第16章「星のない夜に」_2
『私は判断を誤ったとは思っていない。だから、私が戻るまで待っててほしい。投げ出すようなことだけはしないでくれ』
枝からほとんどの葉が落ちた駅馬神風大桜の下でシュリは祈り続ける。彼女は肌寒さを感じながら、(縮んだ手で私の手を握りながら)弱る姉の言葉を思い出していた。
姉は先のことまで見据えていたのだろう。その時は、その言葉に、どんな意味があったのかわからなかった。しかし、今なら理解できる。姉が私に残したものは。
「白鈴、そこにいるんだよね」
シュリは千年桜を眺めながら言った。
声が届いている様子はまったくない。
いたずらに時を費やした。
彼女には根気強く続けるしかなかった。
「成果はないようだな」
アオバの声だ。気付けば、背後に立っていた。
「もう時間はないぞ」
「うん……」
彼女もそれはわかっている。焦りがないわけではない。
「何が駄目なんだろ? 届かない。私の何が足りないんだろ? 自信、だよね」
「……理由は両者にある。いくつかある。恐怖。まずお前には覚悟がない。そして屋水姫は」
急かす言動はあれど、アオバは傍観者的な態度でもあった。
待つことにしたようだ。一度空を眺めるとアオバは姿を消す。
その日、彼女が千年桜の前に現れることはない。
一人となり、熱心に祈りを続けるシュリ。無防備と思えよう。
けれども、鬼が彼女に危害を加えるような深刻な事態は起こらない。
騒がしさとは無縁で、辺りは静かなものだった。
次に「はゆま」へとやってきたのは、カシワからの来訪者である。
「みんな……」
目黒たちだった。見たところ彼ら三人に大きな怪我はない。
「シュリ。よかった。平気?」
ヒグルは駆け寄る。
人に尽くそうとする。彼女の(たとえばだが)姉のようなところは安らぎをくれる。
「うん、私は。それより、上井といなびは?」
「あいつらはな」
二人は――雲残――あの男を追いかけにいった。
「鈴を?」
シュリは『ヌエ』を探す訳を知る。
「必要なんじゃねえかと思ってな。まっ、そんだけでもなさそうだったが」
「それは……」
「『鈴』、か」
アオバ、とシュリは言う。聞いていたのだろう。糸七の後ろに立っていた。
「お前がアオバか。なんだ。そのいやーな反応は」
「カシワに行ったんだよね? カシワで、なにがあったの?」
知りたかった。外ではいったい何が起きているのか。
彼らは丁寧に教える。
大袈裟に言っているわけではない。恐れていた状況なのだろう。
姉はこうなることも予測していた。だけど。時間がない。
「ヒグル、二人で話がしたい」
戦闘ばかりの旅の疲労を取る。それも必要だ。
「――ヒグル。お願いできる?」
「シュリはそれでいいの?」
うん、とシュリは頷く。「……私に一番足りなかったのは勇気なのかもしれない」
「勇気?」
「うん」
お姉ちゃん。ごめんなさい。無理だよ。約束守れない。私にも。私だって。
「アオバ。枯れ谷の返事をここでしていい?」
十分に休憩をした。相談と、あとは実行するのみである。
「捨てる覚悟ができたか」
「捨てる気なんてない。私は屋水の巫女。ツキビト。ただ死ぬつもりはないよ」
「待て。『死ぬ』ってどういう意味だ?」
聞き捨てならないと言わんばかりに、目黒は不快を露わにする。
「聞いて。私は、ヒグルと一緒に、白鈴を連れ戻そうと考えてる」
「だから死ぬって、なんの話だって聞いてんだ」
「シュリの体に屋水姫の精神を憑依させる」アオバが答えた。「膨大な情報量に、シュリの未熟な精神は崩壊する。体、魂まで影響を与え、時点でシュリはシュリでなくなる」
「はあ?」
二人で話している時、ヒグルは「反対される」と言っていた。そのとおりの反応だ。そして。
ヒグルは前に出る。「私を、白鈴のところまで案内して」
「なるほどな。いいだろう。だが、お前も命の保証はできないぞ」
アオバは屋水の巫女を一瞥する。
「以前と同じと甘い考えをしているのかもしれないが、行こうとしている場所はそれよりも危ない場所だ」
