恋は盲目、月の耳

広瀬翔之介

第1章

祐樹① 小さな手の温もり

 十六年前のあの日以来、僕はずっと闇の世界で生きてきた。


 闇の世界といっても悪の魔王や怪物がいるような場所ではなく、ただ突然に、あるいは理不尽に、両目の視力が完全に失われたというだけの話だ。


 僕と僕以外を繋ぐ五つのセンサーのうちの一つがなくなり、残りの四つで生きていかざるを得なくなってしまった。


 だけど今ではそんな生活にもすっかり慣れ、今日は親友とその家族と一緒にお月見ドライブなんかをしている。


 もちろん僕は月を見ることなんてできないけど、外に出掛けるのは好きだし、彼らと共に過ごす時間はもっと好きだ。助手席の窓から吹きこむ秋の冷たさもなかなか心地良い。


「あとどれくらいで着く?」

「うーん、五分くらいじゃないか」


 僕が問い掛けると、車を運転している健斗の声が右側から返ってきた。その声と喋り方は快活で、彼の人柄をそのまま音として響かせたような感じだ。


「のどかなところだね」


 右側後方から、水のように透き通った声が聞こえた。健斗の奥さんである真利だ。


「何が見えるの?」

「別に何ってわけでもないんだけど、星空が一面に広がってて、道路の周りは畑とか民家があるよ」

「へぇー」


 ざっくりとした説明だけど、想像してみると悪くない。でも、片田舎にはいくらでもありそうな光景だ。


「みりか、あそこに猫がいっぱいいるよ」


 真利が娘に話し掛ける。だが、返事はなかった。


 僕のちょうど真後ろのシートに座っている彼女はもう高校生になるが、別に反抗期というわけではない。


 笠原みりか、というのが彼女の名前だけど、みりかは生まれつき耳が聞こえない。それも、補聴器の使用すら難しい最重度難聴というものだ。だから自ら言葉を話すことはない。真利は彼女に向かって口頭の言葉も交えながら手話を使っているらしい。


 この車内で僕の五感が捉えられるものは、夫婦の声と走行音、振動と窓から吹きこむ風、車の独特な匂いだけだ。そこにみりかの声というものは含まれない。この助手席に座っている限り、僕はみりかの存在というものを感じ取ることができないのだ。



