第15章「大鳥の祠」
・15
『男どもに顔を見せてはならぬ。生まれ月よりあとの満月の日は家にいろ。声を聴いても返事はするな。外には一歩も出るな。化け物がお前を待っている』
さらに山々の深き場所。そこは人から「大鳥の祠」と呼ばれる。白鈴は白蛇の言葉から次に「この地」へと訪れる。過去に、ツキビトの手によって残された。以前訪れた時とは、ありさまが似ても似つかない。刻一刻と時間は過ぎて、季節が変わった。雷でも落ちたか、記憶とは異なる倒れている巨木。草木に目をむければ、それは川だけにあらず、気高き山は寒い冬を迎えようとしている。
乾燥した風が、彼らの頬を撫でた。
「おっ風呂。入りたいなあ。入りたいなあ」
「うっるせえな。あるような場所ではないのくらいわかるだろ」
「知ってる。言ってみただけえ」
「おまえな」
「いなび。お風呂好きだもんね」ヒグルは言った。
うん、とシュリは同意する。「秘湯とか詳しい」
「そうそう」
「ふっ、忍びなもんで。ふっ」
「関係ねえだろ」
大湊の国にも、そういった温泉はひっそりと人知れず存在している。村からも外れた静かな空間、しかしながら鬼で溢れた今では訪れる人も減っている。
効能があると噂されようと、なかにはいずれ人の記憶からも忘れ去られたりするだろう。
隠れ湯も存在するというが。
「まさか、おまえも」
いなびの知識は、これまでに旅を続ける(時には安らぎを求める)彼らの助けとなっている。
彼らは旅の疲れを感じていた。
「もうすぐか」と白鈴は呟く。立ち止まって、周囲をひとしきり眺めた。
「明るいうちにこれてよかったね」ヒグルはそう言うと、そっと不安げな表情をする。「火門……。いるのかな?」
「白蛇は『いる』と言っていた。いや。私たちの前に現れるとそう言っていた」
「神様なら、もうちっとはっきりと言ってくれてもいいのによ」目黒は不満を述べる。
シュリは呟く。「全部、教えるつもりはないんだと思う。そんな感じがした」
「もしやつがいるのだとしたら、ここから先、戦闘が増えるだろう。大湊は鬼を従える力を持っている。既に私たちがここにいることを知っていてもおかしくはない」
ヒグルは考えた。「そうだね。気を引き締めていかないと」
それだけではないのは勿論ではあるが。あの夜に見上げていた城は、数えきれないほどの鬼に囲まれていた。だれがそのようなことを考えようか。それを知らない人もいるだろう。少なくとも城下町に住む人は知らない。信じようともしないだろう。
大湊の国はとっくに鬼の国となっている。
いなびは問う。「ねえねえ。ずっと眠ってるっていう、その大湊の化身? がさ。もし、もしだよ? 復活した場合ってどうなるの?」
「やめろよ。縁起でもねえ」
「だから。ねえ。心構えぐらいはしておきたいよねって話でして。『重要』だとは思わない?」
シュリは静かに口にする。「『星のない夜』がやってくる」
「星のない夜?」いなびは不気味な沈黙を感じた。「星のない夜。なんどか、どこかで聞いたことあるような。ないような」
「かしわで喋る本が言っていたな」白鈴が言った。
「ああ、本も。言ってた。そういえば」
「世界は乱れる」
「何が起きるかは知らねえが。大昔に大暴れしていたバケモンだ。知りたくもねえ。とにかく、やべえってのはわかる」
糸七は意欲が漲る。「そうならないために、私たちはここにいる」
世界は傾き始めている。
そうだね、とヒグルとシュリは頷いた。
白鈴はふと思い出す。いちど大鳥の祠に訪れた時、扉はかたく閉まっていた。それはとても長い年月を経た状態だとわかる。
その奥にはまだ足を踏み入れていない。そのとき、「火門はいない」と判断できたからだ。
あれより先を進めば、伝説では屋水姫とも戦ったとされている、非常に強力な『鬼』がいる。大量の鬼を従えていた。
「立ち止まってる暇はねえ。急ごうぜ。なにがなんでもやつを止める」
目黒はそう言って歩き始める。
同じ目的を持って集まった者達の中に、勇ましい彼を呼び止めるものはいない。
しかし、白鈴はその足が止まる。辺りを見回した。鬼を警戒する。
「どうしたの?」とヒグルが尋ねる。あきらかに気配はない。
「なんでもない」