「そこに白鈴がいるんでしょ」
脅かそうが、ヒグルは危険を顧みない。
どちらかと、彼女を止める適切な方法としては、「シュリの心配」を投げかけるべきである。
「お前ら」
「目黒、あのね」
「本気、なんだな」
うん、と二人は同時に頷く。
「これで終わりとは思わねえからな」
シュリは微笑んだ。「わたしも、そうだよ」
「私も、そのつもり」
反対する。でも、ヒグルは言っていた。彼女は彼に目で問いかける。
「目黒。なんだかんだ信じてくれるね。受け止めてくれるね」
「他に手はないんだろ」彼は笑わない。「シュリ、悩みはねえか」
「ないよ。決めたから」
「そっか」
いつも傍で見守ってくれる彼は、この時も見守る。
「糸七……」
「実は、こうなるのではないかとは考えていた。シュリ。シュリは屋水の巫女だ」
「うん」
「シュリならできる」
「うん」
「ヒグルもだ。必ず帰ってこい。でないと悲しい」
「まかせて」
アオバは気付いていた。
告げず、ヒグルを「あの場所へ」と案内する。
シュリには千年桜の前にいてもらう。それから集中してもらう。
アオバができる最大限の心遣い。
「頼んだぜ。本当に」
指示を受け、動く。千年桜に迫る鬼。目黒と糸七は、戦う用意をする。
「やるしかない」
無謀ではない。戻ってくると信じているから。絆は育つ。
「だな。俺たちは」
アオバの力で『入口』は現れた。今回、ヒグルは一人でそれを使う。間際に千年桜から葉の音が聞こえる。
彼女の目に見える世界は、どこかの森だった。ヒグルは恐れず鬼がいる道を進む。蛇が案内を務める。
世界には所々歪みが見られた。『夜』の影響なのか?
ヒグルは立ち止まらない。彼女は思考する。
それだけではないとわかったからである。おかげで奥底で感じていた死の恐怖が和らぐ。
「ここは……」
屋水周辺にある森だ。先には街道、そこを歩くのは。小さな女の子。
「白鈴?」
彼女だと確信した。すると居場所が目まぐるしく入れかわる。
知らないうちに、ヒグルは屋水のお社にいる。
追いかけてきたつもりだが、蛇はどこにもいない。
「あの人は、シュリの?」
境内を歩く若い女性は、屋水の巫女リュウ。シュリの姉である。
ヒグルは「姉だ」とわかる。
本殿で眠っていない。境内には他にも人がいる。彼女には弱った面影などなく、姿勢を正し、幼さ儚さよりも健康的で美しさを感じられる。
おそらく、こちらが見えていない。大鳥の祠でも経験した。その時も干渉できなかった。
「アレ。もしかして」
埋火蝶陰影。巫女リュウが手に持っているのは、白鈴の刀である。
ヒグルは目が合う。
巫女リュウがまるでこちらの声が聞こえたかのような反応をした。
鈴の音が聞こえる。
振り向くと、そこは屋水のお社ではない。
「ヒグル。ここにきては駄目だ」
「白鈴」
景色は全てまやかしだ。なぜなら、この場所はどこでもない。思い出の切れ端。
しかし、彼女の目の前にいるのは。
ヒグルは歩み寄った。
「よかった。また会えた」
「来ては、ダメだ」
「ううん。イヤ。守ってくれようとしてるんでしょ? いや」
ヒグルは彼女に触れる。
どうしようもない恐怖が和らいだのも、すべて彼女が助けてくれたのだろう。傷付けたくないと。
息苦しさは増している。
けど、彼女は何も言わない。
「ねえ。一緒に。見ていい? わたしも」
すると、周囲の景色に変化が現れる。
――拒めなかったのか。それとも。
それは、初夏の季節が訪れて間もない『屋水』。勇敢な馬を用意した、二人の姉妹が屋水を出て、はゆまへと向かった、ある日のこと。
ここで見たものを、ヒグルは疑わない。正しきらしき歴史。
姉は、妹を紹介しようとした。その日、『大湊真道』と密会の約束をしていた。
以前見たものとは「異なる箇所」がある。
姉の姿は同じ。しかし、妹である彼女の姿がまるで違う。
一言で表すとするなら、歳が離れている。彼女は十二の姿である。
そしてもう一つ。
「わかったんだ。私は『白鈴』ではなかった」
「うん」
