第5章「東姫 屋水姫」_2
はゆま村を離れてから、しばらく坦々たる森のなかを歩いた。道を見失うことはなく(シュリに助けてもらい)、ときおり会話をしてはとにかく進む。およそ中間辺りだろう位置で必要な休憩を取る。
思いのほか鬼が見当たらない。風が吹けば不思議なもので、鳥の鳴き声がよく聞こえ、大きな鹿が木の下で立っている合間に、タヌキが草むらをかきわけていく姿が見られた。
「鬼、いないね」シュリは言う。「なんだか、安全な道」
「どうかな。いないってわけでは、ないかもな」
「でも、見当たらないよ。もう半分まで来たのに。私たちぜんぜん襲われてない」
「すがたはないが」
「この辺でもいる。そう聞いてたのに。どうしてだろ」
白鈴は刀を取り出す。付近にいないと思ったら、呼ばれたかのように異変が起こった。
「シュリ。来るぞ。大きい」
「鬼? やっぱり、いるんだ」
森の奥から野生動物の悲鳴が聞こえてくる。その数、一本か、二本。樹木が倒れたらしく、驚き慌てて複数の鳥が飛び立っている。
遠く森から跳び出した毛むくじゃらの鬼は、まず白鈴を狙った。その攻撃の仕方はまるで人間のようで、勢いに任せて、太い腕を使って殴りつけようとする。
彼女は見極めてそこから離れた。敵は見えないところからやってきた。対処として受け流すは、最善ではないという考えである。反撃にはでなかった。
「猿か」
「猿に見えるね」
「頭はあるな」
「うん? 白鈴、戦ったことあるの?」
「集中しろ。見た目通りの強さだ。そして、こいつは腕が伸びる」
深い森から姿を現した鬼は、大湊一番月見櫓で見たものと同じだった。壁を壊した猿の鬼。しかしながら、今回は頭部もあれば、左腕もある。体黒く黄色い二つの目が特徴の「ししこ」が、体のどこかにぴったりと付着している様子はない。
あの夜は、三人で戦った。このたびは、二人しかいない。
正常ともいえる鬼。では、容易に勝てる相手かと言えば、そんなことはなかった。力強さ、俊敏、時には物を使うことだってある。岩が飛んでくる。
ただ斬るだけでは、傷をつけることは叶わない。武器となっている「岩」については、人間側からしてみればそれはあまりにも大きく、落石のごとく転がってくる。
勝敗を左右したのは、シュリの扇子――それが有効な手段となっていた。ただの風と思うなかれ、彼女の生み出す魔法が岩の勢いを落とし、そして軌道を狂わせる。
白鈴は一太刀を浴びせる。鬼は姿を消してしまう。
「あれ? 倒した?」
「いや浅かったか。逃げた」
「死んだふり? 逃げたの? それはまずいよ」
「追いかけるぞ。ここで斬る」
白鈴は追いかける以外に選択はなかった。倒してしまえるのであれば、そのほうがいい。大物の部類と言えるので、ここで逃すと、あの時の猿ほどの力を得てしまう可能性もある。
彼女は微塵も誰かに押し付けるつもりはなかった。故に追跡をする。
ところが、猿はどこまで行ったのか。あれから白鈴は、目的地であった屋水に到着してしまう。第一の目的地だ。
「あのお猿さん、どこまで行ったんだろ?」シュリは立ち止まってそう言った。
「屋水よりもっと先だ。やつが、そこまで行く理由はわからないが」
「私たちが、怖い、とか?」
「そこに、何かあるのかもしれないな。やつに、誘われてるような気もする」
「ってことは、奇襲? そうだとしたら、屋水に寄って、正解なのかもね」
人に伝えておくべきだというシュリの意見で、とりあえずこの地へと訪れた。空の明るいうちに倒してしまえば、その必要も無いように思える。だが、相手は鬼、何が起こるかはわからない。二人とも疲労はあった。
「燃えたというのに」
白鈴は屋水の家々を眺める。もともと大きな村ではない。それでも、人が残っているように見えた。あの日。火の海となり、ほとんど壊され。男は次々と殺された。女子供は集められ。わたしは。
「白鈴?」
「なんでもない。さっさと済ませよう」
「……うん」
すると、シュリは見知った者でもいたようで、その人物へと駆け寄っていく。到着したばかりである。時間を掛けて、探し回ることなく、人と会えるとは夢にも思わなかった。
シュリが声をかけたのは女だった。若い女。その見た目、シュリと歳が近いであろう。そして白鈴にも、その女の顔は見覚えがあった。はゆま村だ。桜を見に、馬に乗っていた。