彼女はなにか異変を感じている。
大鳥の祠、とヒグルは呟いた。
険しい山路を上り下り、鬼と遭遇する機会が増える。これがすべて火門の指図であるのかはわからない。ただ油断はできない。彼らでも楽な相手ばかりではなかった。
目と鼻のない鬼がいた。人のように見えるが、口の大きな鬼だ。舌がだらりとだらしなく垂れ下がっており非常に長い。図体も樹木のように背が高い。
どうにかその鬼を倒し、一息をつこうとする。そこで白鈴はあるものを目にする。
ここまでの鬼たちとの争い、長く黒い影のようなものが周囲を浮遊していた。人魂のようでじっと「それ」はこちらを眺めているように浮かんでいた。
気付けば、どこかに行ったようだったが。
祠のある方向に、大湊の化身がいる。見覚えがある風貌。
化身は彼女の前から姿を消す。
「やつは、ここにいる」
白鈴は確信した。火門は必ずいる。ここに来ている。実行するつもりだ。
「火門か? わかるのか」目黒は姿を見ていない。
「ああ。確かだ」と彼女はつよく言った。
しばらくして夜でもないというのに、空が次第に暗くなる。あの太陽が雲で隠れたわけではない。それは景色だけ見れば、危惧していた『星のない夜』が訪れたように思えた。
間に合わなかった? 封印が解かれた? そんな不安が言葉にされる。
すると、大湊の化身が闇をまき散らし彼らの前に現れる。
驚きはあれど、悠長にはしていられない。大湊の化身が現れたのだ。戦闘が始まる。化身は仲間を連れている。
この場合、数を減らすことが優先される。
鬼を削っていくと、足掻いたりはしないで化身は姿を消した。空が明るくなる。
まだ封印は解かれてはいないようだ。シュリはそう言った。
アレがここにいる。彼らはより一層火門の存在を確実なものとする。
「片割れだといっても、手強いね。あれが『本来の力』を取り戻したらと思うと」ヒグルに怪我はない。圧倒的な力を前に、彼女は恐れを抱いた。「火門ははじめ大鳥の祠を目指していた。それなのに、これまで何をしていたんだろ?」
彼女の呟きに誰も答えられない。
「私たちが来た時にはいなかった。んだよね?」
「ここには来ていた。でも、その時ではなかった。とか?」いなびが言う。
シュリは深刻そうな表情をする。「わたしも、そう思う」
この日を待っていたと考えるのが無難である。この日でないといけなかったか。
白鈴は手振りで知らせる。「声がする」
全員が同じように耳を澄ました。
「そう? 何も聴こえないよ?」
いなびだけではない。その場で白鈴だけが聞こえた。
「気のせいか? 前からだ」
「戻るつもりはないのだろ。進もう」
糸七は一切迷いがない。火花を散らす、準備が整っている。
さらに奥へと行くと、護衛を連れた老婆と出会う。その背中――。声は老婆のものだったのか?
「柄木田。やはり来ていたか」
白鈴は女の傍にいるいやな人形にすこしだけ目をやる。
柄木田は振り返り、そこにいる者たちをひとりひとり眺めた。
「……そうか。お前たちも来たか」
「火門はどこだ」
柄木田は何も言わないで、ふたたび大鳥の祠がある方向へと体を向ける。
「奥にいるんだな」
「まさか。ここまでとはな」
「おい、おまえ」と目黒は言う。その瞬間、凄まじい地響きに似た震動が、彼らに襲い掛かる。少しの間でとかではない。治まるまでかなり長かった。
「急がなくていいのか?」激しさを物ともせず。柄木田に動揺などない。「呼んでいるぞ。どうやら仮説はあっていた。順調のようだ」
「時間はなさそうだ」上井は言う。
「行こう」と白鈴が言うと、「責任は取らせるからな」と目黒は続けて告げる。(この場にいると知って、争う覚悟もしていたが)この女とゆっくり話をしている場合ではない。
「私は遠くで見学させてもらうぞ。調べたいことがあるんでな」
柄木田はそう言って、その場から離れていく。
奥にある扉に近付くにつれて、鬼の気配が増える。気性荒く戦いを挑む鬼もいれば、こんな環境でも争い好まず陰のほうで眺めるだけの鬼もいた。ししこは特にそうだった。ししこに関してはこの辺りは数が少ないようで、風に吹かれる
黄色く光る二つの目は、どちらかというと怯える眼差しである。敵意が見えない。