「屋水が襲われたあの日、お社で死んだ姉妹の幻影に過ぎない。姉の名が、白鈴。妹の名前が、小花。私は小花で、白鈴であって」
駅馬神風大桜に向かった姉妹は、生き物たちの群れを見たあと、猪の鬼に襲われている。
鬼に攫われた妹小花は、『大湊真道』によってその命を救われる。
「この火門は、本物?」
「だと思う。わからない。だと、おもう」
『どこかの家で鈴が鳴る。』
姉妹二人にとって忘れてはならない。それは大事な一日。
その夜、屋水は炎に包まれる。
異変に気付いたのは姉白鈴だった。姉妹の母は、白鈴にお前が狙われていると告げる。小花と共に逃げるよう促す。
「火門は、既に死んでいる?」
「ずっと戦ってきた、火門だと思っていたのは、もう一人の私だ。大湊の化身も、姿を変えた、もう一人の私。あのなかにもう一人いるが中核は彼女だ」
姉妹はお社に逃げる。姉である白鈴は、妹である小花を本殿に連れていく。
「彼女が火門に成り済ましていた、ということは、既に死んでいるのかもな」
「じゃあ、この火門は」
「偽物だ」
「にせもの」
姉の白鈴は、暗がりからお社に現れた『大湊真道』を本物だと認識している。
だから、殺されてしまった。
大鳥の祠で見たものと違う。前々から聞いていたとおりの結果だ。姉が目の前で火門に殺された。そして次に、その妹である小花が火門に殺されている。
だがこの火門は、『大湊真道』ではないらしい。
「少しずつ、わかってきた」
ヒグルはそう言うと、白鈴を探す。彼女は背後に立っていた。
景色が変わる。屋水のお社ではない。ここは――大湊城城内の研究施設だ。
周りに研究員が数人いる。硝子の中には。
「白鈴」
「私はこの中で三年眠っていた」
「施設で、なにをされたの?」
見向きせず柄木田が横切っていく。
「いろいろだ。私が、取り残された。きっと、私は邪魔だったのだろう」
「邪魔……」
『あの人は何を考えているのかわからない』研究員が愚痴をこぼしている。実験の失敗について言っているようだ。強引に目標値を変えたからあのようなことが起きてしまった。
『呪いは打ち消せなかった』『これでは同じ結果だ』『こっちはどうするつもりなんでしょう?』
「これでわかったか。もう一人の私。彼女が決めて、この国は亡びへと傾いている。向かっている」
「そうだね。わかったことがある。二人を、姉妹を殺したのは火門ではなかった」
「……そうだな」
「白鈴。戻ってきてほしい。一緒に、戦ってほしい。このままだと大湊の国が」
「言ったはずだ。彼女も私だと。私には、どうすることもできない」
「どうしてこの国を亡ぼそうとしているの?」
「憎悪。だろうな」
「白鈴は、それでいいの? 亡んでもいいって」
彼女は黙ってしまう。沈黙が流れる。
「二人の願いがあって、白鈴はここにいる。そうでしょ?」
「それは勘違いだった」
「ほんとにそう?」
ヒグルはそのようには思えなかった。
「いつだって私たちのそばにいてくれたのは誰? あなたは、誰?」
研究施設から離れた。そして彼らと出会った。時が過ぎていくなか、旅が続き、より多くの人と触れてきた。
「間違いでもいい。私と。ううん。私たちと。共に明日を見届けてほしいんだ。傍にいてほしいと思ってる」
「……最後のは、ヒグルの願いだろ」
「うん。そう。そうだよ。私からのお願い」
「私には、私と――彼女ともう一度戦える力は残っていない」
白鈴は『声』に気付く。
「……シュリか? そうか。決めたのだな」
一枚葉が落ちる千年桜、その下では祈り続ける屋水の巫女がいる。受け入れようとする彼女の周りを光の粒が舞う。
彼女は目を開けると、徐に立ち上がり、次に桜の木を見上げた。
そこへ――ヒグルはやってくる。
「シュリ?」
「私だ。ヒグル」
「白鈴」
帰って来たばかりで、ヒグルは喜びを感じた。けれどもそれと同時に力が抜けた。崩れるように倒れそうになったところを、白鈴に助けてもらう。
「無茶をする」
「でも、白鈴のこと。すこしだけ、わかった。やっぱり白鈴は」
限界のようだ。彼女は眠ってしまう。「シュリ」と小さく口にする。