 健斗の言った通り、目的地には五分ほどで辿り着いた。


 車の窓を閉めると、周囲からドアを開閉する音が聞こえた。

 すぐに助手席のドアも開かれ、誰かが僕の腕を掴む。


 といっても、この形が誰の手なのかは僕には分かっている。みりかだ。


 自宅とか自分のよく知っている場所は一人でも歩けるけど、こうしてこの家族と出掛けるときは、みりかが僕の腕を引っ張って歩く役となっている。

 健斗だと男同士で気持ち悪いし、奥さんである真利に腕を掴まれて歩くのは色々と問題があるから、自然とこのフォーメーションが定着してしまったのだ。


 僕は独身でみりかは年頃の女の子ではあるけれど、みりかは小さい頃、僕の手を握ったり抱きついてきたりしていたものだから、僕にとっても一応旧知の仲のような感覚だ。


 それに盲目と難聴である僕らは、会話もできなければ、筆談や手話や読唇術で意思の疎通を図ることもできない。

 今となっては、この手の温もりだけが唯一のコミュニケーションとなっていた。


 僕の腕を引いて歩くみりかはどんな表情をしているのだろう。

 楽しそうなのだろうか、それとも無表情なのだろうか。それすら僕には分からない。



 僕たちはどこかの公園の駐車場に着いたらしく、そこから少し歩いていくと、地面の感触が平坦なアスファルトからなだらかな土の道へと変わった。


「蟹沢君、ここから階段」


 真利が後ろから僕に声を掛けてくれた。


「ありがとう」


 僕は白杖で階段の位置を確かめながら、ゆっくりと上った。

 他の人が気付いているかどうか知らないが、何か障害などがあるときは、みりかも手を握る力を強めて合図を送ってくれていた。


 それほど長くない階段を上り終えたところで、僕は訊いてみた。


「どこかを登っているみたいだけど、この公園に何かあるの?」

「この公園に景色のいい高台があるんだよ」


 前方から健斗の声が聞こえた。


「満月の夜にそこで願いごとをすると叶うっていう言い伝えがあるんだって」


 真利が補足した。


「ふーん」


 確かに、満月の日には願いが叶うという話はよく聞く。

 まさかそんなメルヘンチックな話を本気で信じているとは思えないけど、まあ神社でお参りをするような感覚なのだろう。


 いずれにせよ僕には見えないものなので、普通のお散歩として公園の道と外の空気を楽しんだ。

 当然のことだけど、みりかはずっと黙って僕の腕を握りつづけていた。



 しばらく丘のような斜面を歩いたところで、ようやく目的の高台に着いた。

 目が見えなくても、どこか開けた場所に出たのだということを風の流れで感じ取ることができた。


「やっぱり、夜景が綺麗ね」

「よーし、願いごとをするぞ」

「満月はどっちの方向にあるの?」

「蟹沢君、こっちだよ」


 真利が僕の両肩を掴んで、体の向きを変えてくれた。


「願いごとは決まったか? いっせーのせーで、願うぞ」

「なんだよ、それ」


 健斗のアホみたいな提案に僕と真利は笑った。


「つべこべ言わない。それじゃあ、いくぞ。いっせーの、せ!」


 その掛け声と共に、僕たちは沈黙した。

 僕には見えないが、健斗と真利は手でも合わせているのかもしれない。神社のお参りみたいに。

 だけど僕の腕はみりかに握られているので、手を合わせることはできなかった。


 その代わり、空を見上げた。満月も星も、何も映らない真っ黒な空を。


 僕は願いごとも特に用意していなかった。だから最初に浮かんだ、叶ったら一番嬉しいことを架空の満月に願った。


 みりかの耳が聞こえるようになってほしい。


 気のせいだろうか、それを願ったとき、みりかの手が温かくなったような気がした。


 そして次の瞬間、異変はすぐに表れた。


 まず周りの音がゆっくりと少しずつ小さくなっていき、一分ほど経つと、僕の耳は何も聞こえなくなっていた。

 その現象と同時に、僕の閉ざされた瞼の裏側が段々と色付いていることに気が付いた。


 まさか――。


 おそるおそる瞼を開けてみる。

 そして、僕はまさに自分の目を疑った。


 目の前に満天の星があった。それは確かに僕の目に映っていた。

 僕の目が何かを見ることができたのは一六年ぶり、のことだ。


 星々の間に、本物の満月がぽっかりと浮かんでいる。夜空の下では、人々の営みが小さな光となって煌めいている。

 それは夜景というほど立派な景色ではないのかもしれない。片田舎のごくありふれた日常なのかもしれない。

 だけど、見渡す限りのその景色に圧倒された。長らく忘れていたのだ、世界はこんなにも美しいのだということを。


 僕は、生まれて初めてこの世界を見た赤ん坊のような気持ちになっていた。

 そんな奇跡のような出来事に我を忘れてしまい、僕の腕を掴んでいた感触が消えていることに気付くまでに、少し時間が掛かった。

 それは数秒だったかもしれないし、あるいは数十秒だったのかもしれない。音が聞こえなくなっていたことも、僕の時間感覚を麻痺させていた。


 すぐに自分の左側を見た。

 そこには、僕が初めて見る女の子がいた。小柄で、肩の上まで伸びた黒い髪が風になびいている。


「みりか――」


 そう呟いたのも束の間、彼女の様子がおかしいことに気付く。

 彼女は狼狽した様子で何もない方向に顔を向けたり、自分の手のひらを顔に近づけたりしていた。


 そう。まるで、彼女にはかのように。

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