大湊の研究者。柄木田五言。彼女と出会ったことから、白鈴はひとつ思い出した。長く眠る主人を迎えようとする戦場で、これまで長くて黒い『影』のようなものがいた。そいつは何もせず、周りをただ浮かんでいた。おそらく「観察」をしていた。
在りし日、目黒を救出するために訪れた大湊の監獄、地下へと目指しているときに独り言を漏らす柄木田の傍を浮遊していた『もの』に似ている。
いびつな人形は、使い魔だ。それとは別の。
似ているだけで、別の何か、なのか? あれは。
障害を乗り越えても、新たな障害が彼らを待ち受ける。そびえる壁は絶望的なほどに高く、容赦のない向き合いを必要とする。
激しい炎が、彼らを包んだ。
囲むその『火』は消えず、理性を失ったかのようにひたすら燃え盛る。
逃れようとするなら、無慈悲に襲い掛かる。禍々しさが見て取れる。
「先に行け。四人もいればすぐに終わる」
目黒の声だ。白鈴は聞いた。彼の傍には、シュリと糸七と上井がいた。
目で見えなくとも、言葉から察せられるだろう。この渦巻く火のなかに鬼がいる。
行く手を阻む。彼の前には、体中、たくさんの針で串刺しにされている男が立っていた。
「いや。先にとは難しいかもしれないぞ」
白鈴はそう答えた。ヒグルといなびは戦う用意をする。なぜなら、こちらにも鬼がいる。
女がひとり立っていた。人間ではない。好ましいとは言えないはずだ。女はこの熱さに苦痛の表情すら窺えない。
助けて。助けて。と、女は戦う最中、泣きつくかの如く繰り返す。
簡単には道を開けるつもりはないようだ。男のほうも。女のほうも。
そこで白鈴は別の声を耳にする。それはこの地へと訪れて、彼女が気にしていた微かな気配である。
「白鈴」とはっきりと呼んだ。
この場で、名前を呼んでいる。
姉の声に似ている。
「だれだ?」白鈴は声の主を探した。
彼女は返事をしてしまった。
故に、視界を奪われてしまう。つぎに伸びる『汚れた手』に囚われる。
――ああ
見つけた。見つけた。あなたこそそうだ。きっと。そうだ。まぎれもない
消えることのない炎の中で、白鈴は仲間と共に人型の鬼と戦っていた。女の鬼は手強く、決着はついていないところで新たな事態へと転がる。
目を開けると、白鈴は横になっていた。彼女は家屋にいる。記憶にある建物だ。
体を起こし、外の騒がしさに心は動く。
扉を開けると、そこは火の海である。屋水だ。火災だ。悲鳴が聞こえる。目を向けると、刀を持った男たちに武器を持たぬ老人が懇願している。
男たちには耳を貸す素振りなどなく、老人は殺された。
これは……。白鈴は戸惑う。『幻』、ではないのか?
疑えど、あまりにもそれは鮮明だった。まさに経験しているかのよう。眠っていた彼女の記憶がじわりと呼び起こされる。
また声がする。白鈴は振り返った。
――。
白鈴は目を覚ました。『声』が聞こえたからだ。優しく呼ぶ音に、体が反応した。
彼女は桜の木の下で座っている。暖かく晴れた空。野鳥の鳴き声。花びらが舞っている。白鈴は驚くしかない。なぜならそこに姉がいる。
「ねえ、さん?」
「どうしたの? そんな顔して」
私は眠っていたようだ。戸惑いはあれ、白鈴はすぐに状況がわかった。
「怖い夢でも見た?」
「……はい。とても。怖い夢を見ていたようです」
安堵の思いをした。姉の顔に。見上げると、微笑む姉に。
それは長く。長い時間、会えていなかったから。もう会えないと心で決めていた。お話しすることも叶わない。残酷な。
周りをどれだけ見ようと、そこに拾える戦いの痕跡はない。
彼女の中に残滓はあっても、目に映る美しい世界にはどこにも見当たらない。
満開の桜の下、ここで眠る前の出来事が思い出された。この心地よさにうとうとしていた。ほんとうにこれまでが「夢」であったかのよう。
「姉さん。嬉しそう」
「だって。あの人と会える。そう思うと」
初夏の季節、姉は私を連れて、馬を用意し、屋水からはゆまの千年桜に向かおうとした。この日、姉は次期火門である『大湊真道』と密会の約束をしている。
あなたを紹介したいそうよ。母は私にそう言った。
不思議な気分だ。私はまだ会ったことがないらしい。けれど、顔を知っている。
