第四章 第三話
「警護の武官を増員させる。これからは
苑紫は、数十人の武官達に向かって声を上げた。
桜教殿の警護を任されていて、
だがそれをすり抜けて賊が侵入したのだ。
その賊に緋蝶が襲われた。とんだ失態だ。緋蝶は命に別状はないが、腕に怪我を負っていた。
手当てした橙幻によると、出血の割に傷は浅いので心配はないらしい。
だがどんなに軽くても、緋蝶に怪我をさせる失態をおかした自分に腹が立っていた。
武官を所定の位置につかせ、一人になって賊がどうやって侵入したのか考える。
「……苑紫。お前が
背後から声が聞こえて、振り向いた。近くに艶のある藍色の髪をした男が立っていた。
「暁、気配を殺して近づくな。うっかり切ったらどうするんだ」
「考え事をしているようだったから、
「緋蝶を助けてくれたようだな」
「母上に呼ばれた帰りに、たまたま襲われているあいつに
それはちょうどいま考えていた事だった。
「調べたが全員まじめに仕事をしていた。正直に言うがどこから賊が侵入したかわからない。茜の話によると、
暁が
「その警護をすり抜けて、白昼堂々桜教殿に賊が侵入した。それはつまり……」
暁が考えている事はわかっていた。だからその言葉を引き
「……手引きした者が、この桜教殿にいるという事だ」
「しかも賊は三人いた。武官や下働きの使用人では、あの人数を目立たせず桜教殿に入れるのは無理だろう。桜教殿でそこそこの力を持つ者の協力があったはずだ」
「ああ、
考えていた事を整理して伝えると、暁は驚いた様子もなく、ふっと
「俺もそう思う。だったらその協力者は俺かもしれないし、お前かもしれないな」
「……早急にそれが
腕組みをして考えていると、暁がふいに目をそらした。
そして何か言いたそうに口を開いては閉じる動作をする。
「何だ?」
「いや、別に」
暁が背を向けようとした。その姿とさきほどの会話を思い出して、ある事に気づく。
「ああ、もしかして緋蝶の怪我の様子を聞きに来たのか? ずっと姿も気配も消していたお前が、わざわざ私の前に出てくるなんておかしいと思った」
「
答えが速くて驚くほどだ。その返事の速さが図星を指されたからだと想像がついた。
「橙幻がすぐ手当てして出血はもう止まったし、うまくいけば傷痕も残らないそうだ。二、三日休むよう言ったが、緋蝶は
暁が
「心配なんてしてない」
「なるほど。そういう事にしておこう。……暁、
暁に会えたら言おうと思っていた事だ。幸いな事に、暁はどうやら緋蝶を気にかけているようなので、説得を試みた。彼に向かって頭を下げる。
「お願いだ。あの子の生死は暁にかかっている。女帝制度に反対なのはわかっているが……」
暁の事情もわかるので、聞き入れてもらうには時間がかかるだろうと思っていた。
暁はしばらく考えていたが、やがてこちらに目を向けた。
「……教育はしてもいい」
聞き間違えかと思わず耳を疑った。驚きすぎて言葉を失っていると、暁が話を続ける。
「母上に緋蝶の力になってと泣き落とされた。女しか皇位につけないのは納得できないが、母上の言う通り挑戦する機会ぐらい
感心しているような顔付きだった。暁が話を続ける。
「なかなかいい度胸だった。その度胸に敬意を表して、儀式まで教育につきあってやってもいい。それで儀式を失敗するようなら雫花帝になる資格はないだろうし。それにあいつが雫花帝にならないと、竜神はこの国を去ると言っているようだ。それでは、また日照りが起こって
ようやく暁がその気になってくれたようだ。もう一度頭を下げた。
「ありがとう。これで緋蝶が生き延びられる可能性が出てきた」
「お前がそんなに喜んでいる姿は久しぶりに見た。……
ふいに暁が口にした言葉に、苑紫の顔がかっと熱くなった。
「何を言っている。私はそんな……」
「明日、緋蝶に蔵書室に来るよう言え」
その話を知っているのは、もう数人だけだ。
苑紫が口止めをしようとしたが、暁はさっさとその場から去って行った。
● ● ●
緋蝶は蔵書室の前で、大きく深呼吸した。
「今日こそはいらっしゃるのよね。暁様が教育すると言っていたと苑紫様が
暁の気持ちにどんな変化があったのかわからないが、これでようやく政の教えを授かれる。
気合いを入れつつ、大きく息を吸い込んだ。
「失礼します!」