「成功したようだな」
糸七だった。彼は駆け寄って来て、そう言った。
目黒はというと、彼はいまいち状況を理解していない。
「ええっと、白鈴、でいいのか? 見た目は、シュリのようには見えるが」
「ああ。私だ」
「その感じ。みたいだな」
糸七はヒグルをわずかに見ていた。「シュリは……」
「シュリは、まだここにいる」
白鈴は胸の辺りに手を当てた。感じていた。そこにいるとわかった。
糸七は顔色ひとつ変えず話題を変える。
「動けるのか?」
「お前たちこそ」
「俺たちは気にすんな。それで、どうなんだ」
「以前の体とは言うまでもなく違うが。……シュリの体だな。どうしてだろうな。温かい。ひとつひとつ。ああ、動ける。心配するな」
「終えたところ早速ですまない」
余韻を掻き消すかのよう。アオバが彼らの前に現れる。
「城に向かってほしい。東姫の命が狙われている」
彼らに、休む暇もない。
男の名は雲残。大湊の国お抱えの忍びヌエとして活動していた彼は、七年前の戦で死んでいる。飛びぬけて優秀。一部では「その優秀さ故に危険」とまで言われた男である。
彼が育てた忍び。その中には上井ヒユウ彼もいる。
七年前に死んだはずの人間が生きていた。枯れ谷で上井が訝かる訳だ。
上井には親がいなかった。尊敬に値する人に拾われ、その縁でヌエ雲残が親代わりとなって技術を教わり、忍びとなった。
幸畑市蔵とは彼の後輩にあたる。
ヌエは間関衆とは異なり、「里」を知られていない。
忍びであること以外は。いなびの母のように正体を隠している。
たとえば、もう一人。幼い頃から正体を隠しつつ、ある女性の友達として生きてきた者もいる。立場が変わろうと、傍にいることが決まっていた。
忍びヌエ。「緑川」と呼ばれている女だ。
各地で騒乱が起こる。大湊城城内にミドリはいた。『安全』であるはずはなく、鬼が城を襲った。敵の狙いは。
「急がなければ。待っててくれ。……タマキ」
ミドリは負傷している。鬼との連戦で体力が尽き、歩くことさえままならない。
けれども、命に替えても、役目を果たそうとする。
「シュリ様? ――いや、ちがう。誰だ」
そんなミドリの前に現れた女は、「顔見知り」に思えた。
彼女は察した。敵であると。
「ここは通さん」
今にも倒れそうな体で踏ん張り短刀を構える。
相手の女は無言。
油断するな。知った者でも信用するな。
タマキは懸命に守る。最後の時まで力を振り絞ろうとしていると、さらに顔見知りが二人ほどぞろぞろとやってくる。
「お前たちは……。では、シュリ? シュリ、なのか?」
ヒグルは問う。「東姫は?」
「この、先だ」
城から外へと通じる抜け穴がある。
白鈴は抜け穴の奥へと急ぐ。説明は不要と考えた。
ミドリは呆然としていた。
ヒグルは近寄る。「ひどい怪我。これ全部」
『影武者? 鬼を、城に? 理解できん』
『惚れた男の顔ぐらい覚えとるわ。この戯けが』
「姫様は最初から見破っておりました」
「それって」
「私のことはいい。とにかく姫を。タマキを」
「タマキってたしか」
「ここは任せろ」と糸七が言う。
ヒグルは頷くと、先に向かった白鈴を追いかける。
抜け穴を蔓延る鬼。ほとんどが倒されていたが、まだ少し残っていた。
彼女が到着するのは、さほど大変ではない。
東姫はどうやら無事のようだ。間に合った。タマキがいる。白鈴がいる。そして。
狙われていると知り、城から逃げる東姫。抜け穴にいた鬼から彼女を守っていたのは「かかし」だった。
空にも負けない薄暗い場所で、あまり知られていない隠れた事実が判明する。
抜け穴には柄木田もいた。大量に出血する彼女に、「魔法使い」は近付く。
「お母さん」
「……ヒグレか」
喋ることも難しい。
「綺麗に、なったな」
柄木田五言。彼女は息を引き取る。
研究熱心で、人とか、まったく興味がないんだと思ってた。
東姫は妊娠していた。
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