姉は嬉しそうにはしているが、七日前に大湊とは屋水で会っている。どこで密会をしていたのかは知らない。私に黙っていた。家に帰っていないと知って、聞いても聞いても母は教えてくれなかった。兄も答えてくれなかった。ただ、前の日も、その後日も、姉は幸せそうだった。
「それだけではないけどね」
屋水を出ると、護衛だろう、馬が二頭いる。しかし大湊の姿はない。
春も終わりを告げる。草木が新緑に覆われている。漏れた日差しと爽やかな風を受けながら、馬は姉と私を乗せて力強く走る。
……眩しいな。
駅馬神風大桜は他の桜と等しくその花を散らせていた。わずかに余花が見られる。傍にある川は豊かであり音さえも穏やかで、山頂から流れる雪解け水もあって水温は低い。ゆったりと数匹の魚が相談でもするように泳いでいる。
早く到着してしまったようだ。ここにも大湊の姿はなかった。
千年桜の下に行ってみよ。姉はそう言って私を連れていく。
お花見、また行けるようになるといいよね。お弁当を用意して。
姉さん。やはりあの人のことを愛しているのですね。桜の木を眺める横顔は、なぜだろう、待ち遠しいとわかる。私にもわかる。
姉は口を開いた。そこで離れていた護衛の男一人が大きな声を出す。
「なんだあ? あれは?」
もう一人は近付いて、同じ方角、木々の隙間に目を凝らした。
「あれは、鹿ですな。こりゃ、滅多にお目にかかれない。ずいぶんと大きな群れだ」
「猪もいるぞ」
姉は気になり、それが見える場所まで近付く。わたしも、気になる。
姉の声は緊迫した空気に包む。「それだけじゃない。動物たちが。逃げていく。なにを恐れているの?」
「姉さん。森に。何かいます」
生き物が逃げる。それほどの。森のなかに、とてつもない何かがいる。
「うん。うん。私にもわかる」
姉は木々の隙間を眺めてから、男二人に申し出た。
「いますぐここを離れたほうがよさそうです」
護衛は少しばかり戸惑っている。
「えっと。しかし」
「妹は、私より霊感があるので。お願いします」
姉はこの場にいる者たちの命を守ろうとしている。迷うよりも行動を促している。
群れと呼べるほどの生き物たちの移動はまだ見られた。七日ぶりの密会は中止となる。姉の顔にくやしそうな色はない。
姉を、守るためだ。とくに。きっと、私にしか見えていない。山を下りる、土砂にも似た存在。
広大な山々を、木々を、吹き抜ける風のような振りを『それ』はしているが(泥のほうが適切か)、明らかにこちらに向かってからだを伸ばしている。
姉は勇敢な馬に声をかけていた。平気? お願い。はゆま村まで私たちを守ってくれる?
「姉さん」
姉は表情を変えた。見えてしまったのだろう。それとも隠れることをやめたか。
「逃げて」
「だめ。そんな。ダメ」
「――様。小花様。危険です」
護衛は仕事をする。彼らはその為にいる。安心していいのだろう。からだの一部分に私は飲み込まれてしまう。
音が遠い。目を瞑って、耳を塞いでいるようだ。世界が狭くなる。
「なんだ? なにがいる?」
千年桜から気付けば(森のなかだろう)場所が変わっている。「夜」であるかのように薄暗い。闇にはたくさんの目がある。
闇から出てきたのは、大地を一歩一歩踏み締める足取りの猪である。
混乱の原因だ。怒りだけでは表せない。この異様な気配、恐れるのも理解できる。
刀を持たない私になにができようか。
大きな口だ。距離が縮むにつれて。つんとする臭い。何をするつもりだろうか。
姉を狙っていたようだ。私でもよかったようだ。
自由などないが隙をついて逃げるしかない。
囲まれていた。だが、一人ではなかった――大湊――彼の登場で私の命は助かる。
大湊は猪を一太刀で黙らせる。たくさんの目は鳴くことはあれ闇から見ているだけだ。
「すまない」
力尽きようとしている相手に、青年は静かにそう言った。
『お前たちが招いたことだぞ。人間どもよ。このままで終わると思うなよ』
「そうだ。私たちが背負わなければならない」
これが、おそらく、初めての出会い。
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