声をかけたが返事はなかった。どうしようかと思ったものの、そっと戸を開けてみる。
中はしんと静まり返っていた。一歩足を
「まさか、今日もまたいらっしゃらないのかしら……」
気が変わったのかもしれないと
「ううん、教えを授けてやろうって気に一度はなってくれたんだから、また機会はあるはず。めげずに通おう。よし、今日もここで一人で勉強しよう」
蔵書室に来れば、いろんな書物がある。政治についてはちんぷんかんぷんで、何を読めばいいのかもわからないので、苑紫や東雲に
おかげで紗和国の歴史や地理など、少しずつではあるが理解できるようになってきた。
「昨日読んでいた本は……」
歴史書を手にすると、ふいに背後から声が聞こえた。
「それじゃなくて、こっちにしろ」
「儀式まであと半月ほどだ。歴史書なんかのんきに読んでいる
「ええっと……それはつまり、儀式に向けて教えを授けてくださるという事ですよね?」
いままで会う事すら難しかった暁が、目の前にいるのが何だか信じられなかった。
暁は仕方なさそうに肩を竦める。
「やるからには、
(みっともないって、最初からちゃんと教えを授けてくれていたら、少しはましだったんじゃ……。いやいや、
心の声をぐっと飲み込んで、大きく頷いた。
「死ぬ気でやります。どちらにしろ失敗したら、命はないので」
「いまの
「はい、よろしくお願いします!」
頭を下げると、暁が蔵書室の奥に向かって歩き出した。ついていくと奥にある戸を開く。
そこは
「付け焼き刃って仰いましたよね。それって具体的にはどんな事をするんですか?」
「儀式に招待される貴族達はもう決まっている。お前に質問するのが誰なのかもな。それぞれ得意分野に
あっさりと言われて、思わず身を乗り出した。
「質問を予想するなんて、可能なんでしょうか?」
「ああ、質問する貴族どもは頭の固いご老人ばかりだ。そういう奴らは、話す事も聞く事も大体いつも
暁が文机の上にあった紙束を差し出した。
「ここに予想される質問と解答をすべて書いておいた。これを暗記すれば、貴族達の質問は乗り越えられる。せいぜい
立ち上がろうとした暁を慌てて引き留めた。
「待ってください。もしかして、これで終わりですか!?」
「暗記するだけなんだから、俺はいなくてもいいだろう」
「確かに時間がないのでこれは暗記しますが、この質問に対する答えの意味を知りたいです。これだけ
「全部理解して覚えていたら、儀式までには間に合わないぞ」
「無理なのはわかっています。でも少しでも内容を理解したいんです」
暁は大きなため息をついた。
「いいか、雫花帝は政治なんか理解していなくてもいい。
あまりの言いように、思わず
「どういう意味ですか?」
「言葉の通りだ。いまの雫花帝を見てみろ。
暁の声には、強い
「竜神が皇族の
声には、
(主上を心配しているんだわ。一人
「主上が責められるのを見ていられないから、女性しか皇位につけない事に反対なんですね」
暁がはっとしたように、こちらを
「……余計な事を話しすぎたな。とにかく女帝なんてただのお
暁が大きく息をついた。
「いいか、
その言い方がどうにも納得できなかった。
「無駄かどうかは学んでから決めます。覚えるにしても意味を理解して覚えた方がやりやすいです。何も知らないままでは本当にただのお人形になってしまいます。だからお願いです!」
頭を下げると、暁が
「……
小声だったが、しっかり聞き取った。それが
いままでの暁の言動を、頭の中で整理してみた。
「ああ、わかりました! わたしの事も心配してくれてるんですね。だから、無理せず休みながらでも覚えられるように、紙に質問と解答を書いてくださったんでしょう。これだけ書き出すのはきっと大変だったと思います。お
暁は腕組みをしたまま、わずかに目をそらした。
「
(うん、むっちゃくちゃわかりにくいけど、わたしの事を心配してくれてるわ。橙幻様と月白様が仰ってたけど、
にっこり
「でも毎日来ますよ。午前は東雲様と月白様から教えを
「待て待て、俺の話を聞いていたか?」
「はい。休みながら覚えられるよう紙に書き出してくださったのは感謝しますが、知識は知らないよりは知っている方がいいと思うんです。だから時間がある限り教えてください」
ふいに表情を引き
「
顔を上げると、暁が
「……なるほど。お前は月白と仲良くなれるはずだ。その前向きすぎて