「
「おお、シュリではないか。ひさしぶりだな」
「ひさしぶり」と彼女は呟く。「そうだね。それより」
「環と呼べと言っただろ」
「あっ。そうだったね。タマキ」
「うんうん。そうではなくてはな」
名はタマキ、ここでも彼女は村人のようには見えない。服装は屋水の巫女とも違って。
「ところで、そこにいるのは、シュリの連れか?」
「うん? ああ、そうだよ。名前は」
タマキは前に出る。「誰かと思えば、お前、白鈴か。なんだ、シュリと知り合いだったか」
「タマキ、白鈴のこと知ってるの?」
「昨日、実は、お前はしらないだろうが、はゆま村に寄ってな。桜を見に行こうとしていた。そこで、白鈴に止められた。今は危ないとな」
「白鈴が」シュリは思い出している。「私が待っててと言った時?」
彼女は首を縦に振る。詳細はいらない。短くても事足りている。
「それなら、教えてくれてもよかったのに」
「私も、二人が知り合いだとは知らなかった」
仮に教えたとしても、タマキは既にはゆま村を離れたあとになる。桜を見に行こうとしていた、そんな女がいた。話をしたところで、ちょっとした話題ぐらいにしかならない。
「馬があったとはいっても、一人で無事に戻れたようだな」
そこは気にすべきところだった。行きも帰りも平気そうには見えたとはいえ。
「おかげでな」
「待って、待って。一人? 一人で来てたの? はゆま村に。馬で」
「落ち着け。どうせ、お前も似たようなものだろ。隠しても、私にはわかるぞ」
「私は、危ないのは慣れてるから。それだと護衛は? 今だって」
「世話をしてくれる女も、屋水に数人来ておる。今は、ほんとに一人だがな」
「そっか。ちゃんといるんだ。屋水に」
「まったく。シュリ、ほれっ、こっちへ来い」
タマキは、二人だけで話したいことがあるようだ。「白鈴、すまんな、そこで待っておれ」と彼女は言う。聞かれてはならないものらしい。
お互いが見える距離、たいして離れてはいなかった。
「シュリ、安心しろ。どうせ、ヌエが見張っておる」
「そっか。ヌエが」
「一日中、見られていると思うと、心安らぐ暇もないがな。しかし、こう言ってはなんだが、そこ、どうにかならんのか」
「それは、たしかにね」
「奴らは寝ないと聞いた。それはまことか? お前なら知っているだろ」
「寝ないことは、ないとおもう」
「近くにいる女どもと、同じことを言うんだな。私より小さい者は、おもしろく違うこと言っておったのに」
「それで、タマキ、屋水にはどんな用で来たの?」
「それは、また今度だ」
タマキは元いた場所に戻ってくる。白鈴は言われたとおり、その場から動いてはいない。
「白鈴。何も、聞いていないな。なにも聞こえなかったな」
「ああ、聞こえなかった」
「そうか。聞こえていないか。うん、それでいい」
シュリはタマキの顔を見て、考え事でもしている。口の閉じ方がそのように見て取れた。
「それにしても、白鈴」タマキは近付く。「ひと目見たときから思っていた。その年頃にその容姿、物腰、よく言われるだろ」
「なにをだ?」
「『屋水姫』だ。言われないか?」
「屋水姫。いや、ないな」
「そうか。意外だ。シュリは白鈴を見て思わないか」
「それは、まあ、うん」
「屋水姫とは、なんだ?」
「知りもしないか。私も、お前と同じぐらいの年の頃に、お婆様によく言われたものだぞ。男どもに顔を見せてはならぬ。生まれ月よりあとの満月の日は家にいろ。声を聴いても返事はするな。外には一歩も出るな。化け物がお前を待っている」
「それは、つまり」白鈴は答えを求めた。
「美人ってこと。でも、タマキ、白鈴は」
「シュリ。理由は知らんが、否定しても私にはわかるぞ。白鈴は大湊の生まれであろ。白鈴は屋水姫だ。それは間違いない」
「シュリも、そうだったのか?」
「わたし? 私も十二の頃、そうだったかな。風習を大事にしてた家だから」
「最近では、このご時世だ。またやる者が増えていると聞いた。どうなんだ?」
タマキとは、猿の鬼が近辺にいるという事実を伝えたあと別れた。護衛の一人や二人、手伝わせようかとタマキは言っていたが、それは断った。白鈴からしてみると、可能であれば面倒なことにはなりたくない。
