうのだ。


 今回の医師も僕の瞳や耳を注意深く診てくれたが、やはり原因は分からなかったようだ。

 それから明日精密検査を受けることを勧められたけど、僕はとりあえず断った。健斗は心配そうな顔をしていたが、今起こっているのは医学では説明できない現象のような気がしてならなかった。


 診察を終えてロビーへ戻ると、長椅子に座っている真利が心配そうに僕を見上げた。みりかは真利の腕にしがみついてじっとしている。


 健斗が真利に向かって何かを話した。きっと僕の診察結果についてだろう。みりかと同じで何も分からなかった、と。


 帰り道は、車で先に僕のアパートまで送ってもらった。

 到着すると、みりかがドアを開けて僕の腕を引っ張るのではなく、僕は自分の手でドアを開け、アパートの前に立った。みりかは何も映らない瞳で虚空を見つめながら、微動だにせずにいた。


 そこには初めて見るアパートがある。苦労して借りて何年も一人暮らしをしていた家なのに、見るのは初めてだった。なんとも不思議な気分だ。


「色々とありがとう。落ち着いたら連絡してくれ」


 車内にいる健斗と真利に別れの挨拶をした。健斗は僕の顔を見て笑い、励ますように肩を叩いてくれた。健斗だって娘が大変なことになって混乱しているはずなのに。


 彼の強さに僕の心は少しばかり救われた。



 玄関へ入り、家の中の照明を点けた。この家が明るくなるのも久しぶりのことだ。目の見えない僕は、他人が訪問してきたときにしか照明を点けないから。


 室内の様子が視界に飛び込んでくると、アパートの外観を見たときと同じように「こんな場所に住んでいたのか」という奇妙な感慨にふけた。


 僕には、今真っ先に確認しなければならないものがある。それは鏡だ。健斗や真利の顔と同じく、自分の顔だってこの十六年間見ることができなかったのだから。家に帰って来るまでの間にも見ようと思えば見ることができたけど、怖くて見れずにいたのだ。


 急に緊張し始めた。自分がもの凄く老けていたらどうしようと思った。浦島太郎にでもなった気分だ。

 だが、僕は意を決して洗面台に行き、おじさんになった自分の顔を見てみた。


 感想としては、予想よりは老けていないと思った。健斗と真利の大人になった姿を先に見ていたので、ショックが軽減されたのかもしれない。

 しばらくの間、若干ハリの衰えた肌や、朝に剃られた髭を点検し、洗面台を離れた。


 それから、もう一度自分の部屋を眺めてみた。

 今までは形や手触りでしか認識することができなかった部屋の物や家具にも、それぞれ色や模様がしっかりとある。


 当たり前だけど、配置は僕が記憶していた通りだ。

 テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、ベッド、テーブル、タンス……。できることが限られている分、普通の人の部屋よりはいささかシンプルかもしれない。


 自分の家というものを隅々まで観察してみた。目が見えないなりにも掃除をしていたつもりだったが、やっぱり埃が積もっている箇所がいくつかある。


 クローゼットの上段に、段ボール箱が一つ置かれているのを見つけた。引っ越したあと、開けるのが面倒になってずっと放置していたものだ。確か不必要なものしか入れていなかったはずなので、その段ボール箱はそのまま置いておくことにした。


 ベッドに倒れ込み、瞼を閉じる。

 すると、最初に浮かんできたのは久しぶりに見た真利の顔だった。

 彼女のことを考えると、高校時代の淡い思い出が流星群のように絶え間なく降ってくる。

 そこには目を背けたくなるようなことも含まれていた。目が見えないままでいれば、思い出さずに済んだようなことが。


 要するに、高校生の僕は真利に救いようのないほどの恋心を抱いていたのだ。

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