「いまのは月白様ぐらい
首を
「もういい。お前には何を言っても無駄だ。お前が雫花帝としてふさわしくなれるかどうか
どうやら、やっとその気になってくれたようだ。一安心したが、すぐに気を引き締める。
ようやく出発地点に立てたが、無事に最後まで走りきれるかは自分の努力にかかっていた。
● ● ●
「ありがとうございました」
東雲を前にした緋蝶は、両手を畳に置いて、ゆっくりと頭を下げた。
「ずいぶん
その言葉が
「緋蝶、
「わぁ、助かります。兄からもらった
荷物を受け取って白い扇子を取り出した。広げると、ほととぎすと梅の花が
「兄さんは絵が得意で、これも兄さんが描いたんです。これがあれば、また会えるような気がして、ずっと大切にしていました。本当にありがとうございました」
「いいんです。昨日父が様子を見に来たので、ついでに持って来てもらっただけですから」
「
東雲の父を思い浮かべる。いつもにこにこしていて、
身寄りがなくて特技もない自分でも
「元気そうでしたよ。桜教殿には入れないから、門のところで荷物を受け取っただけで、私もゆっくり話す
東雲が
(そうよね、東雲様も夫君候補の一人なんだわ。でも、東雲様と
想像してみただけで、息もできなくなるぐらい
(まてまて、わたし! とりあえず、儀式が無事に終わるまでは、夫とか結婚とかそういうのは考えないようにしよう。儀式が無事にすまないと、夫どころか命もないんだし)
何とか気持ちを落ちつかせて、東雲にそっと目をやる。彼は
(旦那様に、わたしに気に入られて夫君になるよう、こっそり耳打ちされたって言ってるけど、本当はけっこうきつく言われたのではないかしら。桜の
彼の父親が謀反の罪を着せられたせいで、一族は
だからこそ、一族の期待は竜神に選ばれた東雲に向けられていた。
桜の宴の時も親戚から
だが彼の
こんな時に何も言えない自分が情けなかった。じっと見つめると、東雲が笑みを浮かべる。
「そんな心配そうな顔をしないでください。私は
東雲は
「……はい。数日前から午後は
東雲が
「何か?」
「いえ……暁は
「最初はそうでしたけど、いまは熱心に教えてくださいます。口は悪いし、態度もあまりよくないんですけど、案外いい人なんです」
「いい人? 暁がですか?」
「はい。わたしが儀式を無事に通過できるように、貴族の方達がしてくる質問をすべて予想して、その解答集まで作ってくださったんです。それにわたしが左腕を怪我しているので気遣ってもくれて。昨日なんて字を書こうとしたら、
左腕を上げるのもまだ痛むから、とても助かった。
「暁様はぶっきらぼうだけど本当は優しい人だと思います。何度も助けてもらっていますし」
微笑むと、東雲が小さく
「そうですか。それはよかったです」
話していると、背後にある戸ががらっと開いた。
「緋蝶、苑紫が昼食の用意ができたよって」
顔を出したのは、月白だ。東雲が困ったような顔をした。
「
「子ども
月白が口を
もともと人なつっこいし裏表がないので、
「今日の昼食はなんでしょうね。とっても楽しみだわ」
苑紫が作る昼食をみんなで
「苑紫の作るご飯、
首を傾げた月白に、東雲が微笑んだ。
「苑紫は食事だけでなく、どんなに
「笑ってないで先に裏庭に行っていてください。私は用をすませてから参りますので」
月白と一緒に返事して広間をあとにした。歩いているとふと蔵書室がある建物が目に入る。
「暁様もいらっしゃればいいのに。美味しいご飯を食べられるしみんなと仲良くなれるのに」
最近は毎日顔を合わせるので昼食にも
「俺も誘ってるんだけど、あいつ頑固だから一回行かないと決めたら、絶対に来ないんだよな。
月白はあまり剣術が得意ではないと言っていた。そんな彼からしたら、本番一発勝負の剣舞なんて、不安だらけだろう。足を止めてしばらく考え込んで、きびすを返した。
「先に行っててください。わたし、暁様を呼んできます」
「あ、俺も行く。二人がかりで連れて来よう。あいつは引きこもりがひどすぎる」
幼なじみという月白は、それなりに暁の事を心配しているようだ。
二人で頷き合って、蔵書室に足を向けた。
緋蝶は失礼します、と声をかけて蔵書室の戸を開けた。
奥の
「何だ? まだ教育の時間には早いだろう」
「昼食のお誘いに来たんです。一緒に食べましょう」