屋水を出て、急いで鬼の行方を追う。猿の鬼は大湊への山道を進むのではなく、北へと向かっている。地面や草花には、血が残っていた。萎れた草花が目立つ。
「やつは北にいる。シュリ、そこに何かあるか」
「ここから北だと、なんだろ。あっ、池があるかも」
「池か」
白鈴は予想する。いい加減、移動は終わりではないだろうか。傷を負って動くにしては距離がある。なんの見通しもなく、思慮に欠けた行動をしているようには思えなかった。
シュリが言っていたように池を見つけると、そこにも血の跡があった。長く立ち止まっていたらしく、今まで見つけたもののなかでは一番に量がある。
調べていると、ひっそりとしていた状況が鬼の攻撃で変わる。やはり待ち伏せをしていた。白鈴とシュリは飛んできた岩を扇子で防ぐ。池に水しぶきが立つ。
「やっと見つけた。覚悟して、ってあれ? 傷が」
「ないな」
「もしかして、別の鬼?」
「いや。こいつだ」
白鈴は感じていた。戦った相手である。私たちを知っている。
鬼の傷が治っている。けれどもそれは奇妙といえた。前回の戦いで、完璧に治るには時間がいるだろう傷を与えた。シュリの魔法もそうだ。それなのに、鬼の体にはどこにもそれらしき怪我はない。密に生えた毛には血が付着している。
ここまで辿り着くまで、血は大量に流れていた。草木の生気が失われていた。
少し前に、白鈴の体にあった「痕」と似ている。要するに、癒えている。
戦闘を続けても二人の考えは変わらない。現在、目の前で暴れる敵は、同じ『鬼』である。
「水でも飲んだか」白鈴は呟いた。
シュリは池を見る。「そんな、まさか」
彼女は「それはない」と思っているようだった。そのような力はないと。
たとえどれだけ考えようと、答えは見つからない。
最中に、二人が与えた「傷跡」は残っている。癒えるものもある。
戦闘は、中断されることはなかった。
池近く、この戦いにも、終わりを迎えようとしていた。白鈴は猿の腕を斬り落とす。そうして相手が弱ったところを狙った。ここまで苦しい場面はあった。「覚悟しろ」彼女はようやく止めを刺す。
シュリは息を整えている。「今度こそ、だよね」
「ああ、終わった」
「傷のことも気になるけど。すこし、強くなってた?」
「戦い方を変えただけで、強さそのものは変わっていない」
「そう? わたし、ちょっと疲れちゃった。もうだめ。体力には自信あるのに」
「あれだけ魔法を使えば、疲れる」
「白鈴、どうする? このまま大湊にいく?」
「伝えなくてもいいのか? タマキも、今日、大湊に出発の予定と言っていた」
「伝えなくても、平気じゃあないかな。たぶん」
屋水に戻る必要はない。脅威は排除されたと、直接告げに行かなくても問題はない。彼女はそう考えている。
白鈴は気付く。「シュリ、まだついてくるつもりなのか?」
「私は、最初から、城下まで一緒にいるって言ってるよ」
「そんなことは言っていない」聞いた覚えがない。
「言った」
「言っていない」
「言った」
白鈴はこのまま続けても埒が明かないとその顔を見て知る。始めからそのつもりで同行していたのかはわからない。どこかで気が変わったのかもしれない。「このシュリ」は、何を言っても聞く耳を持たないように思える。もうダメとはなんだったのか。
「わかった」と白鈴は口にする。
「私、しつこいでしょ」
「そうかもな」
「白鈴のことが気になるの。だから。もうすこしだけ。一緒にいよ。ね?」
帰りは、どうするつもりなのか。シュリは、危ないとわかることはしないだろう。
きっと、はゆま村へ帰るため、大湊に彼女は頼みにできる当てでもある。
白鈴は殺気を込めて、刀に手をかけた。警告している。
「えっ? なに? どうしたの?」
「鬼だ」
「鬼? あっ」
シュリは池の反対側で見つける。知らないうちに、佇む馬がいる。
それが、ひと目で鬼だとわかるのは、『こちらを見ている』ように思えるから。
「なんだ?」
「消えちゃった」
馬はこれといって何かをすることもなく、二人の前からいなくなる。
「あれが、そうなのかな」
「あれが、首のない馬か」
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