暁がこちらに目をやって
顔色を窺っていたら話が進まないと、にこやかに声をかけた。
「行きましょうよ。苑紫様の作ったお食事とても美味しいんです」
「俺は他人となれ合うつもりはない。さっさと出ていけ……うっ」
暁が
「月白! いつも言っているだろう。急に飛びかかるな!」
「いいじゃないか。暁、一緒にご飯食べようよ。ねぇねぇねぇねぇ」
耳元で何度もねぇを
「うるさい。お前ら二人
そういえばと思い出す。暁に月白と似ていると言われた事を。
「嫌みは聞き流さないといけないですよね、月白様」
「そうそう、気にしたっていい事ないし。いやー俺達気が合うね。緋蝶」
月白と笑い合っていると、暁が顔を引きつらせた。
「この
月白は暁が読んでいる本を取り上げて、
「そう。俺達、超前向き人間だから、嫌がったって
月白は、
(すごい。わたしは前向きに何でも考えようって思ってるけど、月白様の前向きさは天然だわ)
ぐいぐい引っぱっても、月白では背の高い暁を持ち上げるのはさすがに無理そうだ。
ここは月白を見習おうと、暁の左腕を摑む。
「さ、行きましょう。ずっと蔵書室にいたら、かびが生えますよ。さあさあさあ」
二人で引っぱると、暁がようやく重い
「わぁ、
緋蝶は月白と一緒に暁の腕を摑んだまま、橙幻に近づく。座っていた東雲と、いつもの
「……帰る」
視線に
「ここまで来たんですから、一緒に食べましょう」
「そうそう。俺もうお
月白が東屋の
「よく連れて来られましたね。暁が蔵書室以外にいるのを初めて見ました」
苑紫が料理を運び終えたのか、割烹着を
「暁は
暁がじろりと苑紫を睨む。
「そうじゃない。
「でも、わたしを探しに東雲様のお
苑紫がああ、と頷いた。
「主上直々のご命令だったからだ。桜教殿に来て蔵書室以外でまともに暁と話したのは、緋蝶の
「わぁ、わたしの事を心配してくださったんですね。ありがとうございます」
頭を下げると、暁が
「あれはたまたま散歩していたら苑紫に会ったから、聞いてみただけだ。おい、苑紫。いい加減な事を言うな。この超前向き人間は、都合のいいように
橙幻が声を上げて笑った。
「いいじゃないか。緋蝶の前向きさは、私は好きだよ。緋蝶は
実は橙幻には、会うたびにあの
暁が
「また常識外れな着物を作ったのか? いい加減にしろよ。着せられる女がどれだけ迷惑か考えろ。それにお前は緋蝶だけじゃなくて、紗和国中の女を応援したいんだろう。お前は大学
「そんな冷たい事言わないでくれよ、暁。私達は学友じゃないか。
「何が寝起きをともにしただ。お前は女のところに入り
暁と橙幻の話を聞いていて、目を丸くした。
「橙幻様は暁様と仲がいいんですね」
「そうなんだよ。暁はなんだかんだ言いつつ、いつも
「わたしも暁様はいい人だと思います。
橙幻の言葉に
「自分の意思とは関係なく、いきなり
暁がぶつぶつ言っていると、橙幻が身を乗り出す。
「せっかく外に出たんだから、
「俺は本番だけで
「暁は大丈夫でも、そうでない人もいるよ」
橙幻の言葉に頷いたのは月白だった。月白は何も言わないが目で困っていると
暁もさすがにそれに気づいたらしく、しばらく考え込んでから、ため息をついた。
「わかった、練習に出ればいいんだろう」
「ありがとう、暁!」
月白が飛びかかったので、暁が勢いよく
苑紫と東雲は、その様子を呆れたような表情で見守っている。
(みんなが
ここに来てから、初めて希望の光が見えた気がした。
● ● ●
「桜教殿に漆黒団が入り込んで、
「はい。そのせいで、厳重だった桜教殿の警護が
部下の
もともと男性が
「
漆黒団の中でも、剣術や武術に
ここでのし上がるのに、身分は必要ない。
その実行部隊の隊長は自分だ。桜教殿に忍び込めなどという命令は出していなかった。
「それが……忍び込んだ
「
そんな事は桜教殿の中でも相応の地位にある者でなければ、できないだろう。
「桜教殿をしっかり見張っておけ。うまくいけば内部
緋蝶の顔が頭に
「今度こそ、本物の我々漆黒団が女帝候補をお
彼女に会える日が楽しみでならないと、男はほくそ
紗和国竜神語り 麗しの公達に迫られても、帝になれません! 伊藤たつき/角川ビーンズ文庫 